ゼロの奇妙な使い魔 まとめ

一章七節 ~青銅は信念と錆に浮かれる~

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匿名ユーザー

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 食堂は、一口にいえば大きく、二口目には豪奢で、三度の瞬きでまた違った絢爛さをリキエルに感じさせた。
 上を全力で走れば気持ちいいだろうな、と思わずそう考えてしまうほど無闇に長く、だだっ広いテーブル三つ並ぶ。それぞれに座る貴族たちが、色違いのマントを身に着けているのは、学年ごとに分かれているのだろうか。
 長大なテーブルの広大な面積は余されることなく、目の毒になるほど色鮮やかな花々が飾られている。両手に抱えられるほどに大きな編み籠には、みずみずしく艶めく果物が隙間なく盛られている。適当に額縁を置けば、それだけで絵画が出来上がりそうだった。
 やたらグニャグニャと捩れた燭台や、無駄に強く存在を主張する調度の品々は、個々ではまるで統一感が見出せないが、この空間にあっては調和を成し、奇妙なほどに異質な感がなかった。
 どちらかといえば異物はリキエルの方で、リキエル自身も、人混み嫌いとはまた別の居心地の悪さを感じている。ただその場に立ち尽くすだけで、指の先から這い登ってくるような違和感だった。つまり、どうしようもなく自分が場違いな気がするのである。
 ――行くか。
 早くも折れそうな心を押し込めて、リキエルはデザート運びに取り掛かった。
 どの生徒も食事を終えたばかりだからか、親しい友人や、近くに座った人間との適当な雑談を楽しんでいる。
 その合間を縫って、銀のトレイ片手にリキエルは、手早く素早く正確にデザートを配る。
 これは存外に大変な仕事だった。
 なにしろ、ケーキをトレイから落とさぬよう、卓に移すときに潰さぬよう気を張る。貴族連中に肩や肘のひとつもぶつければ事だ、と気を使う。好みに合わないケーキを配ってしまったら、と気を揉む。紅茶のポットも、バランスを崩して落とさないように気をつけなければならなかった。
 ――もう少し……。
 こういった仕事に慣れていた方がよかったな。金巻き髪の生徒とぶつかりそうになり、慌てて身をよじりながら、リキエルはそんなことを思った。
「ン……?」
 コツン、と踵に何かあたった。拾い上げてみると、手のひらに収まる程度の、紫色の液体の入ったガラス壜である。誰かの落し物かと思い首をめぐらすと、今さっきぶつかりそうになった生徒が、焦燥したようにポケットを探っているのが見えた。
「これじゃあないのか? 探してるものは」
 あいつのものか。そう思い当たり、リキエルはその生徒に声をかけた。
が、金髪の生徒はちらりとリキエルの方を一瞥しただけで、整ってはいるがキザったらしい顔そのままに、キザっぽくマントを翻してスタスタと早足気味に離れていく。シャツのポケットに薔薇を挿しているのも、またキザだった。
 リキエルは首をひねった。
「……違ったかァ?」
 三歩近づけば手の届くこの距離で、聞こえなかったわけではないはずだ。ならば、人違いだったのだろうか。そう思い始めると、生徒がポケットを探っていたのは、何か別のものを探していたのかもしれないとも、リキエルには思えてくる。
 リキエルは、小壜のことは後回しにすることにした。気にはなるものの、ケーキ運びもしなければならない。トレイに乗っていた分は全て配り終えたが、それで仕事が終わったとは、リキエルは思っていない。今、食堂にいる生徒はざっと見回しても二百を下らないほどである。シエスタや、他のメイドたちがいかにうまく切り盛りしても、ケーキを配り終えるにはまだ少し時間がかかりそうだった。
 ケーキ補充のために、リキエルは厨房へと足を返した。小壜はトレイの上に置く。こうしていれば、落とし主が名乗り出るかもしれない。食事を運ぶトレイに、床に落ちていたものを載せるのは少々気が引けたが、たいした事じゃあないよなァ~、よっぽど日ごろの行いの悪いやつが軽い食中毒になるだけだ、と思い直した。
「あれ? それはモンモランシーの香水じゃないのか?」
 リキエルは踏み出しかけた足を、ぶらりと元の場所に戻して振り返った。
声を上げたのは小太りの貴族で、見覚えのある丸顔だなと思えば、今朝の授業でルイズを馬鹿にした挙句、怪我を負って運び出されたマリコルヌだった。流石は魔法での治療といったところか、もう回復したようである。
「なんだ、見ない顔だと思ったら、ゼロの呼び出した平民じゃないか」
 リキエルの顔を見て、マリコルヌは少し驚いたように言った。顔を覚えているのは、リキエルの方ばかりでもないらしかった。そのことにリキエルは別段驚かない。人間が召喚される奇妙さは、今は大体知れている。印象に残るのも当然だと思った。
 それよりも小壜のことである。
「持ち主を知ってるのか? この壜のか? さっきそこで拾ったんだが」
「それは『香水』のモンモランシーが自分のために調合してる、特別な香水だ。間違いない。そんな鮮やかな紫の香水は他にないからな」
 平民であるリキエルの、不躾ともいえる問いかけに、しかしマリコルヌは気を悪くするでもなく答えた。昼食の直後、満腹で機嫌が良いらしい。それか、胃に血が行っているために、少し頭がボーっとしているのかもしれない。
「そのモンモランシーってのは?」
「ええと……お、いたいた。彼女だ。あの巻き毛の女の子さ」
 マリコルヌは、その場からだいぶ離れた場所を指差した。その先には男女入り混じった大勢のメイジがいる。巻き毛の女子も多く、この位置からでは顔の区別もつかない。このマリコルヌとかいう太っちょ、実は異様に視力が良いのだろうか、とリキエルは思ったが、それも一瞬のことだった。
 ――なるほど、巻き毛だな。
 その女子で恐らく間違いはなかった。数ある巻き毛の中でも際立つ巻き毛。一際ロール。巻き髪の権化。多段巻き髪である。
「一目でわかるだろう?」
「あれか。いや、教えてくれて助かった」
「あ、そういえば君」
 礼もそこそこに、モンモランシーとやらの席へと歩き出したリキエルの背中に、マリコルヌが声をかけた。
「ついさっきまで主人が探してたぞ。なんか知らないが怒っているみたいだったぜ」
「……」
 リキエルはうめいた。なんとはなしにそんな気はしていたが、二度目のほったらかしはいかにもまずかったようで、やはりルイズの不興を買ってしまったらしい。次やったら朝食抜き、とそう言われた記憶があるが、その程度で済めばいいというのが希望的観測であろうことも、なんとなくわかっている。
 リキエルの足運びは、意図せず鈍くなった。


 近づくにつれ、巻き髪の形がハッキリとするとともに、リキエルはマリコルヌのときと同じように見覚えがあると思った。どこで見たのかを思い出して、同時に吹き出しそうになる。こらえ切れず、喉の奥からククッと笑いが漏れた。
 彼女は授業で赤土をぶち込まれたうちの一人だった。よほど大口を開けて笑っていたのか、大量に詰め込まれており、あごが外れる寸前の状態にまでなっていた。それが記憶に残っていたのである。授業で見た時は、気の毒にとも思わないではなかったが、今になってみると、他の生徒達の醜態も一度に思い出されるようで、笑えた。
「ちょっといいか」
 そんな心中はおくびまでに止め、リキエルはモンモランシーに声をかけた。
「給仕が、私に何の用?」
 こちらはマリコルヌと違い、ぞんざいな口利きが気に障ったらしい。不機嫌に眉根を寄せてリキエルを見返してくる。平民に対する明らかな侮蔑を孕んだ視線だった。貴族意識はかなり強いようである。
 リキエルは特に気にせず、小壜を差し出した。
「これに見覚えはないか? さっき拾ったんだが」
 小壜を受け取った途端、モンモランシーの顔色が変わった。
「これ、ギーシュにあげたやつじゃないの……。あいつ落っことしたわね!」
 モンモランシーは小声で誰かを罵倒した。小壜はその、ギーシュへのプレゼントだったようで、どうやらそいつは落としたらしい。怒りはもっともである。
 しかし、モンモランシーは本気で怒っているわけでもないようだった。というよりも、怒っているのは確かなのだが、しょうがないわね、というような、どこか包容力のある怒り様だった。微妙に惚気ているようでもある。そばかすの残る頬に僅かに朱が差していることからも、モンモランシーがギーシュとやらに、それなりに入れ込んでいるらしいことがリキエルには見て取れた。
「これの落とし主がどこにいるかわかる?」
 聞かれ、リキエルは困った。それらしきやつはいたが無視されているため、確信は持てない。リキエルは、ギーシュとやらの容姿を聞いてみることにした。
「顔の特徴とか、背格好とかは? いや、格好はどいつも同じか」
「ギーシュは私服よ、趣味は悪いけど。特徴はブロンドの金の巻き髪で、顔は良いけど軽薄そうな男。キザが気障な服を着てへらへら歩いてる感じって言えばわかりやすいわね。それから、大抵は薔薇を一輪持ち歩いてるわ」
「…………なるほど、結局あいつだったのか」
 金髪のキザ男。薔薇差しの気障。やはり先ほどぶつかりそうになった貴族である。
 しかし、酷い言われようだ。入れ込んでいるらしいというのは撤回しようかと、リキエルは思い始めた。
「で、どこにいるの?」
「こっちだ。動いてないんならな、そいつが」
 リキエルは、案内のために来た道を戻る。どうせ厨房もその先なので、それは大した苦にならない。そもそも苦というのであれば、この人間密集地帯にいること自体がかなりの苦痛である。
 銀のトレイを持ち直して、再度厨房へと足を向けた。


 ギーシュ・ド・グラモンは昼食のあと、特にすることもなく食堂でぶらついていたが、ふと思い出したように、ポケットから小壜を取り出した。意中の女の子からもらったものである。
「ふ、ふふふふ、ぐふふっ」
 何度手にとっても笑いがこみ上げる。
その女の子、勿論モンモランシーのことだが、彼女にはプレゼントをあげても、もらうことはなかった。この香水が、自分の気持ちが彼女に通じた証だと思うと、ギーシュの頬はどこまでも緩んでいくようである。
 ひとしきり気味悪く笑ってから、ギーシュは小壜をポケットにしまい、また歩き出そうとした。そのとき、給仕をしていた平民とぶつかりそうになる。
 ギーシュは驚いていた。ぶつかりそうになったことに関してではなく、平民の容姿――特に身長にである。ギーシュは上背がある方で、それもあいまって容姿に関しては高い評価を得ているが、男はそれよりもなお幾らか長身だった。
 はてこんな給仕がいただろうかと、ギーシュは首をひねりながら制服のポケットに手を突っ込んだ。
「ん。あれ、あ、あれ?」
 と、先ほどまで手の内にあった感触がなくなっていることに気づいた。
 向こうが慌てて避けたため、結局平民とぶつかることはなかったのだが、ギーシュも咄嗟のことでわずかに身をよじっており、その拍子に小壜を落としてしまったらしい。
「これじゃあないのか? 探してるものは」
 ポケットを探っていると、さっきの平民が小壜を掲げて声をかけてきた。
 ――まずい。
 この場を、『彼女』に見つかるのはまずかった。席はそう遠くない。
小壜の中身がモンモランシーの香水であることは、色でわかる。ちらっとそちらを見れば、既に気づいた様子の人間が何人かいた。自分がもらったものとはわからないだろうが、ここで名乗ればそれと知れる。
 ギーシュはクールにその場を去ることにした。小壜はまた後で回収すればいいのだ。幸い、平民がそれ以上追求してくることもなかった。
 その直後、大抵つるんでいる騒がしいやつらに捉まり、今は雑談に興じている。
「なあ、ギーシュ! お前、誰とつきあっているんだよ!」
「誰が恋人なんだ? ギーシュ!」
「つきあう? 僕にそのような特定の女性はいないのだ。薔薇は多くの人を楽しませるために咲くのだからね」
 ギーシュは本気で言っている。自分を薔薇になぞらえる気障ぶりも本物なら、フェミニズムのつもりなのか、多くの人を――というのも本意である。むしろ後者に関しては、ギーシュ自身の信念でもあった。
 ギーシュの気障は今に始まったことではないので、周囲は呆れることもなく、口々に囃すだけである。
「キザだねェ~。全くおたくキザだねェ~」「キザだと!? 違うね! こいつは生まれついてのスケコマシだッ!」「すけこまし? プレイボーイって言えよ! 差別用語使うと評判が悪くなる」「何だと……差別用語だって…~? なんでも差別だって言うのはよくない!」「~の無いのが終わりと言う……」「甲斐性の無いのが……ハッ!」
「……君らね、聞いていたかい? 僕の話をちゃんと」
 NO,NO,NO,NO,NO! ア―――ハハハハハハ――ッ!!
 笑い事を思い切り笑い飛ばす彼らに、ギーシュは顔をしかめた。そして演劇でするような大袈裟な仕草で首を振り、「嘆かわしい!」とつぶやいた。
「嘆かわしいのはこっちよ!」
 そこへ、ギーシュの思いも寄らない人物が顔を見せた。『香水』のモンモランシーと、先ほどの平民――リキエルである。
 ギーシュが、何故君がここに? とでも言いたげにだらしのない顔をさらしていると、その鼻面にモンモランシーが何かを突き出した。件の小壜である。
「ギーシュ! わたしの香水を落っことすなんてどういうつもり!?」
 モンモランシーの目くじらに比例するように、周囲は色めき立つ。
「もしやギーシュお前、いや、もしかしなくてもその香水はプレゼントか!」
「モンモランシーが、自分のためだけに調合してるはずの香水をギーシュに……確定じゃあないか!」
「お前は今、モンモランシーとつきあっている! こんなことを見せられて疑うやつはいねえッ!」
 この話題は瞬く間に周囲に波及した。そしてその波紋は、ギーシュの恐れていた事態を引き起こす引き潮となって、いずれ荒波を運んでくるのである。波風を止める手立てなど、矮小な一人の人間には持ち得ない。
「ギーシュ様……やはり、ミス・モンモランシーと……」
 そぞろな足取りで、一年生と思しき女子が歩いてきた。可愛らしい顔はしかめられ、上気した頬は涙に濡れて、哀れをもよおす態である。
「ケティ! これには、ちょ、ちょっとしたわけがね、あるのだがね、ほらあれだ、うん、そうなんだ、何がと言われればこれでそれがああなんだけどその……」
「もう聞きたくありません! さようなら!」
「待ってくれ! 誤解があヴッ!?」
 ケティと呼ばれた女子は、惨めったらしく引きとめようとしたギーシュの手を振りほどき、その横面を叩いて駆けて行った。顔を手で覆う彼女に、すれ違う貴族たちは一様に驚きの視線を向けた。
「やっぱり、あの一年生に、手を出していたのね?」
 頬をさするギーシュの前に、仁王立ちに踏み出したのは、目の奥に怒涛の憤怒を渦巻かせる『洪水』、もとい『香水』のモンモランシーである。
 その怒りの形相にギーシュは一瞬色を失ったが、持ち前の楽天脳みそをフルに回転させ、モンモランシーに歌うように軽やかな口調で語りかける。
「誤解だよ。そう、これはちょっとした行き違いさ。本を繰る時にページとページがひっついてて、そこをうっかり飛ばしてしまうことがあるだろう?それみたいなものでね、彼女とはただ一緒に、ラ・ロシェールの町に遠乗りをしただけで――」
「手を! 出して! いたのね!?」
「お願いだよ『香水』のモンモランシー。咲き誇る薔薇のような顔を、そのような怒りでゆがませないでくれよ。僕まで悲しくなるじゃないか!」
「……」
 スウッとモンモランシーの顔から怒りが、それからおよそ感情と呼べるものが消えた。


「あ、おい、ちょっと待て! そいつは……ッ!」
 あれよあれよという間に、修羅場に身を置くことになり困惑していたリキエルだったが、手に持ったトレイに置かれたポットをモンモランシーが引っつかんだところで、我に返った。
 怒り心頭の女の子。その目の前には浮気者。その右手には保温性抜群のポット。まだまだ美味しくいただける、熱々の紅茶がある。それをどうするのか、インチキ霊能力者でも予想がつくはずだ。
「熱つつづづつい! あつッ! ちょ、モンモラン熱い熱い! 待ちたまうぎゃ! 熱い熱い熱い! ぎ、ギニャ――――ァッ!」
 止めようとしたリキエルの声も空しく、熱湯は一滴残らず、気障男に降り注がれた。
「うそつき!」
 怒鳴り、去っていくモンモランシーを引き止める者はいない。彼女の投げ捨てたポットの、ガランガチャンという音が、遮られることなくその場に響き渡る。その音と、ギーシュがのた打ち回る音以外は、ただ静寂だった。
 しばらくの間、頭を抱えてばたばたともがいているギーシュだったが、やがて立ち上がり、ハンカチを取り出し顔を拭いた。そしてのたまう。
「あのレディたちは、薔薇の存在の意味を理解していないようだ」
 これにはその場の皆が呆れた。リキエルもそれは同じで、この件の当事者に準ずる身であっても、さすがにつきあいきれないと思った。リキエルはさっさと厨房に戻ることにして、ポットを拾い上げる。
「待ちたまえ」
 そうギーシュに呼び止められ、訝しく思いながらもリキエルは振り向いた。ギーシュは半眼になっており、口元は不機嫌そうに歪んでいる。
「君だな? モンモランシーに香水の壜を渡したのは」
「ああ、そうだ。親切なやつがいてな、持ち主を教えてくれたんだ」
「つまり、こんなことになってしまったのは君のせいというわけだ」
「……なんのことだ? なにを言っている」
 呆れる、というよりも呆然としているリキエルに、ギーシュは芝居がかった仕草で指を差し、言い放った。
「二人のレディの名誉が傷ついた、君のおかげでな。そういうことだ!」
「どういうことだ! 論理的じゃあないぞ! よくは知らないが二股かけてたんだろう、お前がッ! そのことが今ばれただけだろうがァ」
 叱責を返答としたリキエルの言葉に、傍観を決め込んでいた周囲の貴族たちもうんうんと頷き同調し、一様にギーシュを見据えた。
 そのとおりだギーシュ、お前が悪い!
 だが、生徒一同の声を合わせた糾弾にも、ギーシュは、風はどこを吹いている、とでもいうような態度を崩さない。
「ともかく、給仕君。君は彼女達の名誉を傷つけたんだ。僕に謝罪したまえ」
「それはお前だろう。しかも、傷つけたものは名誉とは違うんじゃあないか? オレが謝罪する筋合いはないと思うんだがな、どっち道。ちなみにオレは給仕ではない」
 そう言って、リキエルは小さく溜息をつく。リキエルはいい加減に面倒な気持ちになっていた。いっそ頭を下げてしまおうかとも思っている。形だけでも頭を下げれば、目の前の軽薄なお坊ちゃんなら直ぐに満足するだろう。
「ふん? ああ、その目、君はゼロのルイズが呼び出した平民だったか。平民は学が無いのか知らないが、謝り方も心得ていないらしい。頭を下げて、すみませんと言うだけだよ、君」
 とはいえ、無体や理不尽を超えて、明らかに馬鹿なことを言われ続けて何も思わないほど、リキエルは卑屈では無く、心も広くない。少し、カチンときた。
「小僧……おまえドが付く低脳か?」
 しまった、と思ったときには遅かった。言ってしまったのは、一瞬の憤りが溜息とともに、口の端から零れたものである。あるいは、案外初めから、堪える気などなかったかもしれないと、リキエルは我ながら思った。
 ただ、リキエルは罵るにしても、自分にようやく聞こえる程度の小声で言うつもりだったのである。だが後半の部分は、溜息で吐き出した息が予想以上に多量だったらしく、存外に声が大きくなってしまっていた。ギーシュにはそれが、特に「低脳」の部分が、明瞭に聞き取れたはずだ。
「どうやら、君は貴族に対する礼を知らないようだな」
 どう取り繕うべきかをリキエルが考え付く間もなく、ギーシュは顔を赤くしていきり立ちながら、それでも気障な物腰のまま、胸に差していた造花の薔薇をリキエルに突きつけた。
「よかろう。君に礼儀を教えてやる」
「いや待て――」
「問答無用だ! 遅いぞッ! 今さら後悔などしても! ……ヴェストリの広場で待っている。貴族の食堂を平民の血で汚すわけにはいかないからな」
「……」
「そうだ、時間をあげよう。ケーキを配る時間くらいならね。その間に覚悟を決めておくんだなッ!」
 ギーシュの目に、既にリキエルの姿はなかった。流れるような足取りで食堂を出て行く後姿からは、自分の所作に陶酔しきった空気ばかりが、止め処も無くあふれ出ているだけだった。


 ギーシュが去ったあと、食堂はにわかに騒がしくなった。生徒達は皆、興奮したように近くの友人と囁き交わしている。
 貴族による平民への折檻は、それを口にはしても目にすることは無い魔法学院生に、一種の非日常を運んできたらしい。それが彼らの燻りをたきつけ、軽い熱狂を呼び起こしたのである。
 中には、リキエルに同情的な目を向ける者もいないではなかったが、その目の奥にある好奇の光は、どうしても隠し切れないようだった。
「……」
 普段のリキエルであれば、ここまで来れば冷や汗の一つもかくのだろうが、今のところそういった、パニックに繋がるような兆候はない。余裕のある表情とはいえないが、保っているようである。
「リリ、リ、リキ、リキエルさん、あなた……」
 その代わりに、卒倒した後の人間のような、顔色さえ失くしそうなシエスタが、ガタガタと震えながらリキエルを見つめていた。騒動を聞きつけたらしい。
 リキエルは、そんなシエスタの様子には構わず、訊ねた。
「シエスタ、ヴェストリの広場っていうのはどこなんだ」
 リキエルの声は至って静かなものだったが、その声にシエスタは、猫だましをくらった犬のようにビクリと動きを止め、ふるふると首を振った。
「まさか、行くつもりですか!? だめ、駄目ですダメダメダメ! 行ったら殺されちゃいます!」
「頼むから教えてくれ。その広場ってのはどこなんだ?」
「貴族を、貴族を本気で怒らせたら……!」
「なんなら方角だけでもいい。教えてくれッ」
 噛んで含ませるような、それでいてどこか鬼気迫るリキエルの物言いに押されたか、それとも単純に根負けしたか、ぶるんぶるんと首を振っていたシエスタは、しぶしぶというように口を開いた。
「…………東側です」
「東側だな。助かった」
 言うが早いか、リキエルは食堂の外へと駆け出ていった。
 シエスタはそれを茫然自失の態で見送り、しばらくその場で、呆けたように突っ立っていたが、やがて何かを思い出したように、髪が乱れるのも気にせず走り出した。

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