ゼロの奇妙な使い魔 まとめ

7 平穏な村の最後の朝 前編

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7 平穏な村の最後の朝
 太陽という面倒な存在が疎ましく感じたのは幾度となくあったが、今日ほどその存在を憎く思ったことはない。
 弱弱しい光りですら自分の白い肌は過剰に反応して赤く染まり、ピリピリと焼けるような痛みを伝えてくるのだ。いっそ、世界が永遠に夜だったら良いのにと思う。
 まだ寝床に入ってばかりのような気がする霞みかかった頭を振って体を起こしたのは、ティファニアの腕に抱かれて眠っていたエルザだった。
 まだ眠り足りない。だというのに、薄いカーテンの向こうから射し込む光りは容赦なくエルザの肌を焼く。太陽の光りを直接受けたわけではないから火傷するほどではないのだが、それでも痛いものは痛いのだ。
 世界で最も嫌いなものの上位に食い込む存在から逃れるように、ベッドの下に放置していた布の塊を広げ、それで全身を覆う。実のところ、こんな布では十分に日の光を遮れ切れていないのだが、それを誰かに訴える気はしていない。体質なんて理由で迷惑をかけたくはないのだ。
 硬いベッドを下りたエルザは、寝心地の良い枕となってくれた憎き二つの脂肪の塊を妬ましく見つめた後、位置のずれた毛布をティファニアの体にかけ直した。
 日陰を探して、もう一眠り。と行きたい所だが、意外にも日当たりが良く、油断をしていると本格的に火傷をしそうだった。
 太陽がもう少し昇れば、この部屋も日の光に包まれるだろう。
 全身に広がっている寝起きの気だるさを感じつつ、ヨロヨロと覚束無い足取りで部屋を出ると、見慣れないワインの瓶が居間のテーブルの上に乗せられていることに気が付いた。
「……わたしたちが眠った後に酒盛りでもしたのかしら?」
 瓶を手に取り、その口から漂う甘い匂いにホッと息を吐く。同じような匂いのする木杯とグラスが一つずつあるということは、飲んだのはホル・ホースとフーケだろう。
 少々腹立たしい事実だが、お酒の飲めない自分では現場にいても盛り下げるだけだと、少し気を落として諦めておく。
 昨晩の奇妙な話の状態がそのままになっているテーブルの上を片付け、床に置かれていた安物のワイン瓶を先程の甘い匂いのする瓶と一緒に片隅に置いておく。
 一応、世話になっているのだから、これくらいはしても良いだろう。
 軽くテーブルの上を拭き、キッチンに溜まったままの食器を洗い始める。水場の台は自分の身長では足りないようなので、椅子を土台にしておいた。
 突然の来訪者を迎えたために、片付けなければならないものが放置されているようだ。その点に関しては、少し申し訳なく思う。
 洗い物が片付くと、ちょうど使用していた水を溜めた樽の中身が心もとないことに気が付いて、エルザは外に出ることを考えた。
 近くに川があることは昨日の風呂の話である程度聞いている。少々遠いかもしれないが、あまり大きくない樽一つなら抱えて行き来出来ないこともないだろう。
 ついでに、外に用意された寝藁を使って眠っているはずのホル・ホースを起こし、二人だけで朝食を取るのも良いかもしれない。
 王宮では大きな食堂を使っていたし、他の場所ではムードもなにもなかった。地下水が旅の道連れになってからは、二人きりという場面はゼロ。たまには、こういうチャンスを利用しなければ。
 少しずつ高揚する気分に残っていた眠気が消えていくのを感じる。
 鼻歌交じりに樽を両手で抱え上げたエルザは、中身の少ないそれの重さなど意に介することも無く玄関へと足を向けた。
「……一応、ね」
 一人呟いて、布で隠れた髪やフーケから借りている服を整える。身嗜みを整えるのは、淑女の義務だ。こんなときだって、いや、こんなときだからこそ念入りにしておかなければ。
 まだ伸ばし始めてばかりの前髪をつまみ、絡まっていないかを確認すると、体を覆う布の位置を直して玄関の戸を開ける。
 このすぐ向こうには、寝藁に体を寄せて眠っている愛しい人の姿が、
「おう、起きたか。オラ、テメエらも挨拶しとけ。こわーい吸血鬼の姉ちゃんだぜ」
 子供達と戯れる地下水の姿に変わっていた。
 二十人を超える子供達が地下水に元気良く返事をしてエルザに向き直ると、朝の挨拶をする。
 わけがわからずにエルザが挨拶を返すと、子供達はわっと村のあちこちに散らばった。
 ウェストウッド村は孤児院だ。子供がいることは不自然ではないし、朝なのだから起きてきてもおかしくはないだろう。明るい外の景色に目を向ければ、もうそれなりの時間だということはわかる。
 しかし、それが地下水と子供達に繋がるかというと、そういうわけではない。
「……どういうこと?」 
 そう尋ねると、地下水はウェールズの顔でニヤリと笑った。
「なに、本来の保護者が寝坊しているみたいなんで、暇つぶしにちょっと相手をしてやっていただけだ。具体的には俺の武勇伝とか、武勇伝とか、武勇伝とか語って」
 つまり自慢話を聞かせていたわけだ。
 それでも子供達にうんざりした様子がないということは、語った内容が面白かったのか、或いはこいつ自身の語り方が上手かったかのどちらかだろう。いや、ただ辺境の村であるために娯楽が少ないだけかもしれない。
 もしかしたら、地下水には語り部としての才能でもあるのかもしれない。ウェールズの姿で羽帽子と楽器を手にしていれば、なんとなく吟遊詩人にも見えなくもないだろう。
 本体がナイフでなければの話だが。
「まあいいわ。それより、お兄ちゃん知らない?ここで寝てると思ったんだけど……」
 本来は地下水のいる場所にホル・ホースが寝る予定だったはずだ。代わりに地下水がいるということは、ホル・ホースは別の場所で眠っているということになる。
 寝床を譲られたのなら居場所くらいは知っているだろう、と思っての質問だったが、地下水は困った様子で首を横に振るだけだった。
「いや、表には出てきてねえぜ。多分、まだ家の中なんじゃねえのか?」
 そんな言葉に、エルザは首を傾げる。
 どうやら、寝床を変わってもらったという話でもないらしい。初めからホル・ホースはここには来なかったということだ。
 ウェールズの肉体のほうはともかく、地下水自身は眠ることはない。その地下水が気付かなかったのだから、少なくとも玄関は通っていないのだろう。ということは、ホル・ホースは家の中にいることになる。
 裏口から出て行ったという可能性も無くはないが、いちいちそんなことをする理由をエルザは思い当たらなかった。
「そんなことより朝飯食わねえか?話の最中にガキ共が腹減ったって、うるさくてよ」
 耳聡く地下水の朝飯という言葉を聞きつけた子供が、遠くから期待の籠もった視線を向けてくる。
 見た目的には子供達とあまり変わらないエルザだが、地下水が吸血鬼ということを喋ったことで中身の年齢が違うことを知っているらしい。
 こんな村の住人なのだから、子供だからと言って料理ができないということもないと思うのだが、ティファニアの性格を考えると子供達を甘やかしている気がする。刃物の類は持たせていないのかもしれない。
 子供達の世話は本来の保護者であるティファニアかフーケを起こしてやらせればいいような気もするが、寝不足なのは皆同じだ。無理に起こすこともないだろう。子供達も似たようなことを思ってお腹が減っているのを我慢しているのかもしれない。
 どうせ、自分の分の朝食は作るのだ。洗い物を片付ける傍ら、キッチンの間取りも大体覚えたから、扱えなくはないだろう。
 せっかくのホル・ホースとの二人きりの朝食がお預けになるのは残念だが、この際気にしても仕方がないだろう。どの道、この様子では二人きりになんてなりようが無かったのだから。
 はあ、と溜息を吐いたエルザは、渋々ながらも居候という身分を考えて首を縦に振った。
「いいわ、適当なものを用意してあげる。けど期待はしないでね。あんまり料理なんてしないから、味の保証はないわよ」
 その言葉に、子供達が歓声を上げた。

 ティファニアの家の大きさでは、子供達全員を収容することは出来ない。
 普段は庭先にテーブルを並べ、そこで食事をしているらしい。雨の日などはそれぞれの家に適当な人数を集めて行っているようだ。
 幸いにして今日は晴れ。エルザにとっては最低の天気だが、子供達が食事を取るには最高の天気である。
 料理用に使う水を汲みに何人かの子供を走らせ、他の子供達に庭で食事の準備を行うように指示を出したエルザは、食料庫から適当な食材を集めてティファニアの家のキッチンに立っていた。
 籠に盛られた山のような野菜と丁寧に洗った肉。調味料の類はあまり置いてないらしく、森の中で取れる香草と比較的安価で流通している塩が味付けの基本だ。
 ホル・ホースが大金と一緒にシャルロットの家に預けてしまった旅行鞄の中には、旅の必需品だと言って集めていた調味料が豊富に入っていたが、今はそれを求めても仕方のないことだろう。
 代わりに、便利な道具を用意したいと思う。
 包丁を握れなくはないが、身近にもっと便利なやつがいるので、切る専門の助手を配置するのだ。
 丁寧に刀身を洗った地下水である。
「俺の身体、こういうことに使うもんじゃねえんだけど」
「人間切るのも野菜切るのも、切ることに変わりはないじゃない。文句言わない」
 吸血鬼の感覚なら人間と野菜の価値は食料という意味では一緒らしい。
 なんとも反論し辛い意見に口を閉ざした地下水は、抵抗を諦めて山の中からイモを一つ取り出して、その皮を剥き始めた。
 魔法の汎用性も、野菜の皮を剥くのにまでは対応していない。地道な作業である。
 きちんと作業をしているのを確認して、エルザは既に火の入れられた釜の上に鍋を置き、油を敷く。暫く待った後、水滴を鍋の上に飛ばして熱を計り、ちょうど良い温度を探して釜の火を調節する。すぐに鍋は温まり、暖められた油が鍋の上を滑った。
 手馴れているように見える光景だが、エルザの胸はドキドキしっ放しである。
 なぜなら、エルザには料理の経験など数えるほどしかないからだ。
 両親がいた頃には料理なんてしなかったし、ホル・ホースと出会う間には正体を隠して子供の振りをしていたから、血液以外の食事は大人が用意していた。料理を始めたのは、タルブ村の“緑の苔”亭で出た料理の味をホル・ホースがどことなく懐かしそうに食べていたからだ。
 故郷の料理ではないそうだが、以前食べたことのある味らしい。名前も覚えていない料理名だから固執するほどのものでもないのだが、エルザはホル・ホースが毎日美味しそうに食事をする姿を見て、彼を満足させる料理を作りたくなったのだ。
 たった一泊しかしなかった“緑の苔”亭で夜に一度だけ、女将の手ほどきを受けた。後は独学だ。時折、ガリアのヴェルサルテイル宮殿にある厨房を借りて、メイドたちの見守る中、拙い料理を作ってホル・ホースの食事に混ぜたことがある。
 何故か熱っぽく応援してくれたメイドたちの協力を得ての作品。正直、自信作だと思えたものも数多くあった。
 だが、それとなく聞いた味の感想は、良くも無く、悪くも無くだ。
 料理の道は険しいらしい。
 初めて一人で挑戦する大人数を相手にした料理に、エルザはゴクリと喉を鳴らした。
「あまり多くない食材、味付けを誤魔化せる調味料はなし、敵は複数、そして、恐らくは舌が肥えている」
 フーケの趣味かティファニアの趣味か、キッチンには料理道具が豊富に揃っていた。それは料理を作ることに喜びを見出している人間がいる証拠だ。
 そんな人物の料理を口にする子供達が、果たして自分の料理を受け入れてくれるだろうか。
 不安だった。
 だが、戦う前から負けを認めるわけにはいかない。
 敵前逃亡など、誇り高き吸血鬼の自分には存在し得ない選択肢なのだから。
「地下水、準備はいいわね!」
「ぼちぼちだな」
 想像を膨らませた脳内設定で無意味にテンションを高めたエルザを前に、地下水は朝から疲れた様子で下拵えの終えた野菜と肉の山を籠の上に集めた。
 赤、黄、緑、橙、ピンク。様々な色が交じり合った二十人前強の食材の山に、エルザの表情が凍りつく。
 肉も野菜も、元の形がまったく判らないくらいに細切れになっていたのだ。
「な、なによこれー!?」
「肉と野菜に決まってんだろ」
 頬を押さえて叫ぶエルザに、何がおかしいのかと地下水は憮然とした表情を浮かべた。
「いちいち刻んでるのが面倒くさくなって魔法で切ったら、そうなったんだよ。ああ、安心しろ。指示された野菜の皮はちゃんと剥いておいたげぶっ!?」
 どこか自慢げに言う地下水を拳で黙らせ、エルザは頭を抱えた。
 タダでさえ碌にレパートリーなど持ち合わせていないのだ。こんな状態になった食材を再利用する案はない。かといって、捨てるにはあまりにも惜しい気がする。というか、他人の家の食材だ。子供達の世話を肩代わりしているとはいえ、無駄遣いはなんとしてでも避けたい。
 焼けば良いのか、煮れば良いのか、蒸せば良いのか、それとも、スープにすれば良いのか。
 最後の案はなんとなく良い気もするが、実行に移すには躊躇われる。ほぼすり身に見えるカラフルな山は、水につけたら溶けてなくなりそうだった。
「ど、どうしよう!?」
 庭先からは子供達の談笑する声が聞こえてきている。
 腹を空かせてエルザの用意する料理を待っているはずだ。素人であるため、少し時間がかかることは伝えてあるが、このままでは用意そのものができない。
 キッチンの周りをうろうろと歩き回り、良い案がないかと地下水を足蹴にしながら考える。
 だが、一考に閃きは訪れなかった。 
「……こ、こうなったら!」
 諦めるのが早過ぎるなんて言わないで欲しい。万策尽きたのだ。最早、最終手段しか残されてはいない。
 エルザの足が素早く動き、最終手段たる目的の場所に向かって走り出した。
「テファちゃーん!わたしを助けてー!!」
 懇願の声と共に扉を開け放ち、未だ眠りの中にあるティファニアの体に飛び込んでいく。
 硬いベッドの上に転がり、過剰に巨大な魅惑の脂肪球体怪獣ティファニアの上に着陸したエルザは、突然の衝撃に戸惑いながら目を覚ましたティファニアの胸を鷲掴みにしながら涙目で懇願した。
「ごめん、テファちゃん!子供達のご飯作るの失敗しちゃったの!こんな不甲斐無いわたしを助けて!お願い!!」
「へ?え?わたしの代わりに、エルザちゃんが?って、もうこんな時間!?ごめんなさい、本当ならわたしがやらなきゃならないのに!」
 どう見ても助けを求めるような態度ではないのだが、寝起きのティファニアにはエルザの細かい行動まで気が回らないのか、上体を起こしてエルザを抱えると、そのまま居間へと走り出した。
 床に倒れている地下水に驚きながら横切り、キッチンの台に置かれた大きな籠の上に盛られた不思議な山を見て、目を円くする。
「……こ、これ、なに?」
 一見して理解できない代物に、ティファニアが呆然とした。
「あ、えっと……、あのね?それ、倉庫から持ってきた食材なんだけどね……?ちょっと刻み過ぎちゃって。あ、あっ、わたしじゃないよ!?地下水が、面倒くさいからって魔法使ったらこんなになっちゃったの!食べ易い大きさに切ってって言っただけなのよ?」
 自分を抱えるティファニアの腕から逃れたエルザが、あくまでも自分の責任ではないことを強調しつつ、床に倒れた地下水のナイフを足蹴にした。
「いてっ!こら、蹴るな!食べ易いって言ったから、わざわざ飲めるくらい細かくしたんじゃねえか!物を食うって動作は、けっこう面倒臭いんだぞ!腹に入れたら一緒なんだから、どんな形でもいいじゃねえか!!」
 味などわからない地下水独特の感覚なのだろう。一挙手一投足を操っているのだから、わざわざ口を動かす手間は省きたいというのが本音かもしれない。ナイフである地下水の感覚からすれば、咀嚼という行為そのものが無意味に見えている可能性もあった。
「黙れ無機物!」
「ぎゃふ!?」
 エルザの足が地下水の刀身を踏み潰した。
 完全に沈黙したのを確認したエルザは、そのまま視線をティファニアに向ける。
「で、どう?この食材、何かに使えないかな?子供達、もう外で待ってるんだけど……」
 縋るような視線を向けると、ティファニアはそれに気が付いて困ったように眉を寄せた。
「ご、ごめんなさい。わたしもあんまりお料理上手じゃなくて……、姉さんに教えてもらったレシピでしか作れないの……」
 こんな場所では料理の師匠になってくれる相手もいなければ、料理することに喜びを覚えられるほど沢山の食材に囲まれることもないのだろう。品評する相手は子供達だだけから、彼らの舌が現在の味に馴染んでしまえば成長は望めなくなる。
 これでは、料理の腕を磨くのは難しい。
 ティファニアは少ないレパートリーを何とか遣り繰りしながら過ごしているようだ。
 そうなると、この家のキッチンに鍋やらフライパンやらが種類多く揃っているのはフーケの趣味ということになる。
 意外な一面にびっくりしたいところだが、今はそれどころではない。
 ほぼ粉状になっている食材は空気に晒されて劣化を早めている。対処を急がなければ、本当にこの不思議な山を捨てることになる。
 エルザとティファニアは助けを求め、この家にあるもう一つの部屋に向かった。
 ティファニアの部屋と同じデザインの扉をノックもしないで開き、中で眠っているウェストウッド村の本当の保護者の姿を探す。
 そして、部屋の中に緑色の髪の女性と帽子を被った金髪の男を見つけた瞬間、エルザの目が鋭くなって暗い色を宿した。
「……へ、へええぇ。人を寝かしつけといて、自分は別の女と酒盛りした挙句に部屋へ連れ込んで一緒に寝てるわけ……?ふうぅん、そーなんだー、なるほどねー」
 普段のような子供の声ではない、少し低めの大人びた声で淡々と呟く。それは、殺意とか悪意とかというものから切り離されて生活してきたティファニアが、本能的に恐怖を抱いてしまう声だった。
 身を竦めて立ち尽くすティファニアを置いて、ゆっくりとホル・ホースたちの下に近付いたエルザは、そこで更なる事実に気が付く。
 フーケの眠るベッドに寄りかかるようにして寝息を立てているホル・ホースの手が、フーケの手と重なっていたのだ。
 心臓を締め付けられるような感覚と腹の奥深くから沸きあがる不快感が命じるままに、エルザはその手を掴み、引き剥がそうとする。
 だが、思いのほか強く握られているそれは、簡単には放せそうに無かった。
「くっ、しぶといわね!」
 小さな体とはいえ、エルザの腕力は大人のそれに匹敵する。それでも引き剥がせないとなると、眠っている間に筋肉が硬直したのかもしれない。
 苛立ちばかりが強まる中、朝食を食べていない空腹感も手伝ったのか、エルザの視線が特定の一箇所に向けられた。
 これは復讐だ。
 自分というものがありながら浮気した男に対する、復讐なのだ。
 言い聞かせるように心の中で呟いたエルザは、眠るホル・ホースの背中にそっと抱き付いた。
 広い背中は自分の小さな体など簡単に収まってしまう。肌に伝わる体温を感じると、何もかもがどうでもよくなるような錯覚を受けてしまうが、今はそれに身を任せるわけには行かない。
 両腕をホル・ホースの肩の上から伸ばし、しっかりと絡みつかせる。自然と、ホル・ホースの顔に近付いたエルザの唇が、奥に光る白い牙と共に開かれた。
 首筋を伸ばした舌で軽く舐め、癒えきっていない小さな傷跡を見つける。
 舌先に感じる錆びた鉄のような味が、脳味噌を溶かすような快感を覚えさせた。
 じゅるり、と口の端から垂れる涎を飲み込み、何処かの誰かに祈りを告げた。
 いただきまーす、と。
「がぶー」
「痛ってえええええええぇぇぇぇっ!?」
 何度も経験している痛みが今日は一層強く走り、深い眠りにあったホル・ホースの脳が活性化して強制的に覚醒させられる。
 飛び起きたホル・ホースの背中にはエルザが組み付いて首筋に牙を突きたて、まだ血を吸い続けていた。
「な、なにさ!?なんなのさ!?」
 ホル・ホースの悲鳴を間近で聞いたフーケも目を覚まし、体にかけられた毛布を掴んで体を隠そうとする。普段からネグリジェなどの薄い生地を寝巻きにしている女性の行動だが、今のフーケは衣服を来たままで、隠す必要などどこにもない。
 それに本人が気付いたのは、毛布を手に取ろうとしても掴むことの出来ない理由が、今もまだ自分の手がホル・ホースの手を握ったままだということを気付いてからだった。
「え、え、ひゃあ!?」
「おわ!」 
 突然手を放されたためにバランスを崩したホル・ホースが床に倒れる。それでもエルザを下敷きにしないのは、彼らしいといえば彼らしかった。
「オイ、エルザ!?放せって!血を吸うなコラ!月に一度の約束だったろうが!テメエ、幾らなんでも吸い過ぎだぞ!!」
 エルザをザビエラ村から連れ帰ってきたときに交わした約束では、確かに月に一度の血液提供のはずだった。だが、実際には二日に一回は吸われている。いろいろ条件が重なって今までは大目に見てきたが、このままでは流石に血が足りなくなって死んでしまう。
 だが、エルザはそんなことを気にした様子も無く、牙の突き立った首筋から流れる血液を赤子が母親の母乳を飲むように必死に吸い続けていた。
「あ、やばい、洒落にならねえ……、本格的に意識が遠く……」
 血色の悪くなったホル・ホースの顔から力が抜け、瞼が少しずつ落ち始めている。唇も瑞々しさを失って干乾びたような状態になっていた。
 やがて目の前に花畑が広がっている幻覚を見始めたホル・ホースから頃合を見て離れたエルザは、腰に手を当てて満足気に鼻を鳴らした。
「よし、今日はこのくらいにしておいてあげる!また浮気なんてしたら、今度は死んじゃうまで吸ってあげるんだから!覚悟しなさい!
 ピクピクと痙攣して危ない状態になったホル・ホースが聞いているとは思えないが、それはそれで満足なのか、エルザはもう一度鼻を鳴らして呆然としているフーケに向き直った。
「マチルダお姉ちゃん、ちょっと困ったことになってるの。助けてくれない?」
「……へ、あたし!?っていうか、なんであたしが」
 死に掛けているホル・ホースに視線を向けていたフーケが、エルザの言葉に反応して戸惑いの声を上げる。
「いいから、こっち来て!」
「姉さん。わたしからもお願い」
 エルザとティファニアに手を引かれたフーケは、抵抗する間も無くベッドの上からキッチンへと移動させられる。
 ここにも倒れ付す男が一人居たが、それが地下水に操られたウェールズであることに気が付くと、すぐに顔面を蹴り飛ばした。
 そして、問題の山と向き直る。
「で、これはなんなんだい」
 変わらぬカラフルさを称える大きな山を見て、フーケが呟いた。一見しただけでは判らないようだ。
 肩を窄めるエルザとティファニアにフーケが視線を送ると、言い辛そうにするエルザの説明から、それが人の食べ物であったことだけは判明した。いや、今も一応人間の食べ物ではある。
「なんとか、お料理に使えないかしら?」
 そう尋ねるティファニアに、フーケは両腕を組んで溜息を吐いた。
「無理だね。アタシ、料理なんて肉を焼くくらいしか出来ないし」
 これに悲鳴を上げたのはエルザだった。
「ええええっ!じゃ、じゃあ、このキッチンにある機材の山は!?料理が趣味だから集めたんじゃないの!?」
「誰がそんなことを言ったのか知らないけど、昨日の話を聞いていれば分かるだろ?アタシもティファニアも、元は貴族の、その中でも上流階級の娘だったんだ。料理なんて習ってるわけないだろ」
 言われてみればそんな気もするが、エルザは納得いかないように唇を尖らせて頬を膨らませた。
「なによー、それならこれ見よがしに機材ばっかり買い揃えてんじゃないわよ。てっきり、料理の鉄人でもここに住んでるのかと思っちゃったじゃないの」
「うるさいねえ。実力がないからこそ、料理道具だけでも買い揃えて腕を補おうって言ってるんじゃないか。まあ、なんにせよ、作れないことに変わりはないさ。これまでに見聞きしたレシピは全部ティファニアに教えてあるし、この子が作れないものはあたしにも作れないよ」
 そんな説明に、エルザはとうとう項垂れる。
 唯一頼りになりそうな相手がこれでは、もはやカラフルな食材の山はただの生ゴミだ。畑にばら撒いて次の野菜の栄養にでもするしかない。
 下手をすれば、自分が一番この村で料理上手なのではないのか。
 そんなことを思ったエルザが、かつて食材であったものの乗った籠を手にかけたとき、後方から疲れた声が響いてきた。
「うおおお、死んでたまるかぁぁ……!」
 部屋から這いずって来たホル・ホースが、か細い呼吸を繰り返しながらも生きるという強い意思を見せて現れたのだ。
「に、肉を寄越せ……!血が必要だ……!」
 真っ青な顔で言うホル・ホースの表情には、切羽詰ったものがある。
 酷く荒れた呼吸と痙攣する四肢、そして、体を前に出すたびに閉じそうになる瞼。
 どう見ても限界だった。
 思わずゴクリと息を呑んだフーケとティファニアが道を開け、エルザは流石にやり過ぎたかなと反省をして脂汗を流した。
 徐々に近付くホル・ホースが椅子に手をかけて、それを支えにゆっくりと立ち上がると、エルザは申し訳無さそうにチラリと食材だったものの山に視線を送る。
 ホル・ホースが求めるものは、ここにはないのだ。
「ご、ゴメンね、お兄ちゃん。ご飯はまだなの、っていうか、失敗しちゃ……」
「な、なんだ?……ミートローフか?にしては、具を細かく切り過ぎてる気がするが……」
 エルザの言葉を遮って、目を食材だったものの山に向けたホル・ホースが力なく笑った。
「一応、肉料理なら問題ねえ……。だが、野菜の比率が多過ぎるぜ。もっと、肉を追加するんだ……!」
 ぐったりと椅子に腰掛けたホル・ホースに、エルザもティファニアもフーケも、驚いたように声を上げた。
「お兄ちゃん」
「ホル・ホースさん」
「アンタ」
 声が揃ったことにも気付かず、言葉が繋がる。
「これを使った料理に心当たりがあるの!?」
 食うばかりで作るほうにはまったく知識がないと思っていた思わぬ伏兵の登場に、全員が信じられない様子で視線を向けた。
 体への気遣いは、既にない。
「なんだ、なんの話だ……?手短に言ってくれ、意識が飛びそうなんだ……」
「み、みーとろーふ?の作り方教えて!これ、間違って切り過ぎちゃったの!どうやって料理すればいいのか、全然分からなくて……、助けてよ!」
 飛びついたエルザに頭を揺さぶられて、ホル・ホースの顔が更に青褪めていく。それを慌ててフーケが止めると、ティファニアの名前を呼んだ。
「アレ、持ってるだろ?こんなことに使いたくはないけど、緊急事態だ。少しはマシになるかもしれない。使ってやりな」
「え、あ、はい。分かりました、マチルダ姉さん」
 コクリと頷いて、ティファニアが指に嵌められた小さな宝石の乗った指輪をホル・ホースの体に寄せた。
 薄い唇から漏れる聞き慣れた旋律。それは、間違いなく先住魔法のそれなのだが、エルザは昨日、ティファニアは先住魔法を使えないと聞いていた。
 アレはウソだったのか?いや、系統魔法が使えるなら、先住魔法が使えるという線は強くはない。それに、ウソをつけるほどティファニアは器用では無さそうだった。
 なら、それは指輪を使うためのキーワードでしかないのだろう。マジックアイテムには、言葉を鍵として発動するものが幾つかあることくらいは、エルザも知っていた。
「……このくらいで、いいかしら?」
 ほんの数秒間、指輪の淡い光りを受けたホル・ホースの顔色が僅かに良くなっている。完治とは行かなくとも、応急手当にしては十分過ぎる効果だ。
「……お、なんだ?気分が良くなってきたぞ」
 虚ろな瞳を宙に向けていたホル・ホースが正気を取り戻して言葉を溢す。
「感謝しな。わざわざ水の秘宝を使ってやったんだ。本当なら金貨の百枚か二百枚貰いたいところだけど、今は貸しということにしといてやるよ」
「マチルダ姉さん、わたし、そんなつもりで使ったんじゃないわ」
 厄介事を招くことの多いホル・ホースに恩を売って、いざというときの盾にでもするつもりだったのだろう。だが、そんな思いも横から飛んだ声に掻き消されて意味を無くしてしまう。
 指輪はティファニアの私物らしい。その使用はティファニアに一任されているようだ。
 フーケはティファニアの剣幕に押されて、情けない笑いを浮かべていた。
 とりあえず助かったことを自覚したホル・ホースは、治療をしてくれたティファニアの手を取って感謝の言葉を述べると、首の辺りをさすって立ち上がった。
「ええと、ミートローフの作り方だったか?」
「うん。あの山を料理に使いたいんだけど、わたし達じゃアレをどうすればいいのか分からなくって」
 すっと、エルザの視線が例の山に向けられると、ホル・ホースが呆れたように溜息を吐いた。
「なるほどねえ。女三人いて、誰もこいつを片付けられねえってか」
 何気なく出た言葉が、ぐさり、と女性陣に胸を抉る。
 ハルケギニアは、料理は女の嗜み、なんてことを言うような世界ではない。だが、一般的にはやはりキッチンに立つのは女性であるのが通常だ。男は外で働き、女は家の中で働く。そんな分業制はハルケギニアにも根付いている。
 生まれが生まれであるために本来ならそんなことを気にすることはないのだが、やはり女としての誇りのような物があるのか、エルザたちは悔しそうな表情を隠しきれないでいた。
 そんなことには気付かず、一人キッチンの前に立ったホル・ホースは、顎を撫でてアレな山を見つめる。
「ふーん。このままだと、流石にどうにも出来ねえな……」
 ホル・ホースの呟きが聞こえてくると、女性陣は揃ってホッと息を吐いた。
 こんなダメ人間っぽいオッサンには負けはしないのだと、ちょっと安心したのだろう。
 だが、それは容赦なく裏切られた。
「肉の量が少ねえな。これじゃあ、繋ぎを増やしても固まりそうにねえか。ティファニアの嬢ちゃん、肉はまだあるか?それと卵だ。10、いや、20個は揃えよう。パン粉もいる」
 その言葉にはっとなったティファニアがホル・ホースを連れて裏口から家の外へと出て行く。
 食料を保存している倉庫は、家の外にあるのだ。
 やっぱり解決策を持ってるんじゃないか。と、いじけるエルザとフーケが床に転がった地下水を適当に弄りながら暫く待っていると、ホル・ホースとティファニアが両手いっぱいに荷物を抱えて戻ってくる。
 先程言ったものより、少し材料が増えているようだ。
「多分、味が物足りなくなるからチーズと蜂蜜も使わせてもらうぜ」
「……あ、ああ。好きにしな」
 本来なら、チーズも蜂蜜も高級品なのだが、元々使う予定だったのか、特に止めることもなくホル・ホースの行動をフーケは見守った。
 手を洗い、肩を回して気合を入れる。それからのホル・ホースの動きは、大きな体に似合わない滑らかなものだった。
 新しく用意した肉を細かく刻み、それを例の山と一緒に大きな鍋に移すと、上から卵とパン粉を大量に放り込み、ついでに料理用のワインを少量投入し、混ぜ合わせ始める。
 量が量であるために混ぜるのは簡単ではない。途中から面倒を起こした原因である地下水を起こし、魔法で鍋の中を引っ掻き回してペースト状にしてしまうと、今度はそれを小麦粉をまぶした台の上で叩き一人分の量を分け始めた。
 エルザから聞き出した子供の人数に、この場にいるホル・ホースとエルザ、それにフーケとティファニア、最後に地下水に操られるウェールズの分を加えた数を用意すると、エルザが最初に用意していたフライパンよりも一回り大きいものを取り出し、油を敷いて数人分を纏めて焼き始める。
「よし、後は用意したヤツを焼くだけだぜ。ああ、それと、フライパンの上に出る肉汁は捨てるんじゃねえぞ。焼き終わるたびに別の器に取っておいて、後で溶かしたチーズと蜂蜜を絡めてソースの代わりにするからな」
 火にかかったフライパンに蓋をしながらの説明に、女性陣がコクリと頷いた。
 作るものは、要は野菜を混ぜた肉団子らしい。ちょっと考えれば思いつきそうな料理に、エルザもフーケも、ティファニアも、面食らった様子でホル・ホースの手元を見つめていた。
「お兄ちゃん、お料理出来たんだ……」
「ん、まあ、自分の飯くらい自分で面倒見れねえとな。というか、こんなもん料理って程でもねえだろ。作り方もテキトーだし、美味いって保証もねえぞ」
 とは言うものの、漂ってくる匂いは香ばしく、食欲をそそられるものだ。少なくとも、不味いということはないだろう。
 気を抜くと腹の虫が盛大に合唱を始めそうなのに、ホル・ホースは思い出したかのように香草を刻んで投入し始めて香りを更に高めていく。ダメ押しってやつだろうか。
 鼻につく匂いに次から次へと涎が出てきて、口の中がいっぱいになりそうだった。
「まあ、こんなもんか。な?簡単だろ」
 確かにやっていることは簡単そうだが、なぜか真似できそうにない。
 そんな感覚が胸に広がったことで、女性陣は深く、深く溜息を吐いた。
 一番負けたくない相手に負けた。
 そんな気がしたのだ。


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