ゼロの奇妙な使い魔 まとめ

13 奇策と秘策 後編

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匿名ユーザー

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「ッ!!」
 ガツン、という擬音が聞こえるかのような痛み。
 声を上げる暇もない。
 突然、視界が黄金色の光に包まれたかと思えば、頭の天辺から足の爪先にまで走る爆音が体を揺らし、貫くような衝撃波が構えていた盾を吹き飛ばした。
 続いて現れたのは、燃え盛る炎である。
 吹き飛ばされたホル・ホースは、自分と同じように吹き飛ばされてきた人間に体を押し潰されながら異様に明るい光に目を向けて、大勢の人間が天を突くように上る炎に包まれる姿を見た。
「おいおいおいぃ……、どうなってんだこれはよォ!どっかのバカがガスタンクでも吹き飛ばしやがったのか!?」
 ハルケギニアにガスタンクなんてものが無いことは分かっているが、目にしている光景はそうとしか思えないものだ。
 強力な爆風に薙ぎ倒された人間の体に火が付き、熱さから逃れようとのた打ち回る人間が数え切れないくらいに居る。アメリカ映画の銃撃シーンで銃弾がクルマを打ち抜いたとき、派手に爆発して炎上する場面があるが、そこに逃げ遅れた人間を沢山配置すれば、ちょうど今のような姿になるに違いない。
 そう思えるほど、ホル・ホースの見ている光景は現実離れ、いや、TVや映画に慣れた人間に錯覚を起こさせる状態になっていた。
 耳を劈くような悲鳴が上がる中、想定していなかった事態にパニックを引き起こした人間の怒声が混じる。戦いを放棄して消火作業に回る者、これを機に突撃を仕掛ける者、トリステインとアルビオンのどちらが起こしたことなのか判別がつかず、様子を見る者。
 対応はそれぞれであったが、ホル・ホースは自分で行動を選ぶ前に、強制的に被害者の立場に置かれていた。
「あっちいいいいいぃぃぃぃぃぃぃっ!!!」
 火が何かの形で飛び火したらしい。巻き起こる炎から逃れようと、自分の上に乗った名も知らない誰かを転がして立ち上がったホル・ホースの尻の部分が、狙ったかのように飛び込んできた火の粉に引火して炎上を始めたのだ。
 地獄の釜が開いたかのような惨状の中、ケツを燃やして走り回る男の姿はコメディ映画やアニメでも中々見られない光景である。消火しようと水を用意している者も、助けることを忘れて唖然としている始末であった。
「さっきからなんだってんだ!オレがなにか悪いことしたか!?」
 ハルケギニアに来てからだけでも、両手の指に余るほどの人間を殺しているのだから、悪いに決まっている。しかし、都合の悪いことは殆ど忘れるホル・ホースに悪気は無い。
 ケツを燃やされる程度なら、積み重ねてきた悪事にしては軽い方だろう。因果応報に正しく従っていたならば、火に飲まれてのたうつ人間と同じことになっても不思議ではないのだ。
 仮に神様が居たとしたら、神様に好かれている、とは一概に言い難いが、少なくとも嫌われてはいないであろう程度の優遇は受けているのかもしれない。遊ばれているだけ、という可能性もあるが。

「そこのお前、ちょっと止まれ!いま火を消してやる!」
「止まれといって止まれるかバカヤロウ!あちっ、あちちっ、あっつ!!」
 救いの無い火達磨よりも尻を燃やしているだけのホル・ホースを優先的に助けようとしてくれたらしい誰かの声に怒声で返しつつ、ホル・ホースはとりあえず声の方向へと走り寄る。
 そこに待っていたのは、水の入った桶を構えた若いのか年を取っているのか分かり辛い外見年齢のおっさんであった。
 ホル・ホースの進行方向が反転する。
「男に助けられる趣味はねえ!」
「バカ言ってねえで、ケツを出せ!!」
「男にケツを出す趣味もねえぞ!!」
「そういう意味じゃねえよ!」
 変なところで意地を張るホル・ホースに、もう面倒なやり取りなんてしていられないと、男はホル・ホースの足首を蹴って転ばせ、倒れたホル・ホースに持っていた水をぶっ掛けた。
 弾ける水に火は吸い込まれるようにして消え、後には焼け焦げて穴の開いたズボンの残骸だ
けが残る。幸いにして、根性で形を保っていた下着のお陰で尻の割れ目を晒すことにはならなかったようだ。
「ったく、この忙しいときにバカなことやってんじゃねえ、若造が!」
「いてぇっ!」
 日焼けした顔を怒りで更に黒くさせた男は、倒れ伏したホル・ホースの脇腹を蹴って唾を吐き飛ばす。
 乱暴な行いに怒りを覚えつつ、ホル・ホースはそのまま痛む脇腹を押さえて咳き込み、痛みが鈍くなるのを待ってから立ち上がる。
「この野郎、人を蹴っ飛ばしておいて、ただで済むと……、なんだおい?」
「いいから持て。ピンピンしてる奴を遊ばしておく余裕なんて、これっぽっちもねえんだ。死なないためにも、金の為にも、しっかり戦え」
 不穏な空気を漂わせるホル・ホースに、男は何事も無かったように薪割りに使われるような斧を渡して、自分は剣を握っていた。
 わぁ、と声を上げて男とホル・ホースの横を人が駆け抜け、アルビオン軍に突撃を仕掛けている。未だ立ち上る炎も見えていないかのような勢いだ。
「……突撃しろってか?」
「当たり前だろ。それが俺たち、傭兵の仕事だ」
 正規兵に見えないホル・ホースを同業者と思ったのか、男はニッと愛嬌の滲む笑みを浮かべてホル・ホースの肩を叩く。そして、信じられないほど強い力で押した。
「よっし、行くぞ。若いの」
「え、ちょ、オレはこういうのは……、うお、うおおおぉぉわあぁぁぁぁぁっ!」
 決して貧弱などではないホル・ホースがまるで抵抗できない力の差でもって、男は炎の中に
ホル・ホースを投げ込む。足が地面について慌てて振り返っても、もうそこに自分を投げ込んだ男の姿は無く、後から後から駆け込んでくる傭兵達に背中を押されるばかり。もはや、後退は出来そうになかった。
 黒く焦げた体を晒す死体の絨毯をふらつきながら走り、追い抜いていく傭兵の姿を目で追いかける。肌に触れる火で汗が浮かんでも、それを拭うだけの気力は無い。

 それでも、ホル・ホースは炎と煙の壁の向こうに火を恐れて立ち止まるアルビオンの兵士を見つけると、それ自体の重み以上に重さを感じる斧を振り上げた。
「チクショオオオォォォォッ!ヤられる前にヤったらあああぁぁぁあぁ!!」
 そんな鉄砲玉のチンピラ臭い台詞を発して、ホル・ホースは戦場を駆け回るのだった。


 ホル・ホースが生きるか死ぬかの戦いを繰り広げている一方で、アニエスら銃士隊やエルザ達もまた戦いの渦中に飲み込まれていた。
 トリステインの一部が混乱の中で敵陣に深く進攻するのと同じように、アルビオンの軍勢もトリステイン軍の混乱を機に弓から放たれた矢の如く陣中に戦力を食い込ませようとしている。
 そして、その先端の一つとなる地点に居るのが、ちょうどアニエス達の居場所であった。
「ひとーつ!ふたーつ!みーっつ!!」
「数えるのは良いから、こっち来ないようにすることだけ集中しなさい!何匹が零れて来てるじゃないのよ!」
 剣を抜いた銃士隊を守るように両刃の戦斧を握った地下水が、近付くアルビオンの兵士達を次々と薙ぎ払っていく。だが、それで全ての敵兵を止めることが出来るはずも無く、ミノタウロスと直接戦うことの愚を察した幾人かが脇を抜けてエルザや銃士隊に向かっていた。
 とはいえ、たった数人に対して銃士隊四十名が打ち倒される、なんて奇跡は起きない。盾も鎧も関係なく人体を両断するミノタウロスの戦斧を潜り抜けた者は、漏れなく待ち構えていた銃士隊の剣の錆へと変わっていた。
「数人くらいは我慢してくれよ。こっちも必死なんだぜ?それに、問題行動を起こしてるのはオレじゃなくて、あっちの二人だろ」
 叫びながら突進してきたアルビオン兵の一人を胴から真っ二つにしながら、地下水は銃士隊の後ろで言い合いを続けている二人に注意を向けた。
「こういう危険なことをするなら、あらかじめ知らせておけと言っているのだ!樽に細工をしたことまでケチをつけているわけではない!!」
「うるさいねえ!結果的に敵を吹っ飛ばせたんだから良いじゃないさ!あたしだって、コレがこんなに燃えるものだって知らなかったんだよ!!文句があるなら、きちんと説明しなかったスケベバカとバカ禿げに言いな!!」
「液体の性質がどうとかじゃなく、なにかするなら言えと言ってるんだ!それで問題が起きたら、責任を取るのは私なんだぞ!!」
「言ってる暇がなかったんだよ!そもそもだね、あんたがチンタラしてんのがいけないんじゃないさ!優秀な副官が居るみたいだけど、その優秀さに甘えて自分のやること見失ってんじゃないのかい?自分を棚に上げんじゃないよ!」
 二人とも、鼻先が触れそうになるほど顔を近づけて睨み合い、耳が痛くなるような声を響かせている。
 戦場だ、真面目にやれ、などと言っていたアニエスがこうして怒鳴り散らしているのは、マチルダの手の中にある小さな瓶が原因であった。
 極少量の液体が詰められたこの小瓶は、タルブの村に安置されていた零戦のタンクに残っていたガソリンである。マチルダは、地下水が投げていた樽の中に、このガソリンを大量に錬金していたのだ。

 樽が一つ壊される度、空中で100リットル近い量のガソリンが戦場にばら撒かれ、空気と交じり合っていたのである。その危険性は、多少なりとも想像できるだろう。
 マチルダがやったのは、そこに火種を一つ放り込んだだけ。別のメイジが火の魔法をガソリンのばら撒かれた場所に放っていても、同じことが起きたに違いない。
 つまり、ホル・ホースが吹き飛ばされた上にケツまで燃やしたのは、マチルダが原因なのだ。
 アニエスが怒っているのは、そういう小細工をするなら味方に被害が及ばないように事前に報せておけという、至極真っ当な意見からであった。状況を忘れて怒鳴り合っているのも、素直に謝らないマチルダのせいで少々ヒートアップしているだけである。
 しかし、気の強い女性二人が放つ気迫は、ホイホイと止めに入れるものではない。二人の相性の問題もあるのか、片方が熱を上げるともう片方も感情を昂らせて、終わりの無い感情のぶつけ合いに発展するようである。
 上手く噛み合えば無二の親友となれそうな気もするが、今の調子では殺し合いが始まっても仲直りという方向には向きそうになかった。
「……どうすんだ?」
「そうねえ……」
 戦いを続けながら、地下水がアニエスとマチルダを眺めるエルザに声をかける。
 流石のエルザも、二人の間に入って仲裁をする、なんて命知らずなことは出来ない。迂闊に懐に飛び込めば、その瞬間に剣やら魔法やらで串刺しにされそうなのだ。命は惜しい。
 だからといって放っておくわけにもいかない。いや、放っておいてもいいのだが、それはそれで後で煩いことになる。そうなるのも、出来れば回避したい。
 なら、直接的に止めるのではなく、遠回しに、しかし二人の反応を得られる方法が望ましいだろう。
 そういう分野なら、エルザの得意な所であった。
「じゃあ……」
 少し考える仕草をすると、エルザは少しだけ大き目の声を地下水に向けて発した。
「愛し合う二人の邪魔をしちゃいけないわ。わたし達は二人の将来を祈って、生暖かくそっと見守りましょう」
「誰が愛し合ってるか!!」
「捻り潰されたいのかい、このクソガキ!!」
 分かり易い引っ掻けは、二人の地獄耳に見事入り込んで反応を得たのであった。
「ほら釣れた」
 悪戯に成功した子供のように破顔して、エルザはちろりと舌を出す。
 あまりに予想通りの反応に、地下水は呆れて斧を取り落とした。
「姐さん、本当にそんな単純でいいのか……?」
「……っ!あ、こっ、この、やかましいよ!!」
 引っ掛けられたことに気付いたマチルダは顔を真っ赤に染める。隣でアニエスも同じ反応を返してしまったことに気付いて、自分の単細胞っぷりに頭を抱えていた。
「うわあぁ、どうしてこんなことに反応を……!というか、戦争中に私はいったい何をしているんだ!?こんな、なんで……、うわあああぁぁぁぁっ!違う、違うんだああぁぁぁ!!」

 冷たく突き刺さる部下の視線に本当に我を忘れて弁解するアニエスの姿は、大粒の宝石以上に貴重に違いない。
 だが、今はそんなことを言っている場合ではなかった。
 士気の崩れそうな部下を叱咤して、真面目に戦いを継続しようとしているミシェルが声を張り上げる。
「隊長!後悔するのは戦いが終わってからにしてください!こっちに来る敵の数が……!」
 斧を取り落とした地下水に、攻めあぐねていたアルビオンの兵士達は絶好のチャンスと見たのだろう。理由は不明でも、敵が油断をしていたらそこを付くのが戦術だ。気が逸れた一瞬を狙って、ミノタウロスの足元を突き崩すように突撃を仕掛けてきていた。
「マズイぜ、コレはッ!」
 強靭なミノタウロスの毛皮でも、絶対ではない。
 複数人が体重をかけて刃物を突き立てれば、毛は千切れ、肌は貫かれる。地下水に操られる前のミノタウロスなら血流の操作をして皮膚の強度を高められるのだろうが、今の地下水にその技術は無いのだ。
 足元に迫った敵兵に向けて慌てて腕を振るったものの、吹き飛ばした後には既に槍の一つが足に深々と突き刺さっていて、少なくない血が流れていた。
「ウェールズ、カステルモール!なにやってんの!ちゃんと援護しなさいよ!!」
 自分の所にまで近付いてきていたアルビオン兵の頭に、アニエスから渡された銃を突きつけてゼロ距離で引き金を引くと、エルザは銃士隊の後ろに立って杖を構えている二人に荒々しく声をぶつけた。
「こっちも忙しいんだ!敵の火砲が増えてきている!」
「他の部隊はきちんと戦っているのか!?敵の攻撃が一向に止まないぞ!!」
「この状況で……、なんで!押してるのはトリステイン側でしょ!?」
 ウェールズもカステルモールも遊んでいるわけではない。銃士隊の盾となっている地下水や銃士隊そのものを大砲や魔法から守るため、風の魔法で防護膜を張っているのである。しかし、その風の壁にぶつかる大砲と魔法の数は戦いの当初から減る様子が無く、むしろ他の部隊の敗走などで敵が集中することで、勢いを増しているようだった。
 エルザの叫び通り、数の優位と地の利、その二つが揃っている以上、トリステインに負けはないし、押しもしている。
 それでも敵の攻撃が止まらないのは、偏に敵兵の中に仕組まれた異物にあった。
 空から見下ろせば簡単に気付ける異変だが、それに気付いているのは、たった一人。
 要塞の上階に立って戦場を見下ろす、マザリーニだけだった。


 どういうことだ。とは口にはしない。
 小さな窓枠から一歩引いた位置で戦いの行く末を見守っていたマザリーニは、自軍の陣形が分刻みで崩されていく様に顔を顰めるだけで、息を潜めるように佇んでいた。
 前衛部隊が崩されたまではいい。それに、謎の爆発や大規模な火災も、敵軍の被害の方が大きいのだから、原因の究明は後回しで良いだろう。しかし、敵軍の先陣がどこまでいっても止まらないのは理解も納得も出来ない。

 針のように細く、鋭く攻め入る敵の攻勢は、広く布陣するトリステイン軍の中に深く入り込んで来ている。それは逆に考えれば、敵にとっては味方がついてきている背後以外は敵だらけなのだから、包囲されているようなもの。叩くのは容易なはずだった。
 なのに、止まらない。
 幾つもの針がトリステインの軍勢の中に突き刺され、その内のいくつかは優秀な兵士達の獅子奮迅活躍で止まってはいるものの、残る数本が全軍の指揮を担当する将軍の下へと一直線に向かっている。
 ここまで聞こえてくる将軍の声からして、状況がわかっていて対処をしようとしているようだが、それも敵が仕掛けた種を明かさなければどうにもならないだろう。
 天の目、なんて大層なものではないが、高い位置から見ることで見えてくるものもある。
 その位置にあるマザリーニの目には、確かにアルビオンの異常性が映っていた。
「一度倒れた兵が、再び立ち上がってきている……?」
 死んだ人間が生き返るなどという夢物語を信じるマザリーニではない。熱心な宗教信徒ではあるが、奇跡なんてものは聖書の中にだけあれば良いと言い切れる人間だ。偶然や必然を未知の何かに結び付けるほど、耄碌してはいない。
 だが、現実に人間が生き返ってきている。
 見下ろした戦場では、飢えた獣のように暴れまわる男達が串刺しにされて人の波に飲まれたかと思うと、少しの時間を置いてまた暴れ始める姿があった。
 殺した相手の顔までしっかりと見ている者もいないのだろう。死んだはずの人間が再び暴れているのだと気付いている者は数える程度で、その気付いている者達も自分の目を疑っているようだった。
「これは……、確かめねばならんか」
 石の床を踵で叩いて、マザリーニは窓際から離れた。
 広くない廊下をゆっくりと歩き、途中で数人の衛兵と擦れ違いながら必要と思うものを一つ一つ指示していく。目に映る人間全てにそうやって指示を与えて遠ざけると、途端に足を早めて、要塞の各所にある階段を下り始めた。
 貴族とは、堂々と振る舞い、胸を張って歩かなければならない。廊下を靴を鳴らして歩くのもまた、自身の存在を周知させる作法である。
 そうアンリエッタに教えていたマザリーニは、今は足音を消して階段を駆け下りていた。
 二階に。一階に。そして、地下へ。
 足場が暗くなっても明かりを灯すことなく下り続けたマザリーニは、階段の終わりに差し掛かると、そこで篝火を隣にして重厚な扉の前に立っている衛兵に目を向けた。
「合言葉を」
 杖を右手に構えた衛兵の言葉に頷くと、マザリーニは篝火に体を向けて、何も握っていない両手の平を合わせ、放し、奇妙な形に組んだ。
 衛兵が頷き、懐から鍵束を取り出す。
 合言葉とは万が一に対する偽装で、実際にはこの手の動作こそが衛兵への暗号であった。
「生きているかね?」

「……ええ。衰弱が進んでおりますが」
 主語を用いないマザリーニの問いかけに衛兵は無愛想に答えて、扉を開く。そして、束に括られた鍵の一つを渡して、小さく敬礼をした。
「何があっても開くな」
「はっ。承知しております」
 昔からの忠実な部下の言葉に、マザリーニは皺だらけの顔に笑みを浮かべた。
 蝶番の軋む音を耳の奥に響かせて、扉が閉まる。そして、鍵が重くかけられた。
 扉を越えたマザリーニは、湿っぽい空気と汚臭に鼻を押さえると、杖を手にして“明かり”の魔法を唱える。
 杖の先に、光が灯った。
 石の天井と床が、明かりに照らされて白く濁った。
「……ひどいな」
 そう呟かずにはいられないほど、マザリーニの居る場所は汚らしかった。
 足下にはゴキブリが這い回り、見たことの無い虫がそれを捕食しようと飛び回っている。色の付いた液体が床を濡らし、部屋の隅にある小さな排水溝へと吸い込まれていた。
 正確には部屋ではない。広く、長く伸びた廊下だ。道の左右には鉄格子の嵌った部屋が並んでいて、そこからは生き物の気配が漂っている。
 明かりを放つ杖を掲げてみれば、格子の向こうに居る生き物の姿が見えた。
「……見るに耐えんな」
 一番近い牢屋の中に入っていたのは、肌を腐敗させた亜人だ。崩れた肉からは骨が見えていて、もはや生きていないことを伝えている。
 トロールと呼ばれる種で人間よりも遥かに強力な生命体でも、こうなってはただの肉の塊に過ぎない。虫に群がられて、いずれ土に帰るのだろう。
 ラ・ロシェールの近くに突然現れたというこの個体は、要塞を築くに当たって密かに邪魔になっていた。そのため、手の空いている魔法衛士隊が排除しようとしたのだが、何故か付けた傷が次から次へと復元してしまうため、手に負えなくなっていたのである。
 とりあえず、頑丈な縄や鎖で動きを止めて、本来作る予定の無かったこの地下牢に閉じ込めたのだが、いつの間にか抵抗を止めていたどころか、死んでいたのだった。
 もしかしたら、これがアルビオン軍の死者が蘇生するという謎の現象を解明する鍵を握っていたのかもしれないが、今となってはそれを調べる手立ても無い。戦争が終わってアカデミーに送り込む頃には、体の殆どが骨になっているに違いないだろう。
 漂う腐臭から身を守るために袖で鼻を覆ったマザリーニは、トロールの屍骸から目を離して廊下の先を見詰めると、そっと歩みを進めた。
 トロールの入っていた牢屋のように、他の牢も良い状態とはいえない。
 アルビオン軍のスパイと思われる人間が隅に蹲ってブツブツと何事かを呟いていたり、壁に頭を打ち付けたりしている。近づいて来た虫を貪ったりするのはまだ良い方で、用意された便器に頭を突っ込んで何かを舐めている人間も居た。
 吐き気を催す光景ばかりが目に付く中、拷問一つしていないのに、どうしてこんなことになっているのかと、マザリーニは廊下の一番奥にある牢の前で一人の男を見下ろした。
「説明して貰いたい。いったい、アルビオンは何を考えている?」

 他の牢と変わらない造りなのに、何故か清潔な印象を受ける牢屋の奥。白いベッドの上に横たわって目を閉じていた男が、瞼の下の錆びた瞳をマザリーニに向けた。
「人にものを訊ねるなら、挨拶くらいあってもいいのではないかな。枢機卿」
 気だるげに体を起こした男は、ベッドに座って大きな欠伸をする。
 漂う臭いを気にした様子も無い。いや、ずっと臭いに包まれていたために、もう鼻が利かないのだろう。
「生憎とそのような暇は無いのだ、子爵。質問に答えてもらおう」
 感情の見えない声色で本題だけを告げるマザリーニに、男は立派な髭を撫で付けて、不敵に笑った。
「まだ爵位が残っていたのか。では、俺は今でもド・ワルドの名を使ってもいいのかな?」
 そう言って、ワルドは無くなった左腕の付け根を押さえるのだった。

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