ゼロの奇妙な使い魔 まとめ

10 泣き虫の唄 中編

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 運動をしていると、呼吸は自然と荒くなる。それは、体を動かすためのエネルギーとして酸素を必要とするからであり、体力の消耗が安定した呼吸を乱すからである。
 ハルケギニアに生きる竜もまた、生き物である以上は呼吸をし、激しい運動をすれば息は乱れるものだ。しかし、意外なことに、空を飛んでいる最中はそれほど息を乱すことは無い。
 何故か?
 それは鳥と同じように翼で風を捉えることによって、体力の消耗を抑えているからだ。微細な動きで風の変化に対応しているが、やっていることは翼を広げているだけである。
 では、どのような時が竜にとって最も体力を消耗するときなのかといえば、当然翼を激しく動かしているときだ。
 加速、減速、離陸、着陸、方向転換。翼を動かす機会は様々あるが、中でも一番激しい動きをするのは、その場で滞空する場合である。
 風に乗ることも出来ず、自身の翼一つで空を飛び続けなければならない状態は、竜の体に多大な負担を強いる。つまり、呼吸が乱れるわけである。
 流石に、人のようにか細い悲鳴のような声を上げるわけではないが、鼻息の荒さはそれはもう凄いことになる。
 その荒い鼻息の前に人が立っていたのなら、酷いことになるのは間違いない。生暖かくも臭い鼻息を延々浴び続けなければならないし、そして、多くの生き物は鼻の奥に鼻水と言う粘膜を持つ。
 鼻息の中に混じる鼻水。それを浴びた人間が、果たして冷静でいられるだろうか?
 答えは、否であった。
「……この爬虫類、ブッ殺してやる」
 地獄のそこから這い出ようとする亡者の呻きに似た響きを発したのは、頬にべっちょりと粘性の液体を貼り付けたマチルダだ。言うまでも無く、付着したゲル状物体は竜の鼻水である。
「落ち着いて下さい、ミス・ロングビル。今動いては……!」
 向かう所全て磨り潰すと言わんばかりの殺気を持って前進しようとしているマチルダを、コルベールが羽交い絞めにして押さえつけていた。
 マチルダが怒り狂っている原因は、目の前でホバリングしているワルドの風竜だ。
 空気を読まずになにやらペラペラと喋っているワルドを乗せた竜は、地上に降りることも風に乗って飛ぶことも許されず、呼吸を荒くして必死にホバリングしている。偶々正面に立っていたマチルダは、その鼻息をモロに浴びて、さらには鼻水をぶっ掛けられたのであった。
 これで切れないはずがない。
 元々短気なマチルダは、即座に目の前の竜を八つ裂きにするべく動き出そうとしたが、辛うじて冷静だったコルベールに止められ、杖も取り上げられていた。
 コルベールがマチルダを止めた理由は二つ。
 頭上を舞う竜騎士隊の数が多く、とても勝てる相手ではないということ。
 二つ目は、ワルドの語る話の内容だ。
 提示する条件を飲めば、マチルダとコルベールを見逃しても良い、と言っている。
 竜騎士隊を相手に逃げることは難しく、戦っても数騎を道連れにするのが精一杯といったところに提示されたワルドの申し出は、生き延びることを考えれば、またとないチャンスなのだ。
 そのチャンスも、マチルダに暴れられては意味がなくなってしまう。少なくとも、条件を聞くまでは大人しくして貰いたい。
 というのがコルベールの意見であった。
「ミス!ミス・ロングビル!どうか、どうか耐えてください!」
「やかましい!コレが黙っていられるか!女の顔を汚しておいて……、楽に死ねると思うなよトカゲもどきがッ!!」
 手足を激しく動かして、マチルダはコルベールを振り払おうとする。しかし、一応男であるコルベールの腕力には勝てず、虚しく叫びだけが木霊していた。
「なんだ、ミス・サウスゴータは話に乗り気ではないようだな……?」
 話を途中で止めたワルドが、マチルダの様子にニヤリと笑って見下したような視線を向けてくる。しかし、マチルダの意識はワルドなど眼中に無く、風竜だけに向けられていた。
 敵意を感じて風竜も威嚇し、マチルダも歯を剥いて唸り声を漏らす。
 その姿は、まるで縄張り争いを始めた肉食獣のようであった。
「……獣と話していても意味は無い、か。そっちのお前はどうだ?条件を飲むというのであれば、お前一人だけ生かしておいてもいいが」
「条件が分からねば、返事のしようがないとは思いませんかな?」
 マチルダを抑えたまま、ワルドの言葉に答えたコルベールは、一瞬馬鹿にしたような目を向けて挑発する。
 正直に言えば、コルベールはワルドとの交渉が上手く行くとは思っていない。こういう状況で示される条件なんて、碌な物が無いことは分かりきったことだ。
 それでも話し合いにコルベールが応じているのは、時間の経過による状況の変化を期待してのこと。そのためには、マチルダが交渉の決裂を早めてしまうことは望ましくない。
 マチルダ自身を止められないのであれば、ワルドがマチルダの態度に業を煮やして交渉を終えてしまわないように、多少恨みを買ってでもワルドの意識を自分に向けさせる必要がある。
 コルベールが話し合いを進めながらもワルドに対して下手に出ないのは、そういう計算が働いていたからだった。
「それもそうか。では、条件を言おう」
 分かりやすい挑発で腹を立てるほど、ワルドとて子供ではない。
 挑発される理由を状況から読み取りながら、自分の立場が圧倒的優位であることを態度で示しつつ冷静に言葉を選ぶ。
 コルベールとワルドの腹の内の読み合いは、ワルドに分があるようだった。
「すぐに裏切れとは言わぬ。元ある立場に戻り、こちらの指示があったときにだけ内通を謀ればそれでいい。貴様等は魔法学院の人間だろう?なら、そうだな……、万が一戦線が硬直するようなことがあれば、トリステインの中核を担う貴族の子弟を何人か見繕って、こちらの手の者に差し出す、というのはどうだ?」
「……人質を取る、ということですかな?」
「平たく言えば、そうだ」
 肯定したワルドに、コルベールは内心で悪態を吐く。
 交渉はやはり決裂だ。そんな要求を呑めるはずが無い。マチルダなら生徒の一人や二人、どうってことは無いと言うかもしれないが、コルベールは教員としての自分に誇りを持っている。
 生徒を犠牲にするなど、ありえない話だ。
 それでも、話を終えるわけにはいかない。状況に変わりが無い以上は、話を続けなければ敗北が決まってしまう。
「要求を呑んだとして、私達がそれを実行するとは限りませんぞ?」
 口約束なんて簡単に破れるものだ。むしろ、そういう誘いがあったと報告すれば、アルビオン側の手口が一つ明らかになり、有利になる。
 そういう懸念を指摘すると、ワルドは可笑しそうに鼻で笑った。
「それは無い。嫌でも約束は守ってもらうさ。禁呪を使用してでも、な」
 手を空に向けて、竜騎士隊にハンドサインを送る。すると、竜騎士の一人がゆっくりと近付いて来て、ワルドの隣に並んだ。
「“制約”の魔法は知っているだろう?使用した相手に、特定の行動を強制することが出来る水の魔法だ。これの使い手は滅多にいないが、偶然にも部下に一人だけ使えるものが居たのでな。そうでなければ、わざわざこんな話し合いをするつもりは無かった」
 ワルドが顎先で指示を出すと、竜騎士は竜を地上に降ろしてコルベールに杖を向ける。
 まだ条件を呑むとは答えていないのに、向こうはもうそのつもりらしい。いや、元より選択肢など無いのだ。
 了承するか、死か。
 ここで反抗的な行動を取れば、向けられた杖は瞬時に別の魔法を放つのだろう。
 時間稼ぎを継続したいコルベールはなんとか時間を引き延ばすために声をかけるが、既に詠唱を始めた竜騎士を止めることは出来なかった。
「クッ……!」
 魔力の奔りを感じて、目を逸らす。
 “制約”は魔法による洗脳と条件付けの二つによって成立する。魔法だけでも、条件だけでも意味は成さない。そのため、視線を逸らし、相手から意識を遠ざける行為は、“制約”の魔法を防ぐのに有効な手段とされている。
 しかし、それも経験則ではなく、うろ覚えの知識だ。“制約”を確実に防げるとは限らない。
 もし。仮に。万が一。そうなったら?
 膨らむ不安に、コルベールの肌が熱を帯びてじっとりと汗ばむ。緊張に手が震え、マチルダを抑える力が緩んだ。
 そして、コルベールが待ち望んでいた時間稼ぎによる、状況の変化が訪れた。
 風が吹き、音の衝撃が肌を打つ。
 マチルダと睨み合っていた風竜の頭が、空から降ってきた人間に足蹴にされて歪むと同時に赤い液体を噴き出した。
 竜の額が、鋼鉄に貫かれていた。
 空中を飛んでいた竜の体が地面に倒れ、血に濡れた大剣が肉の鞘から引き抜かれる。
 飛び散った鮮血に頬を汚したコルベールは、現れた人物の名を呼ぼうとして、緩んだ拘束から逃れたマチルダに殴り飛ばされた。
「平賀才人、遅れて参上!って、なんか俺ってカッコイイ!?」
「このクソガキィ!アタシの獲物を取るんじゃないよッ!!」
「ぐえっ!」
 ワルドの風竜を倒した才人が、駆け寄ったマチルダに頬を殴られた。
 登場タイミングは悪くは無かったのだが、一個人の感情にまでは配慮出来なかったのが才人の敗因だ。
「ガンダールヴ!貴様、なぜここにいる!?」
「そんなこと、お前に言う必要があるのかよ!」
 鼻血を垂らして殴られた頬を手で押さえた才人が、ワルドの言葉を力強く跳ね除ける。その後方では、いきり立ったマチルダが既に死体となった風竜の頭を幾度も蹴り飛ばして鬱憤を晴らしていた。
「フン、交渉は決裂だ。ガンダールヴ諸共、皆殺しにしてくれる!」
「やれるもんならやってみろ!」
 デルフリンガーを両手で握り、レイピアを構えたワルドに才人が突撃する。
 上段からの一撃をワルドは体を捻って回避し、レイピアを鋭く走らせて才人の喉を狙う。いつかの手合わせの時とは違う、殺意の篭った攻撃だ。
 左手の甲に輝くガンダールヴのルーンの光は、鈍い。
 マチルダの八つ当たりともいえる拳が、感情の昂りをリセットしたせいだろう。身体能力の向上効果は、ワルドの攻撃を回避出来るほどのものではなかった。
「……っとおおおぉお、あっぶねええええぇぇ!!」
 ずるり、と足が滑って才人の体が後ろに逸れる。
 風竜を殺したときに付いた血糊が、間一髪のところで才人を救っていた。
「チィ!大人しく死んでいろというのに!」
 舌打ちして、ワルドは体勢を崩した才人に追撃をかける。
 そこにオレンジ色の光が飛び込み、ワルドの進路を遮った。
「やらせませんぞ!」
 コルベールが放った、炎の魔法だ。
 蛇を模った炎が牙を剥いてワルドを襲う。
 魔法で身を守る時間は無く、生き物のように動く炎は回避も難しい。取れる手段が多くないことを刹那の時間で判断したワルドは、ちらりと視線を横に向けて、体ごと目的の位置に飛び出した。
「隊長?たいちょっ!?」
 “制約”の魔法を中断して、コルベールに魔法で攻撃しようとしていた竜騎士の体勢が大きく崩れる。紺色のマントにワルドは手をかけ、入れ替わるようにして竜の上から竜騎士を引き摺り落としたのだ。
 直進していた炎の蛇は、そのまま竜騎士を断末魔の声を上げる暇さえ与えずに焼き殺した。
「部下を盾にした!?なんということを……!」
「なにを驚く?ここはもはや戦場だ。ルールなど存在しない!そもそも、殺したのは貴様だろうがッ!」
 非道な行為に震えるコルベールへ冷たく言葉を投げかけ、ワルドは竜騎士が乗っていた火竜の手綱を握る。その合間に、立ち直った才人が再び斬りかかって来るのを蹴り飛ばした。
「ふん、流石に俺一人では分が悪そうだ。一度退かせてもらうとしよう」
 引かれた手綱に反応して火竜の翼が広がり、ゆっくりと上昇を始めた。
 空にいる竜騎士隊は、既に異変を察知して攻撃態勢に入っている。ワルドがこの場を離れれば、攻撃を躊躇する理由が無くなり、一斉に襲い掛かってくることだろう。
 状況は最悪だ。ワルドを倒しても倒さなくても、竜騎士隊の攻撃を退ける術は無い。
 歯噛みしたコルベールは状況の改善策を求めて周囲に視線を走らせるが、田舎町に竜騎士の攻撃から逃れられるような障害物は無く、当然迎撃に使えるような道具が転がっているはずもない。
 出来ることがあるとすれば、死力を尽くして戦い続けることだけ。
 考えている時間は無かった。
「彼を逃がしてはいけない!竜騎士隊の統率を乱す為にも、ここで討ちますぞ!」
「言われなくたって!」
 去り行くワルドの火竜の尻尾に才人が飛びつく。それに続くように、コルベールが炎の魔法の準備を始めた。
「待て、ワルド!」
「待てと言われて待った馬鹿が、過去に一人でも居たのか?」
 ワルドが手綱を繰って竜を少し暴れさせる。それだけで尻尾にしがみ付いた才人は上下左右に激しく揺さ振られ、振り落とされそうになる。それでも才人は鱗に爪を引っ掛けて、振り落とされるのを耐えていた。
「ええい、しつこい!」
 耐えかねたワルドが魔法を詠唱し、風の刃を才人に向けて放つ。
 尻尾にしがみ付くのに精一杯の才人にそれを避けることが出来るはずも無く、真空の刃は才人の右肩を抉り、そのまま背中を通って左の腰へと抜けた。
 切れ味の良さから痛みも走らず、何をされたのか気付けなかった才人はそのまま尻尾を掴み続ける。だが、一度大きく尻尾が振られて強く力を入れた瞬間、裂けた衣服の下で皮と肉とが離れ、激痛と共に大量の血が溢れ出した。
「あ、あう、あああああああああぁぁあぁっ!」
「相棒!?やばい……、この傷は、ちょっとシャレになんねえぞ!」
 悲鳴を上げて竜の尻尾から振り落とされた才人の様子に、デルフリンガーが緊張に声色を変えて叫ぶ。
 ワルドに攻撃を仕掛けようとしていたコルベールは、宙に散る赤い液体を見て、咄嗟に別の魔法に切り替え、杖を振るった。
「レビテーション!」
 物体を浮遊させる魔法が才人に向けられ、落下途中にあった体が地面に激突する寸前で空中に固定される。
「サイトくん!?大丈夫かね?意識をしっかり保ちたまえ!」
「何とかして傷口塞がねえと……!相棒が死んじまう!」
 才人の背中に走る一本の傷は、派手に出血しているだけで深くは無い。だが、その出血量自体が問題で、急速な失血によるショック死が危ぶまれる。
 仮に死を免れたとしても、この出血を放置すれば脳が血液不足によって損傷するだろう。そうなれば、どんな後遺症が待っているか分からない。ハルケギニアには、こういう傷を原因に表舞台から去った人間も少なくは無いのだ。
 とにかく、傷を塞ぐ必要がある。しかし、針と糸で縫合することや水の魔法での止血は、この場では実現できるものではなかった。
「止血か……、やりたくは無いが、命には代えられん」
 才人を地面に下ろしたコルベールは、迷いを捨てて炎の魔法の詠唱を始める。
「おいおい、この大事なときに、そんな危なっかしい魔法でいったいなにを……」
 異様な雰囲気を察したデルフリンガーが、コルベールの動向に声を漏らす。
 詠唱を終えて、コルベールは杖を才人の背中に向けると、デルフリンガーの静止の声に耳を貸すことなく、魔法を発動させる最後の言葉を口にした。
「恨みは、甘んじて受けますぞ」
 杖に籠められた魔力が熱と光に形を変えて、傷口に沿うように才人の背中に広がった。
 血液を蒸発させながら、炎が才人の傷口を焼いていく。切断されていた皮膚と肉が焼け爛れることによって塞がり、流れ出る血の量は確実に減少していった。しかし、その間、才人の口は顎が外れそうなほどに開かれて、耳を劈くような悲鳴を響かせていた。
「……無様だな」
 空に移動したワルドが、才人の背中を焼くコルベールを見下ろして吐き捨てる。
 あれでは、死ぬか生きるかの二択だろう。お粗末にも程がある止血方法だ。
 ああまでして生きることに執着する意味があるのか。死ぬべき時に死んでおいた方が、人生なんてものは苦痛が少なくて済む。なにせ、生き残った彼らが後に見るものは、蹂躙されるトリステインの姿なのだ。他国の軍に蹂躙される国家の様相は、凄惨というしかない。
 そんなものを見る為に、苦痛を耐えて生き延びようなどと……。
 ワルドにとって、才人やコルベールの生き残ろうと足掻く姿は、潔さも誇り高さも無い、泥臭い生き様にしか見えなかった。
 そんなワルドの言葉に、浮かぶように姿を現したマチルダがニィと笑った。
「まったく、同感だね。ここまで近付かせてくれるなんてさ!」
「っな!貴様!?」
 振り向いたワルドの目に、巨大なゴーレムの頭部が映る。
 肩の上にマチルダを乗せたゴーレムの両腕は、既に高く持ち上げられ、後は重力に任せて振り下ろすだけとなっていた。
 ワルドが才人やコルベールの動きに気を取られている間に、マチルダはこのゴーレムを作り上げていたのだ。
「ダボがッ!気付くのが遅いんだよ!!」
 マチルダの意思に従い、ゴーレムが巨大な両腕をハンマーのように振るってワルドの乗る火竜の背骨を砕いた。
 衝撃で肉が裂け、飛び散った血がゴーレムの体表を赤く染め上げる。その中に混じって、千切れたと思しきワルドの腕がマチルダの足元に飛び込み、皮のブーツを赤く染め上げた。
「あはははははっ!だらしないねえ!結局誰だか分かんなかったけど、そんなことはもうどうだっていいさ!生まれ変わって出直しといで!フッ、ははははっ!」
 四散した肉片が地上に落ちていく様を見下ろして、マチルダは腹を抱えて激しく笑う。
 溜まった苛立ちをワルドにぶつけて、ご満悦のようであった。
 しかし、何時までも笑っていられない。マチルダの作ったゴーレムを取り囲むように竜騎士隊が飛び回り、殺気立った目を向けてきている。
 目の前で仲間を殺されて激怒しているのだ。
「……これは、ちと危ないかねえ?」
 肌にピリピリと感じる鋭い殺意に昂った気分があっという間に冷まされて、マチルダの頬の筋肉が緊張で引き攣る。30メイル級のゴーレムなら上手く行けば竜騎士の二人くらいは仕留められそうな気はするが、その頃には自分も灰になっているのは確実だ。
 これだけ敵意を向けてきている相手に、正面から戦うのは得策ではないだろう。
 つい先ほどまでぶっ飛んでいた理性を動員して、とにかく逃げるべきだという結論を導き出したマチルダは、足蹴にしたワルドの腕を拾い上げると、それを正面を飛ぶ竜騎士に思いっきり投げつけた。
「アンタ達の大将の腕さ!返してやるよ!」
 風の動きが変わり、投げつけた腕が竜騎士の一人にキャッチされる。その次の瞬間、包囲していた竜騎士隊が一斉に騎乗する火竜にブレスを吐かせ、ゴーレムを火達磨にした。
「ハッ!危ない危ない」
 腕を投げた瞬間にゴーレムの肩から飛び降りたマチルダは、全身を炎に焼かれて崩壊を始めるゴーレムの土と一緒に自由落下に身を任せ、地上に見える才人とコルベールの脇にレビテーションで勢いを殺して着地する。
 ちょうど才人の傷を塞ぎ終えたコルベールが視線でマチルダを向かえ、その背の向こうに見える殺気をばら撒く竜騎士隊を瞳に映した。
「逃げる算段は?」
「ないよ」
 あっさり答えたマチルダに、コルベールは傷を焼かれた時の痛みで気絶した才人を担いで苦笑した顔を向けた。
「では、走るしかありませんな」
「ぎっくり腰になんてなるんじゃないよ」
 一瞬だけ視線を交えた後に、互いに鼻で笑って足に力を籠める。
 その背後に騎士を背に乗せた火竜が迫り、煌々と燃えるブレスを放った。


「だいたいこの辺か……、っと!」
 上下左右、あらゆる方向を土に囲まれた中、ランプの明かりを頼りに天井に耳を這わせていた男が、おもむろに両腕を天井に突き刺した。
 硬化の魔法をかけられた手は、土の壁に負けることなく肘の先まで突き進み、その向こうで何かを握り締める。
 土を盛った土台の上で、男は手に何かを握ったまま体ごと腕を引っ張って、土の向こうにいるものを引きずり出した。
「わああっ、わあ!」
「あちち、あちっ、あちっ!髪が、燃える!」
 天井が崩れて現れたのは、才人を抱えたコルベールと髪の一部を焦がしたマチルダであった。
 今し方、竜のブレスを浴びせられそうになった二人は、間一髪のところで男の手に救われたようである。しかし、完全に無事とはいかないようで、マチルダの髪は焦げ付き、コルベールも後頭部の髪をパンチパーマ状態に変えていた。
 得意分野ではない土の魔法で天井の穴に蓋をした男は、ふう、と息を吐いて、金色の髪を濡らす自分の汗を汚れた袖で拭った。
「あああああああ、あたしの髪が!半分くらいにまで……!クソッ!助けるなら、もっと早くやりな!この駄目王子!!」
「いや、手厳しいね。一応は急いだつもりなんだが」
 マチルダの理不尽な言葉に、ウェールズは土に汚れた顔を崩して笑うと、足元のランプを拾い上げる。油の量が少なくなり始めているらしく、光が弱まっているようだった。
「地下からでは緊急かどうかなんて、判別がつかないんだ。騒がしくしてくれていたから何とか位置は分かったんだけど……、申し訳なかった」
「謝って済んだら、法律なんて存在しないってんだ!チクショウ……、アタシの髪が、こんなに短く……」
 黒く焦げた部分を手で千切ると、髪の長さが肩の辺りで途切れてしまう。
 この分だと、綺麗に整えた場合は更に短くなってショートヘアになるかもしれない。元の長さまで伸びるのは、恐らくは再来年の今頃になるだろう。
 涙目で崩れた自分の髪を握ったマチルダは、手入れを欠かすことなく綺麗に伸ばしてきた自分のたった一つのお洒落が台無しにされた事実に、沸々と憎しみと怒りが湧き上がってくるのを感じた。
「キィーッ!あいつら、殺す!絶対、皆殺しにしてやるぅ!」
「お、落ち着いてください、ミス・ロングビル!髪のことなら、後で私の育毛剤をお貸しいたしますから。それよりも、先ほど彼のことを王子と……」
 暴れるマチルダを宥めて、コルベールは聞き流せない言葉に反応を示す。
 近年のハルケギニアにおいて、王子と称される人間は多くない。トリステインもガリアも王の子は娘が一人だけだし、ロマリアは王権そのものが無い為に王と名が付くことは無く、ゲルマニアに至っては王が結婚すらしていない為に子供自体が存在していない。分散する小国や公国には王子と称される人間は少なからず存在するものの、滅多と表に出ることは無く、社交界に顔を出すのはもっぱら女性ばかりだ。
 そのため、王子と言えば、ここ数年ではたった一人を示すことになっていた。
 アルビオン王国王家、テューダーの名を継ぐウェールズである。
 一介の教員でしかないコルベールが王家の人間に直接拝顔することは無いが、祭典が開かれれば遠目に顔を見ることくらいはある。記憶にある曖昧な人物像を鮮明にすればこうなるのではないか、という見本を目の前に置かれれば、それが同一人物ではという程度の疑問を抱くのは、当然の成り行きであった。
 突然に立ち去るのも言い逃れをするのも不自然だと判断したウェールズは、コルベールの疑問に対し、素直に自分の身分を明かすことを決めた。
「口が滑ってしまったようだね。まあ、仕方がない。その通り、僕は今は無きアルビオン王国がテューダー王家の血をこの身に流す者。ウェールズ・テューダーだ」
 アンリエッタの持つ可憐な王女のそれとは違う、前線に立って血を流してきた軍人上がりの王家の威光を滲ませたウェールズに、コルベールは体を震わせて跪く。
 偽物ではない。本物だけが持つ圧倒的な存在感が、確かにそこには有った。
 どこかの誰かのせいで世俗に染まって、いくらか落ちぶれてはいたが。
「おお、生きておられたのですか……!」
「本来なら内戦の終わりに討ち死にするつもりだったがね……、こうして情けなくも生き恥を晒している。最近は小間使い同然に使われて、かつて仕えてくれていた使用人達の苦労を偲ぶ毎日さ」
 小間使い?と言葉を零して、コルベールはハッとなってマチルダを見る。
 王族であろうとも落ちぶれた人間なんかは絶対敬ったりしないであろう人物が、そこに居た。
「言っとくけど、あたしじゃないよ。ここ暫く会ってなかったし。……っていうか、アンタはあたしをそういう目で見てたのか!」
「あっ、あっ、そういうつもりでは!ただ、今日はどうしても印象が変わってしまうような姿を多く見てましたので……!いたたたたたたたた、私の、私の残り少ない髪が!?」
 ちりちりになっている後頭部の毛をブチブチと引き抜かれて、コルベールは目元に涙を浮かべる。
 痛みで泣いているのではない。絶滅間近の頭髪が虐殺されていることに泣いているのだ。
 コルベールの背後に張り付いて次々と犠牲を量産するマチルダを、ウェールズは平和な光景だと笑顔で眺めて、手元のランプに目を移した。
 蝋燭の明かりよりも頼りなくなっていたか細い火が、そこでちょうど寿命を向かえた。
「おや?どうやら、油が切れてしまったようだな」
「なんだい、いいところだったのに……。えーっと、アタシの杖はどこいった?」
「いいところって、私の髪を荒野の如き不毛の地に変えておいて……!あ、ミス・ロングビルの杖ならここにありますぞ」
 小さな明かりであったとはいえ、消えてしまえば目は暗闇しか映さなくなる。
 手元さえ分からなくなったマチルダ達は、手探りで各々に行動し、明かりを求めて杖を手にしようとした。
「ここにあるって、そのここってのが何処なのか分かんないじゃないか!」
「私に言われても……。ああ、しまった。杖を地上に置いてきてしまいましたぞ!」
「あれ?僕の杖がない。確かにベルトに挟んでおいたのに……」
「ああっ、申し訳ない!ミス・ロングビルの杖はこっちでした!こちらは、ウェールズ殿下の杖ですかな?足元に二つとも転がっていて、どうにも判別が」
「だーかーら!アタシの杖はどこだって言ってんだよ!こっちじゃ分かんないっての!」
「僕も、どこに何があるやら……」
 手探りで棒切れ同然の杖を探し出すのは難しい。
 コルベールは親切で拾った杖をマチルダやウェールズの近くに移動させるのだが、それは逆に転がっている位置を予測しているマチルダ達には迷惑以外の何者でもなく、杖は一向に手の中に収まることは無かった。
「ちょ、誰だ!今、あたしの胸に触ったにょわっ!?このっ、言ってる傍から尻まで触るなんて、死なすぞコラァ!!」
「ご、誤解ですぞ!私はただ、杖を渡そうと……、はう!?」
「なにか妙なものを踏んだ気が……。いや、それよりも、早く明かりを!このままでは、なにがなにやらふぐぅ!?」
「きゃあああああぁっ!い、いま、今!顔に変なものがっ!でかい蛇みたいなのが!!」
 混乱極まる黒の世界。
 着実に股間へのダメージを重ねる男達。
 精神的な被害を被る紅一点。
 もはや杖どころではない三人は、互いに近い位置にいることの危険性を察して距離を取ることを選択する。
 だが、それを待っていたかのように、冷たい風を伴って少女のものと思われる不気味な泣き声がマチルダ達の耳に囁くように流れ込んできた。
 暗いよ。
 寒いよ。
 寂しいよ。
 遠く響く声は耳を塞いでいても体の中に溶け込んできて、頭の中で何度も同じ言葉が繰り返される。
「ひ、ひいいいっぃぃ!なに!?この声はなに!?」
 折角離れたマチルダは、聞こえてくる声に背筋に走る冷たさを覚えて、元居た場所へと跳ぶように戻る。その際、火の消えたランプを踏みつけて、派手に金属音をばら撒いた。
「ゆ、幽霊か……?僕は、こういう心霊現象とかは信じない主義なんだが……」
「んなこと言ったって、この声は何なのさ!現実に聞こえてきてるじゃないか!!」
 冷静に状況を推察する為に、落ち着いた声で喋るウェールズに、マチルダは体を震わせて反論する。
 普段ならお化けや幽霊に唾を吐きかけて拳で語り合おうとするようなタイプであるマチルダだが、手元に杖がない状況は切り札が存在しないのと同義で、後ろ盾の無い環境が彼女の精神を不安定にさせていた。おまけに、星明りさえない完全な暗闇という状況が更に情緒を刺激して、恐怖心を増幅しているのだ。
 ……ママ、何処にいるの?
 そんな言葉に鳥肌を立てたマチルダは、両手で自分の体を抱いて、声の聞こえる方向を涙をいっぱいに湛えた目で睨みつける。
「ママ……?ということは、女性の声に反応するということでしょうか」
「余計なこと言うんじゃないよ、このバカ禿げ!こっちに来たらどうすんだい!」
「ば、バカ禿げ……?」
 研究者の性か。コルベールは顎に手を当てて、聞こえてくる言葉に対する推測を無神経に語ると、マチルダは恐怖心を誤魔化すように怒声を上げて身を小さくした。
「そういえば、この地下の穴はなんなのさ?まさか、大昔に作られた防空壕だとか、地下墓地だとか、いかにも誰か死んでそうな曰くがあったりしないだろうね?」
 幽霊が現れる場所というのは、過去に何かしらの事件があって、人が死んだ場所が多い。
 もしかしたら、ここもその内の一つかもしれない。
 そう思うと、どうにも触れる地面の冷たさが、死体のそれと重なってしまうのだった。
「いや、それはない。この穴は、ジャイアントモールが田舎の土で育った良質のミミズを求めて雲の巣のように掘り広げたものだ。昨日今日に出来た穴に、曰くなんてあるはずが無いよ」
 マチルダの疑問に、ウェールズはさっと答えて、声の聞こえる方向への警戒を強める。
 その瞬間、マチルダの瞳に不信感が宿った。
「……随分と詳しいね。アンタ、どういう理由でこの穴を見つけたのさ?」
「そ、それは……!」
 再び冷たい風が吹く。
 言い淀むウェールズを、暗闇の中、だいたいその辺にいるのだろうと辺りをつけたマチルダが視線で攻める。見えていなくても人の意思というものはなんとなく感じ取れるもので、追求されている気配を読み取ったウェールズは、額に一滴汗を浮かべると、ポツリと呟いた。
「落ちた」
「……はぁ?」
「落ちた、と言ったんだ。村に近付く竜騎士隊を追い払おうと待ち構えていたんだが、敵が近付いてくるのに合わせて移動したら……、ズボッて。お陰で、追い払うどころか、竜騎士隊は僕の頭上を通り越して行ったよ。で、そのままジャイアントモールの世話になって、ここまで来たんだ。途中でミスタ・ホル・ホースやエルザ嬢とも会って、君等が村の中に残っていると聞いたから助けに来たのさ」
 間抜けな事故で見つけたということらしい。
 助けに来てくれたこと自体は感謝すべきことなのだろうが、どうにも失態の汚名返上が前提にあった気がして、素直に感謝できない。
 まあ、100%善意であったとしても、マチルダがウェールズに感謝の言葉をかけるようなことは絶対に無いのだが。
「なんだ、ただのバカか」
「ふっ。いつもながら、君の言葉は辛辣だね」
 否定することも出来ず、ウェールズは肩を落として負け惜しみの一言を零す。
 会話の終わりを待っていたのか、暫く聞こえなかった不気味な声が復活し、囁きが再びマチルダ達の鼓膜を震わせた。
 声が聞こえるわ。……こっちにいるの?こっちにいるのね?
 近付いているのか、声が徐々に大きくなっている。だが、それ以上に不気味な事実があった。
「ひぃっ!な、なんで後ろから!?さっきと方向が違うじゃないかっ!!」
 睨み付けていた暗闇とは真逆の方向から届く声に、マチルダは逃げ出す位置を変える。
 それが良かった。
 足が何か硬い物を踏みつけ、その存在をマチルダに報せる。
 必死に捜し求めていたものが、やっと見つかったのだ。
「つ、杖だ!杖を見つけた!!」
「早く明かりを!幽霊の正体を暴くのです!」
 コルベールが研究者魂を輝かせて、マチルダを急かす。
 たとえ頭髪が絶滅の危機にあっても、彼の未知に対する好奇心が絶える事はなさそうだった。
「言われなくても、とびっきり明るくしてやるよ!」
 足元に手を伸ばしたマチルダは、コルベールの言葉に怒声で返し、その場で“明かり”の魔法を唱える。
 全身全霊をかけた“明かり”の魔法が、世界を真っ白に染め上げた。
「よし、ちっと目が痛いけど、これで……!」
 杖の先端に灯った強力な光に目を眩ませたマチルダが、瞳孔の急速な動きに痛みを感じながらも色の生まれた世界に意識を向ける。
 その瞬間、眼前に広がった赤い色に、マチルダは盛大に悲鳴を上げた。
「いぃやあああぁああああぁぁぁあぁぁああぁぁああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
 焼け爛れた皮と肉。焦げ固まった黒い血の結晶。衣服は煤を被り、生々しく残る傷跡は生焼け故に筋肉の躍動を内包する。
 そんなゾンビの如き様相を呈しているのは、地球出身で現在絶賛気絶中の平賀才人であった。
 暗闇から脱して最初の光景が、コルベールの手によって背中の傷を焼き塞がれた才人の姿であったのは、不幸としか言いようがない。得体の知れないものに怯えていたマチルダに追い討ちをかけるようなショッキングな光景は、彼女の精神を激しく揺さ振り、肉体的にも精神的にも多大な負荷をかけることに成功する。
 その結果、マチルダは放心したように固まると、白目を剥いて気絶したのだった。
「ああっ!また暗く!?」
「安心したまえ!今の明かりで、なんとか自分の杖を見つけた!」
 マチルダの失神によって再び穴の中は闇に染まったが、光を取り戻すのは早かった。
 一瞬の明るさから自身の杖の位置を確認したウェールズは、才人とマチルダの二人が倒れる傍らに落ちている自分の杖を拾い上げ、“明かり”の魔法を唱えた。
 ランプのものよりも強くはっきりとした光が穴の中を照らして、ウェールズやコルベールの姿を浮かび上がらせる。倒れたマチルダや才人の姿も、きちんと確認できていた。
 だが、それでも不気味な声は止まらなかった。
 人が居る。
 人の声がある。
 見つけた。
 見つけた。
 見つけた。
 みつけた。
 ミツケタ。
「……近付いてきておりますぞ!」
「分かっている。迎え撃つぞ!」
 光に照らされた穴の中には、前と後ろに道が二つ。いや、正しくは、ウェールズたちの居る場所も道の一部でしかない。
 接近する声と気配に、ごくりと喉を鳴らした二人は、足音までも耳にして、間もなく現れる存在に緊張感を高めた。
「あっ!」
「なんだ、どうしたのかね?」
 突然に声を上げたコルベールに、ウェールズは尋ねる。
 だらだらと滝のように汗を流し始めたコルベールが、指をそっとウェールズの手元、杖を持つ右手に向けた。
「私は杖が有りませんし、ウェールズ殿下も“明かり”を使っている間は、他の魔法が使えませんが……、仮に本当に幽霊だとか、怪物だった場合はどうすれば?」
 この言葉に、ウェールズも先ほどのコルベールのように声を上げて、ぶわっと汗を浮かび上がらせた。
「わ、わわわ、ど、どうする!どうすればいい!?」
「私に聞かれましても!ああああ、こんなことに気付かなければ良かった!」
 一気に混乱し始めたコルベールとウェールズを余所に、足音は着実に近付いてくる。
 ミツケタ。
 みつけた。
 見つけた。
 そこに居るのね?
 そこに居るんでしょう?
 ああ、やっと、やっと……。
「見つけた!!」
「うああああああああぁぁあぁぁぁっ!!?」
 道の先、暗がりからウェールズの光の元に人影が現れ、それと同時にコルベールとウェールズの口から悲鳴が上がる。位置悪く、及び腰だったウェールズは倒れているマチルダに足を取られて、後ろ向きに引っくり返っていた。
「いってえええええええぇぇぇぇぇぇ!!」
 倒れこんだウェールズが才人の上を転がって、傷口を思いっきり抉ってしまう。その刺激で才人が絶叫と共に眼を覚ました。
「ああっ、サイト!あなた、サイトでしょう!?……うう、ぐす。見つけた。やっと見つけたよう。散々迷って、一時はもう帰れないんじゃないかと……、うええぇん」
「え?なんだ?なんだよ?誰この人?なんで泣いてんだよ!?」
 幽霊の正体と思しき少女が、才人の姿を見つけるなり縋り付いて泣き始める。
 背中の痛みで目覚めたことも忘れて戸惑う才人を余所に、幽霊の正体が普通の人間であることを知ったウェールズとコルベールは落ち着いて状況を把握しだした。
「ミス・ジェシカ?まさか、ずっとこのモグラの穴の中を彷徨っていたのですか?」
「ぐず……、うん。そうだよ。真っ暗で、何にも見えなくて……、引き返そうにも、自分が何処に居るのか分からなくなっててさ……。口の中は苦いばっかりだし……。ホントに、このまま死んじゃうかと思って……」
 言っている間に暗闇に恐怖と一人ぼっちの寂しさを思い出したのか、ジェシカは再び泣き始める。額や手には擦り傷も多く、何も見えないまま彷徨い歩く間に何度も壁にぶつかったり転んだりと、散々な目に遭ったことが見て取れる。エルザに騙されて痛みが走るほどの苦い薬を口の中に残していたことも追い討ちをかけたようだ。泣きたくなるのも分からないでもない。
 とはいえ、モグラの穴で遭難死なんて、笑い話にもならないが。
「あー、よく分かんねえけど、大変だったんだなぁ」
「大変なんてもんじゃないわよ!こんなに泣いたのなんて久しぶりなんだから!こ、この、朴念仁ッ!唐変木!むっつりスケベ!」
 苦労を理解してくれない投げやりな言葉に怒ったのか、ジェシカの手が才人の体をバシバシ叩く。
 働き者で体をしっかり動かして鍛えてあるとはいえ、女の力だ。才人はそれほど苦痛に感じることもなく、それどころか、なんかこう新鮮な反応に頬を赤くした。
 が、ジェシカの手が才人の背中に触れた瞬間、そんなことは頭の中から吹っ飛んで激痛に悶絶することになった。背中の傷は、焼いて塞いだだけで完治なんて程遠い状態だということを忘れているようである。
「うんんぎゃあああああああぁぁぁぁぁぁあっ!」
「このっ!このっ!あんたがもうちょっと気を利かせて、シエスタに心配させないようにしていれば、こんなことになんて!!」
 顔面を真っ青にして苦しむ才人の姿も涙に霞んで、気付かぬままにジェシカは才人を叩く。
 誰かが止めない限り、才人が痛みでショック死するまで止まりそうに無かった。
「幽霊の正体見たり枯れ尾花。実際に見てみれば、こんな可憐な少女だったとはね」
「大騒ぎした自分たちが恥ずかしいですな」
 最初に幽霊などと言ったのは誰だったのか。冷静さを失っていた自分達を恥じて、ウェールズとコルベールは恥ずかしげに首の後ろを掻いた。
「うむ、まったく。しかし、問題が一つあるとすれば……」
 コルベールと視線を交わし、同じ見解に頷いた所で、ウェールズはコルベールと共に意識を気絶しているマチルダに向けた。
「彼女が真実を知れば、どうなるやら」
「血を見る可能性も、無きにしも非ずですな。早急に手を打ったほうが良さそうだ」
 勘違いで気絶などしたのだから、その気は無くても脅かしてしまったジェシカの処遇は大変なものとなるだろう。最近めっきり怒りっぽくなっていることも考えると、普通なら頬を抓る程度の折檻が、そのまま皮と肉を捻じ切る流血沙汰に発展してもおかしくはない。
 ついでに言えば、犠牲者はジェシカだけで済むなんて都合のいい話は無いだろう。散々大騒ぎをした事実は、ウェールズとコルベールの記憶にしっかりと残っている。事の真相を知ったマチルダが、恥ずかしい過去を抹消するべく二人を始末しようとするかもしれない。
 マチルダの怒りを抑る、たった一つの切り札。それを知るウェールズは、気絶中のマチルダを抱え上げて背負うと、力強く頷いて、泣きじゃくるジェシカや痛みに悶絶する才人に付いてくるようにと指示を出した。
「ティファニア嬢だけが僕等の希望だ……!彼女が眼を覚ます前に合流するぞ!」
 決戦の地に赴く勇者の顔でウェールズは歩き出す。
 巨乳の女神の微笑みを求める旅が、情けない理由と意外と切羽詰った精神状態で始まろうとしていた。

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