ゼロの奇妙な使い魔 まとめ

一章九節~使い魔はとりあえず前を向く~

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匿名ユーザー

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 頬をなぶる柔らかい風の感触で、リキエルは薄く目を開いた。
 左目が開かないことには、違和感も湧かなかった。どちらか片方が常時開かないことにはもう大分前から慣れている。しこたま殴られて潰れているのかもしれなかったが、だからといってドーダコーダとも、リキエルは思わなかった。
 ――空が目の前にあるな。
 一瞬そう思ってから、馬鹿なことを考えたと、リキエルは自分に向かって毒づいた。単に仰向けに倒れているだけだ。芝生のなめらかな手触りと、その下にある硬い地面の感触が、明確にそう告げてくる。
 ――三発目から先は……。
 覚えていない。リキエルは朦朧とした頭で、ことここに至るまでの経緯を思い出そうとしている。脳が記憶の整理をつけている過程を、覗き見るような感覚だった。
 視界が閉ざされ、直後に来た強い衝撃に頭蓋を揺らされ、意識を失った。しかしそれも一瞬のことで、直ぐにリキエルは、衝撃の余韻で明瞭な覚醒を得た。そして感じたのは、痛みかもしれなかった。
 かもしれないというのは、それを痛みといってよいのかわからないからだ。強い衝撃と、その衝撃を受けた部分の皮膚が沸騰したような感触は、どういったわけか、痛みとは明確に結びつかなかった。口の中でする鉄の味と、ぐらぐらになった奥歯が、かろうじて痛みの証といえるのかもしれない。つまりは、脳がそこから先を考えることを拒絶するほどの、激越な痛みということだろう。
 いずれにしても、リキエルがそれを自覚する間はなかった。続けざまにギーシュのゴーレムから、蹴りやら踏みつけやらをもらったのである。その三撃目をまた頭にうけ、リキエルは再び気を失った。そして目覚めてみれば、こうして仰向けに空を眺めている。
 リキエルは、身を起こそうと体に力をこめてみたが、右の肩が僅かにピクリと震えるだけだった。意識不明なまま、立ち上がれなくなるまでやられたということだろうか。意識を失う前と変らずに、その場に集まっている観衆の様子をうかがってみる。首も動かないようなので、目だけをぐるりとめぐらせた。
 焦点が合っているかは定かでなく、断言はできないが、誰も彼も呆然とした様子であるようにリキエルには見受けられた。そうするとやはり自分は、見る者が言葉を失うほどには悲惨な状態になっているようだなと、ぼんやり思った。そうなっていながら、痛みを感じていないことがやはり奇妙だった。
 ――奇妙といえば。
 バイクを運転して事故を起こし、そうと思えば異世界に飛ばされた。わけもわからず使い魔とやらになり、仕事をやらされる。その翌日には、挙句と言うには早すぎるほど突然に、メルヘンの代名詞ともいえる魔法で血なまぐさい暴力沙汰に身をさらされた。奇妙といえば、これほどそういった感覚にふさわしい事柄も、そう無いのではなかろうか。
 そんなことをリキエルは、うつらうつらとしながら考えている。信じられないことに、ともすればこのまま眠りこけてしまいそうになっていた。それは、また意識が途切れるということでもあったが、それでも構わないとリキエルは思った。このまま動かなければ、これ以上傷が増えることもないのだ。
 スッと意識が遠のこうとするのがわかる。リキエルはそれを心地よいものに感じた。人壁の一部が何やら言っているようだったが、どうでもよいことだ。ギーシュもぶつぶつと言っているが、聞き取れない。知ったことでもない。
 その声が耳に入ってきたのは、浮遊感にも似た、それでいて地面に頭からズブズブと沈み込むような、曖昧な感覚がリキエルを包み始めたときだった。
「違うでしょ!? そんな問題じゃないわよッ!」
 リキエルの目は、まぶたの裏にある暗闇ではなく、再び前面に広がる空を見た。ぼんやりとした頭に、ガソリンが注がれるようにして血が集まってくる。眠気は掻き消えていた。リキエルは、声のしたほうへ目を動かした。
 まず驚いた顔をしたギーシュが目に入った。と同時に、ふわふわと宙に浮いてこちらに向かってきていた剣が、力を失ったように地面に突き立つのも見えた。ギーシュが魔法で浮かせていたものらしかった。
 そして目の端から、桃色の頭髪が踊るようにして現れる。
 ルイズがこの場にいることを意外に思ったのは、視界に入れてからのほんの一瞬だけのことだった。気の強そうな、それでいてどこかあどけない感じの残る高い声は、殺伐とした空間には似つかわしくなかったが、ルイズそのものは、ここにあってなんら不思議な感じがしなかった。なんとはなしに、来るような気がしていたのかもしれない。
 ただ、その反面、なぜそうなるのかはわからないが、自分を庇うルイズの声を、リキエルは歯噛みするような気持ちで聞いた。
「……ちくしょう」
 強くもない風に混じって飛ばされてしまうほどの、弱弱しい呟きである。ひどく喉が渇いていて、自然と声が擦れて小さなものになっていた。
 倒れたまま、ルイズとギーシュの問答を見ていることしかできないのがどうにももどかしくなり、リキエルはまた動こうとしたが、右の腕と足、それと首が、かろうじて曲がる程度だった。
 それでも動くことを諦めず、ミミズが這うようにして、小刻みで器用な動きを繰り返し、リキエルはなんとか腰から上を半ばまで起こす。ギーシュの得意気でいけ好かない薄ら笑いと、俯いたルイズの姿が、ハッキリと確認できた。
 ルイズが顔を上げて、一歩前に出た。
「……わかった、わよ。こいつが、こいつが何かしたっていうなら……わ、わたしが、ああああ、あ、謝るわよ!」
 毅然とした態度に見えるがしかし、小刻みに震える声と握りこんだ拳には悔しさが滲んでいる。そして、そのまま口をつぐんだルイズからは、やはり隠れようもない悔しさの気配が感じ取れた。
「……!」
 自分の中で、何かが激しく動くような気配をリキエルは感じ取った。それと前後して、リキエルの胸のうちに様々なものが去来する。それらは記憶だった。ある一所に帰結する、記憶の断片である。
 まず思い浮かんだのは、教室でルイズが「諦める気はない」と言った時の眩暈と、ロングビルとの雑談の中で掴み損ねた感覚だった。今にして思えば、それは同一の感情であったことがリキエルにはわかる。
 それは憧れだった。それも、羨望に近い憧憬である。
 リキエルは、ずっと馬鹿にされ続けてきたというルイズの話を聞いたとき、パニックを起こすたびに心無い視線にさらされ続けた自分を、一瞬それに重ねた。重ねて、すぐに否定した。そうやって重ねることが、おこがましいことである気がした。
 リキエルは人生にまいり、足元に視線を落としたまま動けなくなった。生きる目的を失い停滞し、恐怖に煽られただ喚いていただけなのである。過去にも未来にも希望を持たず、穴倉のような絶望の中で、それを捜すことさえも怠っていたのだ。
 だがルイズは違う、とリキエルは思う。ルイズは諦めないと言った。嘲笑と侮蔑の囁きから逃げていなかった。むしろ、果敢に立ち向かう姿勢を貫いているように見えた。そんなルイズの姿勢を、リキエルは羨ましいと思ったのである。
 次に思い浮かぶのは、焦燥を伴う疑問だった。
 どこから生まれる。なんなんだ。この差は、この違いは。どうしてこいつは、ルイズは人生を諦めずにいられる。生きる目的を決められる。生きる希望を持てている。そうさせるものはなんなのだ。
 ――『血統』……それか? いや、そうなんだろうな。
 考えるまでもないことだった。ルイズが、本人がそう言ったのを、リキエルは鳶色の瞳の中で聞いていた。ルイズは、『血統』を誇りにしている。
 それは、リキエルにはおよびもつかないことだった。肉親、血縁、両親、親族、どの言葉もリキエルにはトラウマでしかないもので、教室でのパニックにしても、自分の『血統』を思い、そこから両親へと意識が繋がったことの結果である。
「……」
 そういった認識が今は少し、あるいはだいぶ変わっているようだった。
 リキエルは左肩を手で押さえた。その場所には、『星型のアザ』が生まれつきある。父親譲りの遺伝である。すなわち、血統の証だった。親のことを知らないリキエルだが、そのことにだけは奇妙な確信を持っていた。このアザのことを、普段リキエルは故意に忘れている。父親を思い出すことが、直接的にパニックへと繋がるからだ。
 それも今は違った。パニックに陥るどころか、血統のことを考えることで自分の精神が、細波すらたたない平静な湖面になっていくのがリキエルにはわかった。時折、小魚がそうするように嫌な想い出が跳ねるが、それもすぐ泡沫に消える。あの学年末試験の日以来、初めて自分は真正面から過去と対峙しているのだということが、リキエルにはわかった。
 そうさせるのは、ルイズの精神のあり方だった。どれだけ失敗を重ねても、そこに停滞することを嫌い、逃げ出すことを是としない前を向き続ける向上の精神が、リキエルと彼の過去とを向き合わせていた。リキエルの欠けた心の一片がそこにはあった。ルイズの誇りに、リキエルはあてられていた。
 その誇り高いルイズが今、頭を下げようとしている。二人の少女の心を傷つけ、あまつさえ、それを恥じることもなく他人にあたるような、太平楽なガキに謝罪しようと言っている。それも直接の理由はといえば、自分がこんな場所で『こんなこと』になっているせいなのだ。
 平静になった心が、沸き立つように震えるのを、リキエルははっきりと感じ取った。
 ――オレのために、こいつが頭を! 下げてはならないのだ! ギーシュ、あんな程度のやつ……! あんな見下げ果てるようなどうしようもないやつに、ルイズが、その精神が! 誇りが! 貶められてはならないのだッ!
 ルイズに頭を下げさせてはならない。その一念の下リキエルは、持ちうる限りの気力をことごとく死力に変えて、体の隅々まで行渡らせた。相変わらず動かない手と足を、歯を食いしばって強引に動かした。抜けかけた奥歯が歯茎に食い込んで、また口内に錆の味が広がっていく。
 リキエルはいくつかの小さな傷が開くのも気にせず、晴れ上がった左足が引き攣れる感覚さえ無視して身を起こし、ルイズに向かって腕を伸ばし、小柄な背に見合った、肉の薄い肩に手を置いた。その肩は、少しだけ震えているようだった。
 はじかれたように振り向いたルイズが、口を半開きにしたその顔のまま、痴呆のようにリキエルを見つめてくる。唾と生血の混じったものを嚥下して気道を広げてから、リキエルは歯をむき出すような、それこそ噛み付くような顔をして、ルイズを目だけで見返した。
「オレが……言うことじゃあないかもしれないがな、謝るんじゃあない。謝ってはいけないんだルイズ、お前は。こんな程度のヤツにはなァ……!」
 そう言ってリキエルは、左足をほとんど引きずるようにして、危うい足取りでノロノロと歩き、ギーシュの造りだした剣の前まで来て止まった。惰性で、軽く体が揺れる。左半身は本当にガタが来ているらしく、まっすぐに立つことさえもおぼつかなかった。
「だ、だめよッ」
 その背中を呆然と見送るだけのルイズだったが、酩酊したようなリキエルの動きを見て、そしてその動きの意図を察して、夢から覚めるように我に返った。
 駆け寄って、ルイズはリキエルの右腕に組み付き、引き止める。傷を気遣って、ルイズは軽い力でそうしたつもりだったが、リキエルの身体は情けないほど簡単に、ぐらりと右側に傾いた。ルイズは慌てて、今度は支えるようにしてリキエルの腕を掴んだ。
「だめ! 絶対だめなんだから! それを握ったら、ギーシュは容赦しないわ! へたすれば本当に死んじゃうわよ!? 立てるなら、話せるんだったら謝るのよ! それは恥にはならないわ、メイジに勝てる平民なんていないの! あんたはよく頑張ったわよ!」
「…………」
 確かにリキエルが頭を下げれば、つまりこの場でいう、土下座も命乞いも厭わなければ、万事がそれに収まるかもしれなかった。それが、ギーシュの設けた決闘の決着であり、唯一の満足感でもあるからだ。
 リキエルはそういったことに伴う強烈な屈辱や、降りかかってくる侮蔑も、身の危険の前では忘れるべきだと思っていた。つまらない意地を張って大怪我を負うくらいなら、その、特に強くもない安いプライドを切り売りして、保身に繋げる方がいい。諦めと逃避が身を守ることも、確かにあることだと思っていたのだ。
 自分には何もないのだと、どうしようもないのだと、リキエルはそうして、本質的な問題からはずっと逃げてきた。繋がる先のない、無意味な逃避である。
 ――笑われるのがいやで、学校から逃げ出した。自動車の運転にしてもなんにしても『まぶたが落ちる理由』! そこから目をそらすための方便だッ。それで失敗したりして、二言目には「なんの力もない」って言ってなァ~~。
 それは、誇りや希望を知らなかったからだとリキエルは思う。誇りを持つことなど、できるはずもないと思っていたからこそ、希望の無い人生を延々送ってきたからこそ、そうやって逃げることも諦めることもできたのだ。
 これもやはり、今は違う。穴倉の中で、リキエルは希望を見つけていた。それはごく間近にあるようで実際はとても遠く、手を伸ばしてもまるで届きそうになかったが、当然である。
 動かない、動こうとしない人間が何かにたどり着くことが、何かを手にすることがあるわけもない。ましてや絶望に顔をうずめ、不安に身を突っ伏して、肝心なものに目を向けずに来た自分が希望を手にするなど、それこそおこがましいことだ。
 動かなくてはならない。リキエルはそう思った。いつになるとも知れないが、今のように地を踏みしめて立ち上がり、希望を掴み取って、この穴倉から出なくてはならない。成長しなくてはならない。
 そのためには、ここで退くわけにはいかなかった。今また逃げをうてば、もう二度とこの場所には戻って来られないだろう。前を見なければ、欠けた心のままで一生を生きていくことになるだろう。そんな気がした。
「勝てるだとか、恥がどうとか、そういうことじゃあないんだ。自分でもよくはわからないが、瀬戸際だ。後ろを向くだけで足を踏み外して、崖下に落ち込むような瀬戸際だ」
「わけわからないわよ! 何を言ってるの!?」
「だが、わかったこともある。オレにはなんの力もない。それはオレが一番よく知っていることだ。そうやっていつも喚いていたんだからな、喚いていただけだったんだからなッ! ……それが今わかったのだ。そうやって下ばかり向いていたんじゃあ、結局は自分で目を閉じているだけなんだってことが、いま理解できたッ!」
 ルイズの顔から目を外してそう叫ぶと、リキエルは代わりにグググと視線を移し、ギーシュの顔を睨みつけた。その突然の気勢に圧される形で、リキエルの腕に絡みついていたルイズは、驚いたように拘束を緩めた。
 真正面からリキエルの視線を受け止めるギーシュも、それは同じだった。ただ、ギーシュの場合は気圧されるどころではなく、自分でしたこととはいえ、目を背けたくなるほどにボロボロの人間が、この段に来て唐突に息を増して啖呵を切る異様さも手伝って、背には絶えず怖気が走っている。
 気の抜けたように力なく腕にかかるだけになった、ルイズの痩せた細い指をやんわり外して、リキエルはギーシュを睨みつけたまま、今となっては体の中で一番しっかり動く右腕で、目の前に突き立っている剣を引き抜いた。

◆ ◆ ◆

 セコイア造りのテーブルの上でナッツをかじる、小さな自分の使い魔を横目に、オスマン氏は水ギセルをぷかぷかやっていた。ときどき世をはかなんだような顔になりながら、鼻毛を抜きにかかったりもしている。
 身を投げ出すようにして椅子に腰掛けた姿は、なにごとか思案する風情があるようにも見え、あるいは、ぼんやりと暇を持て余しているようでもあった。鼻毛など抜いているあたり、少なくとも忙しくはないらしかった。
 そんな鼻毛抜きにも飽きたのか、オスマン氏は水ギセルを咥えたまま、難しい顔で目を閉じて、軽く嘆息した。やはり、ただ暇を潰していたというわけでもないようである。
「……ふむ?」
 ナッツがかじられる、かりかりという音がなくなったことに気づき、オスマン氏は目を開けて机の上を見やった。
 使い魔のハツカネズミ、モートソグニルは、満腹になったからか、春の陽気にあてられたのか、無防備に腹などさらして寝転がっていた。その足元には、食べきれなかったらしいナッツが二つだけ残っている。それを手に取り、口に放り込んで咀嚼しながら、オスマン氏はモートソグニルをそっとすくい上げ、自分の服の袖の内に入れた。
 丁度そのとき、ドアノブのまわる音がして、不機嫌そうに眉をしかめたコルベールが入ってきた。
「おおミスタ、ええと…………ご苦労じゃったな」
「コルベールです! 日になんども自己紹介をするような趣味は私にはありませんのでッ、いい加減にしていただけるとよいのですが!」
「まあまあ、落ち着きなさい。いい歳した大人がそうがなりたてることもなかろうに。君はこの部屋に来るときはいつも威勢がいいんじゃな」
「使用人でもないのに配膳の上げ下げなどさせられては、怒鳴りたくもなります!」
 オスマン氏はそっぽを向いて、ボケた振りを始めた。
 例の『伝説の使い魔』についての話をするにあたって、昼食は後回しなどと言っていたオスマン氏だったが、結局は空腹に抗いきれなかった。熱を持った舌で語られるコルベールの講釈を、昼休みが始まった途端、やれ胃が鳴いているだの背に腹が替わってしまうだのと、聞こえよがしに言ってぶつ切りにし、中断せしめたのである。
 問題はそのあとだった。学院長室を動くのをおっくうがったのか、オスマン氏はコルベールに食事を運ぶよう頼んだ。それも「運んでくれなきゃ話は聞かんから」という、子供顔負けの我侭論法を使ったのだ。
 これには温厚なコルベールも腹を据えかねたが、ガンダールヴについての説明は終わっておらず、しぶしぶ承諾した次第だった。そしてその不満が、今噴出していた。
「ボケた振りなどなさっても無駄ですッ。都合が悪くなるたびにそうすることはわかってるんだ!というよりオールド・オスマン、こんな方法でワガママを通してあなたは子供ですか!」
「しかしじゃな、腹が減ってはなんとやらとも言うではな――」
「言い訳はけっこうです! 私が言っていることはですな、なぜ話を中断させられた上に食事運びまでさせられねばならないのかという……聞いているのですか! オールド・オスマン!」
 半分くらいは聞いておる、と心のうちで弁解しながら、オスマン氏は再度ボケた振りを始めた。コルベールのお小言が終わるまでは続ける腹積もりである。
 そうして、不毛な膠着の気配が濃くなってきたあたりで、ドアがノックされた。いささか激しい勢いで、用件はそう軽いものでもなさそうだと、オスマン氏とコルベールは顔を見合わせた。
「オールド・オスマン、よろしいでしょうか」
 扉の向こうから聞こえてきたのは、普段に比べてもいくらか固いロングビルの声だった。奇しくも、昼前のやりとりとは正反対の状況が出来あがっている。
 オスマン氏が聞き返した。
「なんじゃ?」
「ヴェストリの広場で、生徒による決闘が行われています」
「まったく、子供は力があり余っとる間は碌なことをせんな。で、誰が暴れておるんだね?」
「一人は、ギーシュ・ド・グラモン。その相手ですが、メイジではありません。ミス・ヴァリエールの召喚した……使い魔の男です」
 室内の二人は、また顔を見合わせた。件の『ガンダールヴ』が決闘をするとなれば、捨て置ける類の話ではない。生徒の決闘と聞いて、ほんの一瞬生じた気の緩みが、また瞬時に引き締まるのを、二人は感じたようだった。
 平静を装った声で、オスマン氏は返した。
「グラモンとこのバカ息子か、おおかた女の子がらみのいざこざといったところかの。じゃが、それがどうしたのかね? その程度の問題であれば、教師がちょいと杖を振ればカタがつくとしたものじゃろうて」
「それが、大騒ぎになっているようで、生徒による妨害も予測されています。教師たちは『眠りの鐘』の使用許可をと」
「アホか、たかが子供のケンカで秘宝を使うなどと。放っておきなさい。いざとなれば、それこそ杖を振れば事足りる」
「……わかりました」
 規則的でよどみのない足音が遠ざかっていくのを聞きながら、オスマン氏は浅く椅子に腰掛けた。そのしぶくなっている顔に、コルベールが緊張した面持ちで視線を流す。オスマン氏は、わかっているというふうに手で返事をして、懐から杖を取り出した。杖が部屋の鏡に向けて振るわれると、鏡面にヴェストリの広場が浮かび上がった。
 鏡からうかがえる広場の様子に、コルベールは息を飲んだ。
 予想以上に多くの生徒が広場に集まっていたこともそうだが、なによりも使い魔の男のありさまに閉口していた。男はミス・ヴァリエールに支えられているようだが、それでも立っていられるような状態には見えなかった。どころか、あれは通常ならば意識を保つことすらできないほどの、下手を打てば致命傷にもなり得る手傷ではないのか。
「オールド・オスマン、これは!」
「……むぅ」
「このままではあの平民、手遅れになりますぞ。私が行って、止めてきます」
「そうじゃな、頼まれてくれるか……いや、ミスタ・コルベール!」
 早くも杖を取り出し、ドアノブをまわしていたコルベールだったが、声を荒げたオスマン氏に驚き振り向いた。そして、なにごとかと鏡に目をやって、また息を飲んだ。

◆ ◆ ◆

 安く荒い布を擦り合わせるような、微かな音がしている。地面を浅くえぐりながら引きずられる、剣の切っ先から生まれた音である。それは常の姿を取り戻した広場の静寂に、薄く広く染み込んでいく。静かな中に、剣先が小石を散らす音がときどき混じり、その一瞬だけはほんの少し空気が震えた。
 ――体が……。
 軽くなった気がする。リキエルはそう思った。痛みこそないものの、強烈なだるさで使い物にならなかった四肢に、うまく力が入るようになっていた。ただ、数瞬でも気を抜けばその力も抜けていく。折も折で緩みそうになった腕に力を入れなおし、リキエルは剣を握り締めた。
 剣を引き抜いたのは、それで闘おうと思ったからではなかった。まともに振り回したことのある凶器はといえば、野球のバットくらいのもので、刀剣などと使えもしない武器ならば、いっそ心許ない自分の歩みのために、杖にしようと思ったまでだ。今はギーシュのところまで歩きとおせれば、それでよかった。
 歩きとおして、殴るのか蹴りつけるのか噛みつくのかは、三の次四の次だった。歩きとおせるのかどうかも、実はどうでもよいのかもしれなかった。逃げずにいられる最も単純な方法が、進むことだというだけなのである。
 そういった心積もりでいるので、この体の状態はリキエルには都合がいい。これが噂の、アドレナリンによる交感神経の興奮かと、リキエルは埒もなく感心した。
 ――言いえて妙ってやつだなァ~『闘争か、或いは逃走か』のホルモンだったよな?
 ただ、そうやって物思いに耽っているのは、頭の片隅のどこかにあるごく小さな場所だけで、リキエルの意識の大部分は、やはりギーシュへと向いている。
 10メートル程だろうと、リキエルは自分とギーシュとの距離を目算で測っている。この距離を詰めるのだと改めて思うと、リキエルの気持ちは妙に昂ぶり、足運びもにわかに力強くなった。ゴールを間近にした、競走馬の心境に近かいものがある。
「こんな程度とはご挨拶だったな、君。だがいくら威勢のいい口を利いたところで、君はそんな状態だ。手負いの獣は危険というけれど、本当に危険なのは手負いにしたと思い込む油断だと思うね。僕は油断しない」
 杖を振って、三体のゴーレムを自身の前に展開させながらギーシュが言った。言葉と裏腹に、余裕のない声だった。うっ血や出血、打撲に骨折でボロボロの人間が片足をひきずりながら、にも関らず普通の人間と変わらない勢いで歩いてくる姿が、ギーシュの余裕や気勢を萎えさせていた。やりすぎたかもしれないという気が、今さらながらしてきたようでもある。
 それでもどうにか気を張って、いつでもゴーレムを突撃させられるよう備えながら、ギーシュはリキエルに呼びかける。
「だから、ここいらでやはり手を打とうじゃないか。僕は殺すまでするつもりはないんだ」
「…………」
「君はルイズの使い魔でもあるしね、最後のチャンスだ。今、ちゃんと謝れば――」
「説得しているつもりか? それなら無駄だな、冷蔵庫の扉開けっ放しにするのより無駄なことだ」
「……なんだって?」
「引くつもりはないと言ってるんだ。お前だって、わざわざ止まらなくていいぞ。無駄なんだからな、そんな人形を何体出そうと、どんな魔法を使おうとよぉ~~っ」
 いったい単純な性格をしているギーシュは、自分の魔法を揶揄した言葉を受けて、簡単に怒りを露にした。意識的に偉ぶらせた顔に、みるみる朱が差していく。
 ギーシュは肩を怒らせて杖を振り上げると、乱暴に振り下ろした。薔薇の造花の残った花弁が全て散り、丁度そのとき吹いた久しぶりの風で、数枚が飛ばされていった。落ちた花弁は、うち四枚が青銅のゴーレムに変わった。七体のゴーレムが、ギーシュの全力である。
 十歩ほど後ろに下がると、一体だけそばに置いて、ギーシュは無言で六体のゴーレムをリキエルに差し向ける。一度萎え落ちた気勢が、闘争心とともに戻ってくるのを、ギーシュは実感していた。
 気勢は怒りが運んできたもので、闘争心は失われかけた余裕が変じたものらしかった。本気で「決闘」をする気になっている自分に、ギーシュは疑問を抱かなかった。
 闘いの空気とでもいえばいいのか、異様な緊張感が、霧のようにヴェストリの広場を包み込んだ。重く張り詰めた空気は静寂を塗りつぶし、ギーシュとリキエルに纏わりつく。
 二人を中心に、さらに重苦しい空気ができあがる。二つの空気が、しだいに近づき合いぶつかり合い、音を立てて震えるのを、周囲の生徒たちは聞いた気がした。
 ――時間はないぞ。
 冷静にゴーレムの動きを観察しながら、リキエルは思った。
 痛みこそないが、体中の傷が消えたわけではなく、軽くなったものの、根本的に動かない部位も多かった。左足などは重心をかけすぎると、体重を支えきれなくなって予想以上に体が沈んでいく。遠からず動かなくなるだろう。そうなれば、進めなくなる。
 いま突然に勢いを増して突っ込んできたゴーレムよりも、緩やかに迫ってくるその後続などよりも何よりも、リキエルには止まることが怖かった。どんな魔法も無駄とは、そういうことだ。歩みを止める全てのものが、今のリキエルには無駄だった。
 ――どけなきゃあいけないよなァ……。路上の上に避けて通れない犬のクソが転がってるのなら、そんな邪魔で無駄なものは、どけなきゃあならないよなァアアアアアッ!
 荒い動きで、リキエルは地を蹴った。先頭のゴーレムとの間がするすると縮まって、青銅でできた無機質な顔と、無残に崩れた血まみれの顔が、触れ合うかというほど近づく。
 ゴーレムが伸び上がって上体を反らし、そこから拳を打ち下ろした。落ちかかってくる一打を、リキエルは瞬きもせずに凝視した。ゴーレムの指の一本一本が確認できて、中指の先だけ色がくすんでいるのも、小指と人差し指の大きさが同じであることもはっきりと見て取れた。
 ――ギーシュ、お前の所へ行くぞ、もっと近づくからな。
 寸前にゴーレムの拳が迫るのを認めてから、リキエルは体をひねって、殴りつけるようにして腕を振るった。実際に殴り飛ばしてやるという気で、肘から先だけで放った無造作な一剣である。
 あえて後手に回ったのは、格別の意味があってのことではなく、かといって心にゆとりがあったわけでもなく、後に攻めても先に打ち込んでも変わらないという、確信めいたものがあるためだった。存分に力を篭めるためだけに、リキエルは後手に回ったのである。少なくとも、後の先の剣といった華麗な動きではなかった。
「無駄ァ!」
 そんな出鱈目で足配りも構えもない無法な一撃が、ゴーレムの胴から上をさらっていった。
 これを見、ギーシュは肝を冷やしたが、広場の人間の口々からは、おおという喚声が上がった。形といわず迫力といわず、割れた鏡のように鋭利な緊張の中にありながら、思わず人が見惚れるほどに鮮やかな一撃を、リキエルはわれ知らず放っていた。
 そこからは見事の一言で、見る間に二体のゴーレムをやはり肘から先だけでなぎ払い、それで開けた空間を無理に縫って、リキエルは身体を右に傾ける姿勢で半楕円を描いてギーシュに殺到した。そうしたほうが走るのに楽で、つまりは左足が、いよいよ危ないのだ。
「グッ! ゥウウウ……!」
 と、その左足が何かに強く払われた。咄嗟に見れば、ゴーレムの腕だけが地面から生えていて、それが足を殴りつけたものらしい。ちょうど右足を軸に踏み込むところだったリキエルの身体は、前のめりに傾いでいく。ほとんど目と鼻の先で、ギーシュが喚いている。
「油断はしないと言ったんだ! 僕は余計に花弁を落としたわけじゃあはないぞ。まさかとは思っていたが、君がここまで来たときの保険だったんだ! 少し観察していればわかるが、その左足の負傷では、一度倒れればもう立てないだろうしな!」
 真実その通りだった。リキエルの目の前にあと一体、ゴーレムが控えている。
 リキエルがこれまでのゴーレムを捌けていたのは、進む勢いと踏み込みがあったからで、あとは単純な力技だった。その力技も、握力が少しづつ抜けてきているのがわかり、そう続くものでもないと悟ったからこそ、リキエルは数体のゴーレムを無視してでもギーシュに迫ったのである。倒れれば、勢いも乗せられなければまともに剣も振れなくなる。先ほどのように眼前のゴーレムに叩き伏せられて、終わる。
 運よく控えたゴーレムを除けたとしても、残したゴーレムが追いつく。そうなれば、もう勝負はつく。誰の目にもそれは明らかだった。
 しかしリキエルの見ていたものは、違った。顔にはただ静かなだけの色があって、固く微動だにしない意志があらわれていた。
 首を傾けて、リキエルは呟いた。
「動物は走るとき、後ろに残す足で地を蹴って、一瞬だけ跳んでいるよな。特に二足歩行の人間なんかはな。跳躍力を大きな推進力にして、前に進んでいるのだ」
「なにを言い出すんだね?」
 聞きとがめたギーシュは、心底いぶかしく思って聞き返す。
「倒れかけで、進むも何もないだろうに」
「そしてその跳躍力を跳ぶためだけに使って、人間は色々なスポーツ競技を行う。例えば走り高跳びだ。キューバのソトマヨルは、史上初の8フィート越えで圧倒的な世界記録を作ったッ」
「イカレちまったのか? いや、これは……ッ」
 よくよくリキエルを見返して、ギーシュは気づいた。リキエルは、倒れるに任せて倒れているのではなかった。足を曲げて、自分から体を沈めていた。ギーシュはそんな場合でもないだろうに、尻尾だけで跳ね上がる蛇の姿を連想した。
 蛇が目を剥いて、ギーシュの顔をまた睨む。
「どんな方法でもとるぞ、進むためならばどんなこともだ! 今のオレにはそれができる!」
 狂ったように叫びながら、リキエルはまたぎ跳びに跳躍した。
「何をヲヲヲヲヲ!?」
 無茶で、無理な跳び方だった。踏み切りも空中での姿勢も、およそ競技者のそれとは比べ物にならない不恰好である。だが、跳躍の軌道は間違いなくゴーレムの頭上を飛び越えていて、そのまま行けば、ギーシュに直撃するものと思われた。
 大怪我人の動きではまるでなかった、常識はずれのその動きに、観衆は何度目とも知れないどよめきを発した。どよめきのなかにはギーシュの敗北を予感し、リキエルの勝利を予見し、そのことに二重の意味で嘆ずる色もあった。
 リキエルの跳躍は最高位に達し、広場の興奮も最高潮に達した。そのためか皆が皆、まるで時が止まったような感覚に陥り、リキエルやギーシュの姿も、完全に静止したように目に映った。そしてそれは、あながち皆の錯覚でもないようだった。
 リキエルは本当に止まっていた。だらりと腕を下げた格好で、空中に静止している。懸崖から打ち下ろされるはずだった必殺の剣は、力なく揺れるだけで、光を返すことさえない。
「なん、なんとか……なんとかだが、まにあったぞ」
 あとじさって、どもりながら言ったのはギーシュである。突き出した杖は微かに震えていたが、杖の先は、リキエルに向いたまま動かなかった。ギーシュは大きく息を吐いて、ある程度整えてから続けた。声には、隠しようもない安堵があった。
「そんな怪我で、しかも片足だけで、あまつさえ僕のワルキューレを跳び越えるような動きをするとはね、焦ったよ。この『レビテーション』にしたって、正直まぐれだった」
「……」
「だが、止まったな。君の負けだ、参ったと言うんだ。ここまでメイジを追い詰めたことへの敬意もある、やはり殺すまではしたくない。僕は十二分に気が済んだ」
「……右腕がよぉ~、肩より上がらないんだ。最初にこの剣振った時に気づいたんだがな。だから腕だけで剣を使ったんだが、筋肉まで駄目になったらしい。指とかの感覚もなくなってきた」
 どこを見ているのかよくわからない顔で、誰に言っているでもないような態度で、リキエルはとりとめもないことを言っていた。その声に諦めや観念の気配がまるでないことを察して、ギーシュは眉をひそめた。そして急に顔を引き締めると、下ろしかけていた杖をまた突き出した。勝利を確信していて、意識することをついやめていたが、場の空気がまだどこか張り詰めた感じを残しているのに、ギーシュは気づいたのだった。
 一度ため息をつくような顔をしてから、リキエルがギーシュに顔を向けた。見下ろされる形になったギーシュは、そこに異様なものを見た。だいぶわかりにくいが、リキエルは皮肉るような顔で微笑んでいた。
「肘から上だったら、左腕のほうが動くくらいなんだ。……ところでこの魔法は、さっきも使っていた魔法だよなギーシュ? だよな? この剣を浮かせていた魔法だろ?」
「そのとおりだ……でもそれがなんだって言うんだい?」
 なぜこんなことをリキエルが聞いてくるのか、ギーシュにはわからなかった。
 二人の距離は近いが、剣が届くような場所に立つほどギーシュも間抜けではなく、そのためにあとじさっておいた。肩が上がらず、剣を握るのがやっとというリキエルの言葉に嘘がなければ、剣を投げて飛ばすことも難しいはずで、その気配があっても、レビテーションでさらに浮かせて狙いを外させればよかった。リキエルに、この状況で何ができるのかわからない。『何をしだすか』わからないのだ。
 肘から先がいやな形に曲がった左腕を掲げ上げ、その手のひらが空を向くように上腕と肩をひねりながら、リキエルが不適に言った。
「寝転がってる間に、ひとつ見つけていた。その魔法の特徴を、決定的な特徴をなァ~」
「特徴だって? 弱点ならわかるが……君、何をしてるんだ?」
 夢見るような顔になったリキエルに、ギーシュは問いかけた。リキエルは左腕の手首に、剣の腹を押し当てていた。
「『集中する』ってことは本当に大切だよな。この魔法は、集中して使わないと効果が切れるんだろ? 剣がオレのそばに突き立ったとき、お前は動揺していたな」
「質問に質問で返すなァ――! 何をしているのかと聞いてるんだッ」
「集中を乱しかけたな……。勘の悪いお前はわからないようだな……。この剣を見ても、オレがどんな行動を起こすか見当もつかないらしいな!」
 言い終えるより先にリキエルは行動していた。手首に当てていた剣の刃を立て、真横に素早く引き切る。なんのことはない、単純な動作だった。
 次の瞬間、その所作に目を見開いたギーシュの視界が、赤一色に染まった。
「わ!」という声とともに、ギーシュは目を閉じ、顔を押さえた。ぬらりと気味の悪い感触が指先にして、慌てて目を開けようとすると、その気味の悪いものが目に入ってくる。驚いて杖を取り落としそうになるのをどうにかこらえた。
 目の痛みと怖気で、ギーシュはパニックになりかける。
 ――目を開けたい! なんだこれは。手の感触をぬぐいたい! この水みたいな感触は。ハンカチを出さないと! この鉄みたいな臭いは。どのポケットに入れたっけ!? まさか血か!? 目を開けさせてくれ! 血の目潰しだって!? レビテーションが! 正気の沙汰じゃないぞ! 解けてしまった!
「突然目が見えなくなるのは、怖いよなァ」
 聞こえてきた声と草を踏みしめる音は、浴びせかけられる冷水のようで、ギーシュの頭は一瞬でさえ渡った。パニックになっている場合ではないと思った。目の周りで固まりはじめている血を、シャツの袖でぐいとぬぐった。
 目を向ければ、大きく胸を喘がせたリキエルが佇んでいた。左手首からは止め処もなく血が流れ落ちている。顔色はいったいに蒼白で、死相というべきものがあらわれていたが、その表情はギーシュがこれまで見てきた人間の中の、誰よりも生き生きとしたものだった。
 のどを鳴らして唾を飲み込み、ギーシュは身を硬くしたが、リキエルに杖を突きつけることはしなかった。静かな空気が、今度こそ勝負のついたことを告げていた。
「『ここまで』近づいた。……だが、人間ってのは限界があるなぁ。どうやら『ここまで』だ。もう指の一本も動かせないんだ……」
 リキエルは無手だった。剣は足元に転がっていた。
 満足そうな顔で、リキエルは言った。
「『敗北』……だ……オレの」


 よろめきもせず、リキエルは仰向けに倒れた。襤褸切れのようになって横たわる体を、昼下がりの春日が照らした。
 負けたことへの抵抗や屈辱といったものが、不思議なほどわかないことにリキエルは気づいている。これで終わりかと思うと、少しだけ寂しいような感じがしたが、それも感じる端から、大きな満足感のようなものに飲まれていった。
 ――空が目の前にある。
 リキエルはふとまた思った。奇妙なことに、今度はそれに納得がいった。
 目をしばたくと、その理由がわかった気がした。目が、両目とも開いていた。それはなにも初めてのことではない。ごくごくまれなことで、ほんの少しの間だけだが、そうなることはあった。ただ、意識してまぶたが上がることはなかったのである。
 ――それが……。
 今は自分の意志で上がる。今に限られたことなのかもしれないが、リキエルにはそれでもうれしかった。できることなら、ずっと目を見開いていたいくらいだ。しかしそう都合よくいかないことは、リキエル自身わかっていた。
 体が熱くなって、意識が朦朧としてくる。五体を襲うその灼熱の感覚は、日の光によるものではなく、痛みが戻ってきたものだった。
 視界が一瞬だけ明瞭になって、すぐにぼやける。痛みが次第に薄れていって、代わりに、叩きつけるような眠気が意識を抑え込んでくる。
 桃色のブロンドが視界に入ったときには、既にリキエルの意識は途絶えていた。


……リキエル(ゼロのルイズの使い魔)
全身の打撲といくつかの複雑骨折、および頭蓋骨陥没や失血等々により
――再起不能

 TO BE CONTINUED


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