ゼロの奇妙な使い魔 まとめ

一章六節 ~使い魔は千鳥足を踏む~

最終更新:

匿名ユーザー

- view
だれでも歓迎! 編集
一章六節 ~使い魔は千鳥足を踏む~

 適度に間隔を開けて連なる窓から投げ込まれる日の光は、気だるさの漂う冷たい石の廊下に、ゆるゆるとした温もりを与えていた。昨日と同じでよく晴れた青い空は、悠々広がって澄み渡り、霞一つない。
 リキエルはミス・ロングビルの後ろについて歩きながら、窓の外を、茫洋たる空を眺めている。フロリダの空も意味なく見上げてしまうほどに大きかったが、この世界の穏やかに広がる青空にも、不思議と目を引き付けるものがあった。
 今二人が歩いているのは、リキエルとルイズが教室に行くために通った廊下とは違う、あまり生徒達が使わない狭い通路である。こちらの方が、食堂へは近いのだという。空腹感が異様に高まっているリキエルにとっては、ありがたいことだった。
 しばらくして、連なった窓が途切れる。と思えば外に出た。柔い風があった。
 と、目の端で動くものにリキエルは気づく。その場所は少し遠く、どうやら広場になっているようで開けていた。
 目を細めてみて、リキエルは驚いた。塔の影になって見えづらいが、そこには、およそこの世のものとも思えない光景が広がっていたのである。考えてみれば、ここはリキエルのいた場所とは常識が全く異なるのだから、その眺めも当然といえば当然なのだろうが、まだ耐性のつききっていないリキエルにはそうも言えなかった。
 電柱ほどもある太い大蛇が、血の滴り落ちるほどに新鮮な餌を丸呑みにしていた。かなりショッキングである。
 蛸足つきの妙齢女性と、角の生えた人っぽいなにかが険悪に睨み合っていた。三流シネマチックである。蛸足の方は授業でも見かけたが。
 テレビなどで紹介されていた想像図よりも、よほど難解不可思議な格好のUMA達が寝そべっていた。なんとも感無量である。
 二昔ほど前のサーカスの出し物のような、リアルな胡散臭さがそこには存在し、否定しようもない現実感も、その空間に同居しているのだった。
「う、ぉ……」
「なにか?」
 リキエルは思わず声を上げ、それに一拍遅れてロングビルが振り向いた。
「いや、デカルチャーというか、仰天の異文化圏というのか、あまりお目にかかったことがないもんで。ああいった生き物には」
「使い魔たちですか。確かにあそこにいるのは皆、人里には訪れないものばかりだから、驚くのも無理ありませんわね」
 リキエルの隣に立ち、それらを見やったロングビルは、軽くうなずいてそう言った。それから、横目でちらりとリキエルに目配せし、ゆったりと歩き出す。リキエルもそれに倣った。
「授業に見たやつらで、全部ではなかったわけか。まあ仕方がないよなァ、あんなにでかいんじゃあな」
「ああ見えても、そう力の強いものはいませんわ。勿論、人間が素手で立ち向かうには手に余るものばかりだけど。中の上といったところかしら」
「くくれば中ほどだって? ……あれが?」
「単純な膂力以外にも、魔力の有無といったものがありますから。竜のように強力な幻獣を使い魔に、ともなれば、相当な実力を持ったメイジということになりますわ」
「相当……」
 ロングビルの言うところによれば、使い魔の力はメイジの実力に比例するということである。となれば、やはり何の力もない人間を呼び出したルイズは、ゼロを言い過ぎとしても、決して優秀とはいえないのだろう。
 ――熱心では……。
 あるみたいなんだがなァ。授業での態度を間近で見ていれば、それがよくわかった。
 ふとリキエルの脳裏に、人知れず努力し杖を振るい、その度に爆発を起こして唇をかみ締める、桃色髪の少女の幼い後姿が浮かんだ。リキエルにはそれが、自分の単なる想像とは思えなかった。閉じられた右目のまぶたの裏には、同じ少女が椅子に座り込み、うなだれている姿が残っている。そうしながらも、決して諦めないと言った声は、まだ耳の奥で響いているようでもある。
 それらの姿は、自分の中の何かを呼び起こそうとしているように、リキエルには感じられた。同じものを、掃除の時やパニックを起こしていたときにも、一瞬だけ感じた気がする。それは憐憫の情や侮蔑的なものではなく、奇妙なことだったが、一種の…………。
 ――なんだったか。
 そこから先が詰まる。その感情の記憶は、脳に刻まれた皺の隙間にでも吸い込まれてしまったのか、思い出そうとすればするほど、掴みどころなく離れていくのだった。犬歯と前歯の間にニラが挟まったような、手袋の薬指の場所に小指まで突っ込んでしまったような、その気になればすぐにも解消できそうなもどかしさは、その感情が決して無意味なものではなかったことを告げてくるのだが。
「どうかなさいましたか?」
 ロングビルの声は、静かだがよく通る。リキエルは慌てて前を向いた。思考にのめり込むあまり、周りを見ていなかったらしい。
「は……ええとなんだったか、すいません。聞いていなかった」
「いえ、難しい顔をしてらっしゃったので」
 微笑むわけでもなかったが、穏やかな表情でロングビルは言い、また歩き出した。
「……」
 リキエルは、五歩ほど遅れてロングビルに続いた。そこで、今までの思考がどこかへ失せてしまっていることに気づく。必死になって掴み取ろうとしていた何かを、指の先が引っかかった途端に取りこぼしてしまったような、強い喪失感をリキエルは感じた。試しに頭を二、三度ぐらぐらと振ってみたが、それでどうにかなるわけもない。
 なんら落ち度の無いロングビルを責めるわけにもいかず、リキエルは憮然とした気持ちになって、溜息をつく代わりに、自分のこめかみに人差し指を当てた。


 もうしばらく歩いて、本塔の入り口が見えてきた頃、強い風が吹いた。腐ち草が舞い上がり、しばらく渦を巻いてから散り散りになる。気を抜けば、よろけてしまいそうになるほどの風だった。ロングビルは咄嗟に、その長い髪を左手でおさえたが、おさえきれるものでもなく、乱れ髪となってしまう。
「……」
 軽く嘆息し、手櫛で髪を梳くロングビルを、リキエルはぼんやりと見つめた。といっても、見とれているわけではなかった。ロングビルを美人だとは思うが、それで露骨な視線を投げるほど、リキエルは不躾な人間ではない。
 リキエルはロングビルに、少し前からちょっとした違和感を抱いている。それがなんなのか、手探りをしているのだった。そしてその違和感の正体が、今わかったのである。
 ――どうしてこの秘書さんは、オレを助けたんだ?
 ミス、あるいはミセス・ロングビルは恐らくメイジだろう。生徒達や吹っ飛ばされたシュヴルーズ同様、マントを羽織っているし、腰に杖らしきものが差してあるのも見た。
 こちらの世界で貴族がかなりの幅を利かせていることはわかっており、自分――平民の扱いが粗雑であることも既に明らかだ。ルイズの態度が殊更にそれを強調するようだったので、わかりやすい。
 ――だっていうのに。
 メイジであるロングビルは自分を気に掛けた。こんなことは初めてだった。
 パニックを起こせば、周りの人間は嘲笑うか避けるかで、介抱は大袈裟にしても、声をかけ、真摯な態度で接してくれた者など皆無である。あまつさえ、人を呼んでくれる者さえなかった。リキエルが人生にまいってしまった理由の一端は、ここにもある。
 あった、といった方がいい。今のリキエルは、そのあたりのことに関して、少しだけ見方を転換させている。転換の切欠は、ミス・ロングビルだ。
 メイジや平民だののへったくれを差っ引いても、手を差し伸べてくれる人間がいることは証明された。元いた世界でも、ロングビルのような人間は案外いるのかも知れないと、リキエルは思うようになっている。助けてくれる人間などいない、という風に悲観することもないのかもしれないと、そう思い始めたのだ。たった一度、軽い親切心に触れただけのことだが、リキエルにとってはそれが、重要な事柄だったのである。
 ちなみに、昨日の夜、ルイズのときにそう思えなかったのは、ルイズが微妙な例外だからだ。その件に関して感謝の念はあるが、何せ当初から目にしているようなあの態度である。赤の他人状態の自分が街中でパニクっていた場合、見向きもしないということはないだろうが、駆けつけて手を差し伸べようと考えるかはかなり怪しい、というのが、リキエルのルイズに対する評価だ。
 閑話休題。
 ただ、疑問は残る。その疑問とは、ロングビルの態度のことである。秘書であるからなのかも知れないが、平民に、しかも使い魔である自分に敬語まで使うものだろうか。その敬語にしても、時折無理に使っているような違和感が気になる。単に慣れていないだけなのかもしれないし、たまに頭を覗かせる普通の物言いが、ごく自然なものに見えるので、それと比べたときの単なる差であるのかもしれないが。
 腐ち草のように吹けば飛びそうに見えて、その疑問は以外に頑固だった。いっそ本人に聞いてみようかとも思う。だが、こんなことを聞くのもおかしい気がする。そもそも聞いてどうするというのか。それにしても腹が減った。そういやコッチに来てから考えてばかりだな。しかも堂々巡りばかり、我ながらよくやるもんだ。頭使うと白髪できるっていうよなァ。いや、自分の場合髪が――。
「あ? ええと……ミス? ロングビル」
 思索の合間を縫って奇襲をしかけてきた空腹のため、一気に正常な働きを失ったリキエルの脳は、それでも今度は視覚野を頑張らせていたようで、本塔の入り口を通過したことをリキエルに知らせる。
 リキエルは“ミス”の部分を少しぼかしてロングビルに呼びかけた。ミセスであれば多少なりとも失礼であると思ったのだ。セの字の有無は、場合によっては女性にとって重要な部分である。
「はい、なんでしょう?」
 振り向いたロングビルは、レンズの向こうの琥珀にも似た瞳に、掛け値なしに小さく喜色を浮かべていた。どうやらミスで合っていたらしい。しつこいようだがこの正否は、場合によっては重要なのである。
「食堂は本塔の一階って聞いてたんだが……」
「食堂の裏に厨房があって、私、たまにそこで食事をとるんです」
「は~、なるほど。しかしなんでまた?」
「あまり大勢のいる場所はその、少し煩わしくて……。今日も厨房でまかないをもらおうと決めていたんですよ。それと、これは少し言いにくいのだけど」
 ロングビルは、今度はリキエルの顔を窺うような、曖昧な渋みを顔に浮かべた。実に多彩な表情を持つ有能秘書である。
「言いにくい?」
「はい、言いにくいことですが……平民は食堂には入れないという決まりがあるんです」
「食事処の出入り禁止……ここまで来るとまるで黒人差別だな、考え方とかがよォー」
 ぼそりとしたリキエルの一言に、ロングビルはきょとんとした顔になったが、すぐにもとの表情に戻り、いつも通りの静かな口調で言った。
「なので厨房でとった方が、あなたにとって無難でもあるんです」
「確かにそうかもしれないな。すいませんね、気を使わせて」
「いえ……では行きましょうか。と言っても、直ぐそこですが」
 クスリ、と珍しくも笑うロングビルの顔は、天頂間近の日の光の下にあって、リキエルにはなお輝いて見えた。
「……」
 その輝きに目を瞑ったわけでもないが、リキエルは、先ほどまでロングビルに抱いていた疑問は気にしないことにした。

◆ ◆ ◆

 厨房には独特の熱がこもっているようだった。それは熱気というよりも、働きまわる人間のいる場所特有の、外界との温度差である。
「こんにちはミス・ロングビル……ってあれ? リキエルさん?」
「ン、シエスタか」
 厨房でリキエル達を出迎えたのは、今朝洗濯の手伝いをしてくれたシエスタだった。リキエルは手を挙げて軽く挨拶する。
「今日は二人分のまかないを頼めるかしら?」
「あ、はい」
 ロングビルの後ろにリキエルがいるのを見て、シエスタは不思議そうに首を傾げながら答えた。それからみるみる顔を青くして、リキエルの前に小走りでやってきたかと思うと、「すみませんです――――ッ、私のせいで、その、あのっ」
 前傾四十度で頭を下げた。
 下げられているリキエルとその隣にいるロングビルは、シエスタの唐突な行動で呆気にとられた。
「すいませんリキエルさん私朝うっかり食堂に向かわせるようなことを言ってしまって平民が入れないことわかってたのにすいません本当にわざとじゃなかったんですごめんなさいでも私分かってたのにああリキエルさん貴族の方に何か言われませんでしたかもしかして酷い目にあいませんでしたかそうでしたらほんとうに私申し訳が申し訳で申ぢちちッ!?」
 そこまで息継ぎもせずに来て、シエスタは思い切り舌を噛んだ。リキエルとロングビルが顔をしかめるほどに、である。
 しかし、濁流のように流れ出る謝罪の連続だったのだ。それでいて一言一言に誠意がこもっているのだからたいしたもので、口内が例え血の池になったとしても、そこは誇るべきである。
「大丈夫?」
 涙目で肩を震わせ、口を押さえるシエスタの顔を覗き込むようにして、ロングビルが声をかけた。
「はひ。すふぃましぇん」
「……ごめんなさい。喋らせない方がよかったわね」
 リキエルは呻いた。シエスタが顔を上げたので、リキエルにはちらとだが、シエスタの口の中が見えたのだ。案の定、舌は異様な赤に塗れており、痛みに耐えかねて悶えていた。
 ――血湧き肉踊る……。
 思わず、そんな間違った表現がリキエルの頭に思い浮かんだ。
「よくもまあ、言えたもんだな。そこまで噛まずによォ。良いアナウンサーになれるんじゃあないか? それはいいとして、オレが言うのもなんだが落ち着け、とりあえず」
「ああはひ、さふですね。いへでもしかしやっぱり本当にこれがまただふも――」
「落ち着きなさいって。少し舌を休ませないと」
「……ふゃい」
 ロングビルに目で謝ってから、シエスタはようやく見るも痛々しい口を閉じたが、それでも気遣わしげな視線を、リキエルの顔のあたりにさまよわせている。リキエルが何か言わなければ、いつまでもそうしていそうだった。
 優しさから来る、行き過ぎた心配性とでも言おうか。シエスタは単なる言いそびれをよほど気に病んでいるらしい。リキエルにしてみれば今朝の洗濯の件があるので、そのことについてシエスタを責める気は、勿論毛頭全く皆無である。
「オレはどうにもなってない。やばいぐらい腹が空いてる以外にはな。朝は時間に間に合わなかったんだ。食堂に入る入らない以前の問題で――ってまた謝ろうとするんじゃあない。お前は何も悪くないだろうがよォ~」
 リキエルはそう言ったが、口を押さえながらシエスタはまた、首の骨が心配になるくらいに頭を上げ下げした。あまり人に頭を下げられることのないリキエルは、辟易して渋面を作る。
 見かねたロングビルが、シエスタの肩を優しく叩いた。
「何があったか知らないけど、リキエルさんもこう言ってるんだし顔を上げて、ね? この話はこれくらいにしましょう」
 シエスタはもうしばらくの間ガクガクと頭を振り、ロングビルとリキエルの顔を交互に見やってから、ぱたぱたと調理場に駆け込んでいった。
 残った二人はそれを見送ってから、厨房の片隅にあった席に腰を下ろした。


「それにしても驚きました。まさかミス・ロングビルと一緒とは思いませんでしたから」
「話すとちょっとややこしいんだが、教室で会ったんだ、偶然な。それで腹が減ってると言ったら、ここまでつれて来てくれたってわけでな」
「その節はまことにもって本当――」
「だから言ったろう、謝らなくていいってよォ」
 昼食を終えたリキエルは、シエスタを話し相手に一息ついている。ロングビルは食後の紅茶を淹れてくれるということで、しばし席を外していた。
 厨房は、リキエル達が来たときよりも忙しさを増していた。食事の最中に気づいたが、食堂へと通じる通路から伝わってくる空気も、いくらかの騒がしさを孕んでいるようだった。生徒達も、昼食の時間が始まったのだ。
「洗濯の手伝いだってしてくれただろう。干すのは全部押し付けちまったしなァ。旨いシチューも十分食べさせてもらった。感謝してるくらいだ、オレは」
「感謝だなんてそんな。でもシチュー、お口に合ってよかったです」
 花が咲かない程度の軽い雑談をしていると、ロングビルが三つのティーカップの乗った、銀のトレイを持って戻ってきた。それを卓の上に下ろし、それぞれの席にカップを置いていく。簡素な造りながら、淡い着色が趣味の良いカップだった。
「すみませんミス・ロングビル。私までご馳走になってしまって」
「こちらこそ、いつもまかないをありがとう。紅茶はそういう意味にしておいて」
 すまなそうにするシエスタに微笑みかけながら、ロングビルは手馴れた動きで紅茶を注いでいる。板についたその動きには、秘書の仕事が活きているように見えた。
 注ぎ終わってから、ロングビルはシエスタの隣――リキエルの対面に座る。してからリキエルに微笑みかけた。
「どうぞ、飲んでみてください」
「どうも。じゃあ遠慮なく、いただきます…………うっ!」
 カップを口元にまで持ってきて、リキエルの手が止まる。そんなリキエルを見てロングビルの目がキラリと光り、シエスタが微笑む。
 リキエルはカップを少しだけ口から離し、また近づけた。薄く立ち昇る湯気が、リキエルの鼻先を湿らせる。
「どうかしましたか? 何か『変なもの』でも入っていまして? それともヌルイのは嫌だったかしら? 直ぐ飲めるよう、温度を調節したのだけれど」
 変わらない表情で問いかけてくるロングビルを、リキエルは鋭く見返す。その顔には軽い驚きが浮かんでいた。
「何か入っていたかだって? それはこっちの台詞だ、ミス・ロングビル。こいつは紅茶なんですか? 本当に『ただの紅茶だ』とそう言うってわけですか?」
「ええ、それは『ただの紅茶』です。……さ、遠慮せずどうぞ」
 顔を上げて、ロングビルはリキエルも顔を真正面から見返して、言った。リキエルの顔が、いよいよ驚きに染め上げられていく。
 不敵な色に彩られたロングビルの視線と、驚きに塗れたリキエルの視線が交わる。
 リキエルはロングビルから視線を外し、手に持ったカップに戻す。しばし、そうしていたかと思うと、素早い動きで口元まで運び、グイィィ――ッと一気飲みに仰いだ。
 緩慢な動きでカップを置いたリキエルの顔に、ふと笑みが浮かんだ。頬の筋肉がほんの一瞬、引き攣れたような感じになってうまく笑えず、皮肉っぽい笑い顔になった。思えば、この世界に来る以前から、随分と久しく笑っていなかった。
「オレはあまり紅茶には詳しくないし、匂いがキツイんで好きなわけでもない。手間がかかるだけの飲み物だと思っていた。だが今、紅茶を愛飲するやつらの気持ちがわかったぜ。……ミス・ロングビル、あんたの淹れた紅茶の『香り』に、紅茶の『苦味』はなじむ。実にしっくりと、よくなじんでいたぞ。うまかったぜ、要するになぁ」
 それを聞いて、リキエルの顔を注視していたロングビルは、撫で下ろすように胸のあたりに手を置いた。褒めちぎられたからか、息苦しそうにも見える顔になっている。
 ロングビルは蝙蝠の羽音ほどの、静かな息を吐いた。
「自分で淹れるのは、ここに勤めてから始めたばかりの素人芸で、ちょっと不安だったのですが、よかったわ。でもそんなに言われてしまうと、ちょっと気恥ずかしいわね」
「謙遜することないですよ。ミス・ロングビルの淹れてくれる紅茶、とても美味しいです。厨房の皆もそう言ってますし」
「……ありがとう」
 屈託なく笑うシエスタに、ロングビルは嬉しそうな、それでいて困ったような微笑を返す。やはり恥ずかしいのだろうか。
 そこで、はたと気づいたといった具合に、ロングビルは時間を確かめた。
「あら、もうこんな時間だったんですね。ゆっくりしすぎましたわ。シエスタ、私はそろそろお暇させて貰うわね。リキエルさん、機会があればまたご一緒しましょう」
 慌てるほどではないが、リキエルたちがここに来てから、それなりの時間が経っていた。
「こちらこそ。それとすみませんでしたね、色々とよぉ」
「お仕事がんばってくださいね、ミス・ロングビル」
 ロングビルは席を立ち、居住まいを正してから、シエスタ以下厨房の面々に礼を言いながら出て行った。


 ――さて、オレはどうしようか。
 昼食は馳走になった。食後の紅茶まで飲ませてもらった。これ以上自分が厨房に居座っても、邪魔になるだけだろう。リキエルはそう思った。居座ったところで、シエスタは嫌な顔一つしないだろうが、だからといって何もせずにだらだらとしていられるほど、無人な振る舞いができるわけもない。
 ――なら。
「シエスタ、なにかオレに手伝えることはないか?」
「手伝い、ですか?」
 シエスタは朝と同じように、きょとんとした顔でリキエルに問い返した。
「洗濯と昼食の礼がしたいんだ。あんまり出来ることはないがな」
「そうですか? なら、デザート運びを手伝ってくださいな」
「それだけでいいのか? そこまで出来ることがないわけじゃあないぜ」
「じゃあお言葉に甘えて、紅茶のポットもお願いできますか?」
 頷くリキエルを見てシエスタは、ありがとうございます、と元気に笑い、厨房の奥へと歩いていった。リキエルは憮然としたような面持ちで後に続いた。
 リキエルは、この手伝いにはあまり気が進まない。というよりも、進まなくなっていた。手伝いをしたいのは本当だ。雑巾がけだろうが厨房の掃除だろうが、できる限りの労働しようとリキエルは思っていた。
 しかし、配膳となると話は別である。デザートを運ぶということは、食堂へ行くということだった。先ほどまでは空腹で、そこまで頭が回らなかったが、つまりは人混みの中へ入っていくも同然なのだ。
 リキエルは人の多い場所が苦手だった。それは生理的な嫌悪感ではなく、公衆の面前でパニックの発作が起きたらどうする、という不安から来るものである。朝の授業にしても、これも空腹でそれとは思い当たらなかったが、あまりいい気分とはいえなかったのだ。
 だが、自分から申し出た手前、やりたくないなどと言えるわけもないし、やめるつもりもなかった。さっさと終わらせばいいことだ、とリキエルは思い直すことにし、いつのまにやらこもっていた、肩の力を抜いた。
 ――そういえば、あいつはどうしているんだろうな。
 ルイズのことをさっぱり忘れていたのを、リキエルはぼんやりと思い出した。ぼんやりとしていたので、シエスタの持ってきた紅茶のポットの胴をうっかり掴み、危うく火傷しそうになった。
 またあわあわと騒ぎ出すシエスタをなだめながら、リキエルは苦い笑いを浮かべる。それがまた皮肉げになったのは、もともとがそういう笑い方なのかも知れなかった。


タグ:

+ タグ編集
  • タグ:

このサイトはreCAPTCHAによって保護されており、Googleの プライバシーポリシー利用規約 が適用されます。

記事メニュー
目安箱バナー