行政不正裁判官の任命と罷免
 行政不正裁判官はカリフ、あるいは司法長官によって任命される。なぜなら行政不正裁判は裁判、つまり強制を伴う聖法の判断の宣告であり、既述の通り使徒が全ての種類の裁判官を任命されていたことから、全ての裁判官はカリフによって任命されることになるからである。それゆえカリフが行政不正裁判官の任命権者なのであり、司法長官は、カリフによって任命された時点で行政不正裁判官の任命を認めた場合、その任命が許される。
 首都にある最高行政不正裁判所はカリフ、大臣、司法長官に対する訴件のみを扱い、行政不正裁判所の地方支部が、地方総督、知事、その他の公務員に対する行政訴訟を管掌すると定めることも許される。カリフは中央行政不正裁判所に、その下にある地方支部の行政不正裁判官の任命と罷免の権限を委譲することも許される。
カリフが首都の最高行政不正裁判所の裁判官たちを任命、罷免する。最高行政不正裁判所長官、つまりカリフの罷免を審査する行政不正裁判官、の罷免に関しては、原則は、他の全ての裁判官の場合と同様に、カリフに任命権と同じく罷免権がある。しかし、もし罷免権がカリフの手にあれば、その権限が禁止事項を導く蓋然性が高い状況が生じうるため、その際には、「禁止事項の誘引となるものは禁止事項である」との法原則が適用されるのである。というのはこの原則には蓋然性があれば十分だからである。
その禁止事項の誘引となる状況とは、カリフ、大臣、司法長官(カリフが司法長官に行政不正裁判官の任命、罷免権を与えた場合)に対する行政訴訟がおこされた場合である。なぜならこの場合に罷免権がカリフの手中にあるなら、その行政不正裁判官の判決に影響し、結果的に行政不正裁判官のカリフとその補佐たちを罷免する権力を制限することになるかもしれないからである。それゆえ罷免権はこの場合には禁止事項への誘引となるので、こうした状況では、罷免権をカリフに与えることは禁止されるのである。
 それ以外の場合には、規定は原則のままとなる。つまり行政不正裁判官の罷免権は任命権と全く同じくカリフが有するのである。

行政不正裁判の権限
 行政不正裁判所は国家機関に働く者による不正であれ、カリフによる聖法の規定に対する違反であれ、憲法、法令その他の、カリフが定めたあらゆる政令の立法の文言の解釈であれ、行政法令によって臣民(rayah)が蒙った法益の侵害であれ、不当な税金の押し付けであれ、その他の何事であれ、あらゆる行政上の不正を審査する権限を有する。
行政不正裁判には、法廷の開廷、被告の訴え、原告の存在は条件とならず、行政不正裁判所はたとえ誰からの訴えがなくとも、行政上の不正の審査を開始する権限がある。それは行政訴訟が、国家機関の人間に関わる場合も、カリフの聖法への違反に関わる場合も、立法、憲法、カリフの定めた法令の意味の解釈に関わる場合も、課税に関わる場合も、国家の国民への(rayah)弾圧、暴力による迫害、財産の没収などの不正、公務員や兵士の俸給の不払い、減額、支給遅延などあらゆる場合について同じなのである。(法廷、被告、原告の訴え不要)
 なぜなら、行政不正裁判には原告が不要であり、そもそも原告が存在しない以上、訴訟の審議が法廷の存在を条件とする典拠は、行政不正裁判には当てはまらないからである。行政不正裁判所は、誰も訴える者がいなくとも、また被告が出廷する必要もないので、被告がいなくとも、行政の不正を審査する。なぜなら行政不正裁判所は行政上の不正を精査するのであるから、裁判に法廷の存在が条件となる典拠であるハディース「アッラーの使徒は、2人の訴人は判事の前に座るように裁定された」 と「2人の訴人がお前の前に座ったなら」 は行政不正裁判には当てはまらないからである。
 それゆえ行政不正裁判は場所にも時間にも法廷にもその他の何物にも縛られるとなく、全く無制限に、行政の不正を審査することが出来る。但し行政不正裁判所の権限の格の高さに鑑み、それなりの威厳が保たれる必要がある。エジプトとシリアでは王侯たちの時代には、行政不正裁判はスルターンの宮廷で行われ、「正義の館」と呼ばれ、スルタンの代行者たちを従事させ、裁判官や法学者たちが臨席した。アル=マクリーズィー(歴史家、1441年没)は『王たちの国の知識への道(al-Sulk il Marifah Duwal al-Mulk)』の中で、「スルタン・アル=サーリフ・アイユーブ王(アイユーブ朝初代スルタン在位1169-1193年)は、行政上の不正を取り除くために、『正義の館』に公証人、裁判官、法学者たちと共に、自分の代行者たちを召集した」と述べている。それゆえ、行政不正裁判所に、壮麗な部屋を作ることに問題はない。なぜならそれは許されたことであり、特にそれによって正義の重大さが際立つならそうなのである。

カリフ制が再興される以前の契約、商行為、訴訟
 カリフ制が再興される前に確定し、執行された契約、商行為、訴訟の判決は、その当事者の間で有効に成立し、カリフ制の樹立以前に執行済みであると看做され、カリフ制の下での裁判により覆されることはなく、蒸し返されることもなく、また同じ訴件がカリフ制の樹立後に再度受理されることもない。
 但し、以下の2つの場合は例外となる。
(1) 確定し執行済みの件であっても、それがイスラームに反する悪影響を将来まで持続的に及ぼす場合。
(2) その件が、イスラームとムスリムに害を為す者にかかわっている場合。
 上記の2つの場合を除いて、カリフ制が再興される前に確定し、執行された契約、商行為、訴訟の判決が、覆されず、再考されないのは、使徒が(イスラーム以前の)無明(ジャーヒリーヤ)時代の商行為、契約、訴訟などを、彼らの居住地が「イスラームの家」に転化した時に、破毀されなかったからである。使徒はマッカの征服後も、かつてそこを捨てた町(マッカ)に戻らなかった。アキール・ブン・アビ-・ターリブ(預言者ムハンマドの従兄弟)がクライシュ族の慣習法に従って、イスラームに入信してマディーナに亡命した預言者の親族たちの家屋を相続し、それを処分し、売却しており、その中には預言者自身の家も含まれていた。そしてその(マッカを征服)の時、預言者は「どこに宿泊されますか?」と尋ねられ、「アキールは我々に住まい(rib)を残しているか?」と聞き返された。  
 アキールは既にアッラーの使徒の家を売ってしまっていたが、使徒はそれ(我が家の売却)を取り消されなかったのである。
 またアブー・アル=アース・ブン・アル=ラビーウは、彼の妻がアッラーの使徒の娘のザイナブで先にイスラームに入信しバドルの戦いの後でマディーナに亡命していたが、彼はまだその時点では多神教徒のままでマッカに留まっていたが、遅れて自分もイスラームに入信しマディーナに亡命した時、使徒は無明時代に結んだ婚姻契約を追認し、婚姻契約を新たに結びなおさせることなく、妻で自分の娘のザイナブを彼に返された。イブン・マージャはイブン・アッバースから「アッラーの使徒は、娘のザイナブを最初の婚姻から2年後にアブー・アル=アース・ブン・アル=ラビーウに返された」と伝えているが、それはアブー・アル=アースが入信した後のことであった。
 イスラームに反し継続的な悪影響のある問題の再考に関しては、使徒は彼らがイスラーム国家に住むようになった後では、残っていた利子を帳消しにして、元金だけを彼らに残した。つまりイスラームの家の成立後は、彼らに残っていた利子は無効にされたのである。
 「『別離の巡礼』でアッラーの使徒は『無明時代の利子のうちの全ての利子は無効となった。お前たちには資本金は残る。お前たちの誰も不正をはたらかず、不正を蒙ることもない』言われた。」
 また同様に無明時代の慣習法で4人以上の妻と結婚していた男たちはイスラームの家の後には4人のみに止めるようになった。
「ガイラーン・ブン・サラマ・アル=サカフィーが10人の妻と共にイスラームに入信した時、預言者が彼に彼女らの中から4人を選ぶようにと命じられた」(ハディース)
イスラームに反する継続的な悪影響がある契約については、カリフ国家が樹立されればその悪影響は除去されなくてはならない。その除去は義務なのである。たとえば、もしムスリム女性がイスラーム入信前にキリスト教徒であったとすれば、カリフ国家の樹立後には聖法に則り、この契約は取り消される。
 イスラームとムスリムを害する者に関わる問題については、使徒はマッカを征服された時、無明時代にイスラームとムスリムに害をなしていた数人の処刑を許された。
 「イスラーム入信によっても、それ以前になしたことは義務である」とのハディース があるにもかかわらず、カアバ神殿の外布にしがみつこうとも彼らは処刑されるとして、処刑を許されたのは、イスラームとムスリムを害する者がこのハディースの規定の例外として除外されるからである。
 しかし使徒は彼らの中でもイクリマ・ブン・アビー・ジャハルを赦された。後に彼らの一部を赦されたことから、カリフはこれらの者については再考することも、赦すことも出来るのである。これは、真理の言葉を口にしたムスリムを迫害したか、イスラームを誹謗した者に当てはまる。なぜならそれらの者には「イスラーム入信によっても、それ以前になしたことは義務である」とのハディースは当てはまらず、彼らはそこから除かれるからである。それゆえカリフが適当とみなすなら、彼らの問題は再考に付されるのである。
 これらの2つの場合以外には、カリフ制樹立以前の契約、商行為、判決は、カリフ制樹立前に確定され、執行が終わっている限り、取り消されることもなく、再考されることもないのである。
 たとえば学校の門を壊した容疑で2年の入牢の判決を受けて、カリフ国家樹立以前にその2年の刑期を終えて出所していた者が、カリフ国家樹立後に、自分は入牢は不当であると考え、彼に入牢の判決を下した者を訴えても、その訴えは棄却される。なぜならカリフ制樹立以前に裁判は行われ、判決が下され、それは既に執行されたのであるから、彼の問題はアッラーに委ねられるのである。
 一方、10年の入牢の判決を受け、刑期が2年経った時点でカリフ制度が樹立された場合、カリフにはその件を取り扱うことができ、(1)刑罰を完全に取り消し無罪放免にするか、(2)あるいは経過分のみを追認する、つまり判決が2年の刑であったとして釈放するか、(3)残りの判決については、臣民(rayah)にとって有益な聖法の規定が適用され、特に個人の権利に関わる問題であった場合には、人間関係の改善に役立つ聖法の規定が適用されるような判断を下すかのいずれも許される。

第10章.行政機関(国民福祉)
 国事行政、国民福祉は、国事を担当し人々の福祉を実現する諸官庁、諸局(dawir)、諸部(idrt)が管掌する。全ての官庁(malaah)には事務総長(mudr mm)が任命され、全ての部、局には直接に責任を負ってその行政を司る部、局長を置く。これらの部、局長は、実務においては、彼らの属する官庁、部局の事務総長に対して責任を負い、一般法規や規則の遵守面においては総督や知事に対して責任を負う。
 かつてアッラーの使徒は、諸官庁を自ら管掌する一方、その行政の書記を任じていた。使徒はマディーナで人々の福祉を司り、諸事の世話をし、問題を解決し、人間関係を調整し、需要を満たし、それらにおいて彼らの状況が改善されるように導かれていた。これらは全て人々の生活を問題、支障なく安楽にするための行政なのである。
教育に関しては、アッラーの使徒は戦利品としてのムスリムの財産となった不信仰者の捕虜の解放にあたって身代金の代わりに、10人のムスリムの子弟の教育を課された。教育の保証は人々の福祉の一部であった。
 医療に関しては、アッラーの使徒に医者が贈られたが、彼はその医者をムスリムたちのために提供された。アッラーの使徒が、贈り物としてもらった医者を(売ったり賃貸ししたり)処分もせず、侍医ともせず、ムスリムたちのために提供されたことは、医療がムスリムの福祉の一部であった典拠である。
労働問題については、アッラーの使徒は、ある男に、人々に物乞いをして貰ったり、断られたりする替わりに、紐と斧を買って薪を集めて人々に売るように指導された。
「『援助者』の一人の男が預言者の許にやって来て物乞いをした。預言者は『お前の家に何かないか』と尋ねられた。男は『はい、一部を着たり、一部を敷いたりする布と、器があります』と答えた。そこで預言者は『それらを私に持って来なさい』と言われ、男はそれらを持参した。アッラーの使徒はそれらを手にされ『誰かこれらを買う者はいないか』と言われた。ある男が『私がそれを2ディルハムで買います』と言ったので、使徒はそれらを彼に与え2ディルハムを受け取り、それを件の『援助者』に渡され、『1ディルハムで家族に何か買い与えなさい。そして残りの1ディルハムで手斧を買ってそれを持ってきなさい』と言われた。そして彼が手斧を買って持ってくると、アッラーの使徒は自らの手でそれに柄を付けられ、そして『行って、薪を集めて、売りなさい。私は今後、15日間、お前には会わない。』と言われた。そして彼はそれを実行し、10ディルハムを儲けてやって来たのであった。」
 道路問題では、アッラーの使徒はその治世に、紛争が生じた場合は、道路の幅を7腕尺にして、道路の整備をされている。
「預言者は通り道について人々が争った時には、7腕尺と裁定された」(ハディース)
それは当時にあっては道路整備行政であった。シャーフィイー派の見解にあるように、必要があれば、より大きくても構わない。
 また使徒は道の侵害を禁じられている。
 「ムスリムの公道を1指尺でも奪う者には、復活の日、アッラーは7つの地をその首に巻きつけ給う」(ハディース)
農業に関しては、アル=ズバイルとある「援助者」の男が、二人の土地を流れる水路の潅漑で争った時に、使徒は「ズバイルよ、先ず水を引き、それからお前の隣人に水を流してやれ」と言われている。
 このように、使徒はムスリムの福祉を司り、その行政問題を、易しく簡単に解決され、そのために時には直弟子たちの手を借りられた。その後、人々の「福祉(mali)」は、カリフが管掌するか、そのためにそれを担う有能な事務長を任命する(国家)機関となった。そしてそれが我々の決定でもあるが、それはカリフの重責を軽くするためである。特に、福祉が多様化、増大したので、人々の福祉のための機関が創設される。その機関は、有能な事務長が臣民(rayah)の暮らし易い方法と手順で運営し、煩雑でなく簡単で容易に必要なサービスを十分に提供するのである。
 この機関は諸官庁、諸局(dawir)、諸部(idrt)で構成される。官庁 (malaah)は最高行政府であり、国籍管理、運輸、貨幣鋳造、教育、保健、農業、労働、道路など国家のあらゆる公益を司る。この官庁は、官庁自体の行政及び、下位の部局の行政を管掌する。局は局自体及び、下位の部の行政を管掌する。部は部自体及び、下位の支部(fur)や係(aqsm)の行政を管掌する。
 これらの官庁、部局は、あくまでも国事を担当し、人々の福祉を実現するために創設される。これらの官庁、部局の運営を保証するためには、その責任者の任命が必要である。全ての官庁にはその官庁の諸事を直接管掌し、下位の全ての部局を監督する事務総長が置かれる。全ての部、局には、その部、局には直接責任を負い、下位の支部(fur)や係(aqsm)にも責任を負う事務長が置かれる。

行政機関は行政の統治に非ず
 行政機関とは、行為の実行の方策の一つ、手段の一つでしかなく、特別にその根拠を要しない。その基礎を示す一般的根拠で十分である。これらの方策は人間の行為であるので、聖法の規定に則って機能しないと有効ではない、とは言われない。そうは言われないのである。なぜならばこれらの聖法の典拠は、その基礎を一般的に示しており、それがそこから派生する諸行為を含んでいるのである。但しその基礎から派生する行為の聖法の典拠があるなら、その時、それはその典拠に従属するのである。例えば、至高者は「浄財を納めよ」(2章83節他多数)と言われている。これは一般的典拠である。そして、浄財の義務が生ずる資産最低額、浄財徴税、浄財のかかる資産の種類などのそこから派生する諸行為の典拠が来る。これらは全て「浄財を納めよ」との聖句からの派生である。しかし浄財徴税吏の浄財の具体的徴収方法の詳細については、騎乗で行くのか、徒歩で行くのか、手助けに賃労働者を雇うのか、それを帳簿に計算、記入するのか、彼らに集合場所を決めておくのか、彼らが徴収した浄財を置く貯蔵庫を設けるか、これらの貯蔵庫は地下に作られるか、あるいは穀倉のように地上に建てられるのか、通貨の浄財は袋によって徴収されるのか、箱によってなのか、などは「浄財を納めよ」の派生であるから、その一般的典拠(「浄財を納めよ」)に全て含意されているのである。なぜならそれらに関する特定の典拠はないからである。方策は全て同様なのである。つまり方策とは、一般的典拠が示されている基礎となる行為の派生的行為で、この派生的行為には特に典拠は示されていないが、その基礎となる行為の典拠がその(派生的行為の)典拠なのである。
 それゆえ行政の方策は、特定の行政の方策の禁止を示す個別のクルアーン、スンナの明文のテキストがない限り、いかなる制度を採用しても構わない。行政機関の仕事の効率化と、人々の福祉の実現に適しているなら、それ以外の行政の方策は採用できるのである。なぜならば行政の方策は聖法の典拠を要する統治ではないからである。それゆえウマルは兵士と臣民(rayah)に恩賞や報償などの公有財や国家財を分配するために、彼らの名前の登録のために登記庁制度を採用したのである。
 「ウマルは登記簿の記帳についてムスリムたちに諮問したが、アリー・ブン・アビー・ターリブが『毎年、あなたの許に徴収された富を分配し、そこから何も取ってはならない』と言い、ウスマーン・ブン・アファーンは『私は富は人々に十分にあると思います。もし受け取った者とまだ受け取っていない者が区別できるように記録していなければ、混乱が生ずるのでは、と懸念します』と言った。そこでアル=ワリード・ブン・ヒシャーム・アル=ムギーラが『私はかつてシリアに居たが、そこの王たちが登記簿に登記し、兵士を徴兵しているのを見ました。それゆえ登記簿に登録し、兵士を徴兵してください。』と言った。ウマルはアル=ワリードの意見を採用し、アキール・ブン・アビー・ターリブ、マフラマ・ブン・ヌファイル、ジュバイル・ブン・ムトイムを呼び出し、『人々を家ごとに書き記せ』と命じられた。」この三人は、クライシュ族の系譜に詳しい者であった。」
 その後、イラクでイスラームが勝利したが、登記庁は、それ以前のままであった。シリアはギリシャ人の王国であったのでシリアの登記庁はギリシャ語が用いられていたが、イラクはペルシャ人の王国であったためイラクの登記庁ではペルシャ語が用いられていた。ウマイヤ朝カリフ・アブドルマリクの治世のヒジュラ暦81年にシリアの登記庁はアラビア語に変わったが、その後、臣民(rayah)の必要に応じて、登記庁の新設が続いた。当時、軍の登記庁は軍籍と俸給を司り、労務の登記庁は税と権利を司り、地方総督と知事の登記庁は任命と罷免を司り、財務の登記庁は収入と支出を司る、といった形であった。当時の登記庁の新設は需要に応じてであり、方策や手段の変化に応じてその法策は時代に応じて異なっていたのである。
 それゆえ官庁の役所、あるいは登記庁と呼ばれるものの新設には必要性が考慮されるのであり、その必要な責務の遂行に役立つ行動の方策、実行の手段は時代毎、地域ごと、国毎に異なってよいのである。
 以上は、官庁、あるいは登記庁の創設についてであった。それらの公務員の責任については、彼らは被雇用者であると同時に「臣民(rayah)」の一人である。彼らは被雇用者である、つまりその職務を遂行する限りにおいて、所属部局の上司、つまり部局長に対して責任を負い、「臣民(rayah)」としては、地方総督、カリフ補佐に対して責任を負い、カリフに対して責任を負い、聖法の諸規定と行政規則に拘束される。

官庁の行政政策
 官庁の行政政策は、制度において簡易、職務遂行において迅速、行政担当者が有能であることを旨とする。それは福祉の現実の実態から引き出される。福祉を望む者はそれが迅速かつ、完全な形で実現することだけを望む。使徒も「アッラーは万事において最善を尽くすことを命じ給うた。殺す時にも最善の殺し方をし、屠る時も、最善の屠殺をせよ」(ムスリムがシャッダード・ブン・アウスから伝えるハディース)と言われている。それゆえ職務遂行に当たって最善を尽くすことは聖法によって命じられているのである。そして福祉の実現における至善の達成には行政部局は、(1)制度における簡易性、(2)仕事の遂行の迅速性、(3)時実務担当者の能力と適正性、の3つの性質を備える必要がある。なぜなら制度の簡易さは手続を簡単で易しくし、複雑さは困難にするからであり、迅速性は、福祉を要する者の便宜となるからである。これらはその職務遂行自体に必要なだけでなく、職務に最善を尽くすためにも不可欠なのである。

行政機関就労資格者
 国籍(tbiyah)と適正を有する者は全て、男女、ムスリム、非ムスリムの区別を問わず、全ての省庁の長官、公務員に任命されることが出来る。
 これは賃契約(ijrah)の規定から演繹される。なぜなら国家の行政官、公務員は、賃契約の規定によると、賃労働者(被雇用者)であり、賃労働者の雇用は、ムスリムであれ、非ムスリムであれ、無条件に許されているからである。これは賃契約の合法性の一般的、無限定的典拠によっている。
至高なるアッラーは「もし彼女たちがお前たちのために授乳したなら、彼女らにおの賃金を支払え」(65章6節)と言われているが、この節は一般的であり、ムスリムに限定していないのである。
「至高なるアッラーは『復活の日に我は3人の者を糾弾する。・・・中略・・・賃労働者を雇い、契約通りに働かせておいて彼にその賃金を払わない者である。』と言われる。」(ハディース)
 このハディースも無限定で、ムスリムの賃労働者と限定していない。またアッラーの使徒はアル=ディール族(バクル族の支族)の男と賃契約を結ばれたが、その男は当時まだその部族の宗教(多神教)に従っていた。これもムスリムとの賃契約と同じように非ムスリムとの賃契約が許されることの典拠となる。同様に典拠の一般性、限定の不在から、男性との賃契約が許されるのと同じく、女性との賃契約も許される。女性も国家の行政部局の部局長になることも、公務員になることも許され、また非ムスリムも国家の行政部局の部局長になることも、公務員になることも許される。なぜならそれらは賃労働者(被雇用者)であり、賃労働の根拠は、一般的、無限定だからである。

『カリフ国家の諸制度 ― 統治と行政』
最終更新:2011年02月12日 16:21