No.251 風杜神奈@暁の円卓様からのご依頼品
トラナが退院してから二日が経った。
私たちは結局、退院の時以来顔を合わせておらず、私とトラナの仲はといえば、トラナが私を見て泣かなくなった程度にしか回復していない。
『しか』なんて言葉は、あまり使いたくないけれど。
無邪気にトラナが笑って私に抱きついていてくれた頃はもう遠く懐かしくて、ふと思い出すたびに不安と焦りが私を満たそうとしていく。
外的な基準である評価値からいえば、私とトラナの仲は元通りになったはずだった。
けれど、一度壊れてしまったものが、本当に、何かも元通りになんてなるんだろうか。
私は落ち着かない気分で時計に目を走らせた。
時刻は夕刻を過ぎており、秋津さんと……トラナと再会の約束をしてからの、長い三日も過ぎようとしていた。
やり場のない思いを抱えて、私は寝支度を整え始めた。
そして、チャイムが鳴った。
私は反射的に玄関まで走っていた。
ドアの覗き窓からは秋津さんの顔が見えて、いつもに比べて随分と無様な手つきでチェーンを外した。勢いよくドアを開けそうになる腕を押さえて、恐る恐るという表現がぴったりなくらい、ゆっくりとドアを開ける。
来ていたのは、やっぱり秋津さんだけではなかった。
トラナが、私のよく知っている紫のシルクハットとワンピースを着て、秋津さんの陰に隠れていていた。
私の顔を、見ようともしない様子で。
期待、安堵、小さな絶望。
ほんの少し乱れた呼吸と複雑な感情を隠して、私は努めて平静に口を開いた。
「こんばんは、秋津さん」
秋津さんは三日前以上の笑顔になると、そんな私の目の前でカラフルな紙をひらひらと揺らせて見せた。
「……そのチラシは?」
「祭りをやるみたいだぞ。行ってみるか?」
トラナと私を会わせるための、とてもいい口実。
秋津さんの気遣いが嬉しくて、私は心から頷いた。
「……はいっ」
微笑みそうになる顔を押さえ込んで、私はトラナを見た。
確認したいことがあったから。
一瞬私と目が合ったトラナは、すぐに私から目をそらすと、ますます秋津さんの陰に隠れてしまった。
トラナのシルクハットと秋津さんの影から、トラナの金髪だけが見えている。
「……髪飾り……」
どうやらそう口走ってしまっていたようで。
不思議そうな顔で私を見下げる秋津さんに、曖昧な表情を浮かべて、
「……では、支度してきます」
私は家の中に引っ込んだ。
お祭りに行くと言っても、トラナも秋津さんも余所行きの格好をしているわけでもなく、だから私は着ていたワンピースのまま髪だけを整えることにした。
化粧鏡に映るもうひとりの私が、私に合わせて長い黒髪を櫛で梳いていく。
私たちは櫛を持っていた手を下ろして、ぼんやりとお互いを眺めた。
私の右手が、彼女の左手が、それぞれの前髪に伸びて指で髪を挟んだ。
髪飾りで髪を留めたかのように。
私は指を外して、俯き加減で鏡の前から去った。
バッグの中にお財布を入れて。それから、迷いに迷って髪飾りもバッグの中に入れた。
以前、トラナと行ったお土産物で、トラナが気に入って私からプレゼントした、おそろいの鳥の髪飾りを。
それは願掛けだったのかもしれない。
「お待たせしました」
靴を履いて玄関を出ると、秋津さんは玄関戸の隣の壁に寄りかかって立っていた。
「じゃ、行くか」
はい、と返事をして、私たちは歩き出した。
秋津さんが真ん中で、私はその左隣。トラナは秋津さんを挟んで、私のちょうど反対側。
秋津さんの手をぎゅっと握って、やはり私の目から隠れるように歩いている。
物理的な距離は手を伸ばせば届きそうなほどなのに、私がまたトラナの隣にいるためには、あとどれくらい歩けばいいのだろう。
ジャージ姿のヒゲの青年が、ワンピース姿の少女二人を連れ歩いている様子はひどく奇妙だろうけれど、今の私たちにはそのことを笑い飛ばすほどの気力もなかった。
ふいに先導していた秋津さんが立ち止まって、トラナと私も足を止めた。
正方形の石畳の上、見上げれば暗闇に朱色の鳥居が浮かび上がっていて、けれど人工の灯りも人影もなく、私は首を傾げた。
秋津さんは確か、お祭りに行こうって言ってたはず。暗いところでお祭りなんて、考えられない。
「……あれ?」
「あれ」
私と秋津さんはほぼ同時にそう言って、お互いの顔を見合わせた。
トラナは、秋津さんに横から抱きついている。
「……チラシ、見せてください」
秋津さんは慌てて、ポケットの中からくしゃくしゃになった紙を取り出すと、申し分程度に広げて私に差し出した。
暗がりの中で目を細めながら、私はチラシに書いてある字を読んだ。
『知恵者の素敵なアメージング祭り ポロリもあるよ』
「ポロリって……」
私は何とも言えない気分で、続けて場所と日時を読み取った。
今日、ここで、この時間に。うん、間違いはない。つまり、秋津さんの勘違いではない。
けれど、どんなに目をこらしても、私たち以外に誰もいない。むしろ、何もないって言った方が、きっと正しい。
「いちおー。上にあがるか?」
「……はい」
私は頷いた。知恵者のやることなら、ひどいことにはならないはずだから。
「トラナ、行こう」
トラナを見て、言う。
トラナは何も答えなかった。
秋津さんが、代わりにトラナの頭をぽんぽんと撫でて、私たちはゆっくりと神社へと続く階段を上がっていった。
……本当に、何もなかった。
月の明かりを頼りに歩く場所すべて、私たちの貸し切りかのように。
「……なんか、参拝に来ているみたいですね」
貸し切りの神社に。
小さく苦笑を漏らして、けれど私は、それでもいいかなと思った。
その考えは、長く続かなかったけれど。
私の進路は秋津さんの腕に阻まれ、私は緊迫した雰囲気を感じ取って、秋津さんを見上げた。それから、秋津さんの視線の先を辿る。
「……何?」
巨大な黒い影が、私たちの行く手に蠢いていた。
「動いてないな。テント、か?」
「……テント?」
何で、こんなところにテントが。
「一応、気を付けて起きましょう」
秋津さんをまったく信じていない訳じゃないけれど。
私たちはゆっくりと、黒い物体に近づいていった。
「……夜に黒いテントって……」
それは秋津さんの言った通り、テントだった。
ただし、どこもかしこも真っ黒の。
私たちがテントの前に立ち止まると、テントの入り口がひとりでに開いた。
「……入ってみましょうか?」
「あ、ああ」
秋津さんにしがみついているトラナと、秋津さんと、私の三人ともが、恐る恐るといった感じでテントの中へ歩いていく。
そして、テントの中へ足を踏み入れた瞬間。私の体は宙に浮いた。
驚きの声がこぼれて、私は戸惑いながら周りを見渡した。
「雪……?」
一面の雪景色。
先程までは、確かにテントの中だったはずなのに。今さっき、雪景色に変わってしまったのだ。
下方には雪の道が走っていて、私はちょうどその真上あたりにいた。
驚くばかりの私に対して、トラナはといえば、雪に触れようとしているのか、楽しそうに空中に手を伸ばしていた。
くるくると風に舞う雪が、トラナの金髪に触れては消える。
「凄いね、トラナ、秋津さん」
言ってから、私は秋津さんの姿が見えないことに気づいた。
トラナと一緒にいたはずだったのに。
そう思った刹那、下の方から秋津さんの大声が聞こえてきた。
「見てない、見てないぞ!」
私は首を傾げて声が聞こえた方を見下ろした。
秋津さんはトラナと私のように浮いていないのだろうか。何故か軽く俯きながら、上空に向かって必死で手を掻いていた。
「……トラナ、雪見えてるよね?」
「……パパ、多分違うこと言ってる」
トラナが、今日初めて答えてくれた。
「……なるほど、見えるものが違ったりするんだね」
私は上機嫌で自分の考えに納得した。上と下では、見えるものが違うのだろうと。
けれど、
「……スカート」
「……え?」
私はトラナの言葉に目を瞬かせた。
もう一度下を見ると、秋津さんがやはり軽く俯きながら、上空に向かって必死で手を掻いて……平泳ぎしていた。
私のスカートは、風にはためいてふわりと広がっていた。
「だから見てない、見てないぞ!」
秋津さんは少しずつ上昇してきていた。
私は思わず悲鳴を上げて、スカートを押さえた。高度が下がっていく。
秋津さんと私がすれ違う。
しばらくして、上空で小さな鈍い音がした。
見上げれば、頭を押さえた秋津さんが、下に降りてきているところだった。
「……見たんですね?」
お互い地上に降りたところで、私は即座にそう言った。
「ちょっとだけだ」
目を潤ませて上目遣いで、頭を押さえたままの秋津さんの見る。
秋津さんは半歩下がった。
「俺のせいじゃない。すまん。悪かった、かなり悪かった。でも俺のせいじゃない」
「……いいです。あとでトラナと私に何か奢ってください。
……それで手をうちます」
「へへー」
秋津さんがすごい勢いで頭を下げた。
トラナは楽しそうに笑っていた。
だから私も、スカートのことなんてどうでもいいくらいに楽しい気分になったのだけれど、同時に急に強い寒さを感じ始めた。
「……寒くないですか?」
秋津さんは、不思議そうな顔で「いいや?」と言った。
でも、私はやはり寒かった。それに。
風景が、二重に映っていた。
フィルムとフィルムを重ね合わせたように、テントの中の風景と冬の死の海が見えた。
秋津さんには見えていないのだろう、不思議そうな顔のままだった。
トラナが笑った。死の海が、氷の大地に変わる。
たくさんのペンギンがよちよちと歩いていて、トラナは本当に楽しそうだった。
「……久しぶりね、この感覚」
トラナを一度なくす前に超えた試練で身につけたこと。
私は瞳を閉じた。テントの中の風景を思い描きながら、氷の大地の映像を否定する。
瞬間、ふわりと宙に浮いて、私の身体が周囲に溶け込むような感覚がした。
そしてゆっくりと目を開けると、元通りになっていた。
テントも、私たちの能力も。
私はほっと息を吐いて、にわかに温かくなった気温に感謝しながら腕をさすった。
「……さ、寒すぎる……」
「たしかに。見てると、寒くなるな。ははは」
笑う秋津さんからトラナに視線を移すと、トラナは困ったような顔で秋津さんの顔を見上げていて……私の方を見た。
視線が合う。トラナは、逃げない。
私は、息をするのも忘れていた。
トラナは、秋津さんの陰に隠れなかった。
代わりに、少しだけ微笑んでくれた。秋津さんではなく、私に。
「……ん、いいとおもうよ、その表情」
こみ上げる嬉しさをほんの少し表に出して、私も表情を崩した。
トラナは、逃げない。
「……トラナ、ちょっといい?」
私は両腕を広げてみせた。
トラナはよく私に抱きついていてくれたから、今度は私から抱きついてもいいよって、言いたかった。私だって、トラナに抱きついてほしかった。
けれど、トラナは動かなかった。
冷や汗が背筋を伝う。
焦りすぎたんだ。
そう思って、私は腕を降ろした。
「あー」
落ち込み掛けた私の耳に、秋津さんの間延びした声が届いた。
「毎度毎度同じことをいってそうな気がするが、飯でも食いに行くか?」
秋津さんは頭を掻いていた。きっと、照れているのを誤魔化しているんだろう。
私はわざとっぽい笑顔を向けた。
「秋津さんの、おごりですよ? ……忘れてないでしょうね?」
「もちろん」
秋津さんは私たちに近づいて、優しく笑った。
「ゆっくりやろう。な?」
「……ありがとうございます」
トラナが秋津さんに走り寄った。
「それじゃあ、食べに行きましょう」
私たちは三人揃って、ゆっくり歩き始める。
「……トラナ、いっぱい食べていいからね、遠慮はいらないから」
少し湿気ったけれど元通りになった黒いテントを後にして、貸し切りの参道を下っていく。
「……私も、がんばる」
トラナが少し頷いてくれた。
バッグの中から、かちゃかちゃと髪飾りの揺れる音が聞こえる気がする。
私たちの夜道を照らす月は、トラナの髪のような綺麗な金色だった。
エピローグ
トラナ=クィーンハートは、帰宅するや否や自室に籠もってしまった。
保護者役の秋津は、何もしていない。トラナの表情が思い詰めたようなものではなかったので、娘の好きにさせていた。
とはいっても、まったく心配ではないといえば嘘になるのだが。
トラナはそんな秋津の心中も知らず、化粧鏡と向き合い続けていた。
同じ顔、同じ姿のトラナが、鏡の中にいた。
神奈と同じロングヘア、神奈と同じワンピース。
もちろん色もデザインも違うけれど。
二人のトラナは同時に片手で前髪を少し上げて押さえ、もう片手を髪の上に添えた。
そして、パチン、と音がした。
心身を澄ませていたなら、その音が二重に響いたことが分かったかもしれない。
「パパ」
ようやく自室から出てきたトラナを、秋津は笑って迎えた。
「似合うな、その髪飾り」
トラナはうん、と嬉しそうに頷いて、「神奈とおそろい」と言った。
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最終更新:2008年03月29日 01:37