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『言葉と物』 第一章 侍女たち 2006/06/13 朝田佳尚
一
- まずは、普通の絵画とは少々違う点に注目:こっちを見る画家の存在
→画家と我々の関係
「侍女たち」における視線の関係①(27)
a.画家がモデルを観察しているとき
画家
不可視 可視
画家の描いている絵 我々
不可視
b.画家が絵を描いているとき
画家
可視 不可視
(絵に隠れる)
画家の描いている絵 我々
不可視
→囲いと網掛けの視線がトレードオフの関係:画家の観察を我々は二重の意味で見ることができない(28)
c.二重の不可視の意味:画家の視点に立って絵を眺め直す
画家
可視(=我々にとっての不可視①:我々が絵の中にいない。
→我々は画家の観察を見ることができない)
画家の描いている絵 我々
不可視(我々にとっての不可視②:我々が描かれているかもしれない
絵が見えない。→我々は画家の観察を見ることができない)
画家から我々に向かう点線(視線)によって、我々は、絵に描かれているのが我々だと結びつける。
→二重に不可視にもかかわらず、絵に我々がいると思うのはなぜか?
こう思うのは、単純な相互性、つまり画家→我々がそのまま、我々→画家を意味するからではない。
画家→我々はあると考えたとしても、あくまで我々はモデルの一部として(画家にとって)存在するため、我々→画家という視線は、画家にとっては不必要なもの。
→我々が画家の視線に存在しているのかはわからない。
このとき、画家は、観察者としての立場にいる⇔逆に、我々が観察者にもなるが
「見るものと見られるものとがたえずたがいに入れかわる」≠単純な相互性(=同時に見ること)
=裏返しのキャンバスの2つ目の意味(1つ目は、画布という普通の意味?)(29)
この不安定さの継続=画家の視線の不確定:我々が見られているか、見られていないかの不決定
(鑑賞者の特権が画家へ移譲されている=見る者が、絵によって、見られる者におとしめられる)
⇔これとは違い、一点不動なのは、画家→絵画への視線:可視
「侍女たち」における視線の関係②(絵の中と我々の同一性、画家による視点への特権の移譲)
画家
可視 確定しない可視
画家の描いている絵 モデルのいる不可視の場所(単に、我々とは言わなくなる)
不可視
- この転換の補助としての窓の光:光は、サロンと我々の空間両方を照らす
「画家、描かれた人物たち、モデル、鑑賞者に共通する、ひとつの空間を創りだしている」(30)
キャンバス
窓の光
窓
絵の中
現実と絵の中の境界
現実(我々の位置)
絵の左端 絵の右端
正面奥に鏡がある=まっすぐ手前を向いているため、画家や人物たちを映すはず→映っていない
何らかの表象の外部を映すものという位置づけが鏡に施されている。(オランダ絵画の伝統?)
=絵画の中にはいない、絵画を手前に延長したら見えるだろう画家の見ているもの:モデルを映す。
→これにより、画家の見ているモデルと、モデル自身という2つの不可視なもの(前者は、絵の構図上見えない。後者は絵の枠の限界上見えない)が一度に見える(31-32)。
二
固有名詞による事実関係の提示可能性
→画面は明確に→だが、言葉と絵画とは相互不還元
言語:「隠喩や比較の光を放つ場所は、…統辞法の継起性によって規定される場所にほかならない」(34)
→それでも、固有名詞のように一元化するのではなく、不両立性の上に定位して、言語で語ろうとすることは可能
その場合は、固有名詞でしか表せないものは、再び一般名詞に、鏡に映った人々は、反映と実在の限界点という抽象性で表されるものになる
鏡の反映=キャンバスの絵
この鏡の中の視線によって、①絵の手前にいる人物を指示するとともに、画家たちの視線を不定にする
(画家の特権性の移譲)
②光の右から左の流れを、奥から手前の流れで垂直に断ち切る(構図。後述)
③戸口と接して、戸口の存在を指示
→そこにいる男:絵の手前の枠外にいる人物たちと同じく、表象の内外を行き来する者、という位置づけ
「だれも彼に注意を向けようともしない」「鏡の奥に認められる像とおなじように、彼も自明であるとともに隠されている」(35)
⇔ただ、鏡の中の人物と違い、反映ではない。「生身の人間であり、表象されている区域の境界に外から姿をあらわしたところだ」「反映ではなく、闖入が出来したのである」(35)
これまで、画家の視線に着目、それから見えるものを追ってきた
画家→キャンバスの裏→奥の絵と鏡→戸口→右の絵画→窓の光
これは、「表象関係全体のサイクルを示してくれる」
視線→パレットと画筆→白いキャンバス→絵→反映→実在する男(画家のこと?)
(この過程は、絵の構成過程?)
窓の光によって、画家が姿を現す。それが画家の顔を照らし、視線を浮かび上がらせる
=表象関係の循環「ついで表象関係はほどけてしまう」(36)
→表象されているもの(人物たち)の範囲では、見る/見られるという過程が破綻してしまう。
ただ、光は、現実の絵の隙間から出て、画家の顔を明らかにしている=この光が出ている出所は、絵画の中だけではない=絵画の枠そのものをずらす(押し広げる)必要
- 「侍女たち」における視線の関係④:視線と絵の構図の関係
→構図を中心に考えると…
絵の中を通る視線と構図:王女の構図の中心性
a.王女は、視線と体の向きによって、左右を分割
b.3つの2人ペアの視線の向き
a, bによって、X型の構図ができる。
しかし、もうひとつ視線の凝結点がある。
a, bによって、手前に向かう曲線ができ、その曲線の頂点が、c.鏡の視線の延長と一致している。
この鏡と曲線の延長上に、絵の手前がある(37-38)
- 「侍女たち」における視線の関係⑤:枠外=見えない中心
→ここには何があるか
絵全体の視点の中心:鏡が見つめ、人物たちが見つめる点
=「絵全体が見つめている場面こそ、絵そのものを逆にひとつの場面としているものにほかならない」(38)
これを引き立てるもの
①キャンバス:手前の枠外を純粋な光景に(何ものかわからないままに維持)
②犬:見られるためだけの唯一の要素(見られる=見ていることを証明?)
そして、この手前の光景とは、至上の君主
「すべての身体の中央にあって」「非現実的」「もっともなおざりにされている」「だれひとりとして、一同の背後にしのびこみ、考えてもいなかった空間によってひそかに導入される、この反映に注意を向けたりはしないからだ」「ところが逆に、絵の外部にとどまって本質的に不可視性のうちに身を隠しているかぎり、二人はみずからのまわりであらゆる表象関係を秩序づける」(38-39)
鑑賞者と画家の視線の間に、その人物は鏡を通して鑑賞者をも見る(三重の視線:鑑賞者、画家、モデルの視線が重なり合う場所。そこから出発して表象関係が可能になる)
→至上の君主の視線は、この三つの視線が重なったことで、実在となるもの=ある種の観念的なもの
「王が絵のなかに姿をあらわさないかぎりにおいて、鏡の奥に姿をあらわすのとおなじことであろう」
「一個の直接的空位、絵を見つめ、あるいは制作するときの、画家と鑑賞者の空位を、おおい隠すとともに指示する」
「見えているものの底知れぬ不可視性が…見る人の不可視性と固く結び合っている」(40)
=「古典主義時代における表象関係の表象のようなもの、そしてそうした表象のひらく空間の定義がある」「表象がその全体を結集するとともに展覧する、こうした分散状態のなかで、…ひとつの本質的な空白が指し示される。主体そのもの…が省かれている」(41)
最終更新:2006年12月06日 19:43