No.251 風杜神奈@暁の円卓様からのご依頼品
しばらくの間、行方知れずだったトラナは、神奈の手によって見つけ出されて病院で治療を受けていた。
目を覚ましたトラナと、付き添っていた神奈。
俺の目に飛び込んできた光景は、
「……秋津さん、トラナは私を見て悲鳴を上げたの」
トラナが神奈を恐れている?
なんだそれは。冗談じゃない。
だが現実に、トラナは俺にしがみついて泣き、神奈の方を見ようともしなかった。
白衣を着たやつらだけじゃなく、ねずみ色の作業服を着たやつらまでが、慌ただしく病棟内を走り回っていた。
この病院が廃棄される日が近づいている証だった。
実際に、部屋に六つあるベッドも、俺とトラナ以外は使っていない。
日がな一日うろついていても他の患者に出くわすこともなく、トラナ以外にはもう患者なんていないんじゃないかと思わされる。
カーテンの隙間から差し込む西日が、くすんだ白い壁とトラナの金髪を赤く染めていた。
ついさっき、蒼白した表情の神奈を帰らせてから、俺はトラナが落ち着くまで抱きしめていた。
それが俺の最善だった。俺にもっと経験があれば、うまくやれていたのかもしれないが。
トラナは今、目を赤く腫らせてはいるものの、大人しくベッドに横たわっていた。
……神奈は、大丈夫だろうか。
「なあ、トラナ」
小首を傾げるトラナに、俺は微笑んだ。
「何があったのかは知らないが、神奈はトラナの友達だろう?」
トラナは口を固く閉じると、背中を向けてしまった。
「トラナが目を覚ますまで傍にいたのは、俺じゃなくて神奈だよ」
トラナからの返事はない。ただ、小さく肩を震わせていた。
俺は優しくトラナの頭を撫でた。
そして数分経った頃か、トラナがか細い声で答えた。
「……神奈、こわい」
「そうか」
トラナは掛け布団を掴むと、引っ張り上げて頭まで布団を被ってしまった。
布団の上から規則正しく、あやすように俺は軽く叩き続けた。
やはりまだ体調が優れないのか、日が暮れる前にトラナは眠ってしまった。
トラナの寝顔を覗き込んで微笑み、俺はカーテンを閉めた。
病室に、控えめなノックが響く。
扉の方を見れば、馴染みの看護婦が静かに姿を現していた。
「どうも」
「こんばんは、秋津さん。トラナちゃんは……」
「眠ってます。トラナに、何か?」
「いいえ、秋津さんにです」
「俺に?」
看護婦は微笑んで、俺に紙切れを渡した。
紙に書かれた数字の羅列が、目に飛び込んでくる。
「風杜神奈さん、しばらく自宅にいるそうです」
「神奈がそう言ったのか?」
看護婦は微笑みを崩さず、YesともNoとも言わなかった。
「トラナさん、よくなるといいですね」
代わりにそれだけを言い、トラナの容態を診始めた。
俺はほんの少し感じた怒りを抑えながら、言い返した。
「絶対によくなる。神奈が、友達が心配しているんだ」
「そうですね」
看護婦はトラナの布団を正して、「失礼します」と丁寧に礼をして去っていった。
俺はしばらく紙切れを眺めた後、丸めてポケットに突っ込んだ。
トラナの調子は、日を追うごとに良くなっていった。
時折振る神奈の話題に対しても、今は緊張するくらいで済んでいる。
「ごちそうさまでした」
「ごちそうさまでした。えらいぞトラナ、残さず食べられたな」
俺が頭を撫でると、トラナは嬉しそうに笑った。
「じゃあ、食器片づけてくるからな」
トラナはうん、と笑顔で頷いた。
俺はベッド用のテーブルに広げた食器を盆の上にまとめると、誰もいない配膳室まで運んだ。
空いた両手をポケットに突っ込む。
トラナのところには戻らず、俺は看護師たちの詰め所の方へ向かった。
こっそり詰め所を覗くと、看護婦がひとりだけ待機していた。
看護婦には声をかけず、詰め所の隣に設置された公衆電話の前へ、静かに足を運んだ。
ポケットの中から、丸まった紙を取り出す。
紙を片手で何とか見られるようにまで開くと、公衆電話に一わんわん硬貨を食わせた。
紙に書かれた数字を、慎重にプッシュしていく。
――Trrr……。
かかった。
三コール目が終わる前に、がちゃりと受話器を取る音がした。
くそ、心臓が変なダンスを踊っていやがる。
『はい、風杜です』
「こんにちはー。風杜神奈さんの――――」
『こんにちは、秋津さん』
お宅ですか。そう続ける代わりに、俺は安堵の息を吐いた。
受話器から聞こえてくるのは、俺がよく知っている神奈の声だった。
「ああ、よかった。さすがに女子学生に電話するのは、ドキドキでね」
おどけを交えてそう言うと、小さな笑い声が聞こえてきた。
トラナだけじゃなく、神奈の方もずいぶんとよくなったみたいだ。
神奈は笑い声をすぐに潜めると、不安そうな声で尋ねてきた。
『……トラナ、どうですか?』
「だいぶ調子はいい。もう家に帰ってもいいそうだ。明日には帰る」
俺はなるべく明るく答えた。
『顔を見せても……大丈夫でしょうか?』
「その、顔でも見て見ないか、今は悪夢も見てないようだし」
まったく同時の発言だった。考えていたことは同じ、ということか。
しばらくの沈黙。俺は神奈の返答を待っていた。
『私にあったら、悪くなったりしないかな……』
「友達をなくすことより悪いことは思いつかない」
『……励ましてくれているんでしょうか? ……私も、トラナに会いたい』
「じゃあ、昼過ぎに」
『はい、昼過ぎに向かいます』
かちゃり、と電話の切れる音がして、俺も受話器を置いた。
ああ、まったく出来のいい悪夢だよ。
俺の娘が、娘たちが、お互いの顔を見るのが怖いだなんてな。最悪だ。
だが、悪夢なら覚めるはずなんだ。
夜が来れば朝が来るように。たとえ、時間はかかっても。
病室に戻ると、トラナは窓にへばりついて外の様子を見ていた。
窓からこぼれ入る朝陽を浴びてか、トラナの金髪が輝いていた。
「トラナ」
トラナが振り返って笑った。
「今日がいい日になるといいな」
首を傾げるトラナ。
俺はトラナの隣に立つと、トラナの頭を撫でた。
「本当は今日じゃなくてもいいんだ。
明日でも、明後日でも……一年後は、ちょっと遠いか」
苦笑を漏らして、外の眩しさに目を細める。
「だが俺は、俺の娘の勇気と優しさが、今日をいい日にすることを願っているよ」
トラナを見下ろすと、トラナは目を丸くして俺を真っ直ぐに見ていた。
俺は気恥ずかしくなって、トラナの頭を思い切り撫でて誤魔化した。
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最終更新:2008年03月17日 01:49