有原航平

1992年8月11日生まれ。広島県出身。
2014年ドラフトにて4球団競合で1巡目指名。

中学時代まで軟式野球を経験。
高校は広陵高校に入学(OBにみつお)。
2年春にベンチ入り、夏には主戦格として頭角を現す。
秋には主戦の座を射止め、ケガで出遅れながらも広島県大会優勝に貢献。
3年には春夏甲子園に出場して春はベスト4、夏は1回戦負け。
プロ球団から高評価をするところもあるも早稲田大学へ進学(OBに佑ちゃん)。

大学1年春からリーグ戦に出場、立教大学2回戦で救援初勝利、初先発の明治大学1回戦は負け投手。
1年秋には開幕投手もなかなか結果が出ず、その後はリリーフで起用、2年春に守護神としてリーグVと5年振りの選手権Vを達成。
2年秋に主戦として1季通して活躍して投手十傑入り、3年春は3勝(完投なし)にとどまる。
3年秋には左足小指骨折で出遅れながらも最優秀防御率(0.72)のタイトルを獲得、中盤からは先発にも復帰した。

右ひじ痛の影響でキャンプは国頭スタート、調整を経て3月22日のイースタンリーグの西武戦で実戦デビュー、
1回を10球で3凡に仕留めた。何度かの実戦を経て15年5月15日にオリックス戦で1軍デビュー。
6回を投げて2失点も直後に味方が逆転、プロ初勝利をあげ、同年9月5日にプロ入り初完投初完封を対オリックス戦であげる。
デビューが2カ月遅れたものの終わってみると、規定には達してなかったものの8勝をあげてこの年の最優秀新人賞を獲得する(2010年の榊原以来)。
16年7月度には好成績(3勝1敗/防御率1.47)で初の月間MVPを獲得する。17年3月16日に監督より手紙を渡されて開幕投手に決まる。
18年春季キャンプはアリゾナ組も右肩炎症で出遅れる。同年4月14日にようやく1軍登録、対オリックスで8回1失点で勝利投手となる。ただその後は調子を落とし同年5月29日に2軍へ。同年6月12日に再び昇格して翌13日の対阪神で9回に抑えとして登板、1点差でヒヤヒヤしたが何とか抑えてプロ入り初セーブをあげる。同年6月29日に再び先発復帰準備の為に抹消、同年7月9日に再度昇格して先発した対ソフトバンクで7回まで投げて勝利投手となる。
19年は3,4月度の月間MVPを獲得、また先発ローテーションの一角として負傷した上沢の分まで奮闘、シーズンを通してローテ―ションを守りこの年の最多勝のタイトルを獲得した。またオールスターでは監督推薦で出場、第1戦に出場して3回の2番手で出場、4回にヒットを打たれた後に味方のミス+内野安打で1失点を喫する。同年12月4日の契約更改にて来シーズンオフ以降にポスティングでメジャーを目指す意向が発表。
20年シーズンは2度目の開幕投手を務め、シーズンを通して8勝であった。同年11月26日にポスティングシステムを利用してのMLBへの移籍を目指していたが、同年12月26日(現地25日)にテキサス・レンジャーズに2年総額600万~700万ドル(約6億2000万~7億3000万円)で契約と発表。

エピソード

  • 187cm90kg、恵まれた体格のスリークォーター右腕、最速156㌔の大学No1投手。
  • 勇翔寮入寮時に広島名物もみじ饅頭を持参して寮監さんに渡していた。
  • 春季キャンプでのビーチグラスランプ制作時に、「先生!もう一度説明してもらえますか」と講師の係員に発言して他のルーキーたちに突っ込まれていた。
  • ウェイトルームでバイクをこぐことが日課で、その様子を見た先輩後輩から「有原さん本当"バイク王"っすね」といじられる。
  • 上記のような理由でキングという愛称が定着、「ARIHARA KINDOM」というTシャツまでできてしまい(投手陣おそろい)、そのTシャツは7月度月間MVP獲得記念で販売が決まった(限定)。
  • そして17年以降もキングダムTシャツができてしまう。
  • 16年応援大使訪問で青い池(美瑛町)へ向かう途中にスリップ事故に遭遇、佑ちゃんと共に事故車の男性を救助した。
  • 一部のファンにヒーローインタビューが小学生っぽいといじられている →ありはら君
  • 20年3月に1つ年上の女性との入籍を発表、しかも同い年の加藤と同じ日の発表だった。
  • これまであまり語ることはなかったが移籍前のファン向けの手記を掲載した。

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最終更新:2021年02月08日 21:08