1991年2月4日生まれ 東京都出身
2009年ドラフト6位で入団。
内外野守れる上にスイッチヒッターのユーリティープレイヤー。
声のデカさは
稲田二世。将来は打って走れる飯山二世になるかと期待されている。
身長は173cmと結構小柄(ハム野手では下から2番目)
2010年にイースタンで133安打を打ち、同リーグのシーズン安打記録を12年振りに更新した。
11年
賢介故障により1軍age。
7月2日vs西武戦で初ヒット。3打数2安打1四球2盗塁2得点の活躍。その翌日にはレフト線ツーベースを放ち初打点を記録。
7月21日のフレッシュオールスターゲームでは優秀選手賞を受賞。
12年は
稲葉故障により1軍age。
6月26日vs楽天戦で初ムラン。8月8日のvsソフトバンク@帯広戦で自身初めてのサヨナラヒットを放つ。(抑えの森福より)
13年は初の開幕1軍入り+応援歌完成。しかし打率1割台と低迷、1軍と2軍を往復する苦しいシーズンとなった。
14年シーズンは開幕1軍入りしてから気がつけば1度もsageなしで終える。15年シーズンは交流戦での活躍や西武球場での場内アナウンスを始め(後述)、
チームのムードメーカーとしての役割を果たす。16年シーズンより背番号が2になることが決まる。
16年4月10日の対楽天にて負傷、当初は手首炎症との発表だったが再度検査後に右手有鈎骨骨折が判明、手術。6月に復帰を果たす。
17年シーズンは3月に左脇腹を、4月に左ふくらはぎをそれぞれ肉離れするなど故障が相次いだこともあり、1軍出場は35試合にとどまった。シーズンオフのイベントの中で同年12月下旬より1か月、バンディッツ(オーストラリア・ブリスベン)にてウインターリーグへ参加することを表明した。
19年シーズンに国内FA権を取得も行使せずに残留を表明、同年10月11日に残留会見。
20年もオーストラリアで自主トレを実行、同年9月10日に海外FA権を取得、去就が注目(?)されていたが同年11月30日にFA権を行使せず残留を発表。
21年シーズンについては1軍では54試合に出場、打率.117と奮わなかったものの国内外のFA権を行使せず、21年11月1日に20%近くの減俸で残留を発表した。
22年もなかなか出場機会に恵まれない中であったが、同年10月28日にて突如現役引退を発表した(後述)。
引退後は久々に野球BANなどバラエティーにも出演もあるが、野球の取材にも精力的に出かけている模様(後述)。
エピソード
- 中学生の頃、将来はプロ野球選手かお笑い芸人になりたいと思っていた。しかし「お笑いのセンスがない」と母親に言われる
- 帝京高校出身であり、先輩のひちょりとともに帝京ファイターズを結成していた。
- 鎌ヶ谷に観戦した住民はもれなく「杉谷うるせえww」と報告をくれる。
- 唯一の同期入団かつ高卒野手である中島とは親友。よくセットにされる。
- お父さんは北海道出身の元プロボクサー。しかもフェザー級の日本チャンピオンという強者。拳士という名前も恐らくここからきている。
- 「親父にボクシングジムを建ててやりたい」とのたまう親孝行な一面も。
- 2006年夏の甲子園準決勝、智弁和歌山戦にて、ピッチャーが足りなくなった為、9回裏に急遽登板するも、一球で相手にデッドボールを与えて降板。しかもそのランナーが生還してサヨナラ負けとなる。
- ちなみに風呂スレや炎上スッドレではこの試合を「伝説の馬鹿試合」と呼ぶこともある。
- 鵜久森夫妻の結婚祝いにドラッグストアコスメを送りうぐ嫁を失笑させる
- うるささを買われ10年春一軍昇格。自己紹介で「S.U.G.I.Y.A」の人文字を披露、さっそくスベる。2日間ベンチで声を出しただけで再び鎌ヶ谷へ。
【 505 】: ハム番24時『元気ならチーム1』 2010/10/15(金) 09:56:51 QaI8toBt
「抜っけろ〜」という絶叫に、1軍メンバー勢揃いの中日ナインは目を白黒。
声の主はもちろん、元気ならチーム一の杉谷だ。
試合前のフリー打撃の際「これは行った〜」などと打球に大声を浴びせて自らを乗せていくのは、鎌ケ谷でおなじみの光景。
ただ、この日はいつもより声が大きく、ベンチ前でアップを始めた中日選手も皆、杉谷のバッティングにくぎ付けとなっていた。
もちろん杉谷のイメージに凡退はなく「抜けた!」「行った!」を連発。
これを聞いた中日の石嶺打撃コーチは「それじゃ10割打者やろ」と苦笑していた。
試合では4打数無安打に終わったものの、元気者の存在はしっかり印象づけた。
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- 2012年7月14日に自身初の猛打賞を取り両親に報告するも、その日は都市対抗を観戦していた為に活躍を見ることがなく、わざわざ自分の活躍を報告していた。
- 「朝からしんどいわ~」と同期と後輩に言われる(FFFFFより)
- 自らを「今日ドキッファミリー」と名乗り、スタジオにも行きたいと言っていたら、不定期コーナーで「スイッチ杉谷」が誕生。コーナー最初は同期にインタビューをして自らマイクを持つも(ry
- 12年9月17日のvsオリックスでお立ち台に上がり、その日のインタビュアーのT口くんからマイクを奪い、「やりましたー!」と叫ぶパフォーマンス。その何分か後にロッカーに戻るとロッカーが荒らされていた。どうやら先輩たちの愛のムチのようだ。愛され杉谷。
- 福良コーチとなっぱさんによりヘルメットを後ろ前にかぶり黒のビニールテープでひげをつけられてチャップリンにさせられる。
- また数日後、今度は中田に顔面にガムテープを貼られその上から落書きされる。
- 2012年リーグ優勝のビール掛けの際、両頬にマジックで書かれた優勝の文字と繋がり眉毛を携え登場。どうやら犯人はあのお方。
- 12年契約更改の際、賢介の後釜をアピールすべくピンクのネクタイで臨むもその前に契約更改が終わってしまった。
- 13年名護キャンプで、少年野球の子どもたちに、外野手理想の捕球位置をレクチャー「おでこの上が理想、オイッス!みたいな感じ!」多分、今の小学生は知らない…
- 東日本大震災の時に福島への被災した野球少年たちに向けて何名かの2軍選手に声をかけ、野球道具などを寄贈した(参照)。
- 13年は「眠れない日々が続いた」「幸雄さんに泣きながら電話した」と心境を吐露。頑張れ杉谷。
- 13年シーズンオフ後に札幌に拠点を構え退寮(住所不定になる)その際に入寮する後輩に家具や家電を残していった。
- 14年春期キャンプではサードに転向した翔さんと共に白井塾受講。キャンプ名物の一つになった。
- 翔さんには練習中ちょっかいかけられたり、泥だらけにされたり、カブトムシを顔面に這わされたりと大変可愛がられてる模様。
- 14年から左右の打席で応援歌のメロディが変わるという、恐らくプロ野球応援歌史上初の試みがなされる。
- 15年の新春特番「とんねるずのスポーツ王は俺だ」のリアル野球BANに初めて招集され、yahooのリアルタイム検索上位に名前を連ねるなど活躍していた。
- 春季キャンプにおいて誕生日当日の打撃練習の時、その際にバッピだった佑ちゃんにぶつけられたあげく、この日が誕生日だったことすら知っていなかったようだ。
- 14年シーズン終盤頃より西武ドームでの試合前練習の際は球場ウグイス嬢(西武職員/鈴木あずささん)にいじられるのがお約束に。ついにYahooトップページにも掲載された。
- 応援ボードやユニで「拳」と「挙」を間違えられることがあったようだ。
- 16年8月3日の対ロッテでのヒロイン中にレアードに水をかけられあぜん。
- 17年10月22日に2年の交際を経て3歳年上の女性と入籍も20年1月に離婚してしまった。
- 20年シーズンよりガッツヘッド兼打撃コーチが入閣することになり自らの背番号2がはく奪されるのではとおびえていた模様。
- 帝京高校の野球部OBの石橋貴明(とんねるず)がYoutubeチャンネルを開設した際に「今週の杉谷」コーナーもできる。しかも応援歌まで作られてしまう。
- 22年10月28日の会見では「引退会見」でなく「前進会見」を開く。最後に栗山前監督がやってきて花束を渡されると号泣した。
- 22年11月5日の侍ジャパン強化試合当日、試合前のグランドでの事。上記の西武職員の鈴木さんによる最後の場内アナウンスが流された。「ざわめくハートを持て余している全国の杉谷拳士ファンの皆さま。その人気は今や侍ジャパンを超え、球界大注目の皆さまの杉谷拳士選手がただ今、最高に前向きにバッティング練習を行っております。今日は最後のチャンスです。よろしければご注目ください。」
- 強化試合で代打(当初はスタメン打診も自らの希望)で登場すると東京ドーム全体で温かい拍手が起こるも、その様子はと言うと代打で出場したその時に地上波は終了していた(BSではしっかりその様子がOAされていた)。
- 試合終了後には自軍だけでなく侍ジャパンメンバーも集まり、計5回の胴上げとなった。
- 侍ジャパンの取材に宮崎を訪問、23年2月19日の「アッコにおまかせ!」で生レポートの際、司会の和田アキ子に「杉山さん」と呼ばれたり、また宮崎入り前日までアメリカで取材を行っていた事もあり、取材中に熟睡姿をヤクルト村上に発見されていた。
杉谷メーター
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すき家 すぎたに 杉谷 打ち杉谷 すご杉谷 うま杉谷
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最終更新:2023年02月19日 22:03