プラユキ・ナラテボー


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相手の「不愉快」な行動に、怒ることなく、無理に自分の気持を抑えることもせず、きちんと自分の気持を伝える。

一般に、雑念が浮かんでこずに、心に静けさがあるときだけが「瞑想ができている」状態である、と理解されていますよね。
ひとつの思考が浮かび、パッと気づいて、それを受けとめ、観察し、また手の動きや呼吸に戻ってくる。その全体プロセスが瞑想であり、その一連のプロセスから無常や無我といった洞察を得ることがブッダの瞑想の真骨頂なわけです。したがって、内容も、意味合いも、ムードも、それぞれ異なるさまざまな思考やイメージ、気分などを、「音」「妄想」「雑念」などという言い方で一緒くたにして、切り捨ててしまうのはおすすめできません。どんな思考であれ、イメージであれ、それ自体も法の一部です。それらを切り捨ててしまっては、法の全体像が把握できなくなってしまいますからね。→そうして、無常、無我、慈悲に気づいていく。

具体的に説明すると、「こんな自分はダメだ」とか、「あいつにあんなことを言われて傷ついた」とか、あたかも自分や相手、相手の言葉などが苦しみの原因かのように思われがちですが、実はそう「考えている」のは「こちら」で、いつでも「こちら」の思考が苦しみを生み出しているわけですね。これは、省略された「I think」が自覚化されていないとも表現できそうですね。したがって、こっちに引き戻せて、「I think」を自覚化できるようになると、問題はシンプルになり、いつでも今ここで苦しみの解決をはかっていくことが可能となるわけです。

あらゆる回路から自由になっていくことを目指しているといってもいいでしょうね。「輪廻からの解脱」とは、結局はそういうことを言っているのです。身体の生まれ変わりが終わるなんていう即物的で大ざっぱな話では本当はないんですよ。

私も、最初は自分の悩みを減らしたいと思って、自分の心を詳しく観察していましたが、そのうちに悩みごとの相談を受ける機会が増え、彼らの苦しみをどうにか減らしてあげたいと熱心に話を聞いているうちに、だんだんと心の構造や、苦しみが生まれたり消えたりしていく「心のからくり」が見えてくるようになりました。仏教用語を使えば、「慈悲の実践」が「智慧の醸成」をも促すということですね。智慧と慈悲は互いに無関係ではなく、連動しながら同時的に育まれていくものだとわかってきました。私にこうした生きた智慧を授けてくれたのは他でもない、実は私の中の怒りや欲といった感情であり、私のところにわざわざ相談に来てくれた人たちのおかげさまだと思っているんです。

それから、オウム真理教の信者に限らず、神秘的な体験によって、自分の宗教的な格が上がったと思い込む人はたしかにいますね。私は、そういう体験をした人には、「それはそれでよかったね。その体験をただあるがままに受けとめていけばいいよ」と伝えています。瞑想を続けていけば、人それぞれさまざまな精神体験が起こってくるわけですが、それにとらわれてしまわないことと、基本的に「抜苦与楽」、すなわち、自分や周囲の人の苦しみが軽減され、楽が増しているのであれば、それは正しい方向に進んでいるとみなしていいと思います。逆に、どんなに一所懸命瞑想に励んでいたり、神秘体験をしていても、自分の苦しみも、また周囲の人たちの苦しみも一向に軽減せず、逆に増しているのであれば、それは正しい方向には進んでいないと判断し、現在取り組んでいる瞑想といったん距離を置き、修正すべき点などを点検したほうがいいでしょうね。

私なりの言葉で「よき縁に触れ、よき縁となし、よき縁となる」と紹介しています。たとえば果物でいえば種が直接原因としての「因」、光や水、土や適度な温度などの環境が間接条件としての「縁」で、その「因」と「縁」が関係性を持つことによって果物が実ってきますよね。それと同様、私たちも日々一瞬一瞬、五感から入ってくる色形や音声などの情報、気分やイメージ、想念など心のさまざまな現象と関係を持って生きています。それらすべてを縁として捉え、まずはよき縁に触れていく。よき友、よき環境、よき情報を自ら選択することが、幸せに生きていくための基礎になります。 次の「よき縁となす」は仏教の核心とも言えるでしょう。日々出会う人、出来事、情報、そして一瞬一瞬に転変する自身の心のさまざまな動きに適切に対応して、それらを苦しみの種にしてしまうのではなく、自らの学びや人生の糧にしていくことです。与えられたどんな素材をも生かしきって、美味しく栄養のある料理へと変えていく料理人のようにですね。これが「智慧」の真骨頂です。 そして「よき縁となる」は、今度は私たちがよき縁、よき環境となって、他者の苦しみを減らすお手伝いをしたり、社会をより良くしていったりすることです。「慈悲」がこれにあたります。

たとえば人間関係でさまざまな行き違いも起こってきますが、そんなときは、相手の表情や言葉をしっかりと受けとめて、適切な対応をはかればよい。そういった感じで、とてもシンプルに問題解決や良き人間関係づくりを進めていけるようになるのです。(適切な対応がはかれないという思い込み)

自我的」な対応と対比するとわかりやすいと思います。まず、自分の意見や気持ちを相手に押しつけようとするのが「自我的」。それに対して、相手の意見も自分の意見も平等に尊重した視点から発言できるのが「瞑想的」。それから、相手の表面に現れる言葉にすぐ反応しちゃうのが「自我的」。それに対して、相手の言葉をいったん受けとめて、その言葉の奥にある相手の思いや願いにまで思いを馳せられるのが「瞑想的」。そして、問題が生じてきたとき、すぐに白黒をつけようとするのが「自我的」。それに対して、その問題を通していろいろ学んだりしながら、相手との関係をより良くしていこう、より良い解決法を見つけていこうと前向きに取り組むのが「瞑想的」な対応法です。

念定慧 気づきが落ち着きを生み、落ち着きが知恵を育む。

篠浦伸禎

本来右脳的な感性で生きてる日本人が、世界の競争にさらされて左脳的な世の中で生きていかざるをえなくなり、本来たいしてレベルの高くない左脳的な面を厳しくチェックせざるをえない。それが問題だと思うんです。東洋と西洋の違いで述べた死の問題も当然ある。本来は右脳的な面が特徴であった日本人が、戦後の教育も含めた環境で炉心融解して、何もなくなったんじゃないかなあ。今よく言われている無縁社会や孤独死なんてその証拠ですよ。要するに、温かい人間のつながりで成り立っていた社会が崩壊し、かといって西洋のように宗教のようなセーフティーネットもない、それをつくる気にもならない、宙ぶらりんの状況。これは、司馬さんが亡くなる前に嘆いていた問題の本質じゃないかと僕は思っています。




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