十文字館(亘理町)

十文字館
(じゅうもんじだて)
所在地亘理町逢隈十文字字宮前
別称古館
築城年平安時代末期
築城者十文字綱安
城主変遷十文字氏-武石氏、相馬氏[十文字氏]…
廃城年天正十三年(1585)
現状十文字神社、宅地、耕作地

概要

十文字館は宮城県亘理郡亘理町に所在した城館跡であり、平安時代から戦国時代まで当地を領した十文字氏の居館であったとされる。

歴史

十文字氏は嵯峨源氏渡辺綱の末葉である源左衛門綱安を祖とする。綱安は源義経に従って都より奥州へ下るが、文治五年(1189)奥州合戦に敗れた後この地に土着、館を築き荒地を切り拓いて所領とし、以後十文字氏を称して居住したという。

初め小堤城主武石(亘理)氏に仕えたが、その勢力が衰えた正中年間(1324-26)頃には小高城主相馬光胤に2700石を以て仕えたという。その後十文字政綱が再び亘理氏に仕えたというが、天正十三年(1585)十文字政安が伊達政宗との合戦に敗れて遠田郡へと移ったとされており、去就は定まっていなかったものと思われる。

というのも、名取郡より南の刈田、伊具、亘理、宇多郡周辺は、中世を通じて武石(亘理)、伊達、相馬氏といった勢力の激戦地であり、十文字氏はもちろん武石氏も伊達、相馬両勢力に挟まれて去就は定まっていなかった。亘理氏が伊達氏の麾下に属したのは弘和元年(1381)8代肥前守行胤の代とされるが、その後は離反して抗争を続け、再びその麾下に加わったのは15代宗元の代であった。以降亘理氏は伊達氏より嗣子を迎えるなどして完全に家臣団に組み込まれているので、前述の通り十文字氏が天正年間(1573-92)伊達氏と敵対していたとすれば、亘理氏を離れて再度相馬氏に属していたものであろう。

しかし天正九年(1581)伊達氏と相馬氏の合戦の際には、おそらく亘理家中にあったであろう十文字新助なる人物が、相馬勢の部将村松薩摩(後の駒ヶ嶺城城代)によって討ち取られている。十文字氏自身も伊達、亘理方と相馬方に分裂していたのかも知れない。

なお亘理郡を去った後の十文字氏であるが、登米郡中津山の上要害館、内要害館の館主がそれぞれ十文字内記、同八郎左衛門兄弟と伝えられており、遠田郡涌谷城へ移封となった亘理氏(涌谷伊達氏)に従ってその家臣となったものであろう。

ちなみに発掘調査では中世の遺構、遺物が全く発見されておらず、建造物なども大きな造り替えが無く数回程度と推定されている。従って、前述した様な十文字氏の伝承は考えにくい。また遺構の形態も一般的な中世城館とは異なっているため、現在は江戸時代の有力者の屋敷と推定されている。

なお出典は不明ながら、天正十三年(1585)の落城の後、伊達氏は白土小十郎にこの城を与え、その子孫が代々城跡に居住して明治を迎えたといわれている。また十文字村「風土記」には、落城後この地に伊達安房屋敷が置かれた旨の記載があり、亘理要害の別邸として使用された可能性も示されている。

現状・感想

十文字神社東側、現在は耕作地として利用されている一帯が十文字館跡である。現在は館跡南側を道路が分断しており、その道路沿いに標柱が建てられている。道路より南側の様子は全く見当がつかないが、北側には若干遺構が確認出来、道路北側だけでも東西約100m、南北約120m、道路南側を含めれば南北200m以上の規模を持つ、周囲を沼沢地に囲まれた平城であったと考えられている。館跡の周囲には水堀跡が巡っており、北端の杉林の中には堀、壇が残存している。

現在は周囲は全くの田園地帯であり、標柱が無ければ非常に判りにくい館跡です。学生の頃実家に帰省した際、地元亘理町出身の母親から、「十文字には昔お城があったらしいよ」との情報を受けて訪問したのが最初だったはず…?

現在実家は亘理町にありますがわたしは一度も住んだことがなく、営業やってた頃に宮城県に出張した際、たま~に泊まる程度だったんですよねー。帰省した際に再度訪問して詳しく見て廻ろう、なんて思っていますが、妻子を実家に置いてふらふらもしにくいのが現状(笑)

関連項目

最終更新:2012年10月08日 11:35
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