黒霧@伏見藩国様からの依頼より



 黒霧にとってそれは、まさに寝耳に水の出来事だった。
 公共事業を少しばかりこなしてみたら、報酬にデートチケットがプラスされたのだ。ダイス勝負に勝って。
 なんで、僕に。
 ダイスの神様はひどい気まぐれだ。特に会いたい相手もいない僕ではなく、他の人に当たれば良かったのに。
 何度そう思っても、ひらひらとデートチケットを揺らせてみても、たとえばデートチケットに足が生えて誰ぞの場所へ行くことなどあるわけもなく。
 黒霧は持てあましていた。
 ひとりでは処分法も思いつかないほどに。

『誰と行くんですか?』
『行ってみればいいじゃないですか』
『――さん、とか。どうですか?』

 多くの人に相談をした。多くの人に、使うことを勧められた。
 けれど、デートチケットを使って約束を取り付けると、相手はデートだと思って待ち合わせの場所までやってくるというのもあり、踏ん切りがつかないでいた。

『おすすめの相手を、選んでもらうとか』

 そんな中、誰かが言った一言に黒霧は考える。

 ――デートチケットで呼ぶ人をおすすめ(?)という形で選んでもうことはできるでしょうか?
 ――ええ。

 そして、このごく短いやりとりの結果、黒霧はデートチケットを使うことに決めた。
 物は試し、一回くらいはデートしてみたっていいだろうと、少し思っていたからというのも、実はあるのだが。



 海岸に照りつける強い日差しを、黒霧は腕で遮って目を細めた。
 宰相府藩国、夏の園。

「そういえば、夏は山ばかりで海に行ったことはあんまりないなぁ……」

 少しの物珍しさと共に、黒霧は周囲を見回した。
 白い水着を着た子どもたちが、ビーチボールを追いかけて砂を蹴る。
 色鮮やかな三色のパラソルが広がる。
 青い海に浮かぶいくつもの頭と、歓声。青い空の下で、寝転ぶ女性たち。
 そして、目の前を若い男女が連れ添って通り過ぎ、黒霧はにわかに緊張した。

「待ち合わせの場所は、ここでいいはずだけど……」

 口から余分な力を吐き出すように、言葉がこぼれる。
 眼鏡のズレを直し、誰かを捜しているような人がいないかと、先程よりも注意を払って見回してみた。
 だが、見あたらない。
 代わりに、雪玉が……否、雪のように白い猫が歩いてくるのが見えた。
 その様は、人ならば、背筋を伸ばしてしずしずと、といった表現がぴったりと似合うのだろう。
 まるで貴婦人のような……否、猫だから貴婦猫、美猫か。
 触り心地の良さそうな純白の長毛からも、一際よい環境で育っていることが見て取れる。
 少なくとも、海水浴場に縁があるとは思えない。
 事実、浮いていた。
 もちろん、猫の方はといえば、あくまでマイペースだ。
 歩調を早めることもなく黒霧の足下まで来て立ち止まり、丸い両の瞳で黒霧を見上げた。
 愛らしいその姿に、黒霧は思わず微笑んで、頭を下げた。

「こんにちは~」

 応えるように、猫が頷いた。

「初めまして。待ち合わせの相手はあなたでしょうか?」

 内心冗談交じりに尋ねると、猫はまた頷いた。
 念のため、再び周りを見てみるが、誰かを捜しているような人はやはりいない。
 黒霧がどこか諦めたように猫の前で膝を折ると、猫はゆっくりと尻尾を振った。

「僕は、くろむ、といいます」

 猫が口を開けた。にゃん、と言っているような気がするのだが。

「うーん、声が聞こえない……。僕の耳が悪いのかな」

 頭を傾けて、とんとん、と耳を叩いてみる。
 猫が、黒霧の真似をするように首を傾げた。
 その様子がおかしくて、黒霧は表情を崩した。

「ああ、そうだ。あまり日差しの下にいると、暑いですよね。日陰に行きますか?」

 木の陰になっている方を指すと、猫はそちらを向いた。
 よく見えるようになった猫の首は、変わらず純白の長毛だけで飾られていた。

「……あれ?」

 思わず発した黒霧の言葉に、猫が振り向いてまた首を傾げた。

「いえ、何でもありません。それでは、日陰へ行きましょうか」

 黒霧が立ち上がって一歩踏み出すと、猫がその後ろを数歩ゆっくりと進む。
 ――飼い猫では、ないのだろうか。
 首輪がなかった。他に飼い主の手がかりになりそうなものも、何も。
 これだけ丁寧に手入れをされて、一目で大切にされていると分かる猫に、飼い主がいないというのはおかしい。
 それなら、着け忘れた? いや、あり得ない。大切だからこそ、もしもの時のために身元の分かるものを着けさせるものだ。
 だが、首輪がないからこそ、猫は一層美しかった。
 首輪に美しい長毛を圧迫されることもなく、下品な装飾で飾り立てられることもなく。
 黒霧が木に寄りかかって腰を下ろすと、猫も黒霧のすぐ隣にそっと座った。
 じっと見つめる猫と、笑顔で見つめ返す黒霧。
 猫の前足は、小さなジャンプを繰り返していた。
 黒霧は少し考えて、両腕を広げて見せた。飛びつきでもしたいのだろうかと、思ったのだった。
 だが、猫はひどく驚いたように黒霧から遠ざかった。
 何かされると……たとえば、捕まえられるとでも、思ったのか。あるいは、大きく広がった物に対する、反射的な恐怖か。
 黒霧はすまなそうな顔で、ゆっくりと腕をさげた。
 猫は一歩一歩、確かめるように黒霧に近づいた。座っていた場所よりもやや離れたところで立ち止まり、いかにも不安そうな瞳を黒霧に向ける。

「すみませんでした。うん……そうですね」

 砂漠の国を訪れた黒猫がペンで字を書き、人と意思疎通を図ったという話を思い出す。
 ひょっとしたら、と、黒霧は上着のポケットから手帳とペンを取り出すと、一人と一匹から少しばかり離れた――ちょうど三点で正三角形になるような――場所に広げた。
 どうぞお使いください、と猫に表情で促す。
 分かっているのかいないのか、猫はペンに近づくと、前足で転がし始めた。
 あるいは、叩いて跳ね上がったペンからジャンプして飛び退き。
 どう控えめに見ても、遊んでいる。
 黒霧は苦笑していよいよ木にもたれかかると、猫に注意を払いつつも、残っていた希望を胸に周囲の様子を探った。
 どこもかしこも、穏やかな夏の日だった。
 探し物も探し人もおらず、かすかな焦りさえ感じていた自分が馬鹿らしくなるほどに。

「平和じゃ……」

 心地よい眠気を感じながら、黒霧は猫の方に目を遣った。
 猫は、ペンはもう飽きたのか、寝転がって自分の尻尾をペンの代わりにして遊んでいた。
 デート?相手に退屈させることもない。
 そう思って、黒霧は優しく猫に声を掛けた。

「散歩、しませんか?」

 黒霧の声に反応したか、あるいは言葉の意味が分かっているのか。
 猫はゆっくりと起きあがって黒霧を見上げた。ゆっくりと尻尾を振る。
 黒霧も立ち上がった。歩み出せば、猫は黒霧の斜め後ろに、付き添うようにして歩き始めた。
 尻尾を立てて、しずしずと。

「んー。なんかいいですねぇ」

 美猫のお供というのも、案外。
 黒霧が左右に小さく揺れる尻尾見下ろしていると、猫も気づいて顔を上げた。
 そして、素早く黒霧の後ろに回った。
 何事かと黒霧が思う前に、猫は軽やかに背中を駆け上がる。
 まるで、そこが定位置であると言わんばかりに。猫は黒霧の肩に鎮座した。
 優しい風に吹かれる中、その視線は海を捉えていた。
 黒霧も同じように海へ目を向けた。

「いい景色ですねー」

 猫は黒霧に体をすりつけて応えた。ねえ、そうでしょう? と言わんばかりに。
 感触の良い長毛に、黒霧はくすぐったそうに笑った。

「そうだ。風もいいし、このあたりで少しご飯を食べませんか?
 それとも、もう少し歩きます?」

 猫は黒霧の目をじっと見ると、飛び降りた。
 音もなく黒霧の前に着地して、首だけを振り向かせて立てた尻尾を揺らせる。

「ついて来て、ってことですか?」

 一度だけやや大きめに尻尾を振って、猫は歩き出した。
 ――どこに行くのかな。
 黒霧は猫の後を追った。過ぎゆく景色を記憶に留めながら。
 ちょっとした、冒険気分。
 道はどんどん、縦にも横にも狭くなる一方だったが、楽しくて嬉しくて仕方がない。
 そして、猫は、ついには生け垣の下をくぐって行ってしまった。
 逡巡すること、約一秒。黒霧も生け垣の下をくぐった。
 ここで猫とさよならをするよりも、生け垣を荒らしたことを謝った方が、ずっと良かった。

 生け垣の下を何とか潜り抜けると、大きな屋敷が見えた。
 その屋敷を取り囲む大きな庭、屋敷の作る影の中に黒霧は立っていた。
 トンネルを抜ければ、か。
 黒霧は笑って、服を軽く叩いて土を払った。
 いなくなってしまった猫を探しながら、屋敷の様子を観察して歩く。
 日陰だからか建物の正面ではないからか、人の気配はなかった。

「それにしても、大きいなぁ……」
「――だれ?」

 突如耳に飛び込む、澄んだ女性の声。
 黒霧は立ち止まった。屋敷の影で、白い布が風に揺られていた。
 屋敷の建ち方や日の当たり方から見るに、おそらくはあちらが玄関なのだろう。

「黒霧と言います。白い猫を追いかけてきたのですが」
「ホワイトスノー?」
「ごめんなさい、名前は知らないんです。ただ、綺麗で、可愛らしい猫ですよ」

 黒霧は緊張を感じながら、答えを待っていた。
 風が吹く。白い布が黒霧の目の前に大きく広がって、太陽の光を浴びてきらきらと輝いた。
 真冬に広がる銀世界のように。
 今日は雪に縁があるなぁ。そう心の片隅で思っても、それが雪であるはずもなく。
 実際に目に映ったのはサマードレスだった。
 着ているのは、猫にも似たふわりとした金髪の美しい少女。
 同じ白色の細いリボンを、髪に絡めて流しているのが、よく似合っていた。
 あの猫が人だったら、そう、彼女のようなのかもしれない。
 もっとも、目の前の彼女の頭から生えているのは、犬耳なのだが。

「はじめまして。黒霧と言います」

 高貴そうな雰囲気を感じ取りながらも、黒霧は常通りゆっくりと頭を下げた。

「アリエス」

 頭を上げて、黒霧はアリエスと名乗った少女を見る。
 青い大きな瞳が、油断なく黒霧を見つめていた。

「私はアリエス・ノダ・エッテ。あなたは?」
「ええと。名前は黒霧。それだけなんです。
 それと。ここにきた事情ですが、たぶん、ホワイトスノーという白い綺麗な猫に案内していただいたのです」

 言って、黒霧は肩に小さな重さを感じた。
 アリエスの視線も肩に注がれていることに気づいて見てみると、追っていた猫、ホワイトスノーが乗っていた。

「まあ、ホワイトスノー。また冒険?」
「好奇心が強いのですね」
「まあ、猫ですし」

 アリエスが眉をひそめて声量を落とした。
 人の出入りが多い宰相府藩国とはいえ、犬の帝国に猫がいるのは、やはり御法度なのだろう。
 黒霧は、分かりました、という返事の代わりに、口に指を一本あてて微笑んだ。

「そうですね。でも、素直で良い子だと思いますよ。ね?」

 同意を求めてホワイトスノーに視線を向けると、ホワイトスノーは黒霧にすり寄った。
 黒霧がそっとホワイトスノーを撫でてみれば、ホワイトスノーは気持ちよさそうにごろごろと喉を鳴らした。

「すごいのね、貴方」

 ホワイトスノーに嫌がられなかった安堵を胸に、黒霧は不思議そうにアリエスを見た。

「ホワイトスノーは猛獣なのよ?」
「きっと、ホワイトスノーがお利口なんですよ」
「なるほど」

 アリエスの顔に、ありありと苛立ちが浮かんだ。
 アリエスの少女らしい表情に黒霧は内心で微笑んで、穏やかに言った。

「それに。あなたはこの猫と一緒にいるんだから、僕よりもすごいんですよ」

 しばらくの沈黙。
 アリエスは小さく溜息を吐いて表情を崩した。

「少しは社交術があるのね? お茶でも飲んでいかれる?」
「……はい。喜んで」

 「ありがとうございます」と黒霧が頭を下げると、アリエスはようやく微笑んだ。

「こちらへどうぞ」

 アリエスのサマードレスが翻る。
 ホワイトスノーを肩に載せたまま、黒霧はアリエスの後に続いた。



 夕日の差し込む窓にカーテンも閉めないまま、黒霧は自室のベッドに寝転がっていた。
 最高級品と思しき万年筆を、腕を伸ばして掲げてみる。
 小さく傷ついているペンの上部が、鈍く光を反射した。
 お話を書いているんです。そうアリエスに告げると、応援してるわ。という言葉と共に、この万年筆をくれたのだ。
 万年筆に見合うような、アリエスに真に認められるような作家になるには、道は果てしなく遠いのだろう。
 だが、それは、今まで通り努力すればいい。
 問題なのは、アリエスに、ホワイトスノーにまた会いたいと思ってしまっていることだった。
 デートチケットを使ってしまった今、その願いを叶えるためにはマイルを多く稼がなくてはならない。
 ――デートチケットをどうやって使おうかなんて、僕はずいぶんと贅沢な悩み方をしていたんだな……。

「マイル坂……」

 今までは、他人事だった。大変そうですね、それで済ませられた。けれど。
 ひどい急勾配の坂を登り、しかし登り切れずに転げ落ちる自分の姿を、黒霧は今なら幻視できる気がした。







作品への一言コメント

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  • や、まったくです(しみじみ)>今までは他人事&転げ落ちる。 なるほど、ここを拾ったかー、と思いました。面白かったです。 -- 黒霧@星鋼京 (2008-05-02 07:42:34)
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最終更新:2008年05月02日 07:42