時雨@FVB様からのご依頼品


「じゃあ、それまで一緒にいさせてもらえますか?」

時雨はそう言葉にして、ドアの影に覗くエステルの顔を見た。
涙を含んで潤んだ漆黒の睫毛が、少し伏せ気味に瞳を覆っている。
綺麗だった。
何故、泣いている女の人は美しいんだろう、と時雨は思う。
僕はこの人を悲しませたくない。笑顔を見たい。
それなのに、
自分は今、泣き顔のエステルを美しいと思う。
どういう矛盾なんだ――


時雨の言葉に、エステルは目を合わせないまま小さく頷くと、ドアを少し開いた。身体が横に開いて、腕が室内を指す。
これは中に入れという意味なのだろう。
泣き顔を他の人に見せたくないからだ、と思いながら、時雨の鼓動が自覚なしに少しテンポアップする。
時雨は律儀に小さくお辞儀して、彼女の部屋へと歩みを進めた。

小さな音を立てて、背後でドアが閉まった。
FVBのエステルの部屋はそう広くはない。
あまり人を入れる事はないのだろうか、女の子の部屋としては装飾は少なく、一見では所有者の性別がわからない。が、それも時雨には想定範囲だった。時雨はさっと部屋の中を見まわしたが、ワンルームである室内の隅に置かれたベッドの角を目にして、慌てて視線を落とした。だからよく見ればデスクの上やベットサイドに小さな人形があったりすることに気づかない。

「なに突っ立っているんですか」
家主の声に、時雨はちょっと狼狽えて、何かをごまかすように反射的に答えた。
「貴女の部屋です。僕が勝手に動くわけにはいかないでしょう」
エステルははっとして、一人がけのソファーを指差した。少し頬を赤らめたようにも見える。
「そこの椅子にでも座って下さい」
「ありがとう」
ソファーに腰掛けながら、時雨はなにか大事なタイミングを逃したような失望感を覚えた。
部屋に入った瞬間に彼女を抱き締めるべきだったのかもしれない。いや、入る前はそう決めていたのだ。
しかし、彼女の泣き顔に躊躇した。そして個室を意識しすぎた――
何より自分がそれほど器用な人間ではないと、時雨自身、自覚していた。
立ったままのエステルが、尋ねる。
「飲み物はいりますか?」
少し悩んで、時雨は答えた。
「貴女に暖かいミルクを、砂糖入りで。僕は結構です」
飲み物の用意なんかであまり時間をとらせたくなかったのが本音だ。
「私だけ飲むわけにはいきません」
いつの間にか涙を拭っていたエステルの顔が、いつもの表情に戻っていた。
ああ、でもこれならいつものペースで接する事が出来そうかも?と、時雨は思い直す。泣いている女の子を前に適切な対応をする方法、など彼のマニュアルにはない。別の事で泣いているなら慰めようがあるが、彼女が泣いてるのは自分が原因なのだから。

――自分が原因。

彼女が泣いた理由を順を追って思い起こして、時雨の頭の中はぐるぐるし始めた。
無重力遊泳を初体験で上手くやってのけたことではなく、
彼女そっちのけで夢中になったことではく、
その、やっぱり、告白まがいの事をものの勢いで言ってしまったこと、なのだろうか。
女の子はそういうとき、シチュエーションとか気にするとも聞いたし…いや、それってうぬぼれ?
それに自分はもう何度も彼女に好意を伝えてるはずだ。
えーとえーと……

0.5秒で我に返り、顔を上げる。
エステルは向かい合った3人掛けのソファの端にちょこんと座って、時雨の言葉を待っているようだった。
「……泣き止んでくれて、良かった」
とりあえず、そういって時雨は微笑んでみた。
「貴方が泣いてないのに、私だけ泣いてるわけにはいきません」
エステルは時雨の顔から視線を逸らしている。
やはり抱き締めておけば良かった…と時雨は後悔した。
「それで、私を笑わせるような面白い話はまだですか?」
「そんな話、今出来るわけないじゃないですか」
「だったら何をしにきたんです?」
エステルは向こうを向いたままだ。
時雨は立ち上がると、エステルの隣へと座った。小さなテーブルを挟んで話す事すらもどかしかった。
驚いたようにエステルは一瞬時雨を見たが、あわててまた壁の方へと顔を背ける。
「貴女の笑顔を見に」
「何もなしにへらへら笑ったりできません」
ごもっともです、と時雨は心の中で溜息を付いた。
何を話せば良い?気の利いたジョークか?それとも彼女のご機嫌を取るロマンチックなセリフか?
そんなもの、浮かぶわけがない。この状況では。
時雨はエステルの顔を覗き込む。
泣いているエステルは綺麗だった。
けれどこうしてツンと横を向いてる横顔も十分綺麗だ。つまり自分にとって、どんなエステルも魅力的なのだ。
そして、微笑んだ顔は……それだけで自分を幸福にさせてしまう力さえ持っていた。
そう、話すことは一つ。
「面白い話はできませんが…やっぱり僕は貴女に微笑んで欲しい」
それは時雨の本心だ。
「さっきも言いましたが、あの無重力ブロックで初めて貴女の笑顔をみた時、すごく嬉しかった。とても可愛く、綺麗だった」
「嘘」
そっぽを向いたまま、エステルが即答する。
「嘘じゃない」
「いいえ、嘘です」
拗ねているのか照れているのか……しかしエステルの否定に時雨は負けない。
「本当です……僕がずっと想像してたものより…」
ぱん、と膝を叩く音に、時雨はどきりとした。
「不謹慎…です!」
「え?……なにが?」
真っ赤になってうつむくエステル。
「わ、私が居ないところで、私を想像する事が、です」
「貴女となかなか会えないから、しょうがないじゃないですか……僕の頭の中は貴女のこといっぱいなんです。だから毎日貴女の事を思って……」
「や、やめて下さいっ!」
「そんなこと…わた…私は…」
エステルの大きな瞳が、再び潤む。
「僕が貴女を思うこと、許しては貰えないんですか」
「ち…ちがっ…」
エステルは白く小さな手で顔を覆うと頭を振った。肩が震えている。
ああ、また泣いてしまう――
微笑んでもらうために来たのに、どうして僕らはこうなんだろう。
今度は僕も泣いてみようか…そうすれば彼女は納得するだろうか。
いや、そんなはず、ない。
「ごめん、また僕は無神経なことを言ってしまった」
小刻みに揺れる黒髪の間から覗く耳が朱に染まっていた。時雨は振り払われるのを覚悟でそっと彼女の肩を抱く。
「頑張って直します、だからお願いです、泣かないで…エステル」
エステルは何も答えず、そのかわり身体を任せるように時雨にもたれ掛かった。彼女の熱が、腕を通して伝わってくる。
癖のない真直ぐな毛先が時雨の指先を優しく刺していた。
「……」
しばらく、涙をこらえるエステルの荒い息使いだけが部屋に聞こえていたが、
「わた…しはっ、ネーバルです」
熱い息と一緒に、彼女はやっとそう言った。
「……ええ」
『それが何か?』と言おうとして、時雨は口をつぐんだ。今は彼女の言葉を聞こう、と。
少しの間のあと、消え入るように小さな声。
「私は……ネーバル“だった”……今はもう……」
「エステル……」
時雨は彼女を抱く腕に力が入りそうになるのを堪えた。彼女の小さな身体は、今の自分の感情のままに抱き締めたら壊れてしまいそうだと思ったから。
「私は、私のこの気持ちに整理が付かない」
顔を覆っていたエステルの手がぱたりと落ちて、時雨の腿の上に白い指が乗った。
掴むわけでもなく、触るわけでもなく、ただ彼女の重みだけを伝えてくる指。
それが今の彼女の精一杯なのだと、時雨は理解する。
「急いで結論を出す必要はないですから…僕は負けず嫌いだけども忍耐強いほうなんです」
「……ええ、感謝…します」
震えていたエステルの肩が少しずつ呼吸と同調してくる。
見下ろす彼女の顔は、白く整った鼻筋と長い睫毛しか見えなかったが、その睫毛はもう濡れてはいなかった。
ふと視線を上げると、低いパーテションの奥に彼女のベッドが見えた。
几帳面に皺を伸ばされたベッドカバーに包まれた枕の向こう、サイドボードの一番手前置かれているのは――
時雨はそっと微笑む。

――ああ、お前は毎日、この人の眠りを見守っているんだな。

時雨はそう思って、自分がクリスマスにプレゼントした置時計の猫に少しだけ嫉妬した。




【コメント】
エステルの笑顔もいろいろなことも、次の本ゲームにとっておきました。


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引渡し日:2008/04/26


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最終更新:2008年04月26日 18:00