**瀬戸口まつり@ヲチ藩国様からのご依頼品
/*眼差しの傾斜*/



0/少し前

 疑われるくらいなら殺してと、言われた事を思いだす。
 それを笑ったのは何故だったか。腹が立ったからか、不愉快だったからか。
 きっと、どちらもあっただろう。
 勝手な物言い、一方的なその有様。どちらも神経を逆なでるには充分だったが、しかし、それ以前の段階で、彼女の言葉は全て嘘だとそう思った。
 港に響く潮騒の音。海風は塩気が混じってざらりとしている。その感触の気持ち悪さは、きっと、単なる思い込み。不機嫌さの現れだろう。
「なんといわれてもいいです」
「それしかないから。心しか」
「言葉を信じてもらえないなら」
 声を聞く。波音にかき消されることなく響くそれは張り詰めた糸のよう。切羽詰まったその様子は、たとえ目をつむっていたとしても容易に思い描くことが出来る。そもそも瀬戸口にとって、声の様子から女性の雰囲気を探るなど造作もないことである。
 だが、それだけ。響くだけの言葉など風の音と変わらない。意識しないで聞き流すのは、思ったよりも簡単だった。
「たかちゃん」
 くいと袖を引っ張って、傍らの少女が見上げてくる。心配しているような、不安がっているような、そんな表情。心が素直に現れるその態度に、誤魔化すなどできやしない。仕方ないと思いながら、瀬戸口は振り返った。
 そこには予想どおりの顔。今にも泣き出しそうだが、決してそうなることはないだろうと思わせる、厳しさと悲しさの入り交じった顔。つきやままつりの切羽詰まった姿は、真実、思い描いたとおりだった。
「スパイじゃなきゃなんなんだ?」
 問い返す。
 ――これが、瀬戸口の抱いた疑念であった。



 疑われるくらいなら殺してと、言われた事を思いだす。
 それを馬鹿馬鹿しいと思ったのは本当だ。聞いた直後は空虚に響いたそれだけの声。無視して過ぎ去るのは難しくない。事実背を向け船に乗り、もう二度と会う気は無かった。手紙でも送ってくれとは言ったが、おそらくは、送ってくる事など無いだろう。
 その確信が疑念へと変化したのは、抱き上げたののみがあげた声だった。
「ああっ!」
 どうした、と言って振り返り、瀬戸口は思わずぎょっとした。
 目を疑うというのならこのことをこそそう言うだろう。彼の見ているその前で、つきやまは海に落ちていったのだ。
 沈黙の時間は一秒と無かったろう。だが、背筋が冷たくなるにはそれで充分な時間だった。
「あの莫迦っ――!」
 一体何をしてるんだ。まさか足下が見えなかったわけじゃないだろう。それともまさか本当に――
「たかちゃん!」
「ああ、わかってる! ののみはここでじっとしてるんだ。いいな?」
 切羽詰まった自分の声にうろたえる。何でこんなに驚いているんだ。彼女はスパイではないのか。何を考えているのかは知らないが、何か目論んで近づいてきたとそう断じたのではなかったか。ならば見捨てればいい。なら放っておけばいい。そもそも彼女との縁を切るためにこの船に乗ったはずなのに、自分はどうしてこんなに焦りを覚えている?
「くそっ。なんだってこんな」
 愚痴をこぼしながら海に飛び込む。泳げないのか、それとも慌てているだけなのか、つきやまは両手を振って暴れるようにしている。瀬戸口は苛立ちをこらえながら背中に回り、しがみつかれないよう注意してつきやまを腕に引っかける。そうして岸に連れて行く途中で、彼女は気を失った。
(どこまでも手のかかる。)
 船に乗せたままのののみをどうしようかとか、気を失ったつきやまがまだ無事かとか、頭の中でいくつかの考えがこんがらがる。
 畜生と、心の中で悪態をつく。何で、こんな事になっているんだ……。



1/わずかな傾き

 目が覚めた時、つきやまが最初に見たのは保健室の天井だった。
 白い天井。ベッドを囲む薄い青色のカーテンは、今は全部開かれている。おかげで、少し体を起こせば部屋の全体を見ることが出来る。保健室独特の空気は、どこかぼんやりとする頭を再び眠りの園へと引き込もうとしているかのよう。白と言うよりは灰色のような壁、その手前、椅子に座ってなにやら書類を書いていた様子のサーラに目がとまる。
「……わたし…海に…落ちたんですか…」
 紡いだ声は少し掠れていた。体力のせいか、純粋に喉の調子が悪いのか。
 いや、誤魔化す事なんて無い。また手ひどい終わり方をしてしまったみたいだ。つきやまはわずかに顔をうつむけ、こっそりとため息をついた。
「そう。たいへーんだったのよ」サーラは独特の口調で言った。「たすけられてえ、よかったわねえ」
「あ、はい…。お礼を言わなくちゃ…いけませんね…」
 サーラの言葉にうわごとのように返事を返す。いけないな、と思いながらも、口調がぼんやりとしてしまうのを押さえられない。
 ひどく胸の奥が思い。ずっしりとした圧迫感が体の中によどんでいる。それから目をそらすように、しかしそらしきれない様子でサーラとの会話を続ける。助けてくれたのはゴンちゃんという名前らしいとか、一週間後にまた船が来るとか。
「追いかけて……」
 一週間後に船が来る。それに乗って追いかける?
 それが出来ないことは知っている。自分はここから出ることが出られない。けれど――
「私…この島を出られない。たかゆきさん……」
 ――彼はすでに外にいる。
 すでに涙はこらえきれず、彼女はぽろぽろと透明な雫をこぼしている。服やシーツに落ちたそれは、音も立てずにしみこんでいき、小さな染みをいくつも作る。
 ぽたぽたと。降り始めた雨のように、それは視界を塗りつぶしていく。やがて天気が崩れるように、彼女は小さくしゃくり上げ始めた。



 泣き止むのに、どれだけの時間がかかったか。壁に取り付けられた時計の音が、かち、かちと聞こえてくる。
 心臓がひどく冷たい。さんざん泣いたせいで、体の中から熱が溶けて出て行ってしまったのかもしれない。失意の重さは未だ胸の奥で凝っているけれど、何故だか、もう、泣きだすほどに重くはなかった。
 何一つとしてすっきりしない。むしろ、途方に暮れているといっていいだろう。呆然とベッドに腰掛けたまま、つきやまは周囲を見回した。窓に映るひどい顔。目は真っ赤で、ぐちゃぐちゃの顔はとても見られたモノじゃない。
 泣いている間も、じっと黙っていてくれたサーラに視線を向ける。彼女はん、と小首をかしげた。
「お、お騒がせしました」つっかえながらつきやまは言った。
「いえいえ。でも、水の中に飛び込んだりしたらダメよ?」
「は、はい。つい夢中で…」
 思えば、あのときは追いかけることしか頭になかった。いや、それは今だって変わらない。――もしもあのときあの手を掴めていたとして、自分はなんと言っただろうか。
 なんと、言えただろうか。
 それを考えて落ち込みそうになるつきやまに、サーラはやんわりと言う。
「えーと、資料はそう、探しておくから」
 船の資料。そこに瀬戸口の行き先を掴む手があるのではないか。つきやまはぱっと面をあげると、言った。
「ありがとうございます!」
 ようやく笑みを浮かべられたことに、彼女自身は気付いていない。サーラは頷きながら、微笑んだ。
「船は一週間後にまた来ると…」考えている様子のつきやまは、しばし黙って、それから思いだしたように言った。「あ、そうだ。ええと助けてくださった方にもお礼を」
「権田原くん?」
「は、はい。くんって 学生の人でしょうか。……お礼にうかがわないといけないので教えて頂けますでしょうか」
「えーと。さっきまでいたんだけど…」
「若い方ですか? 見たらわかるような方でしょうか」
 サーラきょろきょろと辺りを見回した後、窓際によって窓を開けた。それから何かを探すように目を細めて再び周囲を見回している。それにつられて、つきやまもベッドを降りてスリッパを履き、窓辺に寄った。気分転換気分転換と、心の中でつぶやきながら深呼吸。
「もう帰られちゃったんでしょうかー」
 言いながら辺りを見回す。
 そして、心臓が跳ねた。
 見間違えるはずもない。向こうに見える後ろ姿は瀬戸口だ。背中を向けて、一人で帰って行く姿に、つきやまは反射的に手を伸ばしていた。
 窓枠に手をかける。さきほどまで無き伏せっていたのが嘘のように体が浮いた。すたんと軽やかに窓枠を飛び越えて走り出す。履いているのは保健室のスリッパだったけれど、そんな些細なことを気にするはずもない。それよりも早くたどり着きたくて。手を伸ばしたくて。いきなり走った事に体が目眩を起こしかけても、それすら無視して追いかけた。
「ご、ごんだわらさん!」息を切らしながらつきやまは言う。「た、たすけてくださったそうで」
 そこまで言って、言葉を切る。少しむせそうになる。胸が痛くなったので、片手で押さえて顔を上げた。
「ありがとうございます…」
 見上げた先では、瀬戸口が、こちらを見もせずに歩いていこうとしている。
 一瞬、また涙がこみ上げてきそうになったが、泣くよりも早く言葉を続けた。
「えっと。学生さんではないんですか」
 反応は無い。瀬戸口の歩みは止まらずに、その歩みは遠くへと――
 いや、だ。
 そんなのはいやだ。
 このまま――終わるなんて。そんなのは。
「先輩」
 囁くようなその一言。聞き逃してもおかしくない小さな声。
 しかしその声に、瀬戸口は歩みを止めていた。



「……」
 何故歩くのをやめたのか、本人ですらその理由はよくわからなかった。きっと、何かの気まぐれが働いたのだろう。あるいは――その張り詰めた声色が、あの港を思い出させたせいだろうか。
「名前を呼ばなければいいんですか? 私お邪魔はしたくない、です」
 だから、その声をやめてほしい。背を向けたまま、瀬戸口はかすかに表情をゆがめる。――これでは、どんな勘違いをしてしまうかわからない。
「でも…あの」
 絞り出すように、
「私嘘は言ってません」
 戸惑いながら、
「だから。おいていかないで」
 なんとか紡いだその言葉。それを無視して立ち去ることなど、どこの誰に出来るというのか。
 風がたなびく。ちらと振り返れば、そこにはじっとこちらを見据えるつきやまの姿がある。港で見たときよりは、幾分、切羽詰まった様子が薄れている。もちろん目元の腫れ具合や服に落ちた染みから、泣いていたことは明らかだ。よく見れば靴も履いていない。緑色のスリッパから、細い足が伸びている。
 険しい表情なのは相変わらず。だが、あのときのような今にも泣き出しそうなそれとは少し雰囲気が違っていた。
 こんなに早く冷静になったのか? いや――とてもそうは見えない。けど、
「何か言ってください」
 その声を――どう聞けば良かったのか。
 何も返さないこちらに憤っているのか、
 何か返してほしいと祈るように紡いでいるのか。
 ――相手の気持ちが、わからなくなる。
「……海に落ちるな」
 かろうじて、それだけ言うことが出来た。そしてそれで終わり、視線をきって瀬戸口は再び歩き出す。
「ご、ごめんなさ」つきやまは慌てて追いかけてきた。「あの、えっと。お、お茶でもごちそうさせてください。助けてくださったお礼に」
 何も答えないが、向こうも諦める気は無いらしい。瀬戸口は内心でため息をつきながら言った。
「宿を探すだけだ。ついてくるな」
「で、でも…………、じゃああの、また、会ってくださいますか」
 立ち止まり、振り返る。冷たい眼差しを向けると、彼女はわずかに体を震わせた。しかしそれを悟られないようにしようとしたのか、すっと背を伸ばしてこちらを見返してきた。胸を押さえている手が揺れる。深呼吸をして、彼女は言った。
「私の、疑いというのは晴れました?」
「そこで泣いていれば、たぶんな」本当だろうか。自分で言った言葉に疑問符を投げる。
「もう 泣いてもしょうがない そう決めたんです」
 ――そうなのかも、しれない。
 少なくとも、泣いたあとなのは確かのようだ。
「風邪引くなよ」
 それだけ言って立ち去ろうとする。しかしそれを遮るように、
「私、貴方に嘘はついてません。だから諦めない!」
 つきやまははっきりとそう言った。
「お邪魔したくないから。大声で呼ばせないで」
「……」
 彼女の体を震わせているのは、一体何故だろうか。寒い、ということはないだろう。ならば何かを怖がっているのか……。瀬戸口は黙って睨みつける。
「約束を、ください」
 もう一度紡がれたのはこの言葉。
 約束――約束か。
 瀬戸口は何か言いかけて、一瞬、遙かな幻影を見た。

 ――遠い景色。遙か昔、彼方にあったその光景。
 約束という言葉。それの意味を教えてくれたのは、一体どこの誰だったか――

「少しは信じるさ」
 それだけを言うのが精一杯。今し方見た幻影などすでに意識の片端にもない。彼は背を向け、今度こそ彼女から視線をきって歩き出す。もう言葉は聞かない。
 これ以上聞いていると、何かかが掻き乱されそうだった。



2/ややずれて

 場所は変わって、住宅地。一件の古いアパートの一室を瀬戸口は尋ねていた。壁の色は茶色く、屋根はかびたような緑色。古めかしいアパートの影の部分に部屋のドアは並んでいる。そこの真ん中の部屋を選び、瀬戸口は歩みを止めた。
 チャイムは電池切れで中の人には聞こえない。それを知っていたので、瀬戸口はドアをノックした。もっとも、この部屋の御仁は外来者を嫌う。果たして出てきてくれるものだろうか。確率は五分。まあ、さほど悪い賭けじゃない。
 一分ほど待つと、ぎしりと、軋む音を立ててドアが外側に開かれた。中から出てきたのは目つきの悪い学生である。少し前、学校をやめる前までは同級生だった。
「よお、権田原。久しぶり」
「帰れ色男。ここには女はいないぞ」
 素敵なくらいに敵意全開。どうどうとあやしたくなるのをこらえながら瀬戸口は何気なく室内に移動した。
「わるいけどしばらく泊めてくれ。あ、俺が泊まっているって言うことは内緒で」
「なんでだ。というか勝手に部屋はいるな。ああコラ待てそこは踏むな。本の上を歩け。おまえを寝かす布団はないぞ」
「適当に転がるさ」
「OK。ただし猫は潰すな。それが条件だ」
「猫って、この部屋にいるのか?」
「右足」
「え、うわっ」
 にゃー、と言って足下を駆け抜けていく黒猫。細い体をくねらせて本やペットボトル、その他ありとあらゆるモノが床に平積みにされたジャングルを駆け抜けていった。
 同級生、権田原の家は見ての通りの有様である。おかげでクラスの面子も滅多に近寄らない。が、それが逆に有名になったせいで、今ではすっかり訳あり者の逃げ場と化している。
 瀬戸口も過去何度かお邪魔させてもらったことがあるが、お世辞にも、居心地がいいとは言えない。しかしまあ、住めば都とは言った物で、ここにいればさほどの不自由もなく生活が出来る。食事や洗濯、まあようするに家事その他を代行する代わりに見逃してもらえている、ということらしい。
「何をやらかしたんだ、おまえは」
 苦々しい表情を浮かべて権田原は言った。短い黒髪をかきむしり、冷蔵庫か冷えた緑茶を出す。ペットボトルをよこしてきたので、受け取った後で礼を言った。
「なぁに、ちょっとね」
「女か」
「いやまあそうとも言えなくもない」
 いや、そうとしかいいようがないの間違いである。しかし言ってしまった物をひっこめるのもあれだったし、このあたり、権田原はあまり興味がある風では無さそうだったので、ちゃんと訂正するのもやめておいた。
「まあいいけど。どれくらい使う気だ?」
「ほんのしばらく」
「嘘くせー。そういって昔一月半使われたことがあるんだが」
「ははは、一ヶ月半も便利な小間使いが出来て良かったじゃないか」
「物は言い様だよな」げんなりとため息をつく権田原。
「しばらくよろしく」
「今日の夕飯は任せた」
「任されよう」



 翌日。
 男とか猫とか犬とかばっかりじゃなくてたまには女が頼ってこないかなー、などと考えつつ権田原は朝早く学校に到着した。この人物、知り合いが泊まりに来る度にそんなことを考える。もっともそんな願いが叶ったことは一度もなく、その理由も明らかだ。あの居住環境と己の人格・人望からしてそれはありえん。いささか自虐的とも言える現実的な評価をする。
 少しへこんだ。
 いいもん、いいもん、猫や犬にはもてるからーと棒読みでつぶやきながら廊下を歩いていくと、ふと、一人の女性の姿を見つけた。
 廊下の窓から校庭を眺めている人物。白とも銀ともとれる髪の色をした彼女の名前はいったいなんといったか。
 ああええと、つきやま……といったはず。確か、そう。瀬戸口とつきあっているのでは無かったか?
 いや――まあいいか。馬に蹴られるのもやぶ蛇つつくのも趣味ではない。
 権田原は無言で彼女の後ろを歩いていき、それっきり、この事を忘れる事にする。自分は自分の役目を果たすだけである。よけーな事はする必要なし。



 授業が終わって、日暮れになる。学校から出て行き帰宅道を歩いていると、スーパのレジ袋を持った瀬戸口が近づいてきた。なんとも様になっていないのだが、なんとも様になっている。権田原はなんとも言うべきか悩んだ後、結局何も言わないことにした。不機嫌そうなふりをしてさっさと歩く。
「ご苦労さん。あ、これ今日の晩飯。昨日よりは立派な物が作れると思うぞ」
「そりゃめでたい。――ところで、それを買う金はどこから出した?」
「ん? ああ。ほんの間に挟んであったから使わせてもらったよ」
「ふざけんな! そりゃへそくりだっ」
 他人の家の金を勝手に使うとはふてー野郎である。いやまあ今更か。権田原は文句を言う気も失せたらしく、がくりと肩を落としてうなだれた。瀬戸口はどこまでも知っているくせにどこまでも知らないふりをして、そうなのか、と実に不思議そうな口調で返す。
「いやー、それは悪いこと……」
 言葉を切られた。珍しいな、と思って視線をあげれば、その理由が視界に入ってきた。
 校門から出て行く一人の女生徒。彼女は帰る方向が違うのか、こちらとは違う道へ進んでいく。その後ろ姿はすぐに建物に隠されて、夕暮れの道には黒い影だけが残される。
「どうしたんだ?」
 ここはにやにや笑いながら声をかけるべきだな。そう思った権田原だったが、何故かうまくいかなかった。瀬戸口は「いや……」とこわばった口調で言ったきり、無言で歩き出す。
 何か考えている風である。表情はいつになく硬く、眼差しはじっと足下に向けられている。
「もったいないな」
「え?」
 ぼそりとつぶやいた一言に、瀬戸口が面を上げる。怪訝そうな表情を向けてくるので、権田原は軽く肩をすくめて見せた。
「顔を上げろよ。アスファルトを見るのもおもしろいが、夕暮れもけっこう綺麗だぞ」
「ん……ああ。そうだな」
「……」
 上の空の返事である。やれやれ、と首を振る。
 そういえば、今朝も、あの女性とはじっとグランドを見つめていたな。ふと、そんなことを思いだした。



 さらに翌日。
「…もう…邪魔しないって言ってるのに」
 自嘲気味につぶやいたのは、私服姿のつきやまである。今日も学校はある日だったが、この日、彼女がいるのは学校ではなかった。まだ人通りの少ない市街地。さほどの広さはないそこを、彼女はすでに一時間歩き続けている。
 邪魔はしないと言った。だから――こうやって探すことだって、本当は、するべきではないのだろう。
 迷惑がられているのは知っている。邪魔だと思われているということも、理解している。
 関わるなという一つだけが、彼の望んだ答えなのだろう。
 だって、そんなの、当然だ。だから彼は船に乗って出て行こうとした。助けてくれたのは――そういうこともあるかもしれないけれど、でも、それだけだ。今だって、きっと、嫌われているのは違いない。
 だけど……それでも、会いたいと思う。
 また冷たくされるかもしれない。そう思うと胸に氷柱ささったように、体の内が冷えていく。押さえ込んだはずの、失意という名の重たい何かが胸の奥で澱み始める。
 けれど。
「……先輩」
 そう呼べば、会えるような気がして。
 そう呼ばなければ、会えないような気がして。
 小さくつぶやいたその一言。
 けれど、今日は答える者はいない。
 顔をうつむけるつきやま。何かをこらえるようにきつく目をつむった後、もう一度歩き始めた。今度こそ。今度こそ見つけられるように、と。
 今日、彼を見かけることはなかった。



「なあ。立ち止まってどうしたんだ?」
 今日の帰り道。昨日と同じ夕暮れの時間を瀬戸口は歩いていたはずだった。
 その歩みが止まっていたことを教えてくれたのは、そんな、友人の一言であった。
「え、ああいや……なんでもない」
「なんでもない、ねぇ」
 気付いているのだろう。この両目が、学校の出入り口に向けられていたことを。しかし、そこに望んだ姿はない。それも当然である。権田原曰く、今日彼女は休んでいるらしい。
 あれほど会わないようにしようとしたというのに。今更、何故彼女の姿を探すような真似をしているのか。その矛盾に苦笑する。我ながら、なんとも半端ではないか。
「素直に会いに行きゃいいのに」
「別に、こっちが会いたいわけじゃないさ」
「なら何で探してたんだよ」
「探してなんかいない」
「ふぅん。なんだ。俺はてっきり、また海に身投げするんじゃないかと心配してるのかと思ったんだが」
 ぴしりと、空気が音を立てて凍る。心臓がどくどくと嫌な音を立てる。緊張に冷や汗が沸いた。
 それが軽口で言ってはいけない事だと、権田原は遅まきながら気がついたのだ。
「何で知っている?」
「学校の医者から聞いたんだよ。おまえが誰の名前出したか、忘れたか?」
「あ……」
 途端、気配がゆるんだ。権田原は苦笑して言った。
「貸し借り無し、だ」
「……わるかった。もう、おまえの名前は使わない」
「当たり前だ。今更宣言するようなことか、それが。大体俺は謝罪なんか認めん。一生反省してろ」淡々と権田原は言った。
「厳しいな」苦笑する瀬戸口。
「む……」
 不満そうな表情。冗談だと瀬戸口はとったが、案外、本気だったのかもしれない。
 夕暮れの道を歩く。ほどなくして、住宅街にたどり着いた。黒い影の伸びる家並み。ずっと遠くから潮騒が響く。
 両手からぶら下げた今日のおかず達が、少し、重たい。
 今日、彼女を見ることはなかった。



3/かすかにつながり

 すこし息を切らして港に来た。あがった息、火照った体。海から吹き込む潮風が適度に熱を奪っていく。つきやまは大きく深呼吸して、肺いっぱいに空気を吸い込んだ。塩気の強い海の香りが、喉と鼻孔をくすぐっていった。
 その心地よさに包まれながら、船着き場の様子を見る。大きな船が到着していて、続々と戦車が揚陸されている。見物人でごった返しており、船には次々に避難民が乗り込んでいく。
 海の臭いに混じって、戦争の臭いが混じり込む。たむろす人々の不安そうな空気が、わずかに肩を重たくした。
「ああ…。ここも戦場になっちゃうのか…」
 少し途方に暮れる。どこもかしこもこうなっていくような気がして、気が滅入った。
 ただ――少しだけほっとする。避難民の中に、見知ったあの人の姿は見えなかったから。
「なにかあるのか?」
 ふいに、背後から声をかけられた。聞き慣れた声に、つきやまの心臓がひときわ大きな音を立てる。それを押さえるように、わざとゆっくり振り向いた。
「なにか、ってなんでしょうね 最近物騒で」
 そこにいたのは、やっぱり、瀬戸口だった。学校をやめたせいか、制服ではなく私服姿。彼は、こちらを見ているのか船を見ているのか、微妙な位置に目を向けている。
 見てくれてないんだなと思って、つきやまは少しへこんだ。けれど、会えたことを思いだして、泣きそうになる前に平静を装った。
「人が死んでいると聞いてます」
「そうか。じゃあな」
 そっけなく、瀬戸口は立ち去ろうとする。その姿に再び心臓が大きな音を立てる。
「あ、やだ」
 反射的に伸ばした手。それは彼の手をとっていた。反射的に掴んだので、ずいぶん力がこもっていた。嫌がられないかと、一瞬、不安になる。だから掴んだ後で少し力が弱くなった。
「なにが?」
 振り払おうとはせず、振り返る瀬戸口。口調も、視線も、相変わらず。それが少し、悲しい。
「う。あー」つきやまは言葉につまる。それから、思ったことを口にした。「やっと…会えたのに」
「どうかな」瀬戸口は少し目をそらして言った。
「なにがですか」
「昨日は姿が見えなかったが」そう言ってかすかに苦笑。瀬戸口は首を振った。「ま、どうでもいいがね」
「せ、ご…」
 言葉に迷いながら、つきやまはもう一度瀬戸口の手を握る手に力を込める。
「な、なんて呼べばいいんですか」
「ご自由に。んじゃな」
 手を振り払われる。背筋が冷えて、足場が力を失ったかのような錯覚。ひどく慌てた。もうなんど慌てれば気がすむんだと思っても、背を向けられると置いて行かれるようで――捨てられるようでひどく怖い。
「先輩、好きです!」
 去りゆく背中に声をかける。返事は無く、ただ海鳥と潮騒の音、戦車が揚陸される駆動音が響き渡った。



 会うつもりなんか無かったというのに。瀬戸口はいささか不機嫌になりながら港から離れる道を進む。足取りは速く、表情はこわばっていた。
 港にやってきたのは、たまたま、人気が多かったからだ。何か催し物でもやっているのかとやってきてみれば、避難民の乗り込みと戦車の揚陸だった。あの様子では、この地も戦場になるらしい。彼女の予感は実に正しい。
 まったく、嫌な話である。どこもかしこも不景気だ。
 炉端に転がる小石を蹴る。小さな灰色は一度アスファルトにぶつかって、軽い音を立ててバウンドし、自販機の下に転がっていった。あれではもう取り出すとは出来ないだろう。少し不憫に思いながら、瀬戸口はため息をついた。
「らしくないな」
 ――もちろん、らしくない。そもそもどうして、話しかけてしまったのか。
 いや。そんなの考えるまでもない。港にいる、つきやまの姿。それがまた、あのときの事を思い出させてしまったのだ。
 二度もそんな真似をする――とは思えないが、もしもまた、海に飛び込むようでは困る。せっかく助けたというのに自殺されては笑い話にもなりはしない。いや、もちろん、理由もなくあんな事をするはずがない。あのときの状況を考えれば、彼女が何を思って海に落ちてしまったのか、想像するのは難しくない。
 少しは落ち着けっていうんだ。瀬戸口は思う。もっと足元を見て。もっと何をするか考えて。ただ走るだけで何もかもが出来るほどおまえは器用じゃないだろうと――

 それは、誰に対する言葉だったか。

「くそっ」
 足下には石はなく。瀬戸口は無為に地面を蹴る。
 疑われるくらいなら殺してと、言われた事を思いだす。
「なんだそりゃ。なんでそんな勝手なことばかり……」

 勝手なことばかり思っていた。
 望んでばかりの自分だった。
 そしてあのとき、オマエハナニモテニイレラレナカッタ。

 全てを取りこぼしてから気がついた。いや、今回に限っては、ののみだけでも守れた分遙かに上等と言えるだろう。それ以上を望めるほどに、自分は偉くも強くもない。
 けれど思い出す。あの眼差し。あの姿勢。ただ望みに対して向けられていたまっすぐな――。
「今日はろくでもないことばかり思い出す」
 小声でののしりながら歩き続ける。歩きながら、あと、ショーウィンドウに目を向けた。目を背けたくなるくらい醜い顔。苛立ちを募らせた自分の表情は驚くくらい歪んでいた。
 ああそうだ。それが嫌で綺麗な顔にした。
 言葉足らずなのが嫌で口達者になった。
 充分だ。それで充分だと思っていた。自分にしてはそれで充分上出来だと思っていた。
「何が充分だ畜生。俺にいったい何が出来たっていうんだ」
 その程度では何も出来なかった。それだけでは意味がなかった。まだたまだ自分には足りない物が多すぎた。
 だから結局、こうしてまた一人きりに戻っている。



 気付けば、夜になっていた。あのアパートには帰らない。瀬戸口は一人、浜辺で横になっている。
 潮騒の音が耳に満ちる。波がすぐそこまで迫っている。
 そのまま飲まれて消えればいいのにという幻視。
 そのまま溶けてしまえれば、どれだけ気持ちいいのだろう。そんな逃避に身を任せる。
「……はっ」
 ああ、荒れてるな。ようやく、今になって瀬戸口は自覚した。
 目を開く。空を見れば、暗く染まった夜空には、ガラスを砕いたような星々が白い輝きを見せている。
 ざらざらと、くしけずるような波音に、荒れ狂った頭と心臓がゆっくりと熱を奪われていく。時間を考えずに音と光に身をゆだねれば、体から力が抜けていった。
「少々あてられたかね」
 穏やかな口調で彼は言う。しかしそれは一体誰に――いつの、誰に、あてられたのか。
 答えを求める声はなく、ざらざらという潮騒だけが耳朶に満ちる。
 最初は見もしなかった。
 次に会ったときは普通に相手をすることにした。
 三度目は食い下がってきた。
 四度目は確かデートだった。ああ……あれで、スパイだと思ったのだ。
 それで……そう、それで、裏切られたような気になった。
 またか、と思ったのは嘘ではない。そういうことは、わりと頻繁にあった。裏切られることも。取り入ってくることも。だから結局、心を許せる人などおらず、
 ――けれど焦がれる思いだけは強くなり、その末にまた失ったのだった。
 それをまた繰り返すのだろうか、自分は。

 心身と夜は更ける。潮騒の音は、いつしか時計の音に代わり、彼を一時の眠りへと導いていく。



4/みつけて、みつめず

 そして二日が経った。
 一日は、学校に行って、それで終わった。
 二日目は、もう一度街に出て探してみたが見つからなかった。
 もう会えないのだろうかという焦燥。けれど絶対にこの島にいるはずという――ほとんど祈りに似た確信が、つきやまの天秤を動かしている。
 きっと会える。けれどもう会えないかもしれない。
 そんなことはないと、心の中でつぶやきながら、いつもより広く今日は歩いた。
「はっ、はっ―――っ、はぁ……」
 最初は歩いていたが、だんだんと小走りになって、最後はほとんど駆け足で至る所を探していた。もともと体力がある方ではないので、すぐに息が切れる。そのたびに速度を落としつつも、歩くことは決してやめなかった。
 というよりも、やめる事が出来なかった。
 理由なんて、考えるまでもない。
 そして――ようやく、見つけることが出来た。
「……先輩何してるんですか」
 呼吸を整えて尋ねてみる。場所は公園。瀬戸口は手持ちぶさたに歩いていた。彼は少し見下ろすようにしてこちらを見ると、素っ気なく聞いた。
「お前学校は?」
「うっ 馬鹿だから抜けてきてしまうんです」一瞬言葉につまりつつも、つきやまは素早く言った。「会いたい人がいて」
「へえ、出口はあっちだ」指さす瀬戸口。
「出ません!」つきやまはにわかに表情を険しくした。
「会いたい人がいるんだろ?」
「貴方です! 貴方に会いたくてつい探しにきてしまうんです。どうしてそんな意地悪言うんですか」
「昨日も一昨日もあった」
「…昨日? おととい? ――どこで?」
 反射的にそう返していたのか、言った後で、瀬戸口は一瞬目を泳がせた。それからさっさと背を向けて歩き始める。
「もう、待ってください!」つきやまはすぐさま瀬戸口の手を掴む。「話くらいさせて」
「探してる割には、こなかったじゃないか」
「あてがないから あちこちしてるんです」
「昨日なら話聞いたんだが」
 相変わらず目を見ずに彼は言う。いや、今は気にしない。それよりも、
「そんな意地悪…、だから約束をくださいって言ってるじゃないですか」
 話せる間に、話しをしたい。
 ただその思いに突き動かされて、彼女は言葉を紡いでいる。必死になっていることなど、自分では気づけないほどに。
「なんの?」瀬戸口は淡々と聞き返した。
「会ってくれる約束です 時間と場所の」
「ああ」
 言って、少し沈黙する。何を考えたのか、ややあって、彼は言った。
「今は?」
「今でもいいです 先輩がいてくださるなら」
 手を掴んだままつきやまは言う。
 そこから逃げるはずもなく、二人はベンチに向かって行く。



 つきやまに袖を掴まれたまま、瀬戸口はベンチに腰掛けた。膝が少しあたるくらいの距離に彼女は座る。
 何も言わないでいると、彼女の方から口を開いた。
「ありがとうございます。…えっと。」
 袖を掴んだまま、彼女は目を泳がせた。瀬戸口はそっと様子を見た。袖を掴む手はきつく、指の先が白くなっている。本人でもそこまで力を入れているつもりはないのだろうが、このままでは指が痛くなるのではないだろうか。
 あるいは怖いのか。このまま離れていきそうな、態度が。
「あの!」
 しばらくして、彼女はぱっと面を上げた。何か怯えたような、それでも勇気を振り絞っている表情を向けてくる。
「わ、私がうろうろ探し回るのは、お邪魔ですか」
 ――その質問に、どれだけの意味が込められていたのか。それを理解できぬほど瀬戸口は莫迦ではなかったが、
「……妙に落ち着いたな。なにかあったか?」
 それが逆に、こちらの神経を逆撫でる。
「え? いえ」驚いた様子のつきやま。「会えない間、次に会ったら何を言おうかなって 考えていたけど…結局」
 何も言わずに彼女を見る。そういう言葉を聞くだけで、どんどんと心が冷えていくのがわかった。
 三日前の港からの帰り道。道ばたでふとした拍子に見た自分の顔。
 あのときほどではないけれど、嫌な目をしているんだろうなと瀬戸口は思う。
「好きってそれしかなくて…」
 その眼差しにさらされて、つきやまはだんだんと小声になっていき、口を閉ざした。
 けれどうつむくことはなく、彼女はじっとこちらを見る。その姿が、ひどく冷静に見える。場違いなくらいに。
「意地悪と2回かえしていた。そこから、なんでそんなに思考が切り替えられる?」
「意味が、わかりません。普通に一生懸命考えているだけですけど」
「セプテントリオンだな」
 それが一番の懸念。
 ――いや。正直に言えば、恐怖だった。
 できれば、そうであってほしくない。そんな気持ちを隠して告げたその問いは、
「は?」
 そんな、驚きの声に否定された。
「違うか……」
 少しほっとしながらも、瀬戸口はまだ冷たい目で彼女を見る。
「先輩は私を本物の馬鹿だと思ってらしたんですか?」つきやまは少し怒った風に言った。「普通に見たものからいろんなことを考えたり、好奇心をもったり――」
「あやしいんだよ」瀬戸口はかぶせるように言う。「普通でないときがある」
「怪しい…。ちょっとまって。普通でないってなんですか。私が先日港で言ったこと覚えていますか? 自分で蒸し返して馬鹿だと思いますけど」
 瀬戸口はうなずく。そう簡単に――そう簡単に、忘れられるはずがない。
「はい。どう、説明していいかわからないけど。あれは私には本当のことです」ゆっくりと、説明するというよりも、受け入れてもらえるよう祈るように彼女は言う。「…それで、でも。私がここにいるのは先輩に会いたいからで」
 それしかないです、とそう告げる声に、瀬戸口はすぐに切り返す。
「時間をとめたり出来るのか?」
「できません」
「本当に?」
「私自身で世界を移動したりもできません」
 そして質問が尽きたのか、瀬戸口は沈黙した。じっと見つめるその視線に、つきやまは真正面から眼差しを返す。

 ――やはり、その姿はまっすぐで。

「……悪い。神経質になっているようだ」
 間違っていたという安堵と、間違えていたという後悔に挟まれながら、瀬戸口はなんとかそう言った。
「いいえ。もう話を聞いてもらえないと思っていたから」ふわりとつきやまは微笑む。「嬉しい…」
 なんとも言えず、瀬戸口は黙る。どういう表情を浮かべればいいのかもわからなかった。
 嬉しい……と、言われるなんて、思いもしなかった。
 怒るとか。悲しむとか。もっと、別の物を想像していたのに。
(嬉しい……?)

 それはなんて――素直な言葉か。

「どうしよう。あの、あのですね」

 ああ。
 思えばずっとそうだった。
 疑って、信じなくて。いつもそればかりで。
 本当にしたかったのは――想いたかったのは違ったのに。

「…自分でもなに言っていいかわからなくなっちゃったけど。先輩に疑われるくらいなら殺してもらいたい、って本当です。邪魔もしたくない。あの、先輩こそ明らかに怪しいです」
「そうだな」
 少し笑う雰囲気。
「だから探し回るのお邪魔かなって」
 ああそうだ。そうだよな。
 普通はそう考える。
 なんでそんなことにも――思い至れなかったのだろう。
 瀬戸口はため息ついてつきやまを見た。今見れば、もっと別の顔に見えるんじゃないかと、ふと思った。
 そしてそれはやっぱり思った通りで。
「なんでしょう」
 こんなきょとんとした顔から、どうしてスパイとか、セプテントリオンとか、そんなことを思い描いてしまったのだろう。
 まったく。もっと素直になれば、物事は綺麗に見えたというのに。
 ――顔を上げろよ。アスファルトを見るのもおもしろいが、夕暮れもけっこう綺麗だぞ。
 まさか。あいつがそんな気の利いたことを言うはずがない。……とは、今の自分では言い切れない、か。
 世の中はもっと素直で、もっと単純で。
 疑うのではなく、受けいれた方が、もっと綺麗に物が見えると。今の自分は知っている。――思いだして、いる。
「なんでもない」
 何も言わない。何も教えない。流石に、もう、気付いた今では説明するのは恥ずかしすぎた。



「……全然関係ないことを一つうかがってもいいですか」
 ふと、彼女はそんなことを言ってきた。瀬戸口は穏やかな声で「ああ」と言う。そこには、自分でも驚くほどに険のとれた己の声があった。
「ここにあった泉のこと」
「それが?」
「先輩の口ぶりではなんだか飲んだら子供ができるような それが、」ややそわそわするつきやま。「あとから…噂で、恋愛成就の魔法だったって」そしてふるふると首を振る。「そ、そうと知ってたらあのとき飲んだのに、って……思って」
「最初はどうだか知らんがね」瀬戸口は苦笑した。まだ少しぎこちない気がする。「あれは、英雄の仔が蟲になって浮かぶ泉だ。あそこで姫君が水を飲むと、孕む」
 流石に、表現が直截すぎたか。つきやまの顔から血の気がひいた。
「や、やっぱりだめでした。ごめんなさい」
「いや……悪かった」
「え、なぜ?」
「気を使わせた」
 うまく伝わらなかったらしい。つきやまは首をかしげた。
「えーと。私が聞きたかったのは。先輩が恋愛成就の魔法と知っていて飲ませなかったのかって。――そうは見えなかったから。心配してくださったんだと思って嬉しかったのに、あとからそう聞いたから。だ、だから私がごめんなさい、でしょう」
 おそるおそる、と言った風にこちらを見てくるつきやまと、あえて視線をあわずに瀬戸口は口を開く。
「魔法で人を縛るなんて、ばかばかしい。――俺は嫌だね。俺は自分の好きに人を好きになりたい」

 ――遠い景色。遙か昔、彼方にあったその光景。
 好きという言葉。それの意味を教えてくれたのは、一体どこの誰だったか――

「魔法もオーマも、関係なく、俺の思うとおりに生きたい」
 やさしく微笑みながら瀬戸口は言う。

 そうして。繰り返した末に、彼はまた、思い出す。
 あの頃の眼差しを。あの頃の自分を。
 何をしたかったのか。
 何を求めたのか。
 失うのが嫌だったんじゃない。
 手に入れたい物があったのだ。
 守りたい物があったのだ。
 そう生きたいと願った姿は、いつだって鮮明に。この眼差しの、追いかける先に。

「そう、すればいいじゃないですか」
 遠慮がちな声を聞きながら。頷きもせず瀬戸口はつぶやく。
「忘れていた」

 そう。忘れていた。あの景色も。あの姿も。

「ずっと好きだったのにな」
「何を?」
「……なんでもない」
 首をかしげるつきやまに、瀬戸口は少し首を揺らして、言った。
 沈黙が流れる。けれどそれは重たくもなく、軽くもなく。心地の良い春風のように、暖かな何かが満ちている。寄り添うことで、その暖かさを得られることを教えてくれるかのようなそよ風に、ふと、笑い声がこぼれ落ちる。
「…えへへ。ほっとしました」
 瀬戸口は少し微笑んだ。もう少し、そういう顔を見ていたい、と思う。
「ど、どうしましょう。これから」
「アイデアはないな」瀬戸口は肩をすくめる。「疲れた」
「私も少し。休んでいくお時間は、おありですか?」
「学校、いってないからな」瀬戸口は笑って言った。
「うっ さ、さぼりですよ私」
 つきやまはそう行った後、このまま寄りかかれそうだなと思った。
「あの…」心臓の音が早く鳴り始める。それを隠しながら、声をかけた。「少し寄りかかってもいい、ですか?」
 瀬戸口は何も答えない。それを許可と思ったのか、彼女は体の向きを同じにすると、軽く肩に身を寄せてきた。少しの重さ。心地良いくらいの感触が肩に乗る。はらりと、髪がこぼれた。
 二人同時に、深くため息をつく。
「もしかして……まあいいや」何か言いかけて、つきやまは笑った。「ふふっ」
「もしかして?」穏やかな口調で瀬戸口は聞く。
「監視されてたのかしら? と。いいですよ 返事しなくても」
「してない」瀬戸口はすぐに言う。「おかげで船に乗り損ねた」
「なーんだ。え……それこないだのあの?」
 それ以上は、答えずに。瀬戸口は黙って頬を掻く。



5/ずっと後

 それが嘘ついたときの癖と知るのは、ずっと後の話だ。

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ご発注元:瀬戸口まつり@ヲチ藩国様
http://cgi.members.interq.or.jp/emerald/ugen/cbbs_om/cbbs.cgi?mode=one&namber=427&type=370&space=15&no=

製作:黒霧@天領
http://cgi.members.interq.or.jp/emerald/ugen/ssc-board38/c-board.cgi?cmd=one;no=971;id=UP_ita


引渡し日:2008/04/30

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最終更新:2008年04月08日 01:08