小笠原SS 黄金の海と亡国の王女


 そこは、優しい風が吹く場所だった。
 匂いも、色も、何もかもが違っても、それだけはどこか懐かしい感触だとトラナは思った。
 水平線の向こうに日が沈んでいく。空の色が茜色に染まり、それを映す海が一斉にその色を変える。
 黄金の野原だった。
 トラナは帽子を抱え、わぁと口を開けてその光景に魅入る。隣で風杜神奈という名の少女が、同じようにして息を呑んでいた。それはどこか圧倒的な、人の手が決して届かない、そんな何かだった。あまりに遠く、美しい。
「……素敵なところに来たね」
 神奈がそう言って微笑んだ。トラナはうんうんと頷く。
「綺麗。海の匂いが、六合と違う」
 そう言ってちょっとだけ思い出す。あの故郷の海は、どんな匂いをしていただろうか。
「どうしたの?」
「ううん。みんなも来ればよかったのにね」
「……うん、そうだね」
 トラナは大きく手を広げ、全身に浜風を感じた。ひと際強い風が吹く。慌てて帽子が飛ばないように押さえた。
 長い髪が、ふわりと揺れる。
 神奈がそれを見てくすりと笑った。
「いい風ね」
「うん」
 トラナは頷いて、微笑もうとして失敗した。泣き笑いの顔に、涙がひとつ流れる。
 神奈が心配そうにトラナの顔を覗き込んだ。
「どうしたの?」
「――遠くまで、来たなと思って」
 言葉にしてしまえばとても短いものだった。きっとその想いはもっとたくさんの、言葉になれなかった記憶とイメージの残滓で出来ている。
「ここは、どこも水没していない」
 つぶやくように、言う。
「私の国は、もうないから」
「……そうなんだ」
「うん……」
 頷いて、トラナは海を通して故郷を見る。そこにはいくつもの物語があって、けれど、どれも物語と言うにはあまりに――哀しい。
「ねえ、トラナって呼んでいい?」
「あ、うん」
「……トラナのいた国って、どんな国だったの?」
 言われて、トラナはひとつひとつの記憶を浮かべていく。溢れた悲しみは、風に乗せて飛ばした。
「レトロライフが一杯あって。お父様がいて。ファンタジアがいて……」
 ゆっくりと、海へと近づいていく。
「そして戦争があって。いいことより哀しいことが多かった。――六合なんてそんなところ」
 それは、違う。
 いいことも、きっとあったはずだ。けれど、そのひとつひとつも思い出せば、やはり悲しい。
「……そっか」
「ファンタジア、元気かな」
 波打ち際で遠くを見る。夕焼け空にその姿を描き出そうとして、うまくいかずにやめる。
「ねぇ」
 呼ばれて隣を振り返った。「なに?」と言おうとした所で水をかけられる。
 なんというか、直撃だった。
「今日くらいは楽しもうよ」
 笑いながら神奈。トラナはむー、と怒り、「騙された」と言って足で盛大に水を跳ね上げて、バランスを崩してぶっ倒れた。水面の向こうに夕焼けが見えたのは一瞬で、あとは波に揉まれてわけが分からない。どう考えても流されている。羽よりも軽い自分の体重を初めて恨む。助けてと言おうとして水を飲んだ。
 完全にパニックだった。
 自分の名を呼ぶ声が聞こえた気がする。何かが自分の身体を掴んだ。必死でしがみつく。
 気付いたときには、神奈に掴まって海の水面にいた。
「ごめんね」
 謝る神奈にトラナは首を振る。
「神奈って泳ぎがうまいんだね」
「教えてあげよっか?」
「ホント?」
 神奈は楽しそうにうん、と頷いた。トラナも嬉しくなって笑う。神奈の言うことを聞きながら、岸まで向かう間に、息継ぎの仕方を覚えた。なんだかきゅうに違う自分になったような感覚。自然と笑い声が出て、けれど、そのことに自分では気付かない。
 と、視界の端に面白いものが見えた。
「神奈、見て。あの岩」
 指差す。神奈もそっちの方を見た。
「ん? あ、面白い形だね」
「あそこまでいこう」
 そう言ってトラナは神奈を引っ張った。まだ一人では泳ごうなんて思えなかった。神奈が笑って「うん、行こう」と言う。そうして二人で泳ぎ始めた。もちろん進むのは神奈の役目で、トラナは邪魔にならないように肩に掴まっているのが役目だったけど。
 半ばまで進んだ時だった。
「きゃっ」
 トラナは思わず声を上げて後ろを見た。何かに触られたのだ。続いて神奈も声を上げた。
「何かいるよ」
「うん」
 神奈が探るように足を蹴り出す。ピィ、という声。
「えっ?」
 流線型をした、大きなお魚だった。どこか愛らしい。そのまま、遠くへ泳ぎ去っていく。
「あー、あの子が触ってたんだ……」
 ちょっとだけ悲しそうに、神奈が言った。
「あれはなに? 神奈」
 トラナが訊ねる。神奈は表情を変えぬまま、
「イルカっていうの。あーあ、行っちゃったなぁ」
「なんで悲しそうなの?」
「……悪いことしたかな、って。蹴っちゃったから、きっと嫌われたと思ったのかも」
 そうか、悪いことをしてしまったのか、とトラナは思った。イルカという生物が去っていった方向を見る。
「お魚さん、ごめんね」
「トラナって、優しいね」
 神奈がそう言って、トラナは首を傾げた。
 岩にまで泳ぎ着く。最初に神奈が上ろうとして、足を滑らせた。近くで見ると岩は藻に包まれている。
「登れなさそう?」
「大丈夫。ちょっと待っててね」
 トラナは心配そうに神奈を見た。ケガでもしたら大変だと思ったのだった。神奈はあちこち見てまわりながら、
「あ、ここなら行けそう。トラナ」
 近づいてみると、藻がはがれたところがあった。
「ここに足をつけば、多分。ちょっと登ってみるね」
 神奈が先に登り、トラナは手助けしてもらいながら登った。また景色が違って見えて、楽しくなってトラナは何度かジャンプする。
「あ……カニ」
「え?」
 止まる。神奈の指した先を見て、息を呑んだ。小さなカニが、いくつか岩の上で遊んでいる。
「あ、はさみ危ないから気をつけてね」
「うん」
 返事もおざなりに、トラナはカニの近くに寄ってみた。動きを目で追って、かわいいな、と思う。
「トラナはカニ見るの初めて?」
「食べたことはある」
 神奈はちょっとだけおかしそうに笑って、
「美味しいよね」
「おおきくなるかな?」
「うーん……多分、これはならないんじゃないかなぁ」
「そうか。でも大きくならないのはかわいくていいね」
 しゃがみこんで眺めながら、トラナは言った。
 そして、大きく身震いした。急に冷たい風が吹いた。
「トラナ、そろそろ変えろっか」
 え? という顔でトラナは神奈を見上げる。もう少し遊んでいたかった。
「このままじゃ、風邪引いちゃうし」
 目で訴えてみる。寒いのはわかっていた。けれど、あと少し、少しだけなら……
「トラナが風邪引いちゃうのも嫌だから、帰ろう?」
「そうだけど……」
「……また、来ようね」
 神奈の言葉は優しかった。トラナはその顔を見上げて、ようやくこくこくとうなずいた。
「じゃあ、また掴まって」
 抱きつく。神奈の体温が温かい。
「このまま泳ぐよ」
「うん……。あっ!」
 トラナが声を上げる。自分の頭に手をやって、それからどうしようという顔をした。
「あ、帽子」
「どうしよう。あの岩のところ」
「大丈夫。ちゃんと取ってくるから。先に岸に上がって暖かくしてないと」
「うん」
 素直にうなずく。出会ってさほどの時間もたっていないけれど、この人なら大丈夫だと――この人なら自分の大切な人になってくれて、そして勝手にいなくなることなんてないと、そう思えたのだった。
 きっと、大丈夫だと。

       *

 翌日。トラナはちょっと熱を出して寝込んだ。
 子供みたいだ、と思って、なんか恥ずかしくなった。


黄金の海と亡国の王女――了



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引渡し日:2007/



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最終更新:2007年09月25日 12:32