時雨@FVB様からのご依頼品



FVBの宇宙ステーションの一角、無重量ブロック。
時雨の姿は其処にあった。
彼は未だに慣れぬ無重力の中で、何か思案げな顔をしてふわふわと浮かんでいた。
其の表情は、何時もの苦労人然としたものではあったが、何処か緩まっている。
ふと、左手を取られた感触に気が付いて彼は我に返り、振り向いた。
どくんと、瞬間、鼓動が跳ねる。
「なにをしているのですか?」
そんな問いかけと共に、其処にはつい先ほどまでの懸念事項、そして時雨の思い人である、エステルの顔が。
「あ、ありがとうございます」
思わず上ずる声。これはいけない、と慌てて何処かへ行きかけた平静の心を引っ張り戻して続ける。
「すみません、こういうのは不慣れなもので」
「そうみたいですね」
見られていたのか、と時雨は内心動揺する。
先ほどから、なんとか上手く無重力の中を動けるようにしようと訓練しているのだが、一向に上手くいかない。動機の大半を占めるのはやはり、言わずもがなというやつで。一休みがてら彼女の事を考えていた矢先に、其の本人が現れただけでも動揺するのに、其れまでの姿を見られていたとは!自分の口元はだらしなく緩んでいたりはしなかっただろうか、それより格好悪い様をみせてしまった、という類の後悔が頭を渦巻く。
そんな時雨の内心をよそに、エステルは微笑んだ。
「いつもの逆です」
時雨は、顔を真っ赤にした。そしてあたふたする。一瞬何が起こったのかわからなくなった。そして直ぐに認識して耳まで赤くなる。

エステルが笑ったのだ。

何時までも笑ってくれなかったエステルが。にこりともしなかったエステルが。自分に、その微笑を向けたのだ。
「はい………」
なんとか、返事を口にする。と、返事をするかしないか分からぬうちに、掴まれていた手を引かれた。時雨の顔は、より一層赤くなった。なんだか今日は幸せすぎて死ぬんじゃないだろうか。それにしても自分からするよりも、こういうのはされる方が恥ずかしい。いや、するのも恥ずかしいが、と内心自分自身に突っ込みを入れた。


「リフトをちゃんと掴んでください」
部屋の片隅へとたどり着くと、引かれていた手にリフトを握らされる。離れていく手が名残惜しい。未だに顔が熱い。
「いいですね?」
ああ、時間が止まればよかったのにと自分の手を見つめていたのが、ぼーっとしているとでも取られたのか、エステルに念を押された。エステルは、こんな顔が真っ赤な僕を見てどう思っているのだろうかと時雨は聞きたくてたまらなかったが。
「はい」
そういって、時雨はリフトをしっかり握った。まだ、手のひらに残る彼女の体温を残しておこうとするかのように。時雨の動作を確認して、エステルは言葉を続けた。
「この先に重力区画があります」
言葉の意図が分からず、きょとんとする時雨。
「では」
それに構わず、去ろうとして時雨に背中を向けるエステル。
「え、ちょっと!」
思わず、彼女を追いかけようとしてリフトから手を離す。と、うわぁと声を上げる間もなく、上下が分からなくなり回転しだした。彼女の背に伸ばした手が虚しく空を切る。
「何をやっているんですか」
振り返ったエステルが其の様子を見て呆れたようにいう。
「いや、ではって」
突っ込みとしては若干中途半端だが、捨てられた子犬のような響きに加え、それ以上に物を言ったのは時雨の表情。今まで急に大量の幸せを味わっていた分、急にそれを取り上げられ、失意のどん底に叩き落されたか子供のようなそれ。ともかくバランスを取ろうとしている彼の手をエステルが握った。そして、彼女はため息をつくと再び彼の手をリフトに捕まらせた。
「一緒には行ってくれませんか?」
失意の底から引き上げられてきた時雨は、差し伸べられた救いの手を逃すわけにはいかないと、勇気を振り絞って言う。
「重力区画では、飛べないじゃないですか」
其れに対して、エステルはもー、という感じで応えた。まるで聞き分けのない子供を諭す母親のようだ。
「じゃあ、僕ももう少しこっちにいます」
時雨の返答は、少し名残惜しそうな響きはあるものの、ふてくされた子供のそれではなかった。彼は不器用な彼なりの意地を通したいのだ。そしてその意地は、相手を思う故のもの。
「怪我しますよ?」
「僕も地上であなたを怪我させてしまいましたから、そうなったらおあいこです」
「妙にこだわりますね?」
エステルも、引かない。片眉を少し上げる仕草で問い詰める。
時雨は少しの間沈黙したあと口を開いた。
「……まだちょっと、気にしてるんですよ。」
それだけではないけれど、と心の中で付け足す。今の状況では、まだ核心の所まで言う勇気がなかった。
「よかったら、どうしたら怪我しないよう飛べるか教えてもらえますか?」
それ以上は追求されないよう、話を誘導する時雨。
「……いいですけど」
少し、まだ納得がいかないような顔をしながらも、しぶしぶといった感じで頷くエステル。ただ、少しだけ嬉しそうかな?などと時雨は思う。思って、即座に希望的観測だなぁと悲観にくれる。
「ありがとうございます」
ともかく、此方としては嬉しい事には変わりはないと、結局時雨の表情は嬉しそうだ。エステルは時雨目線からすると照れたように頷いた後、時雨の手をとって、壁を蹴った。
「作用反作用の法則は?」
宙に浮いている感覚を確かめる間もなく、エステルからの問いかけがきた。
「一応、打ったものが返ってくるという程度には理解しています」
内心、呆れられないかと思いながらも平静を装って返答を返す。どくん、と脈拍が早くなるのを感じた。握られていたのが手のひらでよかったと思う。手首なら、ばれていたかもしれない。
「上出来です。何もしなければ、そのまままっすぐすすみます」
安堵する時雨。別に過小評価されているわけではないよなと自分を励ましつつ、周りを見渡した。
「わ……」
見開かれた目に映ったのは、今までにない安定した景色。不思議な感覚に心が躍った。
空中の散歩とは、少しロマンチックかもしれないなどと時雨は思った。好きな人が傍にいる、それだけでどんな風景もロマンチックになるような気がするけれどな、と考えてから、少々赤面した。出来れば自分が手をひいていたかったな、などとぼんやりと考えていたら、何時の間にか壁が迫ってくる。空いている手を突き出して止めようとする時雨をエステルが即座に注意する。
「怪我しますからダメです」
鋭く飛んできた言葉に、びくっと体をすくめながら慌てて手を引く時雨。エステルは、時雨を壁から少し遠ざけるように体の向きを変える。そしてそのまま、足で衝撃を吸収して壁へとくっ付く。時雨は見よう見まねでそれに続き、なんとか壁に張り付いた。ほっと息を吐く時雨。
「脚で蹴ったら、脚で支えてください」
「はい」
「脚は手の3倍ほど、強いんです」
先ほどの注意に解釈が入る。
「なるほど、手で張り付くよりいいんですね」
我が意を得たりと時雨が頷く。それに補足してエステルが続けた。
「手で軽く飛ぶときは手で支えてもいいです」
手で飛んだ分の力なら、手で支えられる、確かにそうか、うんうん、等と頷きながら内心頭をあれこれ巡らせる時雨。ふと思いついた疑問をなげかけた。
「これ、上とか下にいきたい場合はどうしたらいいんでしょうか」
問いを受けたエステルは、問いに口で答えるよりも先に、斜めに壁を蹴って、斜めに飛んだ。髪を靡かせて、そのまま浮かびながら振り返って時雨を見る。
「すごい」
綺麗、とか可愛い、とか其のまま続くような語調で呟く時雨。頬が赤いのは見とれたからだろう。台詞が其処までで止まったのはやはり、真面目に聞けと怒られると思ったか、どうか。
「あくまで、作用反作用です。それだけ覚えてください」
時雨からゆっくりと遠ざかりながらエステルは口で付け加えた。
「わかりました。打っては返し、打っては返しですね」
時雨は頷き、自らもやってみようと宙へと飛んだ。


理論派時雨は飛びながら考える。
「そうか、上とか下にこだわらない方がいいのか……」
基本的には斜めに飛んだ方が色々とやりやすい。そう言えば周りの皆はあんまりまっすぐには飛んでないよなぁと周りを見渡しながら思った。
「よっと……」
方向転換を試そうと、天井を叩く。身体が反転して、逆さまになった。
「へぇぇぇ……」
上手く出来た事に、子供のように笑みを浮かべ更に色々と試す時雨。次々頭に立てては検証していく仮説の山の片隅で、何か忘れているような気がしたが、やがてはそれも直ぐに忘れた。もはや、周りの事は目に入らずに初めて自転車に乗れた子供のように、浮かぶ事に夢中になる。
(そうだ、もしや、ポールなどに腕や脚をひっかければまがれるのでは。)
頭にひらめいた仮説をすぐさま試すべく、彼はポールへと壁を蹴って向かい
「!」
ぐるり、と身体が回る。減速することなくスムーズに方向転換を行え、彼は再び壁の方へと近づいていく。壁に張り付いて、やった、とガッツポーズを決め喜ぶ。そして顔を上げた先には。
「――――――っ」
熱が、急激に冷めていく。ごくりと、生唾を飲み込んだ。頬を冷や汗が伝っていく。これは不味い、非常に不味いと脳内アラームが鳴り響く。
「えー……」
何かを誤魔化そうという響きがありありと滲む台詞を口に出しながら時雨は壁を蹴った。
向かう先、其処には――――

「楽しそうですね」

――――エステルがすごーく面白くなさそうな顔でにらんでいた。
冷や汗が止まらない。忘れてた。完全に忘れていた。時雨は恐怖を覚えながら必死に脳をフル稼働させ、脳内に蓄えられた誤魔化し方例文集を必死に紐解く。が、結び目が堅結になっていて、解けず更に慌てる。もういいやと脳内でそれをほっぽり出してなんとか言葉をひねり出した。
「ええ、先生がいいおかげで」
「最初の5分しか教えていません」
瞬時に切って捨てられた。ぐさっと切られた言葉の切れ端が胸に突き刺さる。だがしかし、時雨はそんなことではもはやめげなかった。必死で言葉を繋げる。
「一番大事なところを教えてくれたじゃないですか」
だが、そんな言葉にもエステルは耳も貸さず、ぶーたれた。そんな仕草に、ふと時雨は温泉旅行を思い出す。あの時は彼女が箸に夢中で、僕が寂しかったっけか、と。思い出して思わず口元に笑みが浮かびそうになる。彼女が、ぶーたれるくらいには自分に関心を持ってくれていることが嬉しい。ただ、こんな所で笑っては余計機嫌が悪くなると口元を引き締めた。
「………機嫌直してくださいよ」
あの手この手で、なんとかなだめすかそうとする時雨。途方に暮れそうになっていると、エステルがぽつりとつぶやいた。
「無重量に負けるなんて・・・」
「負けたって、何ですか?」
え、と時雨が聞き返す。
「なんでもありません。好きなだけ練習してください」
失言にしまった、という表情をした後エステルは即座に表情を殺してそう言い放つ。一瞬呆気に取られる時雨。即座にエステルが言わんとすることを理解して
「………僕だってこの間、お箸に負けたし」
「あれは、それが出来ないと食事できないじゃないですか」
言い訳のように言うエステル。
「……それと一緒ですよ。これが出来ないとあなたと一緒に宇宙にいられないじゃないですか」
負けず、切り返す時雨。
「宇宙に滞在するわけじゃないでしょう!」
声を何時になく荒げてエステルが怒鳴る。側で作業をしていた整備員が、嫌でも耳に入ってくるやりとりに、やれやれといった感じで首を振った。狼のマークの入った帽子を被りなおすと、ご馳走様、とげんなりした顔で呟いてその場を離れる。勿論、時雨とエステルは気がつかない。
「お箸だっていつも使うわけじゃないじゃないですか」
淡々と切り返す時雨をエステルはきっとにらみつけた。
「負けず嫌い」
「貴女ほどじゃないですよ」
時雨も引かずに睨み返した。 なんでこの人は分かってくれないんだ、とこの練習に込めてきた思いを畳み掛けるように口にする。
「それに……言ったじゃないですか、あなたを宇宙に帰す、ずっと一緒にいたいって」
一瞬、間が空く。思いの丈を叫んで、時雨はぜぇぜぇと息をつく。エステルが息を呑む音が聞こえた。うー、という表情をした後、エステルが叫ぶ。
「今はじめてききました!」
「もう!」
いつも言っているじゃないですか!と時雨は思う。なんでこの人は、本当にこの人は分かってくれないんだ、と。じっと時雨が見つめるエステルの瞳からぽろぽろと涙がこぼれた。
「最低です。来るんじゃなかった。バカ!」
涙で上ずった声が時雨の耳を打つ。そして、心を打つ。ぴたりと、時雨の動きが止まる。
エステルの背中を向ける動作に、慌てて我に返り、抱きとめようとする時雨の腕は、空を虚しく切った。エステルの背中が、涙の軌跡を残してどんどん遠ざかっていく。
追いかけるのは無理だと悟った時雨は
「エステル……」
ぽつりと呟き、その場に佇む。


覚えたばかりの身のこなしで、ふわふわと浮かび、時雨は遠くも近くも感じる天井を見上げた。 人気のなくなった無重量室は静かで、自分の重さすらも分からずに、空気と自分との境が曖昧になっていく。目を閉じれば、もう自分が何処にいるのかもわからない。心に思うのは、彼女の事。まだ、あの笑顔が網膜に焼き付いてはなれない。感情も、大分豊かになったな。まさか泣くまで怒るなんて。
其処まで思った矢先、ふと、唇に冷たさを感じた。浮かび上がる自己の輪郭。
「………」
冷たさは過ぎ去り、温かみだけが、其処に残った。



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最終更新:2008年02月16日 02:57