嘉納@海法よけ藩国様からの依頼より


あれはいくつの頃だったか。
広い背中におぶさって、月を見上げたことがある。明かりの少ない海沿いの道を、当時はまだ私にもよく構ってくれた父に負われて。海に浮かぶ月までの道を、歩きたいと駄々をこねて。せめて私の代わりにと、月に向かって靴を投げた。
…その後、父に酷く怒られたのだけど。


月に行ってしまった靴の相棒が、淋しそうに箱の中に横たわっている。掌よりも小さなそれを手に取って、純子はにこにこと笑った。

「旦那様がつれていってくださると、約束してくれました。たのしみですね。」

答えない靴を大事にしまいなおして、純子は彼女の夫のところに向かう。
夫は、今日も彼女が居ることに気付かなかったが、純子の笑顔は曇りもしない。ただ、手を引いて歩く夫の背中を見て、今日は何をするのだろう、と笑った。

風が、純子の頬と髪を撫でる。目の前に広がる景色と途中で買ったお茶を見て、純子は笑った。どれがいいか、と聞かれても、自分はそういったものをあまり飲んだことが無いからよく分からない、と思う純子。ましてやそのどれもが自分のために夫が選んでくれたものなのだから選びようがないのに。それでも自分に先に選べと言ってくれるのが嬉しくて、自然に顔がほころんだ。

「どれでもいいです。」

笑って答える純子。夫は変な顔をした後、純子の周りに大量のペットボトルを並べて何事か叫びに行った。
また変なことを言ってしまっただろうか。風に髪を遊ばせたまま俯く純子。いつの間にか振り向いた夫が自分に話しかけているのに気付いて、慌てて意識を夫に戻す。

「あー、それと、宇宙ですが、実力と金が足りぬ故にもうすこしかかりそうです。もうしわけないっす。」
「いつまでもまちます。」

即答。そんなことか、と内心で安堵する純子。ぴしり、と音がしそうなほど表情を堅くする夫。

「それはできるだけはやくってことっすね、頑張ります。」
「いいえ、いそがないでもいいです。」

貴方が約束してくださったから、私は信じます、と言外に込めて、純子が笑う。恥ずかしそうに悶える夫の姿を見て、少しだけ笑みを深くした。

「………せっかちでした、いやん。」

ニコニコ。

「と、ところで、純子さんは、宇宙好きですか?」

ニコニコ。

「……………。」

にこにこ。

「おんぶしましょうか。」

にこに…

「…はい?」

笑顔は崩さないままに、純子が聞き返す。何が嬉しいのか、夫ははにかんだように微笑んで、ぐしゃぐしゃに乱れた純子の髪を撫でていた。


半ば強引におぶわれて、地に着けずにぶらぶらと揺れる足が落ち着かない。父のそれよりは狭く感じられる背中に掌を預けて、照れくささをごまかすために純子は顔の見えない夫を呼んだ。

「旦那様、」

てくてく。
答えはない。夫は前を向いて歩き続けていた。不安になる純子。こんなに近くに居るのに不安になるのもおかしな話だと自分を笑って、もう一度夫を呼んだ。

「旦那様?」
「…嘉納です。」

目を見開く純子。夕焼けのせいだけではないだろう、嘉納の耳が赤くなるのを見て、また笑う。

「そろそろさむくなるし、戻りましょうか。ふっふっふ、あったかいっすよ、拙者の背中。」
「はい、嘉納さん。」

やはりごまかすように話題を変える嘉納の背中に、純子がぺたりと頬を当てる。事実嘉納の背中は暖かくて、瞼が重くなった。

「宇宙の話ですけど、昔、ある有名な文豪で、まあ、子供には余りイイ親ではなかったらしいとか何とかいろいろあるんですけど、」

しばらくの沈黙の後、嘉納が口を開く。一度顔を受け耳を背中から離して、純子は嘉納の声を聞こうとした。

「英語の訳をするとき、アイラブユーを、月が綺麗ですねって、訳したらしいんです。その話聞いたとき、オレはもう、ああ、いいなそれーっておもったんです。それはきっと、本当だなあって、純子さんはどうおもいますか?」

素敵なおはなしですね。
上目に嘉納の耳を見ながら、純子が目を細める。唇を数回開け閉めして、出ていない声に気付かないまま上機嫌そうに笑った。

「夕飯はどうしますかねえ? 最近、魚高いですし、奮発して粕漬けとかもいいなあ」

嘉納さんの、好きなものを。
答えようとする言葉は、睡魔に邪魔をされて音をなさない。背中が暖かくて、長く歩いたせいで少し疲れて、駄目押しに子守歌まで歌われて。純子は船を漕いでいた。

「…嘉納さん、」
「はい?」

海に伸びる月までの道を、横目で見る。小さな自分と一揃いの靴がその道を歩いて行くのを見て、純子は目を伏せた。

「月が、きれいですね。」

途端に強張る嘉納の背中を頬に感じながら、純子の意識はまどろみに沈んだ。

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引き渡し日:2007/


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最終更新:2007年12月10日 23:16