NO.140 悪童屋@悪童同盟さんからの依頼



/*白き巡礼*/


/*1*/

 こういうことが、時々ある。
 起きているのに寝ているような、あるいは歩いているのに飛んでいるような。平衡感覚も、視覚も、よくわからないくらいにぐちゃぐちゃになっている。一呼吸分の空気がねっとりと重く、吸い込んだそれは胸の奥でずしりと沈む。
 そして。それで胸がいっぱいになると、こぼれるように涙が出るのだ。
 日が暮れる海辺を眺めつつ、砂浜で小さくため息をつく。見回せば、ここまで歩いてきたはずなのに、足跡一つ無くなっている。体は冷たい。もうずいぶん、時間が経っているようだ。
 スイトピーはため息をついた。それから、ため息をつくなんてどれくらいぶりかと考える。そしてへこんだ。そんなに自分は落ち込んでいたのかと、改めてそう知らされたようで、ショックだった。
 夕焼けに染まる赤い海は、思っていたより、綺麗な眺めだった。さほど期待して来たわけではなかったけれど、これなら、見てやっても良いなと思う。
 そう思うこと自体、いつもとはずれている。ずれているが、その事実を直視できるほどには、彼女はまだ落ち着いていない。無意識のうちに、忘れることにした。
「あ……」
 ふと、目眩を感じた。ふらついてそのまま砂浜に倒れてしまう。ざらついた感触。日差しを浴びて暖かい砂。服が汚れてしまう。いや、もう遅いか……。
「いいや」
 どうせ誰も見ていないことだし。こんな姿を一番見て欲しくない人は、ここにはいないし――。
 ここには?
 ここだけ?
 どこかにはいる?
 でもここにはいない。
 スイトピーはごろんと寝転がり、仰向けになる。ぼんやりと、色を変えていく空を眺める。
 見て欲しくない……うん、それはそうだ。こんな、情けないところ見られたくない。
 だけど、そうなのだけれど。そう思うのは嘘ではないのだけれど。
「……会いたい」
 ぽつりとつぶやかれた言葉は、波の音にかき消される。誰もいないところでしか言えないのが、悲しかった。


/*2*/

 ちょっと前の事を思い浮かべる。まだ悪童屋と会わなくなる前のことだ。まだ会いに来てくれて、そうして話す時間を楽しいと意識する事もなかったくらい、その時間に夢中になっていた頃。
 洞窟でバッタを見た帰り。喫茶店でレモネードを飲んだことを思い出す。話したのは、洞窟でのことや、それまでにあったこと、それから起こるだろうと思われること、いろいろとやくたいもないことばかり。
 ああ、楽しかったんだなと思った途端、目が覚めた。蛍光灯の白い光をぼんやりと眺める。
「あれ、ここは……」
 よく見れば、そこは見知らぬ家の中だ。あまり広くない一室は、ベッドと椅子、大きな本棚、キャビネットなどがある。スイトピーはその部屋のベッドに横たわっていた。傍らには、何故か知らないけれど、大きなぬいぐるみが置いてある。いろんな色の、犬のような、狐のような、あるいはもっと別の何かのような、いろんな物がある。カラフルなそれらの上にはカーテンの引かれた窓。窓の外はもう暗いのか、ついさっきまで見ていたはずの夕焼けの輝きは入ってこない。
 体を起こし、ぼんやりと室内を眺めていると、不意にドアが開いた。そこからつり目の女性が現れる。
「ふむ。起きたようだな」
 彼女はそう言うとスイトピーに近づいてきた。脈を確かめ、熱を確認し、こちらが困惑しているうちに体調に問題はないと診断結果を下すと、さっさと背を向けて部屋から出て行こうとした。ポニーテールが揺れる。
「お、お待ちください」スイトピーは慌てて声をかけた。「ここは……」
「気にするな。今日一日はそなたの家だ」
 問いを無視し、肝心なところだけを告げると彼女は部屋から出て行った。あっけにとられている間に、再び、ドアが開かれる。
 次に入ってきたのは、こっちは、知っている人だった。
「げ、あなたは……」
「ふむ。またずいぶんな挨拶だ」
 腹を揺らしながら、低くよく響く声で彼は言う。くたびれて太った中年男、頭の一部にしか髪がないこの人物の名を知恵者という。夜明けの船に同乗している万年自発的無職、自称艦載詩人である。不思議なカニダンスを見せてくれることでも有名である。
「なんであなたがこんなところにいるんですの?」
「希望の戦士から連絡があったのを傍受した。砂浜でそなたが倒れていた、と」
「希望の……? ではここは」
「あれが占拠した、もとい、買い取った一軒家だ。今夜だけは好きに使える」
「あ、相変わらずむちゃくちゃですのね……。あ」スイトピーはちょっと目を大きくする。
「なんだ?」
「でも、先ほどは別の方がいましたが……」
「別の?」
「ええ、つり目の女性の方が」
「恋人だ」
 ……は?
 一瞬、気絶しそうになった。スイトピーの勘違いを知って訂正する知恵者。
「希望の戦士の、だ」
「ああ。良かった……」
「……ふむ」
 知恵者はじっとスイトピーを見ていたが、ふいに目を細めると近づいてきた。おもむろに椅子を引きずると、そこに腰掛ける。
「存外平気そうではないか。何かあったと思ったのだが?」
「そんなこと……」
 あるわけない、と言いかけて、口が勝手に動くことをやめた。まるで、そこから先を言うのは嫌だというふうに。
 不意に黙り込んだスイトピーを、知恵者はじっと見ている。スイトピーは視線をそらした。ため息をつく。そもそも、どうしてここにいるのがこの人物なのだろう。他にもっと適任がいるんじゃないだろうか、と思う。いや、適任って?
「おじさま、とやらとは、うまくいっているのか? 明日会うそうだが」
 ややあって、知恵者は切り出してきた。スイトピーはため息をつく。
「……ストレートですわね」
「このまま黙っていてもらちがあかんからな。そなたも相当弱っているように見える」
 言われて、スイトピーは目を見開いた。そんなことを言うような人だったのか。てっきり、また、妙なことでも言われると思っていた。
 だが――そう言われて、気付かされたこともあった。弱っている。そう、そう目に見えてわかるほど自分は憔悴している。今だって、そうだ。いつもなら、適当に受け流していたはずだ。
 それは何故?
 考えるまでもない。
「明日……ですけど、明日、本当におじさまは来てくださるんでしょうか?」
「向こうから呼んだのだろう?」
「ええ、でも……」
 最近見ていないあの姿を思い出す。それだけで少し嬉しくなり、それと同じくらい落ち込んだ。
「私のことが嫌いなのかもしれない」
「ふられたか?」
 すぐに否定しようとして、何も言えなくなる。本当に、そうか? 黙って考えていると涙が出てきて、それを押し込むようにスイトピーは口を開く。
「……直接は」
「曖昧だな。ふられたのか、それとも違うのか?」
 そんなことは無い……そう否定しようとして、でも、何も言えなくなる。スイトピーは黙って顔をうつむけた。うまく答えられない。いや、答える自信がない。そんなことはなかった……と言いたいけれど、そうと断言できない。
「わかりませんわ、そんなこと」
「ならば確かめるが良い」
「そんなこと! ……そんな、こと」
「できるわけがない、と言うつもりか?」知恵者は淡々と言う。「明日、会うのだろう。そのとき聞けばいい。それで全てがはっきりする」
「でも……嫌いだって言われたりしたら」
「したら?」
 したら、どうなるだろう。どう思うだろう。――それだけで、死ねそうな気がした。
「そなたは、好いているのか?」
 誰を、と聞かなかったのは、もしかしたら優しさだったのかもしれない。
「ええ」
 だからこそか。自然と頷くことができた。
「ならば何も悩むことはない。嫌いだと言われれば、振り向かせてやれば良い。好きだと言われれば、応じれば良い。他に、何を悩む事がある?」
 そう言って知恵者は席を立つ。もう話すことは無いというように、部屋から出て行った。
 ややあって、静けさが戻ってくる。
 ため息は――つかなかった。
 カーテンを開ける。外はすっかり真っ暗で、空には星。でも、その目がさまようのは暗い大地。外灯に照らされたアスファルトの道。誰かがやってこないかと、少しだけ、期待する。
 いや、来ないで欲しい。
 本当に?
 静かな夜。見知らぬその部屋で、少女は一人、眠れぬ時を過ごした。


/*3*/

 目を覚ませば朝になっていた。いや、朝どころではない。日はすっかり昇っていて、その事実に、待ち合わせの時間に絶望的に遅れている事に気付かされた。
「なんて事……っ」
 ただでさえ、嫌われているかもしれないのにこんな事してしまうなんて……。
 昨夜。眠れぬ夜を過ごしているうちに、気絶するように意識を失ってしまった。それが敗因だったのだ。何で、無理してでも寝ようとしなかったのか、スイトピーは自分に腹が立った。
 腹が立ってから、背筋が冷たくなる。もしかして、丸一日寝過ごしてしまったなんて事はないだろうか……。
 いや、そんなはずはない。大体一日も倒れていたらいくら何でも……いやいや、そんなことより、今は。
「早く行かないと」
 そうと決めると、行動は早かった。このときばかりはいつもの少女に戻ったように、きびきびとベッドから降りて、小走りに家から出て行く。幸いにして、道には見覚えがあった。悪童屋との待ち合わせ場所の、船着き場の待合室を目指す。
 だが、やっぱり自分は元に戻ってなどいなかった。いつの間に着替えたのか服はパジャマで、家を出るときからそのままだし、先ほどから足が痛いと思えば、どうやら靴すら履いていない。化粧だって。
 まったく、と自分の醜態に苦笑する。これでは合わせる顔もない。
 泣きそうな気持ちになりながら、スイトピーはとぼとぼと歩いた。長いこと、かかった気がする。もう帰ってしまったかもしれない。そもそも来ていないかも……。
 でも、たどり着いたその場所に彼はいた。悪童屋という名前のわりには紳士な顔に、今は心配そうな表情を浮かべている。煙草を消して、彼は辺りを見回した。こちらに気付く。
 来てくれた。まだ、居てくれた!
 ドクン、と心臓が音を立てる。緊張で体が熱くなる。嬉しさと怖さでうまく息ができなくなる。自然と、顔を背けた。でも目は彼の方を見て離れない。自分の中途半端さが嫌になる。
 彼は慌てた様子で近づいてきた。何か言おうと、口を開く。
「……すみません」
 それを遮るように、口を開いた。悪童屋はさらに心配そうな表情を浮かべて小首をかしげる。
「どうしたんだ?」
 スイトピーは、できる限りいつも通りの自分に見えるよう、彼を見上げた。ちょっと失敗してしまった、みたいな口調を心かげる。
「寝坊しましたの。良く眠れなくて」
 でも、実際に出た声はひび割れたような情けない物だった。だけど悪童屋は気にしなかった。どころか、いつも通り自分を気遣う様子でそっと手を握ってきた。
「その格好は流石にまずい…。どこか別の場所に行こう」
 こくりと頷く。ああそういえばパジャマだった、と思い出した。
 そうして歩き出した次の瞬間、彼はぎょっとした顔を浮かべてこちらを見た。
「裸足じゃないか!!」
 そう言うと彼はこちらを抱えて歩き出した。腕が温かい。胸が熱くなる。呼吸が苦しい。
 でも、彼は何を思っているのだろう。
 何を考えているのだろう。
 ――こんな風にしてくれるのは、どうして?
 もしも。もしも嫌いだと言われたら。ああそれは充分にあり得る。だって自分はこんなに惨めだ。こんなに情けない格好をしている。今だって、怒鳴られた。死にたくなる。
「どうした? 俺は凄く会いたかったのにそんな顔していると寂しいな」
 そんなこちらの気持ちも知らずに悪童屋はいつも通り。それで、なけなしの意地がわき出した。スイトピーはいつも通りに言ってみせる。いつも通り。そう、いつも通りの私なら……。
「殿方には分かりませんわ。化粧をしていない顔を見られる恥ずかしさが」
「……。確かにわからないが」
 違う。そうじゃない。そうじゃなくて。
「俺はスイトピーそのものが好きなんだ」
 …………。
 本当に?
 だが、何か言おうとした口はもうぴくりとも動かなくて。
 こちらが考えているうちに、悪童屋は服屋を探し始めた。必要ないと言ったり、ちょっと虐めるような態度を振る舞ってみたけど、結局彼に用品屋に連れて行かれた。スイトピーは少し考えて、服を選んだ。ニーソックスにデニムのミニスカート。おそろいの袖のない上着。しましまの長Tに、リボン、ベルトは男物。服に合わせた小さいポシェット。髪はめずらしく編んだ。靴も選んで、外に出て行く。
 待っていた悪童屋は、こちらを見た。やや目を大きくする。
「お、さすがといったところか!」
「似合うといいけれど」
「ああ、似合っているよ」悪童屋はにこりと笑い、頷く。「ちょっと、寄り道したけど出かけようか?」
 スイトピーは、ちょっと笑った後で、笑えなくなった。駄目だ、と思う。これじゃあ、繰り返し。何も変わらない。何も、そう何も……。
「どうしたんだ?」
 数歩も歩かないうちに彼は立ち止まった。こちらの正面で、じっと目を見つめてくる。
 今聞くべきではないか? そう思った物の、口から出たのは別の言葉。
「なんでもありませんわ」
 誤魔化してしまった。自分の情けなさが恨めしい。どうして自分はこんな弱くなってしまったのだろう。
「……。わかった。少し真面目な話していいかな?」
 すると。
 向こうから、切り出されてしまった。逃げよう。そう、逃げてしまえばいい。そうすれば何も聞かれないで済む。
 だが遅い。悪童屋はもうスイトピーの手を握っていた。大して力を込めてはいなかったけれど、もうそれを振り払う気力すら、スイトピーには無かった。聞くしかない。そう思って、彼の問いに頷いてみせる。それだけで、涙が出た。
 何も聞きたくない。
 何も終わらせたくない。
 顔をうつむける。目をつむる。でも、耳をふさぐ手は握られていて。その声すら聞きたくないと必死に念じる。

「俺と一緒に暮らさないか? 俺にはスイトピーが必要なんだ」

 そうして。
 スイトピーは、びっくりした顔で面を上げた。
 目の前には、真っ赤になった悪童屋がいる。でも目はそらさず、手も握ったまま。それは、今の言葉が夢ではないと知らせるには充分で――。
「返事を聞かせてほしい……」
 そう言って彼は手を伸ばしてくる。こぼれる涙を掬ったが、情けないことに、涙が全然止まらない。
「ずっと、こなかったから、王の執務が忙しいのかと」
 しゃくり上げそうになりながら言った言葉は、そんなどうでもいいことだった。違う。そうじゃない、と心の中でつぶやく。
「忙しいかったがキミのことを想わなかった日は一日も無い。 ――だから、一緒に暮らそうと……」
「皆笑いますわ、歳の差が離れすぎていると」
「気にするな! キミが大きくなるのを待つよ。 言いたい奴に言わせておけばいい。俺は……。キミが必要なんだ…。」
「あなたがおじいちゃんになる……」
「おじいちゃんになったらだめかな?」
 もう、限界だった。スイトピーは悪童屋に駆け寄って、抱きついた。その胸に顔を押しつけて、しゃくり上げながら涙をこぼす。
 そっと、柔らかい感触が体を包む。悪童屋もまた、スイトピーを抱きしめていた。
「おい……。泣くなよ……。俺が困る……」
 そんな声が気にならないくらい。本当に、ついさっきまでの自分が嘘のように。嬉しくて、嬉しくて、泣き続ける。胸の奥に詰まっていた何かが、全部全部洗い流されて、その代わりに、別の中かが満たしていく。それはほどよく暖かく、心地良い。
 ――ひとしきり、泣き終えて。
 ゆっくりと彼から離れて、スイトピーは口を開いた。
「はい。はい……はい。喜んで」
 それが、先ほどの問いの答え。悪童屋は優しく微笑み、
「ありがとう…。これからもよろしく」
 そう言った。
 ……ああ。
 なんて莫迦だったんだろう。
 なんて勘違い!
 笑いがこみ上げてくる。嬉しさに胸が詰まる。でもいくら胸がいっぱいになっても、涙は全然こみ上げてこない。
 スイトピーは背伸びして目をつぶった。祈るように。
 ややあって、唇に柔らかい感触。
 目を開く。スイトピーは世界で一番幸せそうに、悪童屋を見て微笑んだ。




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最終更新:2007年11月30日 17:37