アキラ・フィーリ・シグレ艦氏族@FVB様からのご依頼品


下半身不随および麻痺の原因は胸椎第12番および腰椎第1番への障害である。
脊髄の損傷は原因を取り除いたところで完全に機能することは通常であれば不可能である。
なぜならそれは脊髄が中枢神経系に属するものであり、言ってしまえば脳の一部なのである。
末梢神経であればある程度治癒することは可能であるが、中枢神経であれば再生は難しい。
構造が複雑であるだけでなく、神経軸索の成長促進機能が退化しきっているという理由があるからだ。
ネーバルでも基本的な部分は同じだろうと推測されるし、現状の症状をみている限りでは間違っていないと考えられる。
そこで、青い光の力を利用する。
青い光の治癒力であれば再生能力を活性化して機能が改善する可能性はある。
そのため、まずは脊髄に埋まってしまった異物を取り除き、その部分を青い光で治療する。
失敗の可能性があるとすれば手術の際に更に深く神経に損傷を与えてしまう場合と、再生がうまくいかない場合がある。
が、それは手術にはつきもののリスクではあるし、なるべくそうならないように細心の注意を払って行うからそこは信頼してもらうしかない。
その後の経過としては損傷部位が馴染んで動かせるようになるまで、具体的には神経の伝達経路の慣れができるまではリハビリとなる。
それだけでなく衰えている筋肉を鍛え直すことも必要だから、ゆっくりと長く見ていかなければならないが、恐らく完治はするだろう。

「……というわけですけど、わかりましたか?」
「……も、もう一度お願いします」
「えーと、分りました、もう少しざっくりいきましょう」

海法よけ藩国の病院、その診察室で時雨と黒崎が話していた。
シャウカステンには脊椎と思われるレントゲン写真が貼りつけられており、その中腹辺りに細かな異物があるのが見て取れた。
話題の中心になっているエステルの体からはすでに取り除かれているものであり、本来ならばそれは必要ないはずであった。
話の内容もすでにエステルを説得する際に散々彼女に対して行われたものとほぼ同じである。
それが必要とされている理由はただ一つである。

「まー、とりあえず、病識くらいはみにつけてくださいっ」
「……あい」

時雨自身の勉強のためであった。


 天の川に至るまで~side時雨~


何故このような事態になっているかと言えば、時雨の発言が元である。
時雨はエステルの介護を献身的に行っていた。
ベッドから車椅子、車椅子からリハビリの機械への移動やリハビリそのものなども積極的に手伝っていた。
常にと言っても良いほどエステルに付き添い、心と体の両面から彼女をサポートしていた。
多少は上手くいかないことはあっても、エステルのために動くその姿は病院の職員たちも微笑ましく見守っていた。
しかし、それも一言で意味を失う。
ああ無情かなアイドレス。舌禍はどこにでもあるのである。
リハビリから帰ってきたエステルと食事をしている時、用意された食事と共に置いてあった薬を見ての一言。

「あれ、まだ薬必要なんですね。歩行訓練もまだだし大変ですね」

次の瞬間には時雨だけ部屋から捨てられていた。
時雨からすれば状態を確認しただけにすぎないのだろうが、それが良くなかった。
エステルの容態はそんな簡単なものではない。『まだ』どころの話ではないのだ。
それはエステルだけではなく看護師も良く知っていた。というか看護師の方が深刻に受け止めていた。
良く知っていたからこそ、常に傍にいる人間がそれではいけないということも良く分かっているのである。
だからエステルが少しだけ表情を曇らせたことにも気付いて放り出したのだ。
そしてこれではいかんと主治医召喚と相成ったわけである。

何故病識と言う物が必要かと言えば、それが患者の治療への参加にかなりの影響を与えるからである。
病識とは、文字通り病気の知識であり、今自分がどのような症状で受診しているのかということを理解していることを指す言葉である。
癌などの不治の病でない限り基本的には医師は病名やその症状について患者に説明する。
患者はそれを知っていることで自分がどのような症状でどのような注意をしなければいけないのかを知る。
そしてどのような治療が自分に必要で、それをどのようにしているのかを知るのである。
良く言われるインフォームドコンセントとは、大まかにくくってしまえばそれを得るためのものである。
病識がなければ漫然と薬を服用したりリハビリを繰り返すだけで、治療に本腰も入らずに効果が上がらないことがある。
自分の症状を自覚することで初めて薬、リハビリ、食事や生活環境、それらすべてが必要であることを実感できる。
実感があるからこそ治療の効果も上がり、より良い予後と早い回復が見込める。
そしてそれはサポートをする家族にも言えることなのだ。
家族が病識を持っていなければ本人がどうであれ、真に必要な治療を受けられないことがある。
治療をすることへの理解は得られても、その内容に懐疑心があれば不要ではないかと心配を与えることもある。
自分の身近にいる人間の心配が患者本人に与える影響は少なくない。できれば少ないに越したことはない。
よって、病識は患者のみならずその家族にも必要なものなのであった。

「それで、原因とそれを取り除いたところまでは理解していただけたと思いますが」
「はい」
「リハビリその他の重要性とをもうちょっと知っていなければいけないみたいですね」
「……はい」

やっちまった立場なので何も言えない時雨。借りてきた猫ならぬ放り出された犬の如くしゅんとしている。
それを確認して黒崎はこほんと一つ咳払い。
簡単な講義を開始した。

リハビリはただ動き辛い足で歩けるようになるまで訓練する、というものではない。また、単純な筋トレとは異なっている。
障害を負った体を社会に適応できるように訓練することが第一義であり、歩行訓練はその一部に過ぎない。
今回の最終目標は傷を負う前と同程度に動けるようになること。しかしそこにたどり着く前にかなりの行程が待っている。
まずは動かさなかったことで退化しかけている筋肉をもう一度動くようにする必要があるし、訓練を行うために必要な上半身の力をつけなければいけない。
そのためにはただ筋力がつけばいいというわけではなく、必要な動き方をするように必要な分だけ筋力を取り戻してやることが大事なのである。
やりすぎても変な癖がついてかえって動きづらくなることがあるのだ。
それ以外にも関節の拘縮によって可動域が狭くなる、もしくは動かなくなっているかもしれない。
神経の損傷があるのであれば、意識した通りに正しく動かない可能性すらある。
それらの全てを以前の状態に戻すには丹念な繰り返しが必要なのだ。
患者も苦痛に耐えなければならないため、とても忍耐力のいることである。
つまりは、

「歩行なんてしばらくは夢のまた夢です、わかりましたか!」
「はい……」
「何よりエステルさんは脊髄内の異物を取り除くために一度脊椎を切開しているわけですから、それが完全に固まるまでは無理はできません」
「え、でも上半身起こしているじゃないですか」
「それはコルセットで固定しているのと、ある程度であれば生体セメントで支えられるからです。治ったわけではありませんっ」
「はい……」

副次的な症状を抑えることも大事である。
下半身が動かない場合最も危惧される合併症は尿路感染症と褥創が挙げられる。
特に後者は一般に床ずれとも言われる。同じ部分に圧力が懸かり続けることで組織が圧迫され、壊死してしまうのだ。
ひどい場合は骨が見えるまで傷が広がってしまうのである。
これは時間を決めて体位を変えてやれば問題ないが、結構な重労働である。まったく動けない患者ではどんなにケアしてもできることがある。
今回は上半身が自由に動くためある程度自分で圧力を分散させることはできるが、上半身だけで体の位置をずらすのはかなり厳しい。下半身が満足に動かないのであればなおさらだ。
よって、そのケアも周りにいる人間が請け負ってやる必要がある。
手術を行う前からこれについては十分なケアを行ってきてはいるものの、今後も満足に動けない以上起きる可能性はある。そのためまだまだ対策は必要なのだ。

「これは男手があればぐんと楽になるんですから、お願いしますねっ」
「はい……」

腰部神経の損傷から、排尿および排便に影響が出ている可能性もある。
今では神経に損傷はないため今後新たに起きる可能性はないが、今までに知らず知らずの内に発症していたものが後を引いている様子がある。
特に排尿障害がある場合は先述の尿路感染を起こす可能性があり、注意が必要とされる。
そのため必要であれば利尿薬と排便促進の薬を投与し、食事の面からも必要な水分と栄養を整えてやる必要がある。
エステルにも若干その兆候が見られるので、現在は弱い薬で様子を見ている状態だ。
腰と足しか注目されないことがあるが、脊髄と言うものはかなりいろんな部分に影響を与えるのだ。

「だから薬も食事も大事っ!普通に食べられるからってしばらくはないがしろにできないんですよっ」
「はい……」
「つまりは、どんな些細なことであっても入院中に施される治療は意味があって行われていることであり、その段階も進行度も注意深く決められているんです。現状期待したほど良くなっていない、もうこうなっているはずだ、ということは思うかもしれませんが、それに近づけるためにスタッフも毎日頑張っているんです」
「はい……」
「もし少しでも疑問があったり、ここはこうじゃないかなと思うことがあれば、今度は医師の前で、私の前で言ってください。先に患者の前で話すのは無しですよっ」
「はい……」

ふーと大きく息を吐く黒崎。大分こってり気味に絞ったけれども、これも一重に時雨とエステルのためである。
ここでしっかりとサポートできないとこの先どうなるか、分かったものではない。
だから今できる限りのことをしておいた方がよいのである。
そしてそれは今成功したように見えた。後は一押しするだけ。

「さて、分って頂けたのであれば、することもわかりますね?
「ええ……エステルに謝ってきます」
「はい、よくできました」

時雨の回答に満足したようににっこりと笑う。
この感じであれば問題ないだろう。もう一つサービスしてあげてもいいかもしれない。
とぼとぼと部屋から立ち去ろうとする時雨の背中にはそうさせるだけの哀愁が漂っていた。
患者の家族のケアも必要というのが医師のつらいところだなぁと、黒崎は思うのであった。

「そうだ、時雨さん。もう一つお知らせしておきたいことがあります」


診察室を出た時雨はまっすぐエステルの病室に向かった。
そして扉の前で立ち尽くす。こんなに大きな扉だったっけ。
いや、自分の意識がそう見せているだけだと頭を振って、扉をノックする。

「エステル、入っても大丈夫ですか?」

返事はない。
また怒らせてしまったのか……。
前にも同じような状態になったことを思い出して、こんなに早く繰り返してしまうものかと自分の思慮の浅さを後悔した。
でも、だからこそちゃんと謝らねばならない。

「エステル、一言だけ、貴方の目の前で謝りたいんです」

これにも返答はない。
そこまで怒らせたのか、それとも落胆させてしまったのか。
それならばこそ諦めてはいけない。
もう一回声をかけようと扉に手を付いた。

「……ちょっとだけ、待ってください」

エステルの声が聞こえた。
扉越しだったので感情までは読みとれなかったが、入れてくれるだけでも大きな進歩だ。
そこで、今更ではあるが、心の準備に時間が必要なくらいのことをしたのだという実感が時雨にのしかかった。
これは自分への罰だと、そう自分に言い聞かせて時雨は待った。

「……っ、ど、どうぞ」

しばらくして、再びエステルの声が聞こえた。
苦しそうな声だった。
それが時雨の胸を深く抉った。
この扉を開けてもいいものか迷うくらいに。
いや、今更迷って何になる。エステルに会うんだ。
意を決して、時雨はそっと扉を開けた。
そして扉を開けた時雨は、そのままの形で固まった。
そこにはエステルがいた。
いや、いなければおかしいが、そういう話ではない。
エステルが、立ち上がっていたのだ。


/*/


 天の川に至るまで~side エステル~


目が覚めた時には、世界が変わっていた。
見知らぬ天井と、規則的な機械音。そして全身の痛み。
いや、全身ではなかった。足だけは痛みが無かった。

足だけは、何も感じなかった。

ぞっと全身が冷えた。
何故ここにいるのかよりも先に最悪の考えが頭を過ぎる。
待て、断定してはいけない。自分の現状を確認せねば
慌てて体を起こそうとして、体が動かないことに気付いた。
自分の目で見ることすら適わない。
つまりは、これは体が固定されているのだろうと考えた。
いや、手がわずかに動く。シーツの感触が指から伝わってきた。
動く範囲は少ないが、体には触れられそうだ。
腰は、ある。触れた感覚もある。しかしそこから先は、指が届かない。
もう少し先へ、少し先へ指が届けばすべてが分るのに。
無理に伸ばそうとすると体に痛みが走った。
機械音もけたたましく鳴り響いている。煩い。
痛い。
痛い。
でも指を伸ばさなければ、何も分からない。
体がゆがむ、どうにかして届かないものか。
届け、届け、届け。
噛み締めた歯が軋む。
痛い、痛い、何かわから何かが痛い。
そして、ようやく指が届いた。
寝巻と同じ感触がする。その向こうにも肉の弾力はある。
指に感触は届く。
だが、触れられている足の感覚は……



「ッはあっ……、はぁ……は……」

場面が変わった。見える景色は夢と同じだが、暗い。
時刻が深夜であるということだけが異なっている。
慌てて体を起こしかけて、そっと腕で上半身を支えつつ起き上がる。
ギシと軋むような音がした気がしたが、無事に動いた。
場所は同じだが、体は今固定されていない。
いや、あの時も固定などされていなかった。ただ自分の体が動かなかっただけの話。
少しだけ腕を伸ばして足に触れる。ある、そこには確かに足がある。触れられている感触も。
そこまでして、ようやく落ち着いた。息をつく。
そこでようやく目が覚めたんだと思った。
またあの夢だ。ここ最近ずっと同じ夢を見ている。
あの時と同じ夢、あの絶望と同じ夢。

「痛っ……」

その動作に反応するように足に痛みが走った。
足に感覚は戻ったが、それ相応の代償は当然残った。
低下した筋力や関節の固定(拘縮というらしい)に加えて、一番がこの痛み。
動き辛い足をどうにかして腕で抱える。動くだけで関節が軋む感覚がする。筋肉も悲鳴を上げる。
でもこうしなければ、足を間近に感じなければと思う。
膝を立ててその間に顔を埋める。
こんな体でも、足はある、動く、感じる。
当たり前の熱を額に感じる。
当たり前になれたことに喜びを感じる。

「……痛い」

痛みが引くまでは時間がかかる。
それまではこのままで、勘付かれてはいけない。
隣で眠る彼には、決して。



「痛み、ですか」
「ええ。今一つ原理が分からないので気になるのですが」

夢にも見るということは伏せて、主治医である黒埼という医師に相談してみることにした。
少しでも解消することができるのであればそれに越したことはない。
すぐに薬の処方が出るものかと思いきや、目の前の人物はうーんとうなり出した。

「症状としては幻肢痛じゃないか、と思うんですが足はちゃんとあるから、一種の神経痛のような感じがしますねぇ」
「神経痛……ですか」
「色々と理由は考えられますし、不思議なことではないですね。でも万が一の可能性としては腰由来の損傷が残ってしまっているかもしれません」
「それは……」
「無いように手術したはずなのですが……一応レントゲンとかCTとかで検査をしてみましょうか」
「ええ、お願いします」
「じゃあ時雨さんにも手伝ってもらいましょう。もう入っていいですよー!」

洋服を下げて露出していた肌を隠す。
いくら足が動くようになったとはいえ、衰えていた筋肉も共に戻ってくるわけではない。
介護は必要であるし歩くための訓練も長く必要である。それまでは車いすを使用しなければいけないのだ。
一人でも移ることは可能だが、やはりそこには他人の手が、いうなれば男手が必要らしい。
男手……

「ど、どうしたんですかエステル」
「いえ、お願いします」

おそるおそる入ってきた時雨を見るが、何かどこか頼りないなと思う。
ここに勤めている女性の看護師の方が頼りがいがありそうなくらいだ。
だが今はこの場ではこの手しか頼るものがない。近くに車椅子を持ってきてもらい、そこに向くように体の位置を調節する。
そして思いっきり両手でベッドを押し、体を浮かせる。
一瞬であれば今でも立てる。しかしそれは一瞬のことであって、すぐに車いすに移らねばならない。その際体を支えてもらえばゆっくりと動けるから多少は楽になる。
少しでも歩けるようになればもっと楽に乗り移れるのだろうけれども、暫くは無理だろう。
もう少し動ければ……っと、しまった!バランスが崩れて……

「っと、大丈夫ですか!」
「え、ええ」

もう少しで倒れるところだったが、どうにか時雨が支えてくれたようだ。間一髪持ちこたえることができた。
油断しなくてもこうなりそうなのだから気を付けなければいけなかったのに、迂闊だった。
感覚がある分力が入らないことがありありと分るのがまた恨めしい。

「エステル?」
「……え、ええ、大丈夫です」

こちらを心配そうに見つめる時雨と、その後ろの黒崎にも軽く微笑んでみせた。
まだ治療は始まったばかりなのだから、そんなに焦っても意味がない。そう自分に言い聞かせながら車椅子に腰かける。
とりあえずは原因を究明しないことには始まらない。
足に感覚が戻った時に、そう学んだのだから。


「うーん」

検査が終わって、診察室で話を聞く段になっても黒崎は唸ったままだった。
よほど悪かったのだろうか。

「いえ、手術はうまくいったのは確かなんですが、となるとどういった理由で痛みが出ているのかなと」
「はぁ」

そこまで悪いわけではないらしいが、原因が分からないのであれば結局何か気持ち悪いままだ。
もう少し詳しく分かってはいないのだろうか。

「ほかに考えられる原因はあるのですか?」
「原因……そうですね、単純に脊髄の損傷がある間に何かしらの傷害があった可能性と、後は心因性のものがありますね」
「心因性……ですか」
「ええ、あって当たり前の物がなくなってまた戻ってきたんです。表向き気づいていなくてもかなりストレスがかかっているのは当然です。何より、その、傷ができた理由が理由ですから」

後ろで時雨がうっと唸っている気がするが、無視する。
ストレスというと、あの夢のことだろうか。いや、ストレスのせいで夢を見ている可能性もあるのか。

「何か最近変わったことはありませんでしたか?夜良く眠れないとか」

瞬間、すっと背中が冷えた。見透かされたのではないかと錯覚してしまった。
いや、落ち着け。ただ単純に可能性を提示されただけだ。
悟られてはいけない、彼がいる間は、だめだ。

「……いえ、特には」

勤めて平静を装った声で答える。まっすぐ目を見なくては、と思うが見ることはできない。
その所作で勘付かれたのではと思ったが、黒崎はそれ以上追及してこなかった。

「うーん、じゃあとりあえず神経の状態が落ち着くまで様子を見ますか」
「はい、それでお願いします」
「はーい。で、今見た限りでは今日も同じメニューでリハビリしてもらった方がよさそうですね」

話しながらも黒崎はリハビリを受けるための紙に必要な事項を書き込んでゆく。
どうにか、ばれないで済んだようだ。見逃されているだけなのかもしれないけれども。
何にせよ今はそれがありがたかった。ただそれだけだった。

「はい、では今日も頑張ってきてくださいね」
「はい」

渡された紙は確かに昨日と同じ内容の物だった。だからこそその内容が思い出されて、少しだけ大変だなと思った。
とにかく、動けるようにならなければ。


リハビリは簡単なものではなかった。
まずは体を支えるために必要な上半身、特に腕の筋肉を鍛えるところから始まった。今でこそ楽にこなせるが、何もしていなかった初日は大変だったのを覚えている。
次に足の筋肉の補強が始まった。とは言っても、足はまだ動かせないし体重もかけられない。なので職員が足を自分の体で抑え、そこに力を加えるという方法で足の筋肉を鍛えていた。
これがなかなか大変だった。足の動かし方を忘れていたかのようにまったく動かないところからのスタートだけあって、一瞬でも立てるようになった時の喜びはひとしおであった。
今日も一瞬は立てたが、持続はしなかった。まだまだゆっくりでいいとは言われたが、早いに越したことはないと思う。
しかしその日のうちにできる時間は決められているらしく、車椅子で部屋まで連れて行かれてしまった。
速く動けるようになりたいというのに。焦りだけが募ってゆく。
そうしないと、早くしないと、いつまでも時雨に頼るわけにはいかない。
だから……

「あれ、まだ薬必要なんですね。歩行訓練もまだだし大変ですね」

その時聞こえてきた言葉は、最も聞きたくない言葉だった。
やはり、待たせてしまっているのか。自分が動けないことで、負担をかけてしまっているのか。
真意は別の所にあるのかもしれないが、もうそれしか考えることができなくなってしまった。
呼吸が浅い。
どうしよう、このままあの事まで気づかれてしまったら。それも気遣わせてしまったら。これ以上負担になるのはダメだ。何かがダメなのに。
時雨が後ろで自分を心配そうにしているのが伝わる。だめだ、今顔を見られたら……

「エステ……」

しかし時雨は名前を最後まで紡ぐことは許されず、たまたま傍にいた看護師にぽいっと部屋の外に追い出された。
一瞬何が起きたか理解できなかったが、乱暴にカギをかける音で我に返った。

「な、何を」
「まったく、一番大変なのは患者本人だっていうのに」

その口調でどうやら自分のために怒ってくれたことは分かった。
確かに、あのままでは自分を守りきれなかったかも知れないので、それは単純に感謝したいが、

「あの、何も外に出すことはなかったのでは」
「あー、だめよだめ。ああいうのは甘やかさないで1回きっちりと教育しなくちゃ」
「教育、ですか」
「まあ、主治医の先生に今までの経過とかどういった症状なのか詳しく聞いてもらうだけだけれどもね。するとしないとでは大違いよ」

曰く、病人本人だけでなく家族もどういった治療を受けるかを確認して、十分な理解が得られた方が治り
違うのだという。
患者はただ体を治すことだけに専念することができればそれにこしたことはない。それだけに家族のサポートが必要なのである、のだとか。

「だからあんな態度を許しちゃだめよ。あなたはそんな体なんだから、動けるようになるまではもう、あなたが王様くらいの気分でいいのよ。あなたの体のことだけを考えていればいい。わかった?」
「わ、分りました」

迫力に気圧されるように反射的に返事をしてしまったが、とりあえず助言はありがたく受け止めよう。
時雨が戻ってくるまでに、それについてしっかりと考えよう。
それで少しでも、この痛みが和らぐのであれば。


それから数時間後、部屋で一人で夕日を見るのも疲れるものだ。特に何週間も見てきたものであれば。
その間にも昼食時に看護師に言われたことを考えて、自分がどうだったかを考えてみた。
私は自分のことだけを考えていればいい。
しかし、私は自分で自分のことを考えられているのだろうか。
もしかしたら、自分のことを一番わかっていないのは、自分なのかもしれない、
少し考えてみれば分ることではあるが、時雨も病院の職員もだれも焦ってはいなかった。
それなのに一人でかってに早く治さなければと焦って、悪夢も見て、痛みも出て、何が良くなっているのだろうか。
滑稽だなと、ぽつりと口の端から漏れた。
勝手に一人で行こうとして、何を迷惑をかけているのだろう。
自分でできることなんか限られている。人に手を貸してもらった方が早いことが多い。
それをそこまであせってしまったのは何故だろう。今更ながら思う。
自分のことを分かって入ればすぐに分かったろうに。こればかりは仕方ない、か。


その時、ノックの音が聞こえた。

「エステル、入っても大丈夫ですか?」

時雨の声を聴いた瞬間。いろんなことが氷解した。
焦っているのも隠したいのも早く治りたいのもすべて、このためではないか。
ずっと自分のために悩みながらも見守ってくれている、彼のためではないか。

「エステル、一言だけ、貴方の目の前で謝りたいんです」

悪夢を見るのももしかしたら彼のためなのかもしれない。痛みが出るの彼のためかもしれない。
それは、自分が時雨に対して少しでも悪いと思っていれば出てしまうのだろう。
ならばこれは自分で乗り越えなくてはならない。
謝るのは自分の方だと言いたい気持ちを抑えて、短く返事を返した。

「……ちょっとだけ、待ってください」

後は準備あるのみ。ただうまくいくかどうかは五分。
それでも乗り越えなくてはならないのだ。
やれるだけはやらなければ。
彼にも、自分にも、気にすることはないのだと気付かせるために。

「……っ、ど、どうぞ」


/*/

 天の川に至るまで~二人一緒に~


時雨は自分の目を信じることができなかった。
一瞬ならば、と言っていたはずのエステルがその2本の足でしかと立っている。
そんなことはありえない。そう先ほど説明を受けたのに、今は立っている。
それが信じられなかった。

「え、エステル。本当に」

立てるようになったんですか?
そう続けるはずの言葉は飲み込まれた。
エステルの体が大きく傾いたからだ。
やはり、立てるわけがなかったのだ。無理をしていたのだ。
それなのに、なぜ?
いや、それは後だ。そこまで考えるのと並行して体は動いていた。
完全に崩れ落ちる前に、体に手を差し伸べて抱きかかえる。

「エステル!」

無理をして立ち上がったのだろう、顔にはうっすらと汗が浮かんでいたが、その表情は満足そうだった。
抱えたままでは安定しない。そっと持ち上げてベッドに横たわす。
呼吸が正常であることを確認して、その手を握って、時雨は思いのたけをぶつけた。

「なんでこんな無茶をしたんですか!」

無事だったことよりも何よりも、悪化の可能性があることを行った、ということを聞き出そうとした。
下手をすればまた立てなくなってしまっていたかもしれないのに。
これ以上、エステルが苦しむ姿は見たくない、その一心だけが頭にあった。
それを見透かしているかのように、エステルは微笑んだ。

「私は、頑張れば立てます。すぐに立てるようになります」
「でも、今はそうじゃないでしょう!」
「それでも、いずれ必ず今のように立てるようになります」
「だからといって、今しなくても」

「だから、何も気に病むことはありません」

ガツンと頭を殴られたような感覚が時雨を襲った。
ずっと、自分が思っていたことを丸裸にされた気分だった。
エステルを傷つけて以来、ずっと思っていた。治るまでは自分が手となり足となろうと。
単純な罪悪感だけでなく、大切な人を守りたい気持ちも混ざってはいた。
しかし、一番は何よりもエステルに対する懺悔の気持ちである。
それに、気付かれた。いや、前からずっと気付かれていたのかもしれない。

「エステル、それは」
「私は、ずっと気にしてました。あなたが私のことでずっと後悔していることを。だから、これ以上何も背負わせないようにと焦っていました」

それは自分に対して話すような口調で、エステル自身が少しずつ確認するために話しているようであった。
時雨は何か言おうと口を開いて、ただそれを聞こうと、そっと手を握るだけにした。

「そう、焦っていました。早く歩けるようにならないかと。感覚は戻ったのに、なぜ足は動かないのかと」
「早く歩けるようにならないと、あなたがずっと後悔し続けてしまうから、だから、焦っていました」
「多分そのせいだと思います。感覚が消えていた部分に、消えない痛みが残りました。それすらもあなたには言えませんでした」
「あなたが、まだ歩く訓練までいかないのだと言った時は本当にショックでした」
「でも、その後考えてみたんです。それはあなたも焦っていたからじゃないかって」
「そう思ったら、途端に落ち着きました。二人して焦ってどうするんだって」
「あなたが後悔していることを私は気にしているし、私が気にしていることをあなたは後悔している」
「なら、簡単なことなんだなって思ったんです。同じことで悩んでいるのであれば、同じことを思えば気にならなくなるって」
「だから、そのためにも、立ったんです。私はできるのだと、あなたに知らせるために」
「心配させてしまったのならば謝ります。でも、知っていてほしいんです。何も気にしなくていいんだって」

時雨はそれをじっと聞いていた。
正直恥ずかしかった。自分ではなるべく気にしないようにと、表に出さないようにとしていたはずなのに、すべて伝わってしまっていたのだから。
だからこそ、エステルの考えが良く理解できた。良く身に染みた。
自分がすべきことも、ようやく見えた気がした。

「エステル、僕は、恥ずかしい。あなたが考えたすべては僕も考えられなければいけなかったことなのだから」
「そんなことは、今気にしないでくださいと」
「いいえ、これは僕が言わなければいけないことなんです。だから、改めて、一言言わせてください」
「……はい、なんでしょう」

エステルがじっと時雨の目を見つめる。時雨もそれに応える。
この部屋に入る前に言おうと思っていたことはきちんと言い切ろう。それで自分はすべてを振り切ろう。

「僕はあなたにひどいことを言いました。それがもとでこの考えにたどり着けたとしても、酷いことにはかわりないです。だから、一回だけ謝らせてください」

そして時雨は深く頭を下げた。

「エステル、すみませんでした」

しばしの沈黙ののちに、顔を上げてくださいと、エステルが口を開いた。
言われた通りにした時雨の目には、いつもと変わらぬエステルが見えた。
受け入れてもらえたのであろうと安心仕掛けたところに、続きが届いた。

「分りました。では、詫びとして一つお願いがあります」
「何でしょうか?」
「足が、疲れました」

そう言ってエステルは自らの足を指し示した。

「マッサージしてください」

少しだけ微笑んだその顔は、時雨の目には少しだけ意地悪そうに映った。

「よろこんで!」

言うが早いか位置を移動する時雨。黒崎の言っていたもう一つというのはこのことだったのかと、ようやく合点がいった。
マッサージをしやすい位置に腰かけると、柔らかな手つきでエステルの足をほぐし始めた
しっかりと立てるようになりますように。そう念じながら、少しずつ揉んでゆく。
そう念じることが大事なのだと信じて。

夕暮れに染まる部屋で、二人だけの時間がゆっくりとすぎてゆく。
焦る必要はない。これからは二人でゆっくりと進んでいけばいい。
言葉はなかったが、お互いにそう通じ合っていると、二人は信じていた。


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ご発注元:アキラ・フィーリ・シグレ艦氏族@FVB様
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引渡し日:2011/12/05


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最終更新:2011年12月05日 19:49