瀬戸口まつり@宰相府藩国様からのご依頼品


 彼は孤独な鬼だった。
 かつて崇拝と愛情の全てをささげた相手は彼の前を去って久しく、その後に彼の前に現れた運命は、全てを覆い尽くした漆黒の闇でしかなかった。
 それからは、彼女と再び巡り逢うことのみを心の糧とし、全てを敵と思って生きてきた。かつては敵だったものも味方だったものも諸共に、彼女を消滅せしめたという意味では同義だったからだ。
 それでも、長い年月、ほんのわずかの間ささやかな魂の交流がないわけではなかった。暗闇に塗りつぶされたその先に、微かな光がさすこともなくはなかった。変わらぬ生き物たちの営みに、次第に諦念も覚えるようにもなった。
 長い長い時をかけて再び人々と交わるようになった後も、培われた透徹したシニカルな眼差しは喪われることなく彼の根本にしっかりと根付いていた。その一方で、理非を考えることなく、連れてこられた幼いののみを自分の保護下に置くこともした。自分の言動が常に矛盾に引き裂かれていることを理解してはいたけれど、そこにはあえて目をつぶることを選んだ。
 憎悪は常に彼について回り、彼らを許すなと吼えては心身を苛み続けた。けれどそれとだけ向き合って生きていくこともまた、彼には出来なかったのだ。それは自分の弱さだろうか、そんな自問もふとした拍子に胸に滑り込んでは、新たな傷を刻んでいたけれど。
 きっとこんな風にこの先も生きていくのだろう、そんな形で現状を受け入れていた自分の目の前に、突然現れたのがまつりだった。
 意図が、判らないはずがなかった。だが、そのことを深く考える前に、心はそれを拒絶した。ののみの為と自分に言い聞かせるようにして、自分を追おうとする彼女の手を振り払った。そうしようと努力した。情熱を伴わないものであっても、自分の愛情はののみに注がれている。ならばそれで、何の不都合があるだろう。
 恋などするつもりはなかった。恋など、したくなかったのだ。
 それなのに。
 自分が見切った意図のほうがフェイクで、実はまつりはののみを狙うものたちの手先かもしれない……そんな疑惑を前に、覚えたのは強い強い落胆で。その上、そんな相手をかばい、守ってしまう自分の衝動に、逆らうことが出来なくて。
 白旗を掲げるしかない、ついにそう思い切ったときには、いっそすがすがしささえ覚えた。かつて自分を導いてくれた彼女の為にと、ずっと守ってきた心の奥底の堅い砦。ここが崩れてしまうことに恐怖を感じずにはいられなかったのに、いざそれがなくなってしまうと、不思議なくらい気持ちは穏やかだった。
 彼女の為にと思う気持ちは、嘘ではないにしろ自分のためのものだったのだ、以前なら顔を背けただろう結論に、今は向き合うことが出来る。そこに一抹の寂しさや悲しさを覚えてしまうのは、どうしようもないことだろうけれど、それでも。
 人から愛されない命は、淋しく悲しい。
 けれどそれ以上に、人を愛せない命は虚しく辛いのだ。
 どんな仕打ちにも変わらず伸ばされ続けた柔らかい手が、自分を虚しいだけの命から掬い上げてくれた。この手がこれからの自分の宝物なのだ、そう思うことに、だからもう迷いはなかった。


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 引き寄せるとふんわりと倒れてくる身体を膝に乗せて腕を回し、その柔らかな感触、たおやかな香りを楽しむ。すり寄ってくる彼女は喉を鳴らしそうな上機嫌さで、その様にまた心が甘くはどけていくのを感じる。一瞬前までの不穏な会話からのリカバリは、なんとか成功したようだった。
 正直、恋人と二人きりでいるのに、眉間に皺を寄せて顔をつきあわせるなんてばかげた話だ。愛する人が側にいるのなら、優しい抱擁、甘い言葉、蕩けた笑顔がデフォルトというものだろう。
 瀬戸口の広い胸に手をついて身を起こしたまつりが、ちょっと悪戯っぽい笑みで目を細める。
「今日は水着もありますよ」
「いいな」
 告げられた言葉に、期待が上乗せされた分笑顔が過剰になってしまう。だがしかし、恋人の水着姿に反応を示さずにいられようか。いられるのだとしたら、もはやそれは恋人同士とは呼べないだろう。
「拝ませてもらうかな」
「なんだかなーな言い方ですけど じゃあ泳ぎに行きましょうか?」
 やや困惑気味の苦笑を向けられて、頭を掻きながら笑い返す。
「表現がいやらしかったかな」
 そんな言葉にもう、というようにやや唇を尖らせた、まつりの頬はうっすらと赤みを帯びている。すぐに笑み崩れた表情を隠すように彼に背を向けてぱたぱたと走っていくのを、瀬戸口は殺し気味のくすくす笑いを漏らしながら追いかけた。
 初めて出会ったときからもう随分長いつきあいになって、指輪まで交わした仲だというのに、未だにまつりにはこういう初々しい部分が残っている。ふとした瞬間にそんな部分に触れる度に、どうしようもなく愛おしさが募ってくるのだ。大事に大事にしてやりたい、そんな気持ちで胸がいっぱいになる。
 勿論、その先を望んでしまう気持ちは、男の性として抜きがたくあるのだけれど。けれどそれは、彼女に傷を負わせてまで掴み取るものじゃない。そう考える気持ちもまた、本当だから。


 夏の園の海は南国の鮮やかさで、訪れる者の心を明るく解放してくれる。
 羽織った淡いピンクのパーカーの裾をひらひらと揺らしながら、まつりは嬉しそうな声を上げて波打ち際へと向かっていく。のんびりとした足取りで、瀬戸口はそのあとをついていく。
「……って言っても。私泳げないから水遊びくらいです」
 足元を波が濡らす位置で立ち止まったまつりが、肩越しに振り返って瀬戸口に笑いかけてくる。
「まあ、俺もさすがに遠泳したいわけじゃない」
 そんなことを口にしつつ、瀬戸口は彼女の脇を通って海へと足を踏み入れた。ざぶざぶと波を蹴立てるように進むと冷たさが全身にぶつかってきて、思わず声が出た。
 小さな声を聞いて振り返ると、パーカーを脱いだまつりがそろそろと海に入ってくるところだった。きっとさっきの自分のように、思わず漏らしてしまった歓声だろう。おっかなびっくりな様子が可愛らしくて、つい目を細めてしまう。
「気持ちがいいな」
 そう声をかけると、太腿の辺りまで海水に浸かったまつりが、上目遣いにこちらを見上げてくる。
「浸かっちゃった方が冷たくないのかな」
「まあ、そりゃそうだが、暑さに強いんだな。おまえさん」
「ええ?」
 驚いたような顔から、真っ青な空へと視線を向けるように仰向けに海に浮かぶ。ふわふわとした浮遊感は、真水では味わえない。
「やれやれ。熊本の暑さもアレだが、ここも相当だ。水にでもつからないとたまらない」
「日焼けはしそうですよ」
「ははは。そりゃそうだろうさ」
 こうしているといろいろな物思いも薄れていくようで、瀬戸口は満足げな笑みを漏らす。浮かんだまま両手でゆっくりと海水を掻いていると、真っ青な視界をさえぎるようにいたずらっぽいまつりの顔が彼を見下ろしてきた。
「?」
 その表情に見惚れつつゆっくりと身を起こす。海底に足をつけた瞬間に、彼女が身をかがめた。
「えい」
 吸い寄せられる目に、飛び込んできた水しぶき。ばしゃばしゃと立つ派手な水音の向こうから、はしゃいだような笑い声が響く。目元をカバーしつつ満面の笑顔を見返して、こみ上げてきた想いに唇が緩む。
 ああ、本当に、彼女は可愛い。可愛くて可愛くて、どうしていいか判らなくなる。しっかりと固めたはずの決意まで、しぐさ一つ、表情一つで簡単に押し流されそうだ。
 顔に当たらないように気をつけつつ、自分も波を掬うようにして彼女にかけ返す。歓声を上げて逃げ惑うまつりのその声に、応えるように自然と笑い声が口をつく。
 降参降参というように上げた手で濡れた前髪を払って、まつりは顔中で瀬戸口に笑いかけてきた。
「やっぱり水が冷たいですよ」
「俺にだきついてもいいぞ」
 返した言葉に腕を引かれたとでもいうように、熱いからだがまっすぐに抱きついてきた。受け止めて、そのまま背中に腕を回して。触れ合った肌の間を流れていくぬるまった水が、逆に今の体勢を強く意識させる。普段はおぼろげにしか感じられない柔らかな曲線の感触に、ついつい腕の力が強まりそうなのを深い吐息でこらえる。
 もぞりと動いたまつりは、組んだ両手を瀬戸口の首にかけたまま、上体を逸らして彼の顔を見つめてきた。そのまま口付けでもしようかと首を傾けかけた瀬戸口は、耳に届いた言葉に動きを止めた。
「でもこれじゃ泳げないですよね」
 ……これは、外されたということでいいのだろうか。問題は、それがわざとか、ということなのだが。
「?」
 まぁその答えは、疑う余地なく一目瞭然だった。きっとこちらの表情のせいだろう、まつりはきょとんとした顔でこちらを見つめている。瀬戸口は苦笑の形に唇を緩めた。
「あ」
 と、小さな声を上げたまつりの表情がひらめくように変わり、直後に頬や首筋に赤みが差し始める。わずかな布地だけでは隠しようもないくらいに全身が紅に染まっていく様子を目を細めて見つめ、瀬戸口は背中に回した腕にほんのわずか、力を込めた。
「う」
 肌を撫でるように滑っていく眼差しに耐え切れなくなったのか、まつりは喉の奥でうなり、瀬戸口の胸に顔をうずめるようにしがみついてくる。弾ける愛おしさに、外されたことへの意趣返しもほんの僅かこめて、瀬戸口はその耳元にささやきを落とす。
「ほぼ裸で抱き合ってるな」
「言わないで」
 蚊の鳴くような声に、愛おしさと高揚が身体を駆け巡って、笑い声となって唇から零れ落ちる。またもぞもぞと動いてうらめしそうに自分を見上げてきたまつりの真っ赤な顔に、瀬戸口は笑いを抑えるようにしてその代わりに彼女の髪を優しく撫でた。
「いじめすぎだな。悪かった」
 逃れられないようにと回していた腕を解き、熱い身体を開放する。唇を僅かにとがらせ気味にしてまたうなったまつりは、ややあってからぽつりと呟いた。
「…恋人と海に泳ぎにきて、自分は泳げない時って何すればいいのかな」
「泳ぎでも教えようか?」
 エスコートするように手をさしのべると、まつりはややおずおずと手を乗せてくる。
「はい」
 どこかまだ恥じらいの尻尾が残っているような素振りがまた愛らしくて、ついついまじまじと見つめてしまう。一度は引き始めていた頬の赤みが再び首筋の辺りまで蘇って、まつりは動こうとしない瀬戸口に戸惑ったように視線を泳がせた。
「えと」
 気になって仕方ないというように、ちらちらと注がれる視線がたまらない。可愛くて、大事にしたくて、そう思う気持ちも本当なのに、こんな時にはついつい悪戯心が目を醒ましてしまう。ドアをノックするように、些細な誘惑を仕掛けずにいられなくなる。
 手のひらに乗せていた華奢な手を持ち上げて、手の甲に唇を押し当てる。そのまま視線だけを走らせると、火がついたように真っ赤になった彼女の顔がそこにはあった。
「--なにしてるの?」
 僅かな震えを潜ませた声に、押し当てたままの唇を笑みの形にほどく。
「反応見てる」
「も、もう……海はやめる」
 うう、と喉の奥でうめいたまつりが、真っ赤な顔をふいっと背ける。
「上に戻って服着る」
 すり抜けようとした手をぐっと握り直して軽く引く。走って逃げようとしたまつりがバランスを崩して倒れ込んでくるのを、柔らかく受け止めるように腕を回す。真っ赤に染まった肌理の細かい肌に眼差しを注げば、直に触れられでもしたかのように支えた身体が小さく跳ねた。
「や、だって、水着じゃ抱きつけないし」
「俺は裸に近いほう歓迎するが?」
 あわあわと口にされた言葉に、ウインクのおまけをつけて応じる。ふらりと視線を泳がせたまつりは、ややあってから小さな声を唇から零す。
「じゃあ…う、上着とってきてもいい?」
 上目遣いでそろっと見上げられて、また笑いが零れる。
「ああ」
 支えていた身体をきちんと立たせてから、瀬戸口は両腕を開くようにして彼女の身体を解放した。まだ強く恥じらいの気配を残したまま、それでもまつりは淡く微笑み、身を翻すようにして岸辺へと駆けていく。その背を見送り、瀬戸口は一つ息をついた。女心は難しい。
 それでもやはり多少、自分の側に焦っている部分があったのかもしれない。彼女の気持ちにより添うように、彼女のペースにあわせるように。常々そう思っていながら、不埒なちょっかいを出さずにはいられなくなる辺り、怒られても言い訳しようもない。とはいえ。
 なにしろ、自分たちは普通の恋人同士じゃない。逢瀬とて、思い立ったらすぐに叶うような気軽さとは無縁なのだ。少ない機会にできるだけ一緒にいたい、触れたい、抱きしめたい、そう思ってしまうのは当然だろう。腕に封じて、心を、身体を蕩かして、深く深く結びつき合い、歓びを分かち合って。
 ほんの僅かな時間だからこそ、抑えているつもりでも気持ちは零れだしてしまうものなのだろう。なるべくそういう部分は、むき出しで彼女に見せるような真似をしたくない、そう思ってはいるのだけれど。
 あれやこれやと考え合わせると、まだまだ自分も修行が足りない、多分そういうことなのだろう。


 肌をちりちりと焼き焦がす海辺の道を、手を繋いで歩く。
 掌の中の柔らかい感触が嬉しくて、つい口笛を吹いてしまう。もっともっと近づきたい、深く彼女を感じたい、そう思うのも本当なら、こうしてただ寄り添ってその存在を感じていられるだけで眩暈がするほど幸せを感じてしまうのも、やはり本当なのだ。
 恋に落ちた人間ほど複雑で繊細で、そして単純な人種も、きっと他にはいないだろう。
 さっきまでこちらのからかいに応じて唇を尖らせたり赤くなったり笑ったりしていたまつりが、ふっと息を吐いた。僅かに俯く様子で、こちらの腕に身を寄せてくる。
「散歩は嫌いか?」
「え、いいえ」
 その素振りが気になって、顔を覗き込むようにして訊ねる。思いの他沈んだ表情で、まつりは瀬戸口の視線を見上げ返してきた。
「なんか失敗した気がしてるだけ」
「そうなのか?」
「がっかりしてない?」
 予想外の言葉に、思わず首を傾げてしまう。瀬戸口の反応をどう思ったのか、まつりは視線を落とすといっそう小さな声で呟くように続けた。
「私が中途半端で」
「中途半端?」
 そう問い返しつつ、無意識に握った手に力を込めてしまう。なんだかこのまま、彼女が離れていきそうで。そういえばもうそろそろ、まつりがログアウトする時間になる。このままお別れになるのは、精神衛生上大変よくない。
「よくわからないが、デートは楽しい。仕事はその後でよくないか?」
「仕事の話じゃないですよ」
 考えを巡らせつつ答えると、まつりはそう言って首を振ったあと、妙に吹っ切れたような笑みを浮かべて顔を上げた。
「わかんないならいいの」
 その笑顔と一言で、うっすらとではあるが察してしまう。まつりも、なんとなしにちぐはぐ感が拭えなかった今日のデートを気にかけてくれているのだろう。ひょっとしたら、なにがしかの罪悪感のようなものを持ってしまっているのかもしれない。
 彼女がそんな風に思わなければならない理由など、これっぽっちもない。今日のことはむしろ、こちらの気分で振り回してしまったようなものなのに。
 立ち止まると、測ったようにまつりも歩みを止める。握った手は離さないまま向き合って、瀬戸口は彼女を包み込む様にその手を回し、背中に触れた。
「そこまで身勝手じゃないさ、俺は」
 囁くように耳元に言葉を落とし、視線を合わせて笑いかける。ぱちぱちと瞬いた彼女の表情が、変化の兆しを見せたその瞬間、別離の時間は訪れた。
 回数を重ねれば重ねるほど、辛さがより増していく、けっして慣れることのない瞬間だ。余韻を残す間すら与えず、温もりが消えていく。
 それでも、これが永遠の別れではない。少し時間はかかるだろうが、また逢うことが出来る。あの手のぬくもりを、また感じることができるのだ。そうと判っているからこそ、耐えることもできる。
 空になった手をゆっくりと握りしめて、瀬戸口は真っ青に晴れ渡った空を仰ぐ。たとえ直接見ることが叶わないとしても、今彼女が笑っていてくれればいい、そう思いながら。



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引渡し日:2011/09/09


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最終更新:2011年09月09日 15:26