猫野和錆@天領様からのご依頼品


まず最初に確認しておいて貰いたい事がある。

今回の話はある『二人』についてのお話である。
話の主題は突発的な事件でもでなければ、過去に起きた事件の事でもない。『二人』にとっての日常である。
『二人』にとってはドラマチックでもないし、劇的な事も起きない平凡な物だ。
ただ、日常を綴った物だけに『二人』だけの時間など、普段は見れない事も書かれている。
だが、あくまでもお話のテーマは『二人』にとっての日常であり、それ以上でもそれ以下でもない。
この事を念頭に置いて、読み進めていただければ幸いである。

確認が終わったところで、二人について少し詳しく紹介しよう。

一人目は猫野和錆という男性である。
和錆の職業は医者であり、医学者でもある。
分野的な細かい話はさておくが、いわゆる『科学』等に属する技術・医療法を用いる。
様々な作戦、医療現場に関与してきた人物でもあり、その道の人ならずとも彼の名前を聞いた事がある人も居るだろう。
あまりに広範囲な活動などを行ってきたからか、人呼んで『国境無き医者』という二つ名まである。
どこの漫画の主人公だ!? と言いたくなるかもしれないが事実なんだからしょうがない。

二人目は猫野月子という女性である。
月子も医者であり、こちらは『魔法』を駆使した技術・医療法を用いる。
更に言えば看護師としての資格も有し、有事の際には衛生兵にもなるという活動場所を選ばない人物だ。
年若く、最近になってようやく正式な医者になったのもあり、彼女自身については知らない人も多いだろう。
ただ、和錆に負けず劣らず優秀な医者であり、和錆に的確なサポートを行い多大なる助力をする。
和錆とは対照的な得意分野、活動方法なども彼のサポートに貢献しており、彼とは非常に強力なパートナー関係を結んでいる。

さて、今の紹介だけだと随分と格好良い、或いは称賛されたイメージもあるかもしれない。
実際、それだけの功績もあるし、働きもしてきているので出鱈目な称賛でもなければ格好良さでもないだろう。
……まぁ、出だしくらいは格好良くしておかないといけないかな、という文責の葛藤の末でもある。
この二人、名字が一緒である。当然、偶然同じ名字の二人などではなく、二人は『家族』である。
ただし、『兄妹』でなければ『姉弟』でもないし、ましてや『親子』でもない。
そう、この二人は『夫婦』である。しかも『新婚ほやほやの夫婦』なのだ。

……さて、ここでもう一度冒頭の文章を繰り返そう
当然、全く同じ文章ではない。文章中の『二人』を『新婚ほやほやの夫婦』に置き換えてみよう。

今回の話はある『新婚ほやほやの夫婦』についてのお話である。
話の中心は突発的な事件でもでなければ、過去に起きた事件の事でもない。『新婚ほやほやの夫婦』にとっての日常である。
『新婚ほやほやの夫婦』にとってはドラマチックでもないし、劇的な事も起きない平凡な物だ。
ただ、日常を綴った物だけに『新婚ほやほやの夫婦』だけの時間など、普段は見れない事も書かれている。
だが、あくまでもお話のテーマは『新婚ほやほやの夫婦』にとっての日常であり、それ以上でもそれ以下でもない。
この事を念頭に置いて、読み進めていただければ幸いである。



……なに、この絶望感?






物語は宰相府の居住区の一角にある家から始まる。
周りの家と比べて特に大きな特徴は無く、知らない人から見ればそこが誰の家かも判らないだろう。
そんな、当たり前の家の早朝のシーンから、ある夫婦の1日を追っていこう。



05:33 -起床- 月子の視点

自分の方がいつも早く起きる。それは別に何かに起こされて、という訳ではない。
ただ、知らない内に寝顔を見られるのが恥ずかしくて、先に起きるのが習慣化した。それだけの事である。
「ん……ぁ……んぅ……」
ゆっくりと覚醒していきながら、月子は溜息とも吐息ともつかない艶やかな声を漏らす。
寝起きなのでまだ目がとろん、としている。寝起きですぐに覚醒するわけでもないので、しょうがない事でもある。
「んぅ……ん……」
男の声がすぐ傍から聞こえ、月子の身体がビク、と震える。
寝ぼけていた頭が一気に冴えていき、自分がどこに居るのか、今の声が誰なのか、そう言った自分を取り巻く状況全てを思い出し、把握していく。
ここは自宅の寝室だ。当たり前だ、今まで寝ていたんだから。
寝ていた場所はダブルのベッド。両手を広げてもベッドからはみ出さないくらいの大きなベッドだ。寝室のスペースの多くはこのベッドが占拠している。
月子は当然、そのベッドの中央で寝ていた。ただ、こんな大きなベッドに一人で寝ていた訳ではない。
もう一人、このベッドで寝ている人物が居る。それは先ほどの声の主で、隣で寝ている夫……つまり、和錆だ。
いや、隣なんていうのは生ぬるい表現だろう。何しろ、二人が使っている上掛けには一つの大きな山しか無く、二人はほぼ密着しているのが判る。
トクン、と心臓が強く高鳴り、顔が紅潮していく。布団の中で自分達がどうなっているのか、考える事は止める。そんな事を考えたら顔から火が出てしまいそうだ。
月子は一度深呼吸をする。毎朝の事で彼女も手慣れているのか、ゆっくりと一度深呼吸を繰り返すと落ち着きをすぐに取り戻した。
「……和錆、起きてる? ……まだ、寝てるよね?」
小声で声をかけてみると「んー」と声を上げて、少しだけ身をよじる和錆。
自分が枕にしていた彼の腕も動くが大きく動かなかったので、月子自身が体勢を変える必要は無さそうだ。
それから少しの間、一分ほど時間が経っても和錆はそれ以上動かず、何も言わない。とりあえず彼が寝ているという事は確認出来た。
改めて自分の姿を確認してみる。別に変わったところは無い。昨日の夜、自分が覚えている寝る直前と変わらない恰好だ。
少しだけどうしよう、と月子は考える。いや、誰も見てないのは判っているんだけど、やっぱり恥ずかしいというか、日が昇ってると見えちゃうし、いくら夫婦とは言え、やっぱり恥ずかしい物は恥ずかしいし。
乙女回路は3秒ほどで走り終わり、とりあえず上掛けをもう一度きちんとかけ直すという事で自分の中で決着する。
「……まだこんな時間かぁ」
時計を見てみると、随分と早い。寝ていたのは五時間くらいだろうか?
とはいえ、和錆と一緒に寝るようになってから睡眠が深くなったのか、それくらい眠れれば十分な事が多い。
(最初の頃はあんなに緊張したのに……これが慣れって奴なのかな?)
初めて和錆と一緒に寝た時は緊張からか寝付けず、それからもしばらくは睡眠不足な日が続いていたのが嘘のようだ。
それが今ではこうである。変わったな、と自分でも思う。
夫婦だし付き合いも長いから色んな事が自分の中で『当たり前』になっている。そう、今の自分達にとってこれくらいは『当たり前』なのだ。
……のだが、さすがにこうして密着するのは『当たり前』でも照れてしまう。嫌でも和錆と一緒になったんだと実感する。いや、全然嫌じゃないけど、むしろ嬉しいし、今のは言葉の綾というか、表現の問題であって嫌なんて思った事無いけど、ただひたすら恥ずかしいとはやっぱり思ったりするけど。
思考が乙女回路をもう一度走り抜けた。誰にも聞かれてないし、自分で思ってるだけなのに、なんでこういう風に誰かに言い訳しちゃうんだろうとむしろ自分の思考に気恥ずかしさすら覚える。
結婚式の時に参加者に結婚について「でも、長いつきあいだったから、実感はあんまり」 なんて言ったのを思い出す。
けど、それはむしろ結婚式という日常ではなく特別なイベントだったからだと今なら判る。
だって結婚式の時、緊張していた。本当に実感が湧かなかったり、何も感じなければ緊張なんてする訳が無い。
ただ、あの時は『結婚式』というイベントに気持ちが浮ついていただけなのだろう。
「ん、んぅ……んぅう……」
考え事をしている内に和錆が小さな声を漏らして、もう一度身をよじらせ、動いた。
「ぁ……ゎ……」
動き自体はそれほど大きくなかった。それでも、声が漏れそうになって慌ててそれを抑える。
何しろ、和錆は寝返りをうつとそのまま自分を抱きしめるように体勢を変えた。
自然と顔が近くなり、和錆の顔が目の前になった。近い、近いよ、物凄く近い。
初めてじゃないけど、それは当然、キスする時なんかはこれくらい顔近くなるけど、でも不意打ちは狡い。
しかも無防備なのがなお狡い。こっちはこんなに驚いているし、多分頬も赤くなってるのに、和錆は平然と寝てるし、いや寝てるから当たり前なんだけど、そんな事は判ってるけど、でも狡い。
自分を包み込むようにされているから、当然触れ合ってる面積も多くなっている。固く男性的な感触が寝間着越しに伝わってくる。
駄目だ、考えたら負ける。何に? 判らないけど、とりあえず考えたら駄目だ。
意識をそこからそらそうと目の前の和錆の顔を見る。彫りの深い、印象的な顔立ち。
長い髪もそれを隠しきれず、むしろ隙間からチラチラ見えるので余計に気になってしまう。
普段は明るい笑顔で自分を見てくるその顔も今は穏やかな寝顔で、一番印象的な目は閉じられたままだ。
出会った頃はその目が怖いとも思ったけど、今ではその目に見られるとドキドキする……いや、昔もしてたんだけど、ちょっと意味合いが違ったというか……だから、現実逃避してる場合じゃないんだ。
乙女回路という現実逃避も三回目。いい加減、このままでは良くないと月子は何とか気持ちを落ち着かせようとする。
そして思う。これが『実感』か。この日常の不意打ちや、いつも通りのはずなのに驚かされるのが『実感』なのか。
確かに結婚前からこういう事はあったし、結婚してから特別増えた訳でも無い。
ただ、こういう事が起きた時に『結婚した』という事実と『これからこの人とずっと一緒に居る』というのが加わる事で、今まで以上にドキドキしてしまう。
「……すー……はぁ……」
深呼吸をするとあまりの近さに和錆の匂いがより明確に感じてしまう……なんていう策士なのだろうか、彼は。酷いにも程がある。言いがかりなのは判っているけど、自分がこうして悩まされてるなんて彼は気づいていないのだろう、何だか悔しい。
「……仕返しするよ?」
小さな声で呟く。当然、反応はない。というか、あったら怒る。狙ってやってるのかと、いや、本気で怒る訳でも無いのだけれど。
返事が無い事を確認して、ゆっくりと顔を近づける。
「……ちゅ」
唇を重ねて、すぐに離す。別に初めてじゃないけど、これくらい何度かしてるけど、唇がやけに熱く感じる。
「……ふふ、これくらい良いよね」
彼が寝ていて、気づいていない間にキスをする。仕返しである。何しろ彼は自分がキスをした事を知らない。自分だけの秘密が増える。これが仕返しでなくて、なんなのだろう?
時計を見てみると、もうすぐ六時だ。いつも彼を起こす時間まで、あと少し時間がある。
「……もうちょっとだけ、うん」
月子はそう呟き、和錆に抱かれたまま、目を閉じる。目を閉じれば自分を包み込む温かい感触をより一層感じられる。
彼を感じる。強く、今まで以上に、今までよりも強く。
もう少しだけ、このまま。いつも通りの日常が始まるまで、自分だけの秘密の時間。





05:51 -起床- 和錆の視点

和錆は『何か』を感じて一気に目が醒めた。
(何だ、何が起きている?)
身体が一気に覚醒したのは特殊能力でも何でもない。
ただ、様々な事件や出来事、自身の命が何度か危機にさらされた事によって『何かが起きた』と思えば自然と目が醒める。それだけである。
目を閉じたまま状況を確認する。片腕が少し痺れている。が、別段それに違和感は感じない。つまり、これは違和感じゃない。
自分が寝ている場所も問題無い。感触でベッドだと判るし、そのスプリングがいつも寝ている物と同じだ。つまり、自宅の寝室だ。
急激な覚醒はアドレナリンが大量に分泌されるのか、極端に思考が高速化されてそこまで1秒とかからず判断する。
だが、そこまで考えても起きた理由が判らず、さて、では何が原因だ? と考える。
目を開いた方が良いのだろうか? だが、どういう訳かそうしない方が良いと思った。
強いて言えば勘である。が、バカには出来ない。勘は時に観測データを超える。虫の知らせなどが良い例だろう。
「……ふふ、これくらい良いよね?」
囁くような声が聞こえた。すぐ近く……というか、目の前から。
可愛らしい女性の声である。誰か……なんて考える必要も無い。声は彼の妻である月子の声だ。
その声は緊張しているどころか、リラックスした様子であり、という事は少なくとも月子や自分が危機的な状況に陥っている訳じゃない事も判った。
(ん……? でも、それならなんで急に目が醒めたんだ?)
急激な覚醒なんてそう何度もある訳じゃない。だからこそ少し緊張したのだが、どうも何も無いようだ。
改めて自分の状態を確認する。片腕が痺れているのは腕枕をしているからだろう。
自分が抱きしめている柔らかく、温かい感触……うん、これは月子だろう。
痺れた腕ではよく判らないが、もう片方の腕や触れ合っている部分には女性特有の柔らかさと滑らかな肌の感触が……
(……って、月子さんを抱き枕状態にしてるのか、俺!?)
その事実を認識した途端に意識が更なる高みへと上っていく。或いは袋小路に向かって真っ逆さまか。
「……ふふ、うん……こういうのも良いかな……」
月子が自ら寄り添ってきて、自分の腕の中で満足そうに吐息とも溜息とも取れる、艶やかな声を漏らす。
うわ、ヤバイ、何がどうヤバイのかは具体的には出来ないが、とにかくヤバイ、と更に思考がぐるぐるし始める和錆。
(お、落ち着け、とにかく落ち着くんだ。冷静に、論理的思考を展開させるんだっ)
月子が和錆を起こすつもりならハッキリと声をかけてくるだろうし、身体をゆすったりもしてくるだろう。
だが、月子はリラックスした様子でむしろ今の状況を楽しんでいる雰囲気さえある。
(てことは、月子さんも満更じゃないのか……って、そうじゃなくて! えーと、そうだ……起こさないってことはまだ俺は寝てた方が良いのかな?)
とはいえ、寝たふりというのは意外に難しい。
「……ふふ、和錆……ん……」
例えばこうして名前を呼ばれたり。
「ん……んぅ……」
更に身体を密着させられたり。
「……髪、伸びたかな」
月子の長い髪が掌に触れたりと、ちょっとした事でも身体……特に表情がにやけてしまいそうになる。
それを抑えなくてはいけないのだが、力む事も出来ない。抱き合っている状態で力めば、すぐに月子に判ってしまうだろう。
もし月子に寝たふりをしている、とバレてしまったらどうだろう? 怒るだろうか? それとも「和錆ったら意地悪」とちょっと拗ねるだろうか? あ、それはそれで良いかもしれない、って、そうじゃない!
「……ん……ふぅ……んぅ……」
(あわ、あわわわわっ!?)
考えている間に月子が艶やかな吐息を漏らし、身を預けてきて更に和錆は混乱する。
傍目には判らないだろうが、上掛けの下では身体は密着しているし、脚も絡み合っている有様だ。
(だ、駄目だ……これ以上はさすがに無理だ……っ)
色んな意味で限界を悟り、とにかくこのままではいかん、と和錆が声をかけようとした瞬間。
「わんっ」
と犬の泣き声がした。途端に腕の中の月子が反応した。
「あ……コーヒー……お腹すいたの?」
「わん」
「そっか、ごめんね、今ご飯あげるからちょっと静かにね……和錆、起きちゃうから」
「くぅん……」
「うん、良い子。それじゃ、少し待って」
月子はそう言うとゆっくりと身体を動かし、和錆を起こさないように慎重に腕の中から抜ける。
洋服を入れてあるクローゼットが開く音、衣擦れの音も少し。ただ、それもすぐに終わってパタン、と寝室の扉が閉じる音がした。
月子が部屋から出て行ったのを確認して、和錆が目を開く。
幸い、大事には至らなかった。いや、大事というのが何を示すのかは自分でもいまいちよく判ってないのだが。
「……とりあえず、起きるか」
時計を見ると普段起こされる時間の二十分ほど前。二度寝するには時間が微妙だし、何よりも頭も身体も既に完全に起きてしまっている。
身体を起こし、上掛けをはねのける。布団から抜け出て、服を着る。
身支度をしながら、先ほどまでの月子の様子を思い出して、にやけてしまう。
「やっぱり月子さん、可愛いなぁ」
ついさっきまではどうしてこうなった!? くらい混乱していたが、終わってみれば……うん、あんな風に甘えてもらえるのは良い。凄く良い、とにやけてしまうあたり、喉元過ぎれば熱さを忘れるというか、人間の業の深さを感じるというか。
「……でも、何で俺、起きたんだろうな?」
何となく自分の唇を指で撫でながら、和錆は首を捻った。





11:31 -二人の仕事-

時刻は正午まであと少し、という頃。二人はやはり同じ場所に居た。
そこはISSという組織の一部であり、二人の職場である。当然、医者である二人の職場なので、医療現場である。
とはいえ、医療現場と言っても様々だ。単純に患者を診る事を目的とした場所から新たな治療法を探す研究所まである。
ここはその両者を兼ね備える、一種の総合医療施設である。
正午まであと少し、という事でシフトが早い人間は既に昼食を食べ始め、逆に遅めの人間はもう少し後に来る自分の休憩時間を励みに仕事に取り組んでいた。
和錆と月子も例外ではなく、先に休憩に入った月子が待ち合わせ場所の資料室ににやってくると、和錆は難しい顔をしながら資料を見ていた。
月子はそれを見て、何も言わずに部屋の片隅に備え付けてあるコーヒーサーバーからコーヒーをいれ、和錆の元に向かった。
「和錆、はい」
「え……あ、月子さん、もう来てたんだ。ごめん、ちょっと集中してて」
声をかけられてようやく月子が来ていた事に気づいた和錆は驚くと同時に申し訳なさそうに頭を下げる。
「良いよ、仕事でしょ? 休憩はまだ無理そう?」
月子はそれを見て微笑むとそのまま和錆の近くにコーヒーを置き、そのまま隣に席に座った。
「あ、うん。大丈夫、10分くらい待って貰えるかな、一度資料片付けないといけないから」
机の上に山と積まれた本、過去のカルテなどを見て、バツが悪そうにする和錆。何だか悪戯が見つかった子供のようでもある。
月子はそんな様子にくすくす笑う。別に悪い事なんてしてないのに、和錆は月子に対して何かあるとすぐに謝ってしまうのだ。
「大丈夫だよ、そんなに慌てなくても」
「そ、そっか、ごめん。なんかちょっとテンパってて……うん、片付ける前にちょっとだけ一息いれるね」
差し出されたコーヒーに口を付けるとあわあわと表情を変えていた和錆にも余裕が出来てたようだ。
一口飲んで、ゆっくりと呼吸をするともうそこには慌てている様子ではなく、普段の和錆特有の明るい表情になっていた。
「美味しいよ。ありがとう、月子さん」
「どういたしまして。和錆、難しい顔してたから。あんな表情ばっかりだと顔にしわが出来ちゃうよ?」
「……そんな表情してた?」
「してたよ。和錆は彫りが深いから余計に判りやすいね」
「それは……ちょっと恥ずかしいかもしれない」
月子の言葉に和錆ははにかむ。実際、自分ではそうと意識していなかったので、尚更だ。
「何かあった? 困り事?」
「ん……実は今研究しているクローン技術についてなんだけど、ちょっと問題がある箇所を見つけてね。その対応策を色々と調べてたんだ」
猫野和錆は医者ではあるが、同時にナノマシン研究者であり、クローン医学者でもある。
多くは知られていないかもしれないが、以前に起きた『マンイーター事件』でもその問題の解決に尽力した。
その結果や詳しい経緯については別の記事(可能なら『和錆、医療研究者』にリンクを)を参照してもらうとして、話を進めよう。
「良い方法が見つからない?」
「……うん、ちょっと行き詰まってるかな。月子さんにはお見通しみたいだね」
まいりました、と和錆がお手上げのポーズを取ると月子は笑う。
「それくらい見てれば判るよ。手伝おうか?」
月子の提案に和錆の表情が明るくなる。それは彼女が今まで一番見てきたであろう、明るい表情だ。
二つ返事で月子の言葉に返すと思われたが、すぐに和錆はまた少し表情を難しくした。
「……良いの? 月子さんが居てくれると凄く心強いけど、そっちの方の仕事もあるでしょ?」
和錆の言葉通り、月子も仕事がある。特に現場で働けるように色んな資格も取っている為、現場では和錆以上に必要とされる事もある。
また、よほど医療現場が性に合っているのか、本人の努力もあるのだろうが、医療行為を行う月子は時に名医と言われる和錆以上の実力を発揮する。
そんな事情を和錆が知らない訳も無く、自分のせいで月子に負担をかけてしまうのは非常に心苦しくも思う。
だが、月子はそんな和錆の不安や気持ちごと吹き飛ばすように微笑む。
「うん、何とか都合付けてみる。それに家に仕事は持ち込まないで欲しいもん」
「……あいたたた、それを言われるとなぁ」
「ふふ、冗談だよ。でも、おうちで二人で居る時に難し顔をされるのはやっぱり嫌だし、私が手伝って和錆の負担が軽くなるなら、そうしたい」
「……ありがとう、本当に。感謝してるよ、いつも」
月子の言葉に和錆は微笑む。その明るい表情。その為なら自分は頑張れると月子も笑う。
自分が月であるならば、和錆にはやはり太陽であって貰いたい……というと、少しロマンティックに過ぎるかもしれないが、正直な気持ちとしてやはり和錆にはその明るい表情で居て貰いたいのだ。
「お礼は良いよ。夫婦だし、同僚だし。私達はパートナーでしょ? 助け合うのは当然だよ」
その言葉には偽りも誇張もない。
お互いに得意な医療方法が違うとなれば、様々な時に激論を交わす事だってある。
ただ、それは相手を貶めたりけなす為ではなく、どうすれば患者にとって最善の医療が行えるかという『医者』として当たり前の事に忠実だからだ。
お互いの治療方法のそれぞれの有用性や特徴、そう言った物を尊重する。無理矢理に自分の技術にはめ込もうとしたり、或いは相手の治療方法に自分の治療方法を混ぜようともしない。そんな事をするよりも、部分部分で使い分けるだけで十分なのだ。
むしろ、医療法の違いは争いの種になるよりも多角的な視野を二人に与えている。
特に和錆は医学者という側面もある為、月子の助力と視点があるかないかでは大きく成果が変わる事すらある。
二人で居るという事は単純に労働力が二倍になるのではなく、お互いの欠点を埋め、お互いの長所を伸ばし、お互いを更なる高見へと導く。
正に相棒、正にパートナーという言葉に相応しい二人である。
「お礼は言わせて欲しいな。月子さんがいれば百人力だし、本当に助かってるんだ。いつもありがとう、月子さん」
「ふふ、どういたしまして。それじゃ、さっそく残ってる仕事、片付けてくるよ」
月子は笑って立ち上がる。ふわ、と長い髪とスカートが立ち上がると同時に広がる。
見る物の目を奪う様な華やかな見た目だが、服装は当然清楚な物で、医者の代名詞とも言える白衣は真っ白で清潔感を見る者に与える。
医療の申し子、というと語弊があるかもしれない。だが、確かに彼女はその外見も能力も医療……特に現場という物に対して真っ向から向かっている。
既に名の知れた自分よりもそうであるように見える事に和錆はその姿を素直に心強く思う。
それと同時に後世では月子の名前が偉大な医療者として残るのではないかと思う。そう、医学者でなく、医療者である。
「凄いね……上手く言葉にできないけど、本当に凄いと思う」
「急にどうしたの、褒めても何も出ないよ?」
「いや……月子さんを見てるとたまにどこまで行くんだろうと思う事があってさ」
「ここまで連れてきてくれたのは和錆でしょ? 違うって言うだろうけど、切っ掛けは間違い無くそうだよ」
「……お見事です、月子さん。何だかこそばゆいね」
確かに自分が言うだろう言葉を先回りして言われてしまい、和錆は恥ずかしいやらくすぐったいやら。
月子はそんな様子の和錆を見て、くすくすと笑う。
「褒めてくれるのは嬉しいけど、それ、今聞きたい言葉じゃないな」
「勉強不足で申し訳ない……どんな言葉が聞きたかった?」
「仕事が終わった後、お礼にどこに連れてってくれるのか。それを教えて貰いたかったかな」
そう言うと月子は悪戯が成功した子供の様に……正に眩しいほどの笑顔を和錆に向けた。



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引渡し日:2011/06/22


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最終更新:2011年06月22日 20:08