ヤガミ・ユマ@鍋の国様からのご依頼品


 とりあえず、届いた手紙に書かれていた内容を二度見してしまったのは致し方のないことだと思う。よほど、仲介先になにかのミスではないのかと問い合わせをしようかと思ったのだ。
 だが、それがあっていると聞かされた場合のダメージは、ちょっと自分でも予想のつかないものになりそうで、そう考えるとなかなか踏ん切りがつかなかった。同じような理由で、彼女へ直接連絡を取るのもはばかられた。どんなに気遣って柔らかい言葉を選んだとしても、お前が指定しているこの時間はおかしいんじゃないのか、とは指摘できない。彼女が間違えていたのだとしてそれを指摘することで気まずい空気にはなりたくなかったし、万が一彼女が本当にこの時間を指定していたのだとしたら、それを指摘することは彼女を傷つけてしまうことに繋がりそうで、それが怖かった。
 事情を知らない人には過保護すぎるのではと言われるだろう。だが、今までの様々ないきさつを思えば、これでも至らない部分があるのではと思えてならなかった。
 なによりも回避したいのは彼女を傷つけることだ。今までの長くもない時間で、彼女のことは一生分傷つけた気がするから、これ以上は傷つけたくなかった。もう二度と、絶対にだ。


 朝からずっと落ち着かない気分でいるうちに、気がつけば日が沈んでいた。正直に言って、その日の食事の記憶さえほとんど残っていない。
 いつもであれば夕食後は自室にこもってその時々に興味のあることにたいして思索に耽ったりするのだが、今日はさすがにそんなことに気持ちが向く余裕すらない。なにかに気を紛らわせられたらと願いはするが、なにをすればいいかも思いつかなかった。その状態で部屋に閉じこもっていることなど到底出来ずに、彼の足はあてどなく宰相府の建物の中を巡った。その間にも、堂々巡りする思考は僅かに停滞する気配さえ見せなかった。
 もうすぐ、指定された時間になる。日中に来なかったところを見ると、本当にあの時間に間違いはないのだろう。しかしどうして、こんな時間を指定してきたのだ。いや、それ以前に本当に彼女は現れるのだろうか。本当になにかの間違い、もしくは彼女の悪戯ではないのだろうか。
 いっそそうであって欲しいくらいの気持ちで、庭園の小道を抜ける。月に照らされて色を失った情景の向こう、高い鉄柵の反対側に見知った姿を見つけて、ヤガミは足を止めた。月明かりに照らされた少女は入口を求めてか、ゆっくりとした足取りできょろきょろと辺りを見回している。
 胸にこみ上げてくるこのざわざわとした衝動は、いったいなんと表現すればいいのだろう。
 視線を感じ取ったのだろう、ヒサ子は棒立ちになったヤガミの姿を認め、はしゃいだような笑顔で鉄柵に取りついた。
「こんばんはっ」
 元気のいい挨拶の声に、ヤガミは一拍おいてから口元を緩めた。ぎこちなくなっていないかちらりと気になったが、その感情もすぐに流れて消えた。
 本当に、やってきた。こんな時間に、たった一人で。
「どうしたんだ?こんな時間に」
 微笑みと同じく、極力自然に響くように気をつけつつ声を出す。なによりも、彼女に怖がられたり警戒されたりすることが恐ろしかった。
「んと……おとま……会いにきました」
 鉄柵に取りついたまま、ヒサ子はややはにかんだような笑みを浮かべて応える。小首を傾げた加減で長い髪が揺れるのを目にして、ヤガミは微笑みを深くする。それは、溢れる感情に蓋をする行為でもあった。
「カップラーメンくらいしかないぞ?」
 軽々しい答えをわざと振ると、ヒサ子は眼を細めて楽しげに笑った。
「あー。やっぱりごはん持ってきた方がよかった。わたしはカップラーメン大好きですが!」
 普段ならば眉を潜めて苦言の一つでも呈したくなる発言ではあったが、今のヤガミにそんな精神的余裕はなかった。それでも肩を一つすくめて一言付け足したのは、蓋をした感情を悟らせぬポーズを取りたかったからだ。
「俺は大嫌いだがね。今日子でもつけて追い返したいが、仕方ない。来い」
 すぐ近くの通用門を指さして告げる。
「嫌いなもの食べてるのは体に悪いですよっ」
 柵を両手でもって身を伸び上がらせる姿勢のまま、元気のいい口調でそう言ったヒサ子が、身を翻すようにして通用門から駆け入ってくる。小走りで目の前までやってきたヒサ子は、息をつきながら上目遣いにヤガミを見つめてきた。
「追い返したい? いそがしかったかな」
「追い返したくはないが・・・」
 多分意味を正確に告げたところで判るまい……そう思いたがっている自分に気づかずに、ヤガミは隣を歩くヒサ子の大きな瞳を見下ろして微笑んだ。
「ま、俺が意識しすぎなんだろうな」
 通用口から宰相府の建物内に入る。もとよりここで働く生身の人間は少なく、しかも夜半もすぎた頃合いだ。建物の長い廊下はすっかりと闇に閉ざされていて人の気配もない。
「わ、わー」
 先ほどまで月の光を受けていた目が闇に慣れるのを待ちながら、ヤガミは思いついて傍らで声を上げた彼女に手を伸ばした。指先がすべすべとした柔らかな肌に触れた、と思った瞬間、必死さまで感じ取れるようなせわしなさで手を握りかえされた。
「暗っ」
「静かにするんだぞ、みんな良く寝ているからな」
 灯り一つない廊下の空気に押されたのか小さく叫ぶヒサ子に、ヤガミは僅かに手を握る手に力を込めてそう囁く。こくこくと頷く気配のすぐあとで、か細い返事が耳に届いた。
 幾つかの角を曲がり、彼の部屋へと通じる階段に辿り着く。既に闇に目が慣れたヤガミは、下り初めてすぐに、繋いだ手が微妙にテンポを崩しながら引っ張られるのに気がついた。
「……うー」
 微かなうなり声がやや後ろから聞こえてくる。おそらくはこの暗さに足元がおぼつかないのだろう。立ち止まろうとした瞬間に、手を繋いでいた腕におずおずともう片方の手がかけられた。
「し、しがみついても、だいじょうぶですか」
 弱々しげな問いかけに、暗闇の中口元が緩んだ。それを口にしたときのヒサ子の表情まで、ありありと目の前に浮かんだからだ。連絡を受けた日から続いていた葛藤にきりきりと縛り上げられた胸が、ほんの一瞬でも緩む心地に小さく息を吐く。
「しがみつかれると危ないな。抱き上げるならいいが」
 だからこその油断だったのかもしれない。うっかり叩いてしまった軽口に、繋いだ手がぴくりと震えた。
「えーとえーと」
 闇の中、ヒサ子の姿は輪郭をうっすらと感じさせるだけだ。けれど俯いている様子のシルエットと握った手がほんのりと熱量を増したことだけで、彼女の心境は充分伝わってくる。
「えーと……」
 繋いだ手の熱さに自分の不覚に気づき、ヤガミは闇の中顔をしかめた。また、自分の悪いくせが出た。気が緩むとつい、軽口を叩いてしまう。
 同じ軽さで冗談だと言ってしまえばよかったのだろう。だが、そうと思いきる前に手を掴む力が増した。
「だ、だいじょぶなら、抱き上げてもらえるとうれしいかも……」
 妙にたどたどしげに告げられた言葉の甘い響きに、息を詰める。硬く締めたはずの蓋がかたかたと音を立てた気がした。
 怒ったところで始まらない。これは完全に自分のミスだ。彼女を相手にするときはきちんと自制しておかなければと思っているのに、どうしてもどこかでふっと気が緩む瞬間が来る。そうして彼女は、過たずその瞬間をついてくるのだ。
「・・・」
 黙ったまま、手を差し伸べて、そっと彼女の身体に腕を回す。階段の途中だから、抱き上げる瞬間のバランスが難しい。うっかりよろめいて彼女に怪我をさせたりしないように、細心の注意を払って小さな身体を横抱きに抱き上げる。子供を抱える形にする前に、ヒサ子は小さく笑い声を立てた。密やかにはにかむように、それでいて満足げに。その声を聞いただけでそれ以上体勢を変えることも出来なくなって、ヤガミは足元に注意しつつ一歩ずつ階段を下り始めた。
 それにしても、と、足元だけに注意を払ってるつもりなのに意識の隅から忍び込んでくる香りや手触りから意識をそらすように、ヤガミは殊更に大きく脳裏に疑問符を投げつけた。
 今日のヒサは少し変な気がする。そもそもこんな夜中に会いにきたこともそうだが、振る舞いからして……。
「何があったんだ?」
 その考えを深く追求する前に、口は勝手に動いていた。腕の中のからだが身じろぎする。はっきりは見て取れないが、自分を見上げる彼女の表情は恐らく怪訝そうなものになっているだろう。
「え、なんで?」
 その想像を裏付ける不思議そうな声に、ヤガミは感じた違和感の一つを口にする。
「急に甘えるようになったから」
 長い時間とその間の様々な出来事を経て、学んだことが少なからずある。ヒサの言動は必ずこちらの予想の斜め上を行く。その上すぐに視野狭窄に陥って暴走を始める。故に、なにかあるようならそのシグナルを見逃してはならない。そして、こちらが立てた予想が当たることは殆どないので、必ず本人に確かめる必要がある。 
「…………」 
 腕に抱いたからだが、なぜか脱力した。
「単にチャンスがなかっただけです……」
 どうしてかしょんぼりと聞こえるトーンでそんなことを呟かれ、密かに慌てる。
「傷つくな」
 咄嗟にそんなことを口走って、抱き支える腕に力を込める。彼女がなにを思って悲しげな様子を見せるのか判らないながら、血の気が引く感覚に吐き出すように言葉を重ねる。
「……ただ心配なだけだ。ほんの少しの差異も、気になる」
 途端、身を起こすアクションを起こされて、慌てて足を踏ん張り態勢を整える。こちらのそうした動きも知らぬげに、ヒサ子はヤガミの肩を掴むように身を寄せてきた。先ほどの自分に勝るとも劣らない勢いで声を上げる。
「傷ついてないですっ」
 その剣幕に呆気にとられている間に、彼女の激情は過ぎ去ってしまったようだった。ふと力の抜けたからだが、ふんわりともたれかかってくる。
「ぜんぜん傷ついてないです。……えへへー」
 少し前とはうって変わって嬉しげな声は囁きへと変わり、甘い香りが鼻先にふわりと漂う。首筋や頬をかすめる頬がくすぐったい。もう一度しっかりと情動に蓋をし直し、脳裏に数式を展開しつつ前だけを見て、ヤガミは黙然と階段を下り続けた。


 室内に到着する。薄暗かった部屋の灯りをつけると、辺りを見回してヒサ子は目を丸くした。殺風景な室内に驚きを隠せないでいる様子に、苦笑を浮かべてヤガミはお茶のための道具を取りに行く。
 手にしたビーカーやアルコールランプにヒサ子はまたしても目を丸くし、ふるふると頭を振った。信じられないと言いたげな表情に、ヤガミは苦笑を深くする。個人的には道具にこだわりなどない。実用性さえあれば、他になんの問題があるだろう。
 他愛のないやりとりを繰り返しながら、ヤガミは注意深くヒサ子の振る舞いを観察する。普段からテンションの高い彼女ではあるが、やはり今日のテンションはいつもと違う。不安定で、そしてこちらを試しているような気配を感じる。互いに相手の隙を窺うような妙な緊張感の中、言葉でやんわりと向けられる気配を躱していくのは正直骨が折れた。
 それでも、彼女の醸し出している空気に引きずられるわけにはいかないことは判っていた。義体として装った外見ほど彼女が幼くはないことはいくらなんでももう認識しているつもりではあったが、であってもやはり自分よりも随分若いことには変わらない。自分といるとすぐに不安定になる感情の起伏や突拍子もない思いつきにすぐ乗っ取られる思考、視野の狭さ、そして躊躇いのなさ。
 彼女はよく自分を大切にしないと言ってこちらを責めるが、ヤガミに言わせれば自分を大切にしていないのは彼女の方だ。熟考とはほど遠い、思い込みや感情によっていくらでも傾く思いだけで、後先も考えずに動こうとする。彼女が本来いる世界がどれほど生ぬるいものなのかは知らないが、こちらの世界で同じ生き方を通そうとするなら傷つくのは必至だ。
 それでもきっと、例えそうと告げても、判らないだろう。それも、判っている。
 だからこそ、彼女の分まで、彼女が無謀にも犠牲にしようとする彼女自身のことを、大事にしてやらなければならないのだ、この自分が。
 彼女を大事にするということはそういうことだ。全てのものから守るというのはつまり、彼女自身からも、そして自分からも、守るということなのだ。
 彼女にとって最大の加害者であり裏切り者になりそうなのが彼自身だということくらい、とうに自覚はある。根拠もかつてのやりとりを思い起こせばいくらでも掘り出せる。
 そうと判っているからこそなおさら、彼女とのやりとりにはいつもいつも心を砕いているというのに。
「したらいいのに」
 服の裾をそっと掴んで俯きがちの上目遣いでこんなことを言ってくる愛しい相手に、いったいどう対処しろと?
「やめとく」
 そっとその手を外させて、呟くだけでせいいっぱいだ。力一杯押さえつけていたはずの理性の蓋が、激しく音を立てて揺れている。
「し、したらいいのに。がまんさせたいわけじゃないのに」
 そんなこちらの状態など当然知るはずもなく、ヒサ子は両脇にたらした手をぎゅっと握りしめてそんなことを言う。俯いた頬から首筋までは燃えているかのように赤く、瞳は忙しなく動いて宙に視線を揺らめかせる。それでいてちらちらとこちらに飛んでくる眼差しから視線をそらせば、むきになったように言葉が追いかけてきて。
「わたしだって、べつにいやとかじゃないのに」
「いや、そういうわけではなくてな」
 言いながら無意識に首筋に手をやって、そこが汗でびっしょりと濡れていることに気づき、顔をしかめる。彼女の熱が感染したように熱くなっているのが感じられて、唾をようよう飲み込む羽目になる。
 彼女の要求を呑むべきではないのは判っている。それは彼女を傷つける。だが、ここで拒み通したところで、結果は同じじゃないのか? 拒絶することで幾度彼女を傷つけてきた?
 だがしかし、それとこれとは違うだろう。本当に? 違うなどといくら言ってみたところで、彼女が傷つくことには変わらないのではないか。
「アイドレス変えたらいいのかなって思ってたけど、そのままでいいっていうから、だから」
 潤んだ目を何度もしばたかせて、ヒサ子は子供に還ったようにたどたどしく言いつのる。想いの速さに言葉がついていけていないかのようだ。その感覚が乗り移ったように息が苦しくなって、ヤガミは彼女から視線がそらせなくなる。
 なんと言われようと彼女を突き放すべきなのだ。それは判っている。けれど目の前で辛そうにしている姿を見ているだけで、自分の身の内から溢れ出しそうになってくるのだ。
 自分も彼女も同じ想いで苦しんでいるのに、耐える意味はあるのだろうか。いや、自分のことはいいのだ。どれほど渦巻く欲望でも、身勝手に吐き出すなど到底してはならないことだ。
 そう、そうやって今に疑問を感じ心が揺れてしまうのは結局、自分の欲望に都合のいい言い訳を探しているからにすぎないからじゃないのか。相手もそう思っているならいいだろうとは、正当化にしてもあまりにも幼稚な理論だ。
 強く蓋をしたその奥に押し込めた衝動は、ぐらぐらと煮え立ち爆発する瞬間を今か今かと待ち構えているようだ。その勢いの激しさに揺さぶられて、思考の堂々巡りが留められない。そして、彼女から目が離せない。
「くっつきたいのは今だし、うー」
 唇に握った拳を押し当て、ヒサ子は苦しげにすがめた目で視線をさ迷わせる。露出した肌が全て赤く色づいて、輝くようだった。
 なにもかもが、自分の意識を越えた出来事だった。手を伸ばし、細い手首を掴み、乱暴にならない程度の強さで胸元へと小さな身体を引き寄せる。その自分の行動に一瞬息を止め、ヤガミはすがりつくように背中に回された腕の感触に目を閉じた。


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 腕の中から溶け去るように温もりと感触が消えてなくなって、ややあってからゆっくりと、ヤガミは身を起こした。そのまま尻餅をつくようにベッドの上に腰を落として、壁により掛かり目を閉じる。
「……どうせこんなことだろうと思っていた」
 溜息と共に吐き出した呟きは、聞く者もないまま空気に流れて消える。もう一度溜息を吐き出して、それでもヤガミは動くことが出来なかった。今の感情を言葉で言い表すことは、ちょっと出来そうにない。出来ればもう、このまま横たわって眠ってしまいたい気分だった。
 ……今頃、ヒサはどうしているだろう。自分の世界で呆然としていたりしないだろうか、自分のように。これでまた、傷ついたり泣いたりしていないといいのだけれど。
 彼女の泣き顔を思い出すだけで、胸が痛む。自分の知らないところでもしあんな風にしていたらと思うと、息が苦しくなる。
 手を、伸ばすべきではなかったのだ、やはり。そうすればせめて、目の前で泣く彼女を慰めることも出来ただろう。全ては自分の弱さが招いた結果だ。それがまた、彼女を傷つけた。
 心の空隙をつくように繰り返される糾弾の声に、ヤガミは目を閉じたまま眉間に深い皺を刻む。
 どちらにしても泣かせてしまうのだとすれば、同じことじゃないのか。自分が側にいられるだけましなんて、それはただ自分にだけ都合のいい我が儘だ。
 でも、だとしたら、いったい自分はどうすればよかったのか。ヒサを傷つけず、泣かせず、あの場を綺麗に納める方法など、あったのだろうか。
 強い虚脱感に覆われて、その先へと気持ちを進められずにいる。何度も何度も飽きもせず思考が堂々巡りになるのはそのせいだ。欠片も建設的じゃない。そうと判っていても止められない。けれどそれだってきっと自分のためなのだ。我ながら、本当に嫌になる。
 とはいえ一つ、判りすぎるほど判っていることがある。
 深くなる気鬱に眉間を押さえ、ヤガミは倒れ込むようにベッドに横たわる。今はただ、一刻も早く朝が来てくれることを祈るばかりだった。そうすれば少しは気持ちも生産的な者へと変わるだろう。けれどこの部屋には、朝日が差すことはないのだけれど。

 自分はまた、失敗したのだ。


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引渡し日:2011/03/12


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最終更新:2011年03月12日 14:35