和子@リワマヒ国様からのご依頼品


 なにかを探すようだった戸惑いがちの足音は、一度立ち止まったあとすぐに地を叩く疾走のリズムへと変わった。目を閉じたまま、クリサリスはそのリズムに耳を澄ます。
 そんな風に走らなくとも自分は逃げやしないし、なにも変わらない……と、言ったところで、彼女が変わるとは当然思ってもいない。だからただ、近づいてくる足音を聞く。
「クリサリス……!」
 名を呼ぶ声が耳に懐かしく響いて、それが今にも溢れそうな水量を含んでいることに僅かに苦笑する。ここのところずっと、こんなトーンでしか名前を呼ばれていない気がする。実際はそうでもないはずなのだが、耳に残るのはいつも、こんな声ばかりで。
 飛び込むように傍らに跪いた気配が、慌ただしく、だがそれなりに適切に自分の体に触れて状態を探っていく。その手の感触を、クリサリスはじっと受け止めた。びりびりと布地を裂く音がして、肩の傷になにかが巻きついていく。止血に適したその巻き方に、クリサリスはようやく目を開けた。
「クリサリス」
 声の通りに泣きそうな目をした和子が、こちらを見下ろしている。小さく頷いてみせると、彼女はくしゃりと顔を歪めた。
「・・・よくあうな」
 そう呼びかけると、歪めた顔をそのままに、和子は薄く口元を緩めた。悲しげな瞳は晴れる様子もないのに、今の彼女は意志の力でそれをねじ伏せようとしているようだった。
「‥馬鹿」
 不均衡な表情はそんな一言を口にする頃には淡くはあるが柔らかな笑みと言えるものへと変わり、和子はすぐにそれを消し去るような真摯な顔つきになって、クリサリスの顔を覗き込んできた。
「私はあなたを守りたい、安全な場所に心当たりありますか?」
 彼女が本気で言っているのだということは、よく判る。だが。
「守るというのは面白い冗談だ。心当たりはない」
 あえて淡々とそう答えると、和子は目をくくっと細めてまた泣きそうな笑顔を作った。
「えへ。ここは何処? akiharu?」
「るしにゃんだな・・・」
 周りも把握できていないほど、彼女の方が混乱は酷いようだ。その様子を見上げて、彼は意識して呼吸を深いものへと切り替える。受傷によって全身を襲っていた衝撃と緊張が、ようやく少しずつほぐれてきていた。それによって、若干皮肉なことだが感じる痛みも増してきている。再び目を閉じると、すぐに傍らの気配が動いた。
 か弱い腕で、なんとかクリサリスの上体を持ち上げようとしている。それに積極的に協力することはせず、クリサリスはただ腕に身を任せてなすがままに頭を彼女の膝に置いた。動いたために傷口はまた引き攣れて痛んだが、頭は随分楽になった。
「ISSの治療部隊を呼びたいと思います。いい?」
 ようやく多少の落ち着きを取り戻したのか、問いかける声はしっかりとした響きへと変化している。頷くとすぐに、彼女はISSへのコールを行ったようだった。その合間にも、柔らかな手が髪を撫で、頬をかすめていく。恐らくは無意識にやっていることなのだろう、そのささやかな接触は、存外気持ちを和らげるのに効果があるようだった。くすぐったいようなふわふわとした感覚が、心地よい。
 コールを切った彼女はもう何も言おうとはせず、ただそっと、クリサリスの頭を抱きしめてきた。不規則な早い呼吸が、触れあった肌越しに感じられる。それを同じように黙ったまま、クリサリスは受け止めた。容態を悪化させないためにじっとしていることが、仕方ないとはいえややもどかしい。出来れば先ほどの彼女のように、彼女の髪を撫ででやりたい、そう思うから。
 待つほどのこともなく、治療班が到着する。慌ただしくなった周囲にやはりなすがまま身を任せながら、クリサリスは治療側と逆の手をぎゅっと握りしめたままの和子の手を、軽く握り返す。
「大丈夫です」
 手際よく治療を進めていく女性は、彼にと言うよりもむしろ和子に向けて、その言葉を口にする。その間にも傷口は洗われ消毒されて塞がれ、固定される。僅かな不自由と引き替えに劇的なまでに痛みは減少し、クリサリスはゆっくりと上体を起こした。
「ありがとうアポロさん;」
「がんばってくださいね」
 全ての治療を終えた女性は、二人ににこっと笑いかけるときびすを返し去っていく。それを見送っていたクリサリスは、手を握り詰めていた強い力がふっと薄れるのを感じた。
「クリサリスー」
 涙声に名前を呼ばれて振り向く。ひくひくと口元を震わせた和子が、目を見開くようにして彼を見上げていた。いろいろと必死に堪えている様子に、ともあれ安心させようと口を開く。
「・・・・まだ生きてるあ」
 うまく、舌が回らない。傷口を縫われた時に打たれた麻酔のせいだろうか。
「・・・」
 思わず顔をしかめたクリサリスの前で、和子は泣き笑いの表情になった。そのまま、身を崩すように胸元に抱き着いてくる。かかった体重を受け止めて、クリサリスは再びこちらを見上げてくる目と目を合わせた。潤みきった瞳で、和子はまた微笑み、抱き着いた腕に力を込めてくる。せいいっぱい、なのだろうか、それでもその力は弱い。片腕でも、苦もなく外せてしまいそうな程に。
 ぎゅうぎゅうとしがみついてくる懸命の力をただ受け止めて、静かに問いかける。
「・・・どうした?」 
「‥ばか」
 一生懸命な腕の力がふと弱まり、和子は聞き取りづらい声でそう呟きを落とすと、今度はぐりぐりと頭を胸元に押しつけてきた。なによりも雄弁に伝わる想いに、クリサリスは自由な方の手でそっと彼女の髪を撫でた。
 再び強まった腕の力に、僅かに間を置いて小さな嗚咽の気配。背後の木にそっと寄りかかり、クリサリスは小さく息を吐いて、なお彼女の髪を撫で続けた。静かに、優しく、壊れ物に触れるように。
 正直に言えば、安心した。泣かせたいわけでは決してないけれど、涙を堪えられるよりは遙かにましだ。だから彼女が今こうして涙を流している様は、彼にとっても心の休まる情景だったのだ。
 彼にとって戦場は故郷であり、日常であり、望むのは強大な敵だ。幾度時空をくぐり抜けようと、それは変わらない彼の本質だった。
 そして一方で、彼女の望みも判っていた。ずっと、ずっと一緒にいること。危ない場所にはいかないで欲しいとも、思っていること。元来から心優しい女性だったが、クーリンガンの卑劣な罠にはまった事件のせいで、その思いはいっそう強くなっている。
 そうして、どれほどそう望んでも、彼を止められないとも、思っているのだろう。彼女の望みを叶えることは、クリサリスの本質を変えてしまうことに等しい。賢明な彼女はその事にも気づいていて、だからこそ尚更苦しんでもいて。
 そう、どれほど望まれても、自分自身の生き方をそう簡単に捨て去ることは出来ない。生き方はすなわち彼自身を形作るものだ。
 そしてだからこそ、彼女にも自分自身を捨てて欲しくはなかった。それは、覚悟を決め意志を高め、努力することとはまた違うものだ。本質の見えぬままにただ無茶を、無理をすることで、彼女の持つ大事な本質を握りつぶすような真似を、して欲しくなかった。
 なぜならそれこそが、自分が好ましいと見いだし、慈しもうと心惹かれた彼女の、彼女しか持ち得ない美しい花であるのだから。
「好きです。もう‥心配したんですからね。」
 涙の成分をまだたっぷりと含んだ声で、彼女はそんな言葉をぽとりぽとりと零して落とす。まだ肩を震わせるようにしながら、和子は腕の力をほどいて一歩身を引いた。レンズまでも涙で濡れた眼鏡を外し、少し乱暴な仕草で目元を拭っている。歯を食いしばるようにした口元を目に止めて、クリサリスは手を伸ばした。
「・・・」
 つやつやとした金の髪を、大きな掌でおおうように撫でていく。さらさらの髪が時折指の間を抜けていく感触が、心地よい。
 和子の体がぴくりと震えてまた固まった。メガネを握った手が、ふるふると震え出す。視線は地に落ち、ややあってから紡ぎ出された声は感情を写すように揺れていた。 
「ずっとずっと 心配してるんですからね」
 ああ、知っている。判っている。言葉にはしないまま、指に絡めるように髪をとく。く、と喉を詰まらせたような音を立てて、和子はやにわに身を投げてきた。すがりつくように背に回された腕に、再び力が込められる。
「ばかー‥」
 弱い罵声は、すぐにこぼれる涙に滲んでいく。ひくひくとしゃくり上げる背に手を当て、そっとそっと撫でる。その震えが収まるまでの間、ただ静かに。
「‥‥クリサリスー」
 もう腕をほどこうとはしないまま、和子はクリサリスを見上げる。涙が頬を伝うに任せた、くしゃくしゃの、けれど彼の前でしか咲くことのない花。
「好きです。ずっとずっと大好きです。」
 そう言って、うう……と喉の奥で微かにうめく。頬に張り付いた髪をそっと指ですくい取って耳にかけてやり、クリサリスはほんの僅かに、彼女以外には誰も見知ることのない微笑を、和子に贈った。


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引渡し日:2010/03/15


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最終更新:2010年03月15日 23:37