月光ほろほろ@たけきの藩国様からのご依頼品


 その報せを受け取ったときから、予感はしていた。
 いつも以上に時間を掛けて服を選び念入りに化粧をして、陽子は家を出た。待ち合わせの場所に向かう間、何度も薬指のリングに触れる。それは、この指輪を嵌めてからもうずっと、彼女の癖になった仕草だ。
 待ち合わせ場所は、春の園の中にある桜の園だった。夜桜を楽しむ大勢の人たちを少し避けるようにして、陽子は思い出のベンチに座る。悲しい誤解が解けて、再会した場所。そして自分が彼に、思いを告げた場所だ。体中から絞り出した勇気を乗せた一言に、彼が笑って応え、手を取ってくれた場所。
 夜風に舞い上がってははらはらと散り落ちる桜の花びらを見上げ、陽子は深く息を吸い込む。あの日と変わらぬ、微かに甘い香りが鼻孔をくすぐる。
 あの日からずっと、幸せで幸せで、自分でも怖くなってくるくらい幸せで。彼のことを想うだけで、この満開の桜のように胸に花が咲き乱れる、そんな心地になるのだ。
 口元に甘い微笑みを湛えたまま、陽子は夜桜を見上げ続ける。人波の中に彼の姿はまだ見えない。けれどどこから現れたとしても、すぐにそうと気づける絶対の自信が、陽子にはあった。
 行き交う人たちは皆幸せそうで、さざめきさえも耳に心地いい。蓄光桜の光が辺りによりいっそう幻想的な光景を浮かび上がらせ、満開の花飾りの向こうに見える夜空では、宝石を撒き散らしたかのような星々のきらめきが深淵を彩っている。星影の見事さに息をついて、ふと気がつく。これだけ美しく星が見えるのは、天に月が昇っていないせいだ。今日は新月だっただろうか。或いは、ひょっとして……。
 他愛もない思いつきを心にのぼせた瞬間、感じ取った愛する人の気配に陽子は顔を地上に向け直す。今までのものよりもいっそう輝きを増した笑顔で、彼女はベンチから立ち上がった。そう、今宵の月はこうして、地上に降りてきたのだ。
 名を呼び、手を振る。人混みの中でもすぐそれと判る長身をいつもの和服に包んだほろほろが、彼女の方へと振り向いた。まるで彼女の笑顔を映したような輝きで柔和な顔をほころばせ、懐手を外して大きく手を振ってくる。
「陽子さん、こんばんは」
 そのまま人混みをすり抜けるように彼女に向かって駆け寄ってくるのを迎えるように数歩進み出て、陽子は目の前で立ち止まった彼の顔を見上げた。
「はい。あの」
 こんばんは、そう言おうと思ったのに、久しぶりに逢うその姿に、それだけで胸がいっぱいになってしまって、言葉がつかえてしまう。自分に向けられた眼差しを感じるだけで、体中が熱くなる。
「夜に会うのは初めてだね。へへ」
 セルフレームの奥の眼を糸のように細めて、ほろほろは嬉しそうに笑った。うまく出てこない言葉の代わりに、陽子は手を伸ばす。精一杯の気持ちを込めて掴んだ手は、すぐに大きな手でくるまれ、力強く握りかえされた。どきどきは加速するのに、そのぬくもりにふわりと心が安らいでいくのも感じる。
「夜ははじめてですね、確かに」
 そんな言葉を紡ぐ声は自分のものながら少しだけ落ち着いて聞こえて、彼にもそんな風に聞こえているといいなと思う。いつまで経ってもおろおろあたふたしたままの自分として覚えられてばかりは、少し寂しい。
「うん。陽子さんとずっと一緒に星を見たくて。今日はやっとかなったよ」
 それでも、屈託のない彼の言葉にすぐに胸がきゅうんとなってしまうのは、愛しいが故の反射のようなものだとも思うけれども。
「・・・はい」
「あれ? 星はあまり好きじゃない?」
 応えた声に予想外の反応をされて、陽子は慌てて顔を上げた。
「あ、いえ。すみません。夜だと、こえ、ちいさくなる・・・でス」
 気持ちをはき違えられては困る。焦る心が、つい昔のようなたどたどしい言葉付きに滲んでしまう。
「うん。いつも大きい声だと疲れちゃうよね。でもおれはちゃんと聞くから安心して」
 ぱちぱちと瞬いた眼がふっと細められて、ほろほろはこちらを宥めようとしてか殊更に優しい声を返してくる。そんな風に言ってくれることは嬉しいのだけれど……やや曖昧に微笑んでしまった陽子の顔をじっと見つめて、ほろほろは不意になにかを思いついたというように頭を揺らした。
「夜だと声が小さくなるのは、周囲に気を使うから…かな?」
「はい・・・」
 言い当てられた言葉に頷く。破顔したほろほろは、陽子の顔を不意に覗き込んできた。しっかりと握られた手に痛くない程度の力が込められて、優しく引かれる。
「優しいね。うん、おれも静かに星が見たいし、落ちついて星の見れる場所に行こうか?」
「はい」
 陽子の答えにまた嬉しげに笑って、ほろほろは陽子の手を取ったままゆっくりとした足取りで歩き出す。どうやら梅の園に向かっているようだ。
 桜の園から離れていくにしたがって、辺りは暗さを増し、喧噪も遠ざかっていく。隣を歩きながら、陽子はほろほろの顔を見つめていた。時折通り過ぎる街灯の明かりだけでは、どこか心細いような感覚。もっと側に寄り添って、彼の存在を感じていたい。寒いわけではないけれど、繋いだ手のぬくもりがとても安心できるから。
 そうやって、自分でも気づかないうちに一心に彼を見つめていたせいだろう。いつの間にかさしかかっていた坂道の石に足を取られ、ぐらりと体が傾ぐ。すかさず体に回された力強い腕に、止まってしまった息をゆっくりと吐いて。
「す・・・みません」
「へへ。むしろ嬉しいかな」
 しっかりと体を支えてくれる力強い腕に、跳ねた心臓はなかなか静まってくれない。まるで子供みたいな失態にさすがに恥ずかしくなって、小さくそっと謝る。返ってきたのは、こちらもどこか照れくさげな笑い声だった。
「あ、もうここは二人っきりなんだから。普通の声でも大丈夫だよ」
 促す言葉に乱れた前髪を払いながら、陽子は俯いた。強く手を握られ、ほろりとこぼれ落ちる本心は、その望みと恥じらいを共に映して喉の奥でかすれる。
「……これくらいの、距離が、いいでス」
 体を支える腕がぴくりと震えた……そうと感じ取った瞬間、強い力で体を引き寄せられ、抱きすくめられる。それに逆らわず目を閉じて、陽子はほろほろの肩にことりと頭を乗せた。じりじりと伸ばした腕を、しがみつくように背中に回す。
「あいたかったです」
「…おれも」
 大きな掌が髪を撫でていく感触が、心地いい。肩に乗せたままの頭を僅かに動かして、陽子は小さく頷いた。
「一日千秋…いや、もう会えない時間が数億の夜みたいに感じる」
「はい」
 耳をくすぐる優しい声に、背筋に甘い痺れが走る。どうしたって照れてしまう。だけど、離して欲しくない。離さないで、もっと、もっと……口に出来ない望みを込めるように、背中に回した腕にもう少しだけ力を込めて。
「そのまま聞いてね。星…見える?」
 促す言葉に、陽子は肩に預けたままだった頭を起こし、夜空を見上げた。地上の光が少ない分だけ、先ほどよりももっと見事な星の輝きが天空をまばゆい光の洪水のように見せている。
「はい」
「うん。さっきも聞いたけど、星は好き?」
「はい」
「良かった。こうして二人で星が見たかったから」
「はい・・・」
 とく、とく、と彼の心臓の音が伝わってくる。力強く、そして少しだけ早いリズム。
 様々な世界、そして様々な場所で、夜空の星を見つめていた。遙か昔には愛しい家族と、時には仲間と共に、けれど多くは、一人きりで。空から降り注ぐ淡い光達は、いつでも自分を慰めてくれていた。だから、寂しくとも悲しくとも平気だと、ずっと思っていた。
 こんな風に、愛する人の生きている証を感じながら夜空を見上げるときが訪れるなんて、あの頃は思いもしていなかったけれど。
「おれも星が好きなんだ。あんまり詳しくはないんだけど。 親父がね、オリオン座の三ツ星ベルトの話が好きで、何度も教えてくれたんだ」
「はい」
 夜空を見上げるほろほろの瞳は、ちりばめられた光を写し取って輝いている。父親と夜空を見上げる彼の幼い頃を想像して、陽子はなんとはなしに微笑んだ。今よりもずっと小さくて、でもきっとその瞳は、今ここにいる彼と同じように輝いていたに違いない。
 幼い彼は、星々にどんな願いをかけ、どんな夢を見たのだろう。叶わぬ思いと知りつつも、その頃の彼を見てみたかったと思わずにはいられない。
 陽子の視線を感じ取ったのか視線を下ろした彼は、目があった途端に照れたようにぎこちない微笑みを浮かべた。こうしていると、リズムが早足の速度に変わっていくのが判る。
「そ…その。星は光を受けて輝くもので。うん…おれの名前にも月が入ってるけど…それは、その、太陽の光があって輝くもので」
 咳払いから始まった言葉は普段の彼に似ずどこかたどたどしいもので、腕に抱かれていると彼の全身に力が入っているのも伝わってくる。その様子は初めてあったときの彼の様子をどこか彷彿とさせるもので……そうか、と不意に思い至る。彼もまた、緊張しているのだ。連絡を受けたときに心をよぎった予感めいたものを再び感じて、陽子も密かに息を詰める。
 けれど。
 なぜだろう。自分だって十分に緊張してる。鼓動の早さは彼に負けず劣らずだろう。なのに、どうしてか、彼のことを可愛いと思ってしまっている自分もいるのだ。今までの自分だったら、こんなことを考えるなんてあり得ないはずなのに。
「はい。えっと」
 一つ一つは小さな筈の星の光が、束ねられたように自分と彼の顔を照らし出している。見上げたほろほろの顔はやはり緊張を映して見えて、それを見ているうちに湧き上がってきた気持ちが、彼女の背を押した。
 僅かに背伸びをして、口づける。可愛いという言葉がいつしか愛しいという言葉に変化して、溢れ、彼に向かって流れ出していく。
「輝いてくれますか」
 瞳を覗き込むようにしてそう囁きかけると、答のように唇が降ってくる。
「うん…あー、その。照れてばっかりだ」
 再び強く抱きしめられて、陽子は笑った。心臓の音は今や早足を通り越して駆け足のようになっている。彼の紡ぎ出すリズムと、同じように。
「陽子さんの心臓の音が聞こえる」
 思っていたことを指摘されて、息を飲む。
「恥ずかしいです」
「うん…おれも恥ずかしい。でも良いよね。誰も見てないし」
「は、はい。あの・・・どう・・ぞ・・」
 もたれるようにしていた体を、僅かに反らして見上げる。こんな風にねだること自体がもう、恥ずかしくて堪らない。だけど止められない。彼に許して貰えるのなら、もうなんでもいい。
 空いた僅かな隙間にすら、胸が冷たく痛んだ。この痛みを、切ないというのだろうか。埋めて欲しい。側にいて、離さないで、もっと強く。
 願い通りに抱きしめられて口づけられ、陽子は目を閉じ全身を彼に委ね、そうして腕にもう一度力を込める。どんな力が働いたとしても、絶対に離れないと世界全てに告げるように。
 ぎゅっと一際強く、苦しいくらいに抱きしめた腕が、ゆっくりと緩む。再び襲ってくる深淵に引き裂かれるような冷たさに耐えて、陽子は更に緊張の色を見せているほろほろの僅かに強張った顔を見返した。
「その…言いたいことがあるんだ」
「はい」
 これから前人未到の記録に挑戦するアスリートのように緊張と静謐が交差する表情で、ほろほろは一度言葉を切る。いつもいつも自分が惑う度に彼がしてくれるようにその手を握りたい、そんなことを思いつつ陽子は代わりのように思いのありったけを込めて彼の瞳を見つめた。
「俺の故郷の神話では、神々の時代から男から告白するのが良いって言われてたらしいよ。 そうして、妻問いの歌を歌って名前を聞いたって。名前を聞く事が求婚、だったって」
 いつもよりもだいぶ固い声が緩やかに胸に降り落ち、浸透していく。その意味をしっかりと捉える前に、陽子は口を開いていた。
「イリアデル・ベルカイン・クード」
 それは、もうずっと長いことこの世に現れていなかった名前だ。多くの異なる名前に覆い隠されていた、最奥の名。ただ一つ、愛おしい記憶にのみ繋がった名前だ。
 彼の唇が動いて、低い声がその名を宙に刻む。こうして音にされるのも、どのくらいぶりなのか。その音一つ一つを大切な宝物を掌で包み込む様にもう一度綴って、ほろほろは陽子を見返した。星の光を受けて、黒い瞳の表に浮かぶさざ波がはっきりと見えた。
「それは…おれの求婚を受けてくれるってこと?」
 頷く。朧な星の光に見落とされぬようにはっきりと。
「よろしくお願いします」
 深々と頭を下げ、再び上がった視界に飛び込んできたのは、彼の頬を滑り落ちていく雫が星影を反射してきらりと光る様だった。目があった途端どこか慌てたように身じろいで、ほろほろは乱暴に頬を腕で擦る。
「嬉しい…本当に嬉しい。やべ、泣けてきた」
 ……こうして彼は、喜びも悲しみも包み隠すことなく、自分に見せてくれる。思いの丈を衒うことなく差し出してくれる。多分そのことを特別なこととさえ思っていないだろう。けれど、どれほどそれが貴重なことなのか、陽子にはよく判っていた。鼻の奥がつんと痛くなって、うっすらとぼやけた視界を取り戻そうと何度も目をしばたかせる。
「・・・泣くのはわたしです」
 そういう声から震えていて、陽子は息を飲む。ずっと鼻をすするようにして、ほろほろは未だ濡れたまつげを何度か震わせてから、彼女の大好きな満面の笑みを浮かべた。
「こちらこそよろしく。あ、何て呼ばれたい?」
「ヨーコで。私は・・・?」
「うん。おれも月光で。でも好きに呼んでいいよ?ダーリンでも、ハニーでも…」
 そう言ってから、彼はまた目元を擦り、不意に照れたような笑みを見せる。 
「確かに、こういうときは女の子が泣くもんだね。まったくおれは」
 照れ隠しとありありと判る物言いに、陽子は微笑んでもう一度ほろほろの肩口に額を押しつけた。頭をすり寄せ、囁く。
「好きです。そんなところも」
 緩んでいた力強い腕が、再びしっかりと背中を抱いてくれる。大きな手が髪を撫で、耳元に囁きが落とされる。
「ありがとう。陽子さ…ヨーコがそう言ってくれるたびに、おれの心には夜明けが来るよ」
 多分自分の顔は真っ赤だろう。こんな風に顔を寄せていたら、その熱に気づかれてしまうかもしれない……そう思っても、自分から身を離す気にはならなかったのだけれど。
「この満天の星空を、おれはずっと覚えてる」
 深い溜息のあとで告げられた誓いのような言葉に、陽子は目を閉じてもう一度強く頷いた。


作品への一言コメント

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  • (*ノДノ)キャ プロポーズの感動がよみがえりますー ありがとうございました!嬉しいです! -- 月光ほろほろ (2009-08-25 23:58:55)
  • この回は書いてみたかった回でしたので、ご依頼頂けてとても嬉しかったです。こちらこそ、どうもありがとうございました。ヨーコさんとこれからも仲むつまじくお過ごし下さい〜 -- ちひろ@リワマヒ国 (2009-08-26 07:54:18)
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引渡し日:2009/08/23


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最終更新:2009年08月26日 07:54