ミーア@愛鳴之藩国様からのご依頼品
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カチ、カチ、カチ。
時間の流れを告げる時計の音が静かに病室へ響いた。
染みひとつないシーツに、作り上げられて間もないように見える清潔感のある白い壁。隔離病室とでもいうのだろうか。座敷牢にも見える、純白の部屋でバルクは微かに息を吐いた。葉を揺らすかどうかさえ危うい、虫の息以外の言葉が見つからないものだ。
自分の体のことは自分が誰よりも一番よくわかるというが、まさにその通り。
バルクは自らを構成する細胞一つ一つが破壊され、身体が自分のものではなくなっていくような感覚を確かに感じ取っている。
それはゆっくりとした、牛歩のような侵攻だが、じわじわと、確かにこの身を蝕んでいた。
緑らしいやり方だ、とバルクは捻り出したように息を吐き出し、新しい空気を身体に取り入れる。もう最期の時までそれほど残されていないだろう。
このまま死ぬのだろうか。助かる確実な手がないわけではないが、それはプライドが許さない。もうひとつの方法とて可能性としてはほぼ五分五分だ。
それならば、このまま。この想いを抱いたまま逝くというのも、この長い時間の終わりとしては悪いものではない。
「ばるくさま」
既に光を失い、閉ざした瞼の向こうで彼女の声が聞こえる。
今にも人の胸の中に顔を埋め、そのまま泣き出してしまいそうな声だ。
その声が、次第に遠くなっていく。侵攻が聴神経に達したのだろうか。
「バルク様、聞いてくださいね。とてもお待たせしてしまったけど、治す方法が見つかったんですよ」
遥か離れた遠くから、寄り添うような傍から聞こえる彼女の声にバルクは僅かに頷いた。
熱を失い始めた彼の手に、ふと、優しい温もりが訪れる。
「方法は3つです。アスタシオンにお願いする、絶技に頼る、もうひとつは……」
彼女は一度言い淀んだ。
その続きは既に見当は付いている。彼がその選択肢を選ばないことを、既に知っているのだろう。
「オー魔をお辞めになる」
口に出してしまえば、その可能性はなくなってしまう。
判りきった問題を聞く生徒を宥めるように、バルクは必死に作った笑顔を彼女に向けた。
「……どれも選びません」
その言葉に、彼女が何か言うが、ほとんど侵食されてしまった耳からはその言葉が届かない。
何か言っているということだけを感じ取りながら、バルクの意識は闇の中へ落ちた。
両手両足の感覚は既になく、残された五感ももはや風前の灯。生殺しにあっているようなものだ。
深い深い海のそこに沈んでいくような錯覚の中、バルクはまだ僅かに聞こえる声に耳を傾けながら意識の海へ光の軌跡を描く。
軌跡は円となり、文字となり、模様となり、やがて幾何学的な模様の魔方陣を作り上げた。
これから行うのは、一度も試したことはない魔法。成功するか失敗するか、それは神の溝を知るというレベルの代物。
当然、意識の壁の向こうにいる彼女にはこのことを告げてはいない。絶対でない方法を教えて余計な心配をかけたくはなかった。
それに、失敗しても構わない。そうなれば、自分はそこまでだったということだ。
半ば諦めも入り混じった、達観した思考の中でバルクは最後かもしれない彼女の声に耳を傾ける。
その声は無情にも次第に遠ざかっていき、深いところまで潜っていく彼の意識を、覚えのある香りが無理矢理に引き戻した。
野に咲く花のように柔らかなそれは、彼女を抱きしめれば香る、優しい髪の香り。
なんと心地のよいものだろう。
しかし、足音もなく迫る死という奈落は、それさえも刈り取りながら近づいてくる。
そうか。死ねば、彼女を抱きしめ、この髪の香り楽しむことは二度と出来なくなる。
微かに聞こえる、このひたむきな声も二度と聞くことも、出来なくなる。
それは――
呼吸が止まる。
残っていた視界に深い雲がかかり、
縋るように胸に添えられた手のひらの感触が、闇に溶けた。
そして侵攻が、心臓に達する。
――とても困る
バルクは、この一瞬だけ生きることを放棄した。
そう、この一瞬だけ。
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引渡し日:2009/02/09
最終更新:2009年02月09日 19:26