ヤガミ・ユマ@鍋の国さんからのご依頼品


  ・IGNITION・

 コインを投げ捨てたと聞いて、目の前が真っ暗に塗り潰された。思わず手まで出してしまったのはやり過ぎたったかと、後で反省した。
 だが……いや、やはり俺が悪いんだろう。そんなことかけらも思っていないお前を、愛人扱いしようとしたんだからな。非常事態とはいえ、やってはいけないことには違いない。ショックを受けて倒れたお前に、改めてそう思い知らされた。
 本音を言おうか。下心がなかったわけじゃない。愛人、というのは極論すぎる話だが、もう少し甘やかな空気が流れるような関係になりたい、そう望むのはおかしいか?
 だが……判ってる。お前はそうじゃない。
 お前は俺を好きだと言う。それ自体が嘘だとはいわんさ。だがその言葉が示すのは、そうだな……小さな子供が学校や保育園の先生を好きだというのと同程度だ。側にいたいと思うだろう、自分だけを見てほしいと独占欲も抱くだろう、好きと言うのに躊躇いなんてないだろう。もちろんそれも恋だ。否定する気はない。だが……幼稚で淡い、時間と経験を経るに連れて甘い思い出に変わる、一過性のものに過ぎないんだ。
 それが悪いとは言わない。そんな想いを俺に向けてくれたことに、感動も感謝も持っている。
 ……だが、俺は。
 俺は違う。俺にとってのお前は、全ての想いの礎だ。そしてそれは、必ずしも綺麗なものばかりじゃない。
 だからこそ尚更、自分の想いに取り込まれてお前を傷つけるようなことだけは、したくない。自分の欲よりも、お前の笑顔の方が大切なんだ。耐えるのも待つのも慣れている。この上数年積み重なったところで、どうということもあるものか。
 正直に言わせて貰えば、人の気も知らないでよくそういう態度が取れるなと、言いたくなる時だってある。ああ、そうだ。お前は俺の気持ちなんて知らない。

 俺はお前を大事にしたいんだ……どうしてお前は、俺にお前を大事にさせてくれない?


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 離れようとした瞬間、勢いよく抱きつかれた。あ、と思う間もなく、唇を奪われた。それはほんのわずかな接触で、まるで小さな少女がお気に入りの人形にでもするような程度のものだったのに。
 頭に血が上った。気がついたときには、両腕はしっかりと彼女の細い体を捕らえ、二度と離すまいとするようにきつくきつく抱きしめていた。
 1秒、2秒、忘我の、あるいは至福の時間はそれで終わりを告げた。独立軍指導者として、またパイロットとして長い時間を訓練されてきた頭は、鉄槌を下すように脳裏に冷静さを突き入れてくる。そんなもの振り捨ててしまえれば、どれほど幸せになれるだろう……だが、あらゆる方向から、自分にその暴挙は許されない。
 ああ、それでもその長い時間の始まりにある想いが、冷徹な理性に悲鳴のような反抗を示す。
 自分は大人で、彼女は(例え本人が何と言おうと)あどけない少女でしかない。だから自分が自制しなければならないのだ。そうと判っているのに……腕を、ほどくことができない。
「ここが病院の病室で個室じゃないことは、わかってるな?」
 片手落ちの制御でしかない自分自身を知られるわけにはいかない、自然いつもより低く、ことさら平淡な声を装う。
 首にかじりつくようにぎゅうぎゅうと抱き着き返してきたヒサ子は、ヤガミの指摘にぼぼぼっと頬を燃え上がらせた。あうあうと喉の奥で言葉になっていない何事かを鳴らし、やにわに決然とした顔で再び首にぎゅっとしがみついてくる。
「きにしません!」
 咄嗟に叩いてしまったのは、動揺を隠す手段にしてもあんまりだとは思う。だが、彼女だって悪い。いったい自分をどうしたいのか……いや、彼女はなにも判っていないのだ。動揺のあまり取り乱しているにすぎない。ちらちらと向けられる同室者の視線に気づいている自分と違い、周りが見えていないのだ。
「気にしろ。お前は痴女か」
 言っても仕方ないと思う端から、つるりと言葉が滑り出す。必死に己に言い聞かせなければならない程度には、自覚はなくとも十分ヤガミも動揺を引きずってはいた。
 思ってもみない指摘だったのだろう、真っ赤な顔のまま視線を泳がせたヒサ子に、ああ、とまた心中うめき声を上げる羽目になる。愛人発言と同じ、こんな発言は彼女に衝撃を与え、混乱させるだけだと判っているのに。
 違う、そうじゃない、そんな風に扱いたいわけではないのだ。ただ自分は、彼女を彼女にふさわしく大切に扱いたいだけなのだ。天真爛漫で、男女の機微のことなど考えもつかない、自分自身が他人の目にどんなに魅力的に映るかも判っていない、そんな無垢な心を守りたいだけなのだ。
「だって! 気にしてたらヤガミがどっか行きそうなんだもんっ」
 それなのに、彼女は次の瞬間にはそんなことを叫び、また必死の力で自分にしがみついてくる。また頭が沸騰しそうになるのを、ヤガミは無理矢理押さえつけた。いい加減、神経がいかれそうだ。
「ヤガミにどっかいかれるくらいなら、恥ずかしいほうがいいですっ」
 もう駄目だ、そんな言葉が意識に弾け、次の瞬間ヤガミはヒサ子を抱き上げていた。慌てたようにしがみつき直してくる小さな体を間違っても落とすことのないように慎重に抱きかかえ、彼はそのまま脱兎のごとくその場から逃げ出した。


 撤退先は人気のない公園だった。こんな場所に連れてきたことを非難されるか警戒されるかと思ったのに、ベンチに下ろされた彼女は辺りを気にした風もなくこちらに向かって身を乗り出してくる。ああ……やっぱり彼女はなにもわきまえていない……そう思う心の裏には失望、表は安堵。ままならない自分自身の心の動きにも、もう慣れた。
 一途、というまなざしの見本のような瞳を前に、多少落ち着いてきた心が苦笑を選択する。もちろん、自分と彼女の両方に、そのベクトルは向いている。彼女に対しては甘く、自分に対しては苦く。 
「お前は俺にどれだけ変な噂を立てさせるきだ」
 噛んでで含めるように告げると、彼女はまたぱっと顔を赤らめ、しゅんと身をちぢこませてしまった。
「そ、それはごめんなさい……変な噂、たってるの?」
 ほらやっぱり、判っていない。自分の行動がどういう意味を持っているかさえ……それこそが、一途の証明のようなものかもしれない。そう思うと、なおさら口元の笑みは優しくなる。彼がそうと信じるヒサ子が目の前に現れれば、ヤガミはいくらでも自分の胸の痛みを殺して優しく振る舞うことができた。
「病院の中で押し倒されてキスされた日には」
 さっきの反省も含め、わざと揶揄するような物言いをすると、ヒサ子はますます小さくなってしまう。そんな様も可愛らしく、見つめる眼差しはいよいよ和らぐ。
 肩や首筋のか細さが、ふと夜明けの船に搭乗している乗組員の一人を思い起こさせた。もっとも性格はだいぶ違う。あの娘が今の彼女を見たら、しっかりしなさいと怒鳴りつけそうだ。絶対そうするに違いない。
「エステルに聞かせてやりたい話だな」
 だからその言葉も、揶揄の続きのつもりだった。ヒサ子もエステルのことは知っている。だからその一言だけで、どれほど彼女自身のどたばたぶりが際だっているか自覚するのではと思ったのだ。自覚して、笑って、そうして落ち着けばいい。
 それなのに。
 ヒサ子の肩が、びくりと揺れた。見慣れた、と信じている彼女の姿がまた遠ざかっていく気がした。無意識に笑顔はかき消され、ヤガミはヒサ子から視線がそらせなくなる。
「ご、ごめんなさい」
 泳いだ瞳はうっすらと膜が張っているように見えて、それに呼応するように胸が騒ぎ出す。やめてくれ……反射のようにそう感じたことにも気がつかずに、ヤガミはくしゃりと顔をゆがめて早口でしゃべり出した彼女をただ見つめた。
「だってヤガミいなくなるし。さっきコインの話聞いたばっかりだし。呼び出されたのかもって。さらに嫌なことを言うと、他の女の人的な匂いがしました。あとエステルは、………………」
「……」
「エステルに敵宣言されました」
 自分の声を聞きたくないとでも思っているように、小さく、柔らかげな唇を駆け抜けていく言葉。閉じられた唇は一度噛み締められ、彼女は上目遣いでヤガミを見つめてきた。瞳はやはり潤んで見えて、それだけで胸をかき乱すには十分だというのに。
 ためらいがちに震えながら開かれた唇は、笑うことに失敗したような曖昧な表情で、こんな言葉を紡ぐのだ。
「ヤガミ、もてもて」
 反射的に彼女へと伸ばしそうになった手をぐっと握って、ヤガミは何度も瞬いた。冷静に対処せよ、その一言を脳髄に叩き込み、彼女の言葉を反芻する。
 そう、冷静に考えればおかしな話だ。エステルが、彼女にライバル宣言? あり得ないだろう、そんなこと。確かに彼女が入院してしまったことを雑談のついでに話はした。随分気にしていたようだから、それでエステルが見舞いに行ったということは考えられる。だが、敵宣言なんて……。
 たどり着いた結論はヒサ子が何か勘違いしている、というものだった。一度思いこむと、彼女は激しく視野狭窄を起こす向きがある。だからきっと、今回もそのパターンなのだろう。しかしそれを真剣に取りざたすれば、また彼女は傷つくかもしれない。そもそも、真剣に取りざたするような話とも思えない。
 ならばどうする。答えは決まっている。
「ほ、ほんとなのにー!!」
 ぽんぽんと彼女の頭の上で優しく手をバウンドさせて、ことさら軽々しく大笑いしてやると、大きな目を更に、こぼれ落ちそうなくらいに見開いてヒサ子は悲鳴のような声を上げた。小さな手をぎゅうっと握りしめて、長い髪を逆立てそうな勢いで、その様が妙に可愛らしいと思うのは不謹慎だろうか。
「好きって行っても信じてくれないし距離取られるし恋人つれてくるっていうししかもエステルだし、わたし、わたしっ」
 必死に言い募られれぱられるほど、その内容のありえなさが相俟って笑いがやまなくなってしまう。さらさらとした髪を無意識のまま梳いて、ヤガミは言って聞かせるようにヒサ子の顔を覗き込んだ。
「んなわけないだろう。エステルだぞ? お前も良く知っている無愛想な子供だ」
「え、エステル嘘つかないもん! 多分」
 最後に一言付け加えられる辺り、自分でも怪しい部分があると思っているのだろう。発言の尻すぼみ具合をごまかすように、彼女は声を張り上げる。
「エステルかわいいよっ」
 それと今の話と、何の関係があるのか説明してほしい。
「ヤガミに恋人のフリ頼まれたって言ってました」
「それはない」
 このことに関してだけは、はっきりと断言できる。エステルのライバル宣言以上に、かけらもあり得ない話だ。
「説得力がないだろう。そもそも」
 それ以上ないくらいの理由を提示してやったのに、なぜかヒサ子は目を見開き、次いで激しい不満の表情になった。上目遣い、赤いままふくれた頬、とがった唇。もう駄目だと思う前に、腕が彼女を抱き寄せてしまう。途端に固まった小さな体に、なだめるようにまた頭を撫でる。小さい子にするのと同じ事だ、そんな理由を引っ張り出してあまつさえそれに自ら納得までして、ヤガミはそんな自戒を裏切るような笑顔でヒサ子を見下ろした。
「せめて、そうだな。サーラだな……まあ、なんだ。ひっぱたかれて終わりな気もするが」
 フェイクとしても納得のいくラインを示してやると、膝の上でもじもじとしていたヒサ子はぴたりと身動きを止め、不意にべたりと胸元にしがみついてきた。ジャンパーの肩口に押しつけられて顔は見えないが、代わりのように聞こえた声は地を這っていた。
「…………ヤガミがないすばでーな美人さん好きなことはよくわかりました」
 なぜそうなる。
「抱きしめてるのはコルセットしてるが、ないすばでーじゃないな。やめたがいいか?」
 からかう自分の声が浮かれて聞こえるのは、きっと気のせいではないだろう。ああ、自分は浮かれている。それが子供のような稚拙な独占欲であっても、それをまっすぐに自分にぶつけてくる彼女はだからこそ愛らしかった。そして今、自分たちは二人きりなのだ。恋する一人の人間として、ここは多少浮かれても許される場面の筈だ。
「ちょ、ちょっと意味がわかんな……あ」
 わたわたとまた意味不明な動きを見せて、ヒサ子はまたぎゅっとヤガミに抱き着いてきた。彼女に見えていないのが判っているからこその、甘い笑顔のまままた頭を撫でようとして。
 瞬間、彼女のまとう空気が変化した。
「やめないでください。ていうか、一回くらい、やさしく、わかりやすく言って下さいっ」
 しまった、叩きつけられた言葉にまず思ったのはそれだった。舌足らずな声が含んだ水量が、冷水のように浮かれた意識に浴びせかけられる。
「わたし、ずっとさみしかった!」
 がばっと顔だけを起こして至近距離で、彼女は泣き出さんばかりの表情でそう訴えてくる。冷水なんてものじゃない。氷でも突き刺さったようだ。
 お前はそんな顔をする必要もないし、そんな表情をしてしまう感情だって知らなくていいはずだったんだ、それなのに……どうしていきなり。
 今までの記憶に、認識にないヒサ子の様子に、よろめいた思考が回復しないままヤガミは口を開いた。
「俺が素直になにか言ったら、おかしくないか」
 自分でもなにを言っているのかよく判らない。彼女の異変に引きずられるように動揺しては……話にならない。自分は大人で、彼女を悲しませたり怖がらせたりしないように、気を配るべきで、だからつまり。
「…………私が素直なのは、おかしいですか?」
 ああ、彼女の方こそ混乱している。おかしいもなにも、お前はいつだって素直だろう。自分に素直で、欲求にも素直で、だからこちらのことだってすぐに二の次になって。だから……なんでそんなに挑戦的な顔になる? なにが不満だ、少し落ち着け。
 そんな言葉は頭をぐるぐると回るのに、そのうちの一言だって自分の口からは出ていかない。ジャンパーの胸元をぐぐっと掴むようにして更に顔を近づけてくる彼女の、見たことのない険しい表情を見下ろすことしかできない。
「そういうことです。いいじゃないですか、素直に言ったって」
 なにがそういうこと、だ。そう思うと、言葉の代わりに溜息が唇をすり抜けた。やはり彼女はなにも判っていない。言うべきではないこと、言ってはならないことを山のように抱えた、大人の事情というものを理解していない。世の大人達が言いたいことを言ってしまえば、あっという間に世の中は立ち行かなくなる。素直に言うのは子供の特権、そんなことも理解していないのか。
 そんな理屈を幾つも胸に塗り重ねていくこと自体が、彼自身もまったく冷静ではない証のようなものだ。その揺らぎを更に激しくする言葉に、だから尚更煽られる。
「言いたい時に言えばいいです。でも、出来れば一回くらいは素直に言って欲しいです」
「お前のそう言うところが大嫌いだ」
 売り言葉に買い言葉のようにそう言ってしまったのは、それが真理であるかのように紡がれた言葉の強さに。そんな言葉を当たり前のように口に出来る強さが、なにもかもを突破していく力だと知っている。きっと、誰よりも強く知っているから。
 こちらの語気の強さに怯んだように、彼女は顔を強張らせてふらりと身を引きかけた。その様子にまたダメージを与えられて、彼女自身意図していないだろうカウンターを食らったことに、更に感情の振幅は激しくなる。
 言えと言うなら……言ってやるまでだ。こちらの努力も想いも、全て無視してそんなことを口にするのならば。ただし、その言葉は、絶対に聞かせない。
 手を伸ばして、ヒサ子の耳を指で押さえつけて塞ぐ。そのまま耳に唇を寄せて、囁く言葉はほんの一言。どこにも届くことのない、一言だ。
「満足したな」
 ゆっくりと耳から手を離し、乱してしまった髪を無意識に撫でつけながら、あえてそう尋ねる。湛えた笑顔はずいぶんと意地の悪いものだろうと、自覚はしていた。
 真っ赤な顔でぱくぱくと唇を開け閉めするヒサ子は、彼のよく知る少女に戻っているように見えた。さっきのようにどこか人を圧倒するような触れがたさを感じさせることもなく、尖った唇も見慣れたもので。
「…………いえ。全然。ひどいです……とねだるか、やり返すか、非常に悩んでます」
 完全に拗ねた口調に、かえって安堵してしまう。
「少なくとも満足には程遠いです」
 ようやく心に取り戻した余裕が、自然とおどけた対応を生み出す。ヤガミは自分の耳を両手で塞ぎ、ヒサ子に向かって僅かに首を傾げて見せた。この程度の意趣返し、可愛いものだろうと思うのだが、判りやすく目をつり上げた彼女は、不意にぎゅっと目を閉じて突進してきた。病室での出来事の再現のような動きに、今度は余裕を持ってそれを躱し、勢いによろめいた小さな体を抱き留める。
 やはり彼女は彼女だ。危なっかしくて、目が離せない。駆け引き一つ知らずに、表情を隠すことさえしようとしない。それでいい。振り回されて苛々させられても、それはそれで構わない。だから、あまり急ぐな。背伸びをするな。無理しなくたっていい、いつまでだって待つ覚悟くらいしているんだから。
 そんなささやかな誓いは、自分一人が知っていればいいことだ。そう思いつつも、ふと顔を傾けてしまったのは、いったいどんな力が作用したものなのか。
 一瞬の感触を心に刻んで顔を覗き込むと、思った通りヒサ子の顔は火がついたように盛大に赤くなっていた。震える唇がぱくりと開いて、悲鳴のような声を叩き出す。
「ひ、ひどいですひどいですひどいです、わあ、もうっ」
 一瞬前に彼女がやろうとしたことを、意味は違えどやり返しただけだ。もっと言うのなら、先に唇を奪ったのは彼女の方だ。それでひどいと言われるのは……まぁ、仕方あるまい。今のは半分意趣返しに近い。彼女が幼い恋心をこちらに抱いているとしたって、それなら尚更ひどい振る舞い、かもしれない。
「冗談だ。犬にかまれたと思って忘れろ」
「ちがいますー!!」
 ショックを浅くしようとして口にした発言は、倍する音量の悲鳴によってかき消された。
「い、犬にかまれてこんな真っ赤に、ああう……っ」
 両手で頬を押さえて視線を泳がせ、彼女はふらふらと視線を泳がせる。それからはっと我に返ったようなそぶりで、一転してまっすぐな視線でヤガミを見つめてくる。大きな瞳が揺れている。その奥に透けて見えた感情の影に、ヤガミは少しだけ息を詰めた。
「も、もしかしてわかってて言ってますか? わかって言ってるなら酷いし、本気ならばかです」
 声も、眼差しと同じ感情を宿して震えている。それに対して一度口を開きかけ、ヤガミは結局言葉を飲み込んだ。代わりに眼鏡を押し上げ、辺りを見回す。わざとらしく見えようと、構わなかった。
「もうこんな時間か。病院に戻るぞ。顔くらい、普通でいろ」
 そう言ってもう一度髪を撫でつけ、軽い体を横抱きで抱え上げる。また顔を赤らめた彼女が、心臓が破裂しそう、そんな呟きを漏らす。僅かにうつむき加減のその表情は、よく知っているようでいて、今までの彼女のそれとは少し違っていた。
 軽口を叩きながらも、その内容なんてろくに気にならなかった。腕にかかった重いとも言えないような重み、指先に伝わる肌の柔らかさ、さらさらと流れ落ちる髪や、頬の甘い曲線に落ちるまつげの影、そちらの方がずっと、心を揺さぶった。
 そうして、今までとまったく違う顔つきで、そらせない視線で告げられた言葉。
「好きです」
 気がつかれないように、詰めた息を細く吐く。俺は大人だから、こんな卑怯なことも平気で出来るんだ、お前とは違って……そう、心の中で呟かなければ、とても次の言葉を口には出せなかっただろう。
「それはさっき聞いた」
「ちゃんと言っておこうと思って……だからって流さないで下さいっ」
 悔しげに一度唇を噛んで、ヒサ子はやはり視線をそらさずになおも言いつのる。
「あ、あと、破裂しそうなのは、ヤガミからしてくれたからですっ」
「一度聞けば十分だ」
 そう、これは逃げ口上だ。自分自身そんなものは嘘だと熟知している。冷静に対処せよ、遅れ馳せながら意識に下されたそんな指令が、しかしヤガミにこの言葉を選ばせた。
 彼女をどうしたいのか、自分の思いを忘れてはならない。大事にしたいというなら、そもそもあんな行動を取るべきじゃなかった。それについては、魔が差したとしか言いようがない。
 それでも、今からなら自分の本分に立ち返れる。一時的に彼女に辛い思いをさせるにしても、このままねじ曲げてしまうよりはずっとましなはずだ。その為にはどうすればいいのか。
「俺は何もしていない」
 自分で口にしておいて、ひどい台詞だと思う。それでも、かつてない意志の強さで自分を追い詰めようとする彼女を、自分は振り切らなければならない。なぜって……それが、彼女のためだからだ。
「………………ひどーい」
 一瞬はっとした顔になって、ヒサ子はうつむいてしまった。ぽつんとこぼれ落ちた言葉。怒っているというよりは悲しんでいるように見えるうつむきがちの顔。柔らかな顔には似合わない、眉間に刻まれたかすかな皺。
 そうだ、自分はひどい人間だ。それなのにそれに徹しきることも出来ないなんて、意志薄弱すぎて、嫌になる。
「一生、覚えておく」
 胸を撃ち抜く一言も、唇に伝わった甘さも、全身に浸透していくこの温もりも。この先なにがあろうとも、全ての記憶は自分の、自分だけのものだ。
 そんな身勝手な言葉、伝えたところでなんになる。そう思っても吐き出してしまったのは、それが今口に出来る、まだしも嘘ではない言葉だったからだ。そんなもの、やっぱりどこにも届かない筈だったのに。
「………………っ」
 首に腕を回してしがみついてくる小さな体は熱くて震えていて、まるでたった今生まれ落ちたかのようだった。この小さな体の中に、どれほどの嵐が吹き荒れているのか……それを思うことも、今の自分がしてはならないことだろう。泣いているのだろうか、そんな詮索も、耳許をかすめるごまかされている気がする……なんて胸をえぐるような呟きへの応えも。
 なぜなら自分は、ひどい人間なのだから。


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引渡し日:08/10/28


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最終更新:2008年10月28日 20:48