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名前 読み  
 

蒯越

かいえつ

かいえつ

字は異度。荊州南郡中廬侯国の人。楚漢戦争期の説客・通の子孫。良は同郷同姓の人物で一族の可能性は高いが、関係は不明である。

最初は何進に東曹掾として仕え、宦官殺害を進言するものの何進は決断できなかった。その後、越は自ら望んで汝陽の令として荊州に赴き、劉表配下の大将となった。初平年間に、越は謀略と弁舌を駆使して、荊州で劉表に対立していた地方官や豪族を次々と滅ぼし、あるいは降伏させ、劉表の荊州統一に大きく貢献している。後に、献帝の詔勅により、越は章陵太守に任命され、樊亭侯に封じられた。

建安13年(208年)、劉表が死去して劉琮が後継すると、曹操が荊州進攻を図る。越は、同僚の韓嵩や傅巽と共に曹操への降伏を劉琮に進言し、劉琮もこれを受け入れた。曹操は越を列侯に封じ、光禄勲に任命した。曹操は荀彧への手紙の中で、「荊州を手に入れたことは嬉しくないが、異度を手に入れたことは嬉しい」と書いている。

建安19年(214年)に死去。

 

蒯良

かいりょう

かいりょう

字は子柔。荊州南郡中盧侯国の人。同郷同姓の越とは一族の可能性が高いが、関係は不明である。

劉表が荊州刺史として赴任した際、越・蔡瑁と共に招かれ、服従しない豪族への対処法について相談される。これに良は「仁愛と信義をもって人民を労わるように」と進言し、蒯越は「利で誘った上で無道の者を誅し、残りは安撫すべき」と進言した。劉表は良の進言を「(仁義を尊んだ晋の)雍季の議論と同じである」としたが、越の進言の方をとり、荊州を統一した。

『世説新語』の注に引く『晋陽秋』によると、その後(恐らく曹操に仕え)吏部尚書にまでなった。

 

賈逵

かき

かき

本名は、字は梁道。河東郡襄陵(山西省臨汾市襄汾県)の人。

司徒曹操の招きを受け、司空の掾(属官)となり、議郎となって司隷の軍事を担った。馬超征伐のとき、賈逵は曹操により弘農太守の代理に任命され、曹操と対面した。曹操は賈逵を気に入り、太守が皆賈逵のようであれば心配ごとはない、とまで言った。

曹丕が魏王になると、賈逵は鄴の令となり、やがて魏郡の太守に昇進した。曹丕が遠征した際は丞相主簿祭酒に任命され随行し、厳しく軍律を履行し、譙についたときに豫州刺史に任命された。賈逵は豫州の治政が緩んでいたのを見て、官吏の綱紀粛正につとめ、他の州治の手本となるほどの治績を挙げた。関内侯に封じられた。

豫州は呉と国境を接していたため、軍備の整備と防備の充実に励んだ。中でも特筆すべきは二百里にも及ぶ大運河を築き上げたことであり、この大運河は『賈侯渠』と呼ばれている。

その後、病気にかかって危篤に陥り急死した。粛侯と諡された。

 

華歆

かきん

かきん

字は子魚。諡は敬。平原郡高唐県の人。当初孫策と孫権に仕え、後に魏の重臣となった。『三国志』魏志に伝がある。

華歆の政治は簡潔で公正であったので、官民はこれを幸いとし、彼に敬意を表した。『魏略』によると、孫策に追われ近隣に駐屯していた揚州刺史の劉繇が没すると、その家臣達は華歆を頼ろうとしたが、華歆は勝手に任命されることは良くないとしてこれを拒絶したという。

孫策が豫章に攻め込むと、華歆は孫策が用兵に巧であることを知って隠士のかぶる頭巾をかぶって降伏し、孫策も華歆の声望を知っていたため彼を上客として礼遇した(具体的な経緯については『呉歴』、『譜叙』、『江表伝』)。孫策が死ぬと、孫権に仕えたが、間もなく官渡にいた曹操から呼び出された。孫権は引きとめたが、華歆は孫権と曹操との国交がようやく出来たばかりだから孫権のために働かさせてくれるよう頼み込んだため、孫権は喜んで中央へ赴かさせた。出発のときは数千人の賓客達に見送られ、餞別も多額に上ったが、華歆は餞別にしるしを付けておき、いよいよ出発するときになって、賓客達にすべて送り返した。賓客達は華歆の徳義に感嘆した。

曹操が孫権を征伐するときには華歆が軍師に求められた。建安21年(216年)に曹操が魏王となると御史大夫に、曹丕(文帝)が王位を継ぐと相国に任命され、曹丕が皇帝として即位すると司徒に叙せられた。

華歆は魏の諸臣の中でも際だって厚く遇されていたが、自身は清貧に甘んじ、俸禄や恩賞は九族に分け与えていたため、家には僅かの貯えもなかった。あるとき、公卿の全員に官婢が下賜されたことがあったが、華歆は彼女らの身分を解放して、他家に嫁がせてやった。文帝はこれを賞した。

太和5年(231年)に病死し敬侯と諡された。『魏書』によると75歳であったという

 

賈詡

かく

かく

字は文和。武威郡姑臧県の人。董卓、李傕、段煨、張繍に仕えた後、曹操の配下となり、曹魏2代にわたり重臣として活躍した。

董卓の校尉となり、董卓が呂布、王允らに殺されると、李傕らに策を授けて長安を攻めさせて呂布を追い出し、王允を殺して長安を奪回させた。献帝が長安から出ると李傕に印綬を返上し、同郡の段煨が駐屯している華陰に赴いた。しかし段煨は内心で賈詡に実権を奪われることを恐れており、これを察した賈詡は、南陽にいる張繍の招きに応じ、彼に仕えることにした。

197年(建安2年)、張繍は曹操に攻め込まれて降伏した。この際、曹操は張繍の義理の族母(おば)を妾にし、更に張繍を暗殺しようとした。これを察知した張繍は反乱を決意した。張繍は賈詡の計略に従い、完全武装の張繍軍が曹操軍の陣営を通過する許可を曹操にもらい、曹操軍を奇襲して大いに打ち破り、曹操の長子曹昂と曹操直下の猛将典韋を戦死させた。

199年(建安4年)、曹操と袁紹が官渡で対峙すると、袁紹は張繍に使者をよこして味方に引き入れようとした。張繍がこれに応じようとすると、賈詡は袁紹からの使者を追い返し、張繍に曹操に降るよう進言した。張繍が「袁紹の方が曹操より強大だし、その上曹操とは仇敵の間柄ではないか」と渋ると、賈詡は曹操が天子を擁していること、弱小である曹操だからこそ、味方になる勢力を必ず厚遇してくれること、天下を狙う曹操ならば個人的な怨恨を水に流すことで、自分の徳を内外に知らしめようとするに違いないこと、を理由に挙げた。張繍が賈詡の意見に従い曹操に降伏すると、曹操は彼らを礼遇した。賈詡は曹操の上奏により執金吾に、次いで冀州牧・参司空軍事に任じられ、以後は曹操の参謀として働いた。

曹操の後継者を選ぶにあたって、家臣の間では嫡子である曹丕派と、文才優れた曹植派とに分かれ、盛んに議論が起きていた。曹操から諮問を受けた賈詡は即答せず、ただ「袁紹と劉表のことを考えておりました」とだけ答え、袁・劉両家が強大な勢力を誇りながらも、長子以外を後継者にしたことで国を分裂・混乱させ、その結果、外敵(曹操)に滅ぼされたことを暗に示唆した。賈詡の助言を聞いた曹操は大笑いし、かくして嫡子の曹丕を太子とした。

220年(建安25年)、曹丕が曹操の後を継いで魏王となると、賈詡は三公の一つである太尉に任命された。曹丕が献帝から禅譲を受けて皇帝に即位した後も、筆頭の重臣として厚遇された。

223年(黄初4年)、77歳で病死した。

 

郭嘉

かくか

かくか

字は奉孝。郭奕の父、頴川の人。

郭嘉は世に出るに当たって、まず袁紹のもとを訪れたが、仕官せずに去っていった。その後、郭嘉と同じく頴川の出身だった荀彧が戯志才の後継者として曹操に郭嘉を推挙した。曹操のもとに召しだされた郭嘉は天下のことを議論した。曹操は「わしの大業を成就させてくれるのは、この男をおいて他にいない」と高く評価し、一方郭嘉も退出するなり「真に我が主君だ」と言って喜んだ。そして曹操に軍師(役職は軍祭酒)として仕え、数々の助言を行った。

38歳の時、柳城から帰還の後、病を得てそのまま死去した。貞侯と謚された。曹操は郭嘉の死を大変悲しみ、荀攸らに向かって「諸君はみな、わしと同年代だ。郭嘉ひとりがとび抜けて若かった。天下泰平の暁には、後事を彼に託すつもりだったが。郭嘉はわしと軍略を論じるときは、南方は疫病が多いためきっと自分は生きて帰れないだろうと言いながらも、天下を得るためには先に荊州を得るのが妥当と主張しておった。彼の計略は真心から出たものではなく、命を棄ててまで功業を打ち立てようという考えからなのだ。それほどの心で仕えていたのに、どうして彼のことを忘れることができようか」と嘆いた。『傅子』によれば、その死に際し曹操は「哀哉奉孝、痛哉奉孝、惜哉奉孝(哀しいかな奉孝、痛ましいかな奉孝、惜しいかな奉孝)」とも言った。

 

郭汜

かくし

かくし 郭阿多との記述もあり、幼名か字が阿多である。郭多とも郭氾とも言われることもある。

董卓の娘婿に当たる中郎将牛輔の部曲として史書に登場する。董卓が洛陽を放棄すると東方諸侯に備える一角を担い、李傕らと共に中牟で朱儁を破った。

192年、董卓が王允らによって暗殺された際、李傕・郭汜らは東方にあったが、賈詡の進言を容れて董卓の報復に乗り出し、諸軍を集めて長安を奪回した。

裴松之が三国志の注に引く『英雄記』によると、この攻防戦の際に呂布に一騎討ちを挑まれて応じ、敗れたとされる。

献帝を擁して王允を殺すと後将軍の地位に昇り、李傕、樊稠らと朝廷を支配した。この専横の間、兵を放って城邑を略奪させたため、三輔の民衆は飢餓に陥り「二年の間にことごとく食らいあった。」

194年、馬騰が李傕に私的な交際を求めたが断られたため、韓遂らと結託し長安を攻撃。郭汜は樊稠と共に出撃し、馬騰軍一万あまりを斬った。さらに、馬騰に協力していた羌族も撃破している。

同僚で幼馴染の李傕とは酒宴を開いたり、お互いの陣営に宿泊する仲であった。しかし、李傕が郭汜に妾を与えているのではないかと疑った妻に謀られ対立、抗争を繰り広げるようになる。この二人が争っているのを見て、張済は二人の争いを仲裁し、献帝を洛陽に送ることとなった。だが、郭汜は献帝の護衛中に変心して官軍に対して攻撃を仕掛ける。李傕、張済を巻き込んで官軍を壊滅状態に追い込んだが、献帝を捕らえる事は出来なかった。

その後、錦の御旗を失った郭汜は衰退し、197年、曹操が派遣した謁射僕射の裴茂に長安を追われ、部下の伍習に裏切られて郿で殺された。その首は曹操のもとへ送られた。

 

郭図

かくと

かくと

字は公則。豫州潁川郡の人。

建安4年(199年)、沮授と田豊が、曹操と対抗する上で持久戦略の採用を主張したのに対し、郭図は審配と共に短期決戦戦略の採用を主張する。袁紹は郭図・審配を支持した。さらに郭図は、監軍(袁紹軍総司令官の地位に当たる)の地位に在った沮授について、その勢威が強大すぎると袁紹に讒言した。これにより、監軍の地位・権限は三都督へと三分割され、沮授・淳于瓊・郭図の3人が都督に任命された。

建安5年(200年)10月、袁紹は淳于瓊に命じて、烏巣で兵糧を守備させたが、曹操はこれを攻撃しようと図る。この時、郭図は、この隙に曹操軍の本陣を急襲することを主張した。一方、袁紹の部将張は、本陣は堅固であるだろうから、全力で直ちに烏巣へ救援に向かうべきであると反論した。結局袁紹は、軽騎兵を烏巣に向かわせ、重装備の兵で本陣を攻撃するという中途半端な選択をした。曹操は淳于瓊らを打ち破り、袁紹軍は崩壊した。このとき郭図は、責任追及を恐れて張のことを讒言し、張は曹操への降伏をやむなくされた。

建安7年(202年)に袁紹が死去すると、郭図は辛評と共に長男の袁譚を後継者に推戴した。これに対して郭図・辛評と不仲の審配・逢紀が三男の袁尚を推戴し、これが袁氏の内紛につながってしまう。建安8年(203年)、郭図と辛評は、袁譚に助言・後押しをして、袁尚に先制攻撃を仕掛けさせた。しかし袁尚の反撃に敗北して平原に追い込まれ苦境に陥った。

次の手として郭図は、曹操への一時降伏を袁譚に薦め、受け入れられる。袁譚は辛を派遣して、曹操と同盟を結んだ。そして曹操は袁尚を攻撃し、鄴を攻め落とし、審配を処刑した。

曹操と袁尚が戦っている隙に、袁譚と郭図は一度は勢力を盛り返す。しかし、それが原因で曹操は袁譚を盟約違反と非難し、両軍は再び交戦した。建安10年(205年)春、袁譚と郭図は南皮に追い込まれて最終的に敗北し、郭図は袁譚と共に殺された。『後漢書』袁紹伝によると、この時捕まった郭図の妻子も一緒に処刑されたという。

 

夏侯玄

かこうげん

かこうげん

字は太初。夏侯尚の子。

20歳の若さで散騎侍郎・黄門侍郎に任じられる。曹叡(明帝)に目通りした際、毛皇后の弟である毛曾と同席させられたことに対して嫌悪感を露わにしたため、明帝の不興を買って羽林監に左遷された。

正始年間初期、幼帝曹芳(斉王)の治世下で曹爽が政治の実権を握ると、曹爽の縁戚である夏侯玄も出世し、散騎常侍・中護軍に昇進した。

249年、司馬懿のクーデター(正始政変)により曹爽が処刑されると、夏侯玄も中央に召し返されて大鴻臚となり、数年後には太常に転任した。このとき、夏侯覇に、ともに蜀に亡命するよう誘われたが、断ったともいう(『魏氏春秋』)。

中書令の李豊は、大将軍の司馬師に信任されていたにも関わらず、夏侯玄に心を寄せ、司馬師を誅殺して夏侯玄を大将軍とし、政権を握らせようと考え、曹芳の皇后の父の光禄大夫張緝らと計画をめぐらした。しかし、計画は事前に露見し、司馬師に機先を制されて、夏侯玄らは捕らえられ、廷尉の鍾毓の元に送られた。鍾毓の取調べのときにも夏侯玄は堂々としており、鍾毓が作成した供述書を涙を流しながら見せると、夏侯玄は黙って頷いたという(『世語』)。結局、夏侯玄は李豊らとともに大逆の罪に問われ、刑法により三族皆殺しとなった。46歳であった。斬刑の場に臨んでも、夏侯玄は顔色一つ変えず、堂々とした様子だったという。

夏侯玄は学者としても秀でており、「楽毅論」、「張良論」、「本無肉刑論」を著した。その文章は筋が通っており、世間に広く伝わったという。

 

華陀

かだ

かだ

本籍は沛国譙県(現在の河南省永城市)で、ペルシア系。字は元化(元方)。「華陀」とも書く。「華佗」とは「先生」を意味する尊称 xwaday が人名として用いられたもの。本名は不明。

徐州で学問し、経書を学んだ。陳珪により孝廉に推挙されたが、出仕しなかった。養性の術に通暁しており、当時の人々は彼の年がもう百歳になるはずだとしたが、見たところは若々しかった。また、華佗は医術や薬の処方に詳しく、麻酔を最初に発明したのは華佗とされており、麻沸散と呼ばれる麻酔薬を使って腹部切開手術を行ったという。そのため、民衆から「神医」と呼ばれた。また、屠蘇や「五禽戯」と呼ばれる体操健康法の発明者とも言われている。

その評判を聴いた曹操の典医となり、持病であった頭痛の治療に当たっていた。しかし、華佗は自分が士大夫として待遇されず、医者としてしか見られないことを残念に思っていた。これは当時の医者の社会的地位が低かったためである。そこで、帰郷の念が募って、医書を取りにゆくといって故郷に戻って、二度と曹操の下に戻って来ようとはしなかった。そのため、曹操はこれに怒って華佗を投獄し、荀彧の命乞いも聴かず、拷問の末に殺してしまった。曹操は名医で頭痛を治せる唯一の人物であった華佗を殺してしまったこと、またそのことにより庶子ながら、その才気煥発な面を愛していた曹沖を治療することができず、夭折させてしまったことを、後々まで後悔したと言われている。

 

韓浩

かんこう

かんこう

字は元嗣。養子は韓栄。司隷河内郡の人。

後漢末の乱の中で人を集めて盗賊から自衛し、河内郡の太守であった王匡の従事となった。董卓が舅の杜陽を人質にして、韓浩を招いたが彼は応じなかった。これを聞いて袁術が彼を騎都尉とした。その後、同じく韓浩のことを伝え聞いた夏侯惇に見出され、曹操に従い兵を率いるようになった。

武勇に優れ、呂布との戦いなどで活躍した。夏侯惇が人質となった際には、主のいない軍をまとめ、かつ人質を取った者に対し人質を気にせず厳しい態度で臨んで事態を収拾し、結果として夏侯惇も助かっている。政治的にも優れ、曹操に対して屯田を行なうように提言している。護軍(後に中護軍)となって曹操軍の中核を担っている。智勇に優れ、多くの功績を挙げた韓浩は曹操から大いに信任された。

建安20年(215年)、漢中の張魯討伐に従軍し、張魯を破った後、漢中を統括する司令官として韓浩を推す声が強かったが、曹操は「護軍無しにはできない」と難色を示し、夏侯淵が守将となった。

その功で近衛隊の指揮者となり、列侯に封じられた。のち病死した。韓浩が死んだとき、曹操はその死を惜しんだ。彼には子がなかったので、一族の韓栄が養子として後を継いだ。

 

簡雍

かんよう

かんよう 元の本姓は“”だったが、幽州では“簡”と発音されていたので、改姓した[1]

同郷出身の劉備とは若い頃からの旧知の仲であった。早い時期から常に劉備に随伴してともに各地を転々とした。劉備が荊州に入ると孫乾、糜竺とともに従事中郎となり、話し相手になったり使者を務めたりした。

劉備が益州に入ると、劉璋にその人柄を愛された。後に、劉備と劉璋が対立すると、成都で抵抗する劉璋への降伏勧告の使者となった。劉璋は説得に応じ、簡雍と同じ輿に乗って城を出て、劉備に臣従した。

益州に入った劉備から昭徳将軍に任命され、糜竺の次で孫乾と並ぶ待遇を受けたという。

簡雍は傲慢で無頓着な性格で、劉備が出席する席でもだらしない振る舞いを止めず、諸葛亮達に対しても遠慮をせず、自分だけ長椅子を占領した上で寝そべったまま談笑をしたりした。一方で、機智に富んだ性格でもあり、劉備が厳しすぎる禁酒令を出した時は、ユーモアを交えてこれを諌め、劉備を笑わせるとともに、禁令を止めさせている。

簡雍の没した時期は不明だが、219年に劉備を漢中王に推挙した群臣達の中にも、220年に劉備を皇帝に擁立した群臣達の中にも簡雍の名は見えない。

劉備が禁酒令を出した際、酒造の器具を所有しているとして告発された者がいた。簡雍が劉備と共に成都の市街を歩いていた時のことである。簡雍は若い男女を見て、劉備に向かって「これは淫行に及ぶから取り締るように…」と言った。劉備が「何故か?」と訳を尋ねると簡雍は「あの2人は淫行の道具を持っておるから」と答えた。劉備は笑い出し、酒造器具の所有者を赦す事にしたという。

 

闞沢

かんたく

かんたく 字は徳潤。会稽郡山陰県の人。『三国志』呉志に伝がある。

農民の出身で貧乏であったが、勉学に励み、学資稼ぎのため書籍の書写仕事を請け負い、一冊の本を書き写したときにはその内容のすべてを暗誦するほどであった。こうして学識を深め、師事する人物を求めて議論を多くし、多くの書籍に目を通した。郷里でも博識の人物と高く評価された。暦にも通じ、著書に『乾象暦注』がある。

孫権とは学問についてざっくばらんに語り合う仲であり、孫権に『過秦論』を読むようすすめたこともある。孫権は闞沢に子の孫和の勉強を見るよう依頼しており(「呉主五子伝」)、242年に孫和が太子になると、薛綜達と共にその教育係(太子太傅)となった。243年に死去。死後、孫権は数日間その死を惜しみ、食事が喉を通らなかった。

謙虚で実直なうえ、身分の低い者にも常に対等の礼をとり、他人の欠点をあしざまに指摘するようなこともせず、呉における人望は厚かった。容貌に威厳はなかったが、知識の広さは群を抜いていた。弁舌には巧みでなかったようで、蜀の使者である張奉が彼の姓名をからかった時、やり返せなかった(「薛綜伝」)。政治においては礼や律、和を重んじ、呂壱のような奸臣や不正を働いた役人にも厳罰で臨むことに反対した。

 

甘夫人

かんふじん

かんふじん

劉備の側室。父母は不明。沛国の人。劉禅の母。

194年、劉備が予州刺史として小沛に移住したころ、妻とした。当時の正妻は糜夫人(糜竺・糜芳の妹)であり、甘夫人は身分の低さから側室のままであったが、最も長く連れ添っていたので、彼女が奥向きのことを取り仕切っていた。

207年、劉備に従って荊州に赴き、そこで劉禅を生んだ。208年、曹操の軍勢が南下して、劉備を追撃し当陽の長坂で追いつくと、劉備は甘夫人と幼い劉禅を置き去りにし、逃走した。そのとき武将の趙雲が劉禅を抱き、甘夫人を保護したため難を免れた。しかし甘夫人は間もなく亡くなり、南郡に埋葬された。

222年、甘夫人に皇思夫人と諡して、蜀に移葬することになった。しかし柩がまだ到着しないうちに劉備が崩御し、甘夫人の子である劉禅が即位したため、丞相の諸葛亮は、太常の頼恭らと諡号を検討して、甘夫人に昭烈皇后と諡し劉備と恵陵に合葬した。

なお厳密には、「昭烈」は甘夫人自身を示す諡ではない。皇后の追号と併せて「昭烈帝の皇后」という格式を表すものである。このため、自身に「穆」と諡された呉夫人は、『蜀書』において「穆皇后」と表記され、自身に諡のない甘夫人は「甘皇后」と表記されるのである。

 

管輅

かんろ

かんろ

字は公明。平原の人。

管輅は占いによって先を見通す能力があったと言われ、そのことは『三国志』「方技伝」において記録されている。

管輅は幼少期から星を見るのが好きで、成人してからは易経などの勉学に励んだ。そのため、占師として不思議な能力が身についたと言われている。だが、素性の怪しい者と平気で付き合う一面があったため、彼を慕う人物は少なかった。ただし、彼はいつも素直な心で人に接したため、決して嫌われていたわけではなかったという。また、犯罪が起こると犯人を言い当てたため、やがて彼の回りから犯罪が絶えたという。さらに、射覆(器の中に物を入れて中身を当てさせる遊び)をするとほとんど間違いなく中身を言い当てた。

248年12月28日、曹爽の側近として羽振りをきかせていた何晏に招待された。何晏は三公に出世できるかと質問し、さらに「蠅が数十匹、鼻の頭にたかって、追っても逃げていかないという夢を見たが、何を意味しているのだろう」と問うた。管輅は「鼻はあなたの地位を表すものです。ところが、そこに蠅という醜悪なものが、寄ってまいりました。これは、険しい所に位置を占める者は転がり落ち、他人を侮り傲るものは滅びるという徴です」と警告した。

帰宅してから舅にこのことを話すと、舅は発言が明け透け過ぎると責めた。管輅は「死人と話をしているのに、何を恐れる必要がありましょうや」と言ったので、舅は怒り、気が狂ったのではないかと思った。ところが、年が明けて十日もしないうちに何晏たちが司馬懿に殺されたので、舅も敬服したという。『管輅別伝』によると、管輅は何晏について「彼はちっぽけな巧みさを才能にしていた」と評している。

正元2年(255年)、管辰は「大将軍(司馬昭)はあなたに厚意を持っていますから、富貴な身分が望めますね」と言った。しかし、管輅は自分の寿命が47歳か48歳のころに尽きるであろうと予言した。そして予言通り、翌256年2月、48歳のときに病死している(但し、管輅伝の本文中には「私の運勢は寅にあり、…」とも記述されており、その通りであるならば管輅は建安15年(210年)生まれであり、享年は47になると裴松之は注で述べている)。

 

姜維

きょうい

きょうい

字は伯約(はくやく)。天水郡冀県の出身。

228年、蜀の諸葛亮が北伐を開始して接近した際、天水太守の馬遵とともにその偵察に赴いた。ところが各県の降伏を耳にした馬遵は、配下の姜維達も諸葛亮と内通しているのではないかと疑い、上邽に逃亡した。姜維らは彼を追ったが城内に入ることを許されなかった。冀県に戻ったがそこでも受け入れられず、取り残された姜維は行き場を失い蜀に降伏した。街亭の戦いで蜀軍が敗北すると、諸葛亮は西県の1000余家と姜維らを引き連れて帰還した。そのため姜維は以後、魏に残った母と生き別れとなった。諸葛亮は「姜維は仕事を忠実に勤め、思慮精密である。姜維は涼州で最高の人物だろう」「姜維は用兵に秀で、度胸があり、兵の気持ちを深く理解している」などと評するほど姜維の才を高く評価している。汶山での異民族の反乱を制圧すると、隴西(現在の甘粛省南東)に進出して郭淮、夏侯覇らと戦い、この地の異民族を味方に付けた。姜維は西方の風俗に通じていることや自らの才能と武勇をたのみ、大規模な北伐の軍を起こして諸葛亮の遺志を遂げたいと願っていた。だが大将軍である費禕(禕は示へんに韋)は賛同せず、姜維に一万以上の兵を与えることはなかった。

253年、費禕が魏の降将郭循に刺殺されると、姜維は費禕の後を受け軍権を握り、数万の兵を率いて北伐を敢行した。254年、魏の狄道県長李簡の寝返りに乗じて三県を制圧し、徐質を討ち取った。翌年には夏侯覇らとともに魏の雍州刺史王経を洮水の西で大破した。王経軍の死者は数万人に及んだ。この功績により翌256年に大将軍に昇進する。しかし同年、鎮西大将軍の胡済が約束を破り後詰に現れなかったため、段谷で魏将鄧艾に大敗し(段谷の戦い)、蜀の国力を大いに疲弊させた。姜維は諸葛亮の先例に倣って、自らを後将軍・行大将軍事へと降格することで敗戦の責任を取っている。257年、諸葛誕が反乱を起こしたのに乗じて魏を攻めたが勝つことができなかった。

姜維は長年軍事に力を注ぎ内政を顧みなかった。皇帝の劉禅は宦官の黄皓を重用して酒色に溺れ、蜀の国政は混乱した。また涼州出身の姜維は、蜀の朝廷内では孤立しがちであった。黄皓が閻宇と結託し姜維の追放を画策した際には、当時蜀漢の朝政を担っていた諸葛瞻や董厥までが黄皓の意見に同調したほどであった。姜維もまた黄皓を除くよう劉禅に嘆願したが聞き入られず、身の危険を感じた姜維は、これ以後成都に戻る事が出来なくなった。

262年、魏を攻めたが鄧艾に撃退された。263年、魏の司馬昭の命を受けた鄧艾と鍾会が蜀に侵攻してきた。姜維は剣閣で鍾会の軍に抵抗した。しかし姜維と鍾会が対峙している間、鄧艾が陰平から迂回して蜀に進入し、綿竹で諸葛瞻を討ち取った。この知らせを聞いた劉禅は成都を攻められる前に鄧艾に降伏した。劉禅降伏の報を受けた姜維は、残念に思いながら鍾会に降伏した。

降伏後の姜維は、鍾会が魏に反逆する意図を抱いていることを見抜き、鍾会に接近して魏に反逆するように提案した。その目的は、まず鍾会を魏から独立させ、機会を見て鍾会と魏の将兵を殺害し、劉禅を迎え入れて蜀を復興させようというものであった。鍾会は姜維の進言に従い、遠征に従軍した将軍たちを幽閉して反乱を準備した。だが将軍らが生命の危機を感じて暴動を起こしたため計画は失敗し、姜維は鍾会および妻子と共に殺された。享年63。

 

橋玄

きょうげん

きょうげん

字は公祖。梁国睢陽県の人。

時の豫州刺史周景が梁国に至ったとき、橋玄は周景に面会すると地に伏して陳国相羊昌の罪悪を申し述べ、自分を陳国従事に任命して徹底的に取り調べさせてくれるように乞うた。 周景は橋玄の決意を壮として、従事に任じると陳国へ派遣した。橋玄は羊昌の賓客をことごとく収監し、臧罪(贈収賄罪)の罪状で取り調べた。大将軍梁冀は日ごろから羊昌と親交があり、檄を発して橋玄を召喚しようとしたが、橋玄は取調べをますます厳しくして、遂に羊昌を檻車で洛陽へ送った。この一件で橋玄は世に名を著した。

桓帝の末期、大将軍と三公府の推挙によって度遼将軍・仮黄鉞となった。任地に至ると、諸将を率いて高句麗の伯固らを討ち破って敗走させた。三年の在職の間に辺境は安静となった。

霊帝の時代になると呼び戻されて河南尹となり、その後は九卿・三公を歴任した。光和元年(178年)、太尉となって数か月で病のために免じられ、太中大夫を拝命して自宅で医者に掛かった。光和6年(183年)に死去。享年75歳。橋玄は剛直性急で大仰な礼儀を用いなかったが、下位の士人には恭謙で、宗族の中に橋玄の地位を利用して高位に昇った者はいなかった。橋玄が死ぬと家には生業が無くなり、喪中に殯も行われなかった。世論はこれを称賛した。

橋玄は、洛陽に召されて間もなく無名の曹操の訪問を受けてその様子に感嘆し、「私は天下の名士を多く見てきたが、君のような者はいなかった。君は善く自らを持せよ。私は老いた、願わくば妻子を託したいものだ」と語っている。このため曹操の名は知れ渡ることになった。建安7年(202年)、曹操が軍を率いて橋玄の墓の傍を通ったとき、人をやって太牢の儀礼でもって橋玄を祀り、自ら祭祀の文を奉げている。

 

橋瑁

きょうぼう

きょうぼう

字は元偉。豫州梁国睢陽県の出身。文献によっては喬瑁と記されていることもある。『後漢書』、『三国志』にその名が散見される。

武帝紀の引く『英雄記』によると、太尉であった橋玄の一族とされるが、子の世代にあたる人物であるというのみで、続柄は明らかではない。兗州刺史を務めたことがあり、威厳と恩情を兼ね備えていたとされる。やがて東郡太守となる。

永漢元年(189年、大将軍何進は十常侍と対立すると、各地の軍を呼び寄せようとし、橋瑁にもその命令が下り、橋瑁は成皋の地に軍を駐屯させた(『後漢書』)。

何進と十常侍が共に滅び、董卓が朝廷の実権を握ると、橋瑁は三公の公文書を偽造し、董卓に対する挙兵を呼びかける檄文を作った(『後漢書』)。初平元年(190年)、董卓に反対する関東の諸侯が挙兵する(反董卓連合)と、橋瑁は孔伷や劉岱、張邈、張超、袁遺と共に参戦している。もっとも、臧洪伝によると、当初挙兵したのは橋瑁達である。

袁紹を盟主として仰いだが董卓が長安に遷都して以降は事態は進展がなく、橋瑁は酸棗に劉岱、張邈、袁遺、鮑信、曹操と共に駐屯していた。曹操は、酸棗に駐屯する諸侯が酒宴ばかり開いて董卓と積極的に戦おうとしないことを憂い、進軍計画を立てた上で、戦をするようすすめたが、諸侯はそれに応じなかった。

やがて酸棗の軍勢は兵糧が尽きて散逸し、橋瑁は劉岱と対立し殺害された。

 

許靖

きょせい

きょせい

字は文休。汝南平陽の人。月旦評という人物評で有名な許劭(許子将)は従弟にあたる。蜀書に独立した伝がある。若くして従弟の許劭とともに人物評価について高い評判を得ていた。許劭とは仲が良くなかった。

董卓が朝廷を牛耳るようになると、董卓は吏部尚書周毖と共に許靖に人事を管轄させた。許靖は汚職をした者を追放する一方、、荀爽・韓融・陳紀・韓馥・孔伷・張邈・劉岱らを中央の要職や地方の長官に任命した。許靖自身も巴郡太守に任命されたが任地に赴かず、朝廷にとどまり、御史中丞となった。韓馥らが後に董卓に謀反を起こすと、その責を問われ周毖が董卓に処刑された。許靖は難を逃れるため朝廷を離れ、一族で陳国の相であった許湯を頼り、豫州刺史となっていた孔伷の下に身を寄せた。孔伷が死去すると、揚州刺史の陳禕(陳温)に身を寄せ、陳禕が死ぬと、旧交のあった呉郡都尉の許貢と会稽太守の王朗を頼り江東に渡った。

袁術の支援を受けた孫策が揚州を席捲し、会稽の王朗を攻撃すると許靖は交州に難を避け、このとき一族の多くが餓死した。交州を支配していた士燮には礼をもって遇され、同じく交州に逃れていた袁徽は荀彧に手紙を送り許靖の人物を賞賛したが、曹操が交州に派遣した使者の張翔は許靖を強引に招聘しようとし許靖に忌避され、腹いせに許靖の出した手紙をすべて捨てた。後に益州の劉璋に招聘されて巴郡・広漢郡の太守に任命された。211年、王商が死去すると許靖が後任の蜀郡太守に転任した。

214年、劉備が劉璋を攻め成都を包囲すると、許靖は劉璋を見捨て成都城を脱出しようとしたが発覚し捕らえられた。劉璋は許靖を咎めず、処刑しなかったものの、後に劉備が蜀(益州)を支配すると劉備は許靖を嫌い任用しようとしなかった。しかし、「許靖の高名は天下に聞こえ渡っており、許靖を任用しないのなら多くの人は公(劉備)が君子を軽んじていると思うことになります」と法正が劉備に説いたので、左将軍長史に任じられた。

劉備が漢中王になった際は、鎮軍将軍の職にあり、王への推挙の群臣の中に名を連ね、王に就任した後は劉備により太子の劉禅の補佐役(太傅)を任された。

220年に後漢が魏への禅譲により滅亡した。その後、献帝が殺害されたという誤報が蜀にもたらされると、221年、群臣と共に劉備に漢の皇帝として即位することを勧めた。劉備が皇帝になると司徒に任命された。

その頃70歳を過ぎていたが、人材を重んじ、脱世の議論を好んだといわれる。222年に没した。

魏の重臣となった華歆、王朗や陳紀の子である陳羣らとの親交は生涯を通して続き、手紙のやり取りをして旧交を温めたという。あるとき、王朗は劉備が没したことを知り、許靖に手紙を送って、劉禅、諸葛亮の魏への帰順を促そうとしたが、許靖は既に没していた(『魏略』)。

また、許靖は親類縁者や同郷の人を引き取って育て養育したという。

  許攸 きょゆう

字は子遠。荊州南陽郡の人。

弱年の頃は袁紹や張邈と「奔走の友(心を許しあい危難に駆けつける仲間)」の交わりを結んだという。後漢の霊帝の時代、冀州刺史の王芬と手を組んで霊帝を廃して合肥侯を皇帝に擁しようと画策したが、失敗して逃亡し、袁紹の配下となった。建安4年(199年)頃には、田豊・荀諶と並び称される袁紹陣営の参謀となっている。しかし、上記のように朝廷に対して造反を画策したこと、性格的に金銭に強欲な所があったことなどから、進言が袁紹に容れられることはほとんどなかったと言われている。

建安5年(200年)、官渡の戦いのとき、袁紹に曹操側の本拠・許都と兵站路を襲撃し、曹操軍の死命を制する戦略を進言したが受け入れられなかった。また、ほぼ時を同じくして、許攸の家族が法を犯したとして審配に逮捕されてしまう。袁紹を見限り、曹操に寝返った。『三国志』魏書武帝紀には、許攸の強い物欲を袁紹が満足させることが出来なかったので、許攸は袁紹を裏切ったとある。そして、曹操に対して淳于瓊が守る袁紹軍の兵糧基地・烏巣の守備が手薄なことを教えて、奇襲をかけるように進言する。これが成功して烏巣は陥落した。

  虞翻 ぐほん  
  耿紀 こうき  
  黄月英 こうげつえい  
  黄権 こうけん  
  黄皓 こうこう  
  孔秀 こうしゅう  
  黄承彦 こうしょうげん  
  公孫淵 こうそんえん  
  孔融 こうゆう  
  顧雍 こよう