名前 読み  
 

伊籍

いせき

いせき

字は機伯。兗州山陽郡高平県の人。

劉備の蜀侵攻に同行し、左将軍従事中郎に任命される。これは、簡雍、孫乾らに次ぐ待遇であった。外交官として、呉の孫権との交渉役を主につとめ、孫権にその能力を高く評価された。それらの功績により、昭文将軍に昇進している。行政手腕にも長け、諸葛亮や李厳と協力して、蜀の法律である蜀科を起草した。

 

尹默

いんもく

いんもく

字は思潜(しせん)。益州梓潼郡涪県の人。

尹黙は広い視野で学問をするために李仁(李譔の父)と共に荊州に遊学し(「李譔伝」)、司馬徽・宋忠らに師事し古文の学を学んだ。 あらゆる経書・史書に通じた。特に『春秋左氏伝』を詳しく研究し、劉歆の条例や鄭衆・賈逵父子・陳元・服虔の注説などをほぼ暗誦したため、二度と書物を調べ直す必要はなくなったほどであった。

建安19年(214年)に、劉備が益州を手に入れ牧を兼務すると、尹黙は勧学従事に任命された。

建安25年(220年)、同僚たちと共に、帝位につくようにとの上奏文を劉備に奉じた(「先主伝」)。

章武元年(221年)5月、劉禅が立太子されると、尹黙は太子僕に任命され、『春秋左氏伝』を教授した。

建興元年(223年)5月、劉禅が即位すると諫義大夫に任命される。その後、漢中に駐屯していた丞相諸葛亮の要請により、軍祭酒に任命された。

建興12年(234年)、諸葛亮が病没すると成都へ帰還し、尹黙は太中大夫に任命された。その後、時期は不明だが成都で死去した。

 

于吉

うきつ

うきつ 琅邪の道士。その先祖以来、東方に萬居をし、呉会(呉郡・会稽一帯)を行き来して精舎(道教徒の集まる教会)を建て、香を焚き道教経典を誦読し、符や神聖な水を用いて病気の治療を行っていた。呉会の人々には彼を信仰するものが多かった。 順帝のときのこと、薬草を採りに山に入ったところ、曲陽の水辺で白い絹に朱の罫を引いた神書『太平清領道』百余巻を手に入れたとされる。
 

袁術

えんじゅつ

えんじゅつ 字は公路。仲の初代皇帝。父は後漢司空の袁逢。袁紹は異母兄とも従兄ともいわれる。同母兄は袁基。袁術は袁氏を陳の宣公時代の大夫・轅濤塗の末裔(轅濤塗は帝舜の血脈)と称した。

青年期は侠人として知られ、仲間達と放蕩な生活を行っていたが、後に改心、孝廉に挙げられると官は河南尹、虎賁中郎将に至った。

中平6年(189年)の霊帝崩御後、叔父の袁隗や袁紹と共に政権を掌握していた宦官数千名を誅殺した。董卓が入京後に後将軍に任じられたが、害が及ぶのを怖れて荊州の南陽へ逃れた。長沙太守の孫堅により南陽太守が殺害されると、袁術はその後任として就任、南陽郡を支配し、孫堅を配下にし、孫堅を豫州刺史に任じ、董卓を攻撃させ、初平2年(191年)に洛陽を占領させた(陽人の戦い)。南陽郡は人口が多く豊かであったが、袁術が奢侈な生活を追求し、過酷な徴税を行ったために民衆は苦しんだと伝えられる。

敗戦と悪政のため勢力が衰え自立困難となった袁術は部下の雷薄・陳蘭を頼ったが受け入れられなかった。袁術は袁紹に帝位を譲り、袁紹を頼ろうとしたが、曹操が派遣した劉備に邪魔されて袁紹の領土に入れず、建安4年(199年)6月、江亭で病死した。『呉書』の記載によれば最後に蜂蜜入りの飲物を所望したが、蜂蜜が無く、「袁術ともあろうものがこんなざまになったか!」と怒鳴り、一斗(当時は約1.98リットル)余り吐血して死んだと伝えられる。

 

閻圃

えんほ

えんほ

益州巴西郡の人。

漢末期に、漢中を支配していた張魯に仕えた。

閻圃の実績は曹操から高く評価され、曹操にとって陪臣であったにも関わらず、閻圃は張魯と共に平樂郷侯に封じられた。同時に馬超の妾であった董氏も与えられている。

 

王允

おういん

おういん

字は子師。呂布と共謀して董卓を殺害するが、その部下に逆襲されて殺害された。王宏の弟。子は王蓋・王景・王定。魏の太尉の王凌は甥(弟の次男)である。

184年の黄巾の乱に際しては豫州刺史となり、荀爽・孔融らを幕僚に黄巾軍を撃破した。乱終結後に十常侍の張譲が黄巾軍と繋がっていたことを告訴したが、時の霊帝は張譲が謝ったことで許してしまい、逆恨みで王允が投獄された。死刑に処されるところであったが、多数の助命嘆願により、命を救われた。

192年6月、李・郭汜らが賈詡の助言により都に攻め入ると、王允に反発した胡軫・楊定の裏切りもあり、呂布らは敗北する。

敗れた呂布は撤退時に

「さあ、共に参りましょう」

と王允に同行を誘うが、王允は

「国家の安定が、私の願いでした。これが達成されないとあれば、命を捨てるまでのことです。朝廷では幼い陛下が私だけを頼りにしているのです。この期に及んで一人助かるなどは、とても私にはできません。どうか関東の諸侯によろしくお願いします。天下のことを忘れないようにと、お伝えください」

と処刑される覚悟で、長安に残った。

呂布を破った李らは長安へ侵入し、董卓暗殺に加担した有力者らを次々と殺害、献帝の避難所に迫った。献帝は李らを責めるが、李らは「陛下に忠を尽くした董卓暗殺の復讐をしたまでのこと、終わり次第、罪を受けます。」と弁明し、行き場を失った王允は逮捕され処刑、家族全員が晒し首となった。齢57。

長安の人々は、老若男女、全員が涙を流した。後に許都へ移った献帝はその忠節を思い、殯(もがり)を改めて葬ると司徒の印綬を郷里の郡へ送った。彼の墓は許昌郊外にある。

 

王楷

おうかい

おうかい 最初は曹操配下で、従事中郎に任命されていた。興平元年(194年)、曹操が陶謙を討伐するために徐州に出征する。この隙をつき、王楷は張邈、張超、陳宮、許汜らと共に、呂布を迎え入れて曹操に叛旗を翻した。そして、兗州のほとんどは呂布一派に制圧されている。これ以降、王楷は呂布配下として活動することになった。

建安3年(198年)冬に、呂布が曹操に敗退して下邳城内に追い詰められる。王楷と許汜は、袁術の元へ救援要請の使者として赴く。前年の呂布との対立経緯から、袁術は援軍を拒絶する姿勢を示していた。しかし王楷と許汜は、呂布が滅びれば次は袁術が攻められる番であると説き伏せ、呂布の娘を送るという条件で、何とか袁術に救援を受諾させた。しかし、呂布は曹操軍の包囲を突破する状況になく、実際には袁術の救援を得ることができなかった。

呂布滅亡後、王楷の名は史書に現れない。呂布と命運を共にしたか、あるいは許汜の様に他の諸侯を頼ったかも不明である。

 

王匡

おうぎょう

おうぎょう

字は公節。兗州泰山郡の人。

はじめは後漢の大将軍何進に大将軍府掾として仕え、徐州に赴任して軍需物資の補給などの後方担当役をつとめていた。中平6年(189年)、何進が宦官によって殺害されたため、職を辞して郷里に戻って平民となった。しかしまもなく、河内郡の太守に就任した。

初平元年(190年)、諸侯連合による董卓討伐軍が起こされる。王匡もこれに参加し、軍を河陽津に駐屯させ、董卓軍を攻撃しようと図った。しかし、董卓軍の巧みな挟撃を受けて王匡軍は大敗し、ほぼ全滅の損害を被った。泰山へ逃げ帰った王匡は再び軍を集め、陳留太守張邈と合流しようと図る。

その頃、董卓から和睦の使者として、王匡の娘婿に当たる執金吾胡母班が河内にやってくる。しかし王匡は、諸侯連合の指導者である袁紹の命を受けて、これをやむなく殺害した。このため後に、曹操と手を結んだ胡母班の遺族によって王匡は殺害されてしまう

 

王渾

おうこん

おうこん

字は玄沖。王昶の長男。妻は鍾氏。太原の人。『晋書』に伝がある。

279年からの征呉の役(晋が呉を滅ぼした戦い)では、揚州刺史の周浚と司馬の孫疇を派遣して呉の丞相張悌と大将軍孫震を破って二人を斬り、首級と捕虜合わせて7800を得るなど多大な功績を挙げた。

太熙年間に司徒になり、恵帝の時代になると侍中を加えられた。楊駿が誅殺されると、旧臣として崇敬を受け、兵権を特別に与えられたが、文官である司徒が一時の寵愛によって兵を持つのは旧典にないとしてこれを返上した。論者はその謙譲と見識を称えたという。

官職を歴任して称賛著しかったが、台輔(宰相)に就いてからは声望は日ごとに減少していったとされる。元康7年(297年)死去。

 

王粲

おうさん

おうさん

字は仲宣。王龔の曾孫、王暢の孫、王謙の子。王凱の従兄弟。山陽郡高平県(現山東省)の人。曽祖父の王龔、祖父の王暢は漢王朝において三公を務めた。文人として名を残し、建安の七子の一人に数えられる。

戦乱打ち続く長安を離れ、流浪の末荊州の劉表を頼った。劉表は風采の上がらない外見のため王粲を尊重しなかった。建安13年(208年)、劉表が亡くなると、劉琮を説得して、曹操に帰服させた。以後は曹操に仕える。

建安18年(213年)に曹操が魏公になると侍中に任命された。王粲は博学多識であり、曹操が儀礼制度を制定するときは、必ず王粲にその責任者を任せたと言われている。

王粲は優れた記憶力を持つ人物で、碁盤の石が散らばっても、全て元通りに戻すことができたと言われている。また、計算が得意で、算法を作った。

建安22年(217年)、41歳の若さで病死した。この葬式のとき、曹丕は王粲が、驢馬の鳴き声が好きであったことからその鳴き真似をして送ろうと提案し、弔問客の仲間たちは皆一声ずつ驢馬の鳴き声の真似をしたと伝えられている。王粲の二人の子供は、魏諷の乱に組して誅殺され、直系の子孫は絶えた。一族で王粲の一世代下に当たる王業(王凱の子)が、王粲の一万巻にも及ぶ蔵書を受け継いだ。王業の子に正始の音の中心人物である学者王弼がいる。

王粲は文才に優れており、筆を取るればすぐに文章を作り上げ、手直しすることがなかったので、人々は彼がその文を前々から考えていたものだと思ったという。六十編に近い詩・賦・論・議を著した。代表作として「登楼賦」「七哀詩」などがある。また歴史書『英雄記』も編纂している。

 

王子服

おうしふく

おうしふく 曹操暗殺計画に加わった罪で、200年(建安5年)に処刑されている。

『正史』では、献帝の密命により董承や劉備が中心となり計画した、曹操暗殺計画に加担したという事実のみが記載されている。偏将軍であった。
この董承の曹操暗殺計画に同心し殺害された人物のうち、校尉の种輯は献帝に近い人物としてそれ以前に名がしばしばみえるものの、王服・呉碩(議郎)・呉子蘭(将軍)の名はここでしかみられない。

 

王昶

おうちょう

おうちょう

字は文舒。并州太原郡晋陽の人。『三国志』の魏志に伝がある。

曹丕(文帝)には太子時代から仕えて太子文学、太子中庶子にとりたてられた。魏が禅譲により成立すると散騎侍郎から洛陽の典農校尉となり、田畑の開墾に功績を挙げたため、兗州刺史となった。曹叡(明帝)が即位すると揚烈将軍・関内侯となった。この時期に、法律や兵学についての著作に励み、子や兄の子の教育にも努めた。『治論』や『兵書』、『家誠』など、多くの著述がある。

255年、毋丘倹と文欽が反乱を起こしたときは兵を率いてこれに抵抗した功績で、二人の子が列侯され、自身は驃騎将軍となった。

257年、諸葛誕が反乱を起こしたときは、江陵に攻勢を見せて呉の朱績を牽制し、その勝利に貢献し、戦後に詔勅により食邑を千戸を加増され、以前と合わせて四千七百戸となり、持節と都督の地位のままで司空となった。

甘露4年(259年)に亡くなり、穆公と諡された。

 

王甫

おうほ

おうほ

字は国山。益州広漢郡郪県の人。

陳寿が記した三国志では、楊戯伝の「季漢輔臣賛」に記載されている人物。

風貌が凛々しく、人物評価や政治手腕に優れていた。はじめは劉璋に益州の書佐(書記の事務を担当する者)として仕えた。劉備が後に益州を奪うと、綿竹の令となり、次いで荊州議曹従事に異動した。章武2年(222年)、劉備の孫権討伐に従ったが、軍が秭帰(南郡)で敗北した際に王甫は戦死した(夷陵の戦い)。

 

王凌

おうりょう

おうりょう

董卓を暗殺した首謀者である王允の甥(弟の次子)。字は彦雲

小説『三国志演義』には登場しない人物である。王凌は統治能力に優れており、兗州・青州・豫州・揚州の刺史になったが、人民は王凌の統治を称賛している。特に王基と共に荒廃した青州の政治を立て直した時は、民に非常に称えられた。

241年、王凌は呉の全琮を撃退し、秦晃を戦死させた。この功績により南郷侯に爵位が進み、車騎将軍となった。その後、三公の司空・太尉を歴任した。

249年、甥の令狐愚と共に皇帝曹芳の廃位を企み、楚王曹彪の擁立を企てた。251年、司馬懿に察知されて失敗し、降伏した。都に護送される途中でという地域で服毒自殺した。齢80。やがて、計画を諫めた長子の王広らと孫・曾孫らを含めて、王凌の三族は処刑された。

 

王朗

おうろう

おうろう

字は景興。徐州東海郡郯県(現/江蘇省連雲港市東海県)の人。『三国志』魏志に伝がある。なお、于禁を曹操に推挙した同名異人の人物がいる(「于禁伝」)。

江東に孫策が進出し、揚州牧劉繇の勢力が放逐されると、兵を用いて抵抗しようとし、元の丹陽太守の周昕の協力も得て固陵において孫策の進撃を防いでいたが、孫静の進言により査瀆におびきだされ、周昕が斬られるなど孫策に大敗した(呉志「宗室伝」)。王朗は城を棄てて船で東治に逃れたが、孫策は追撃をかけ再び王朗を大敗させた。王朗は孫策の元に出頭し、降伏が遅れたことを素直に謝罪した。孫策も王朗が儒学の教養が豊かで謙虚な人物であったため処刑せずに許した。

曹操に召し出され、都に到着後、諫議大夫、参司空軍事に任命された。魏が建国されると、軍祭酒のまま魏郡太守となった。少府、奉常、大理となった。曹操の没後には華歆と共に曹丕に仕え、曹丕が魏王になった後は御史大夫、安陵亭侯となった。禅譲により魏が成立した後は司空に任じられ、楽平亭侯に昇進した。

太和2年(228年)11月に死去。諡号は成侯。

 

温恢

おんかい

おんかい

字は曼基。太原郡祁県の人。涿郡太守温恕の子。

廩丘(りんきゅう)県令として赴任し治績を挙げた。以降も鄢陵の県令、広川の県令、彭城郡の相、魯国の相など地方官を歴任し、曹操の評価を受け召還されて、丞相主簿に任じられた。

208年に劉馥が逝去すると、その後任として揚州刺史となって、再び地方に赴任した。曹操から丹陽郡太守だった蒋済(揚州出身)を補佐として付けられ、合肥の守将である張遼・楽進と相談して事に当たるようにと、言い含められた。

220年、曹丕(文帝)の代になると再び召還され、侍中に昇進してやがて魏郡太守に任命された。数年後に今度は、涼州刺史・持節領護羌校尉として赴任するも、その途中で病に臥せてしまい、45歳で逝去した。

名前 読み  
  大喬 だいきょう  
  張角 ちょうかく  
  張既 ちょうき  
  張春華 ちょうしゅんか  
  張承 ちょうしょう  
  張松 ちょうしょう  
  張昭 ちょうしょう  
  張譲 ちょうじょう  
  張悌 ちょうてい  
  張邈 ちょうばく  
  陳宮 ちんきゅう  
  陳矯 ちんきょう  
  陳群 ちんぐん  
  陳珪 ちんけい  
  陳震 ちんしん  
  陳登 ちんとう  
  陳琳 ちんりん  
  程昱 ていいく  
  祢衡 でいこう  
  程秉 ていへい  
  田疇 でんちゅう  
  田楷 でんかい  
  田豊 でんぽう  
  鄧艾 とうがい  
  陶謙 とうけん  
  鄧芝 とうし  
  董和 とうわ  
  杜畿 とき  
名前 読み  
  馬謖 ばしょく  
  馬良 ばりょう  
  費禕 ひい  
  費観 ひかん  
  費詩 ひし  
  糜竺 びじく  
  傅嘏 ふか  
  伏完 ふくかん  
  傅士仁 ふしじん  
  傅干 ふかん  
  逢紀 ほうき  
  法正 ほうせい  
  龐統 ほうとう  
  歩騭 ほしつ  
名前 読み  
  満寵 まんちょう  
  毛玠 もうかい  
名前 読み  
  楊修 ようしゅう  
  楊松 ようしょう  
  楊柏 ようはく  
  楊阜 ようふ  
名前 読み  
  李恢 りかい  
  陸凱 りくがい  
  陸抗 りくこう  
  陸績 りくせき  
  陸遜 りくそん  
  李儒 りじゅ  
  劉琦 りゅうき  
  劉勛 りゅうくん  
  劉宏 りゅうこう  
  劉循 りゅうじゅん  
  劉諶 りゅうしん  
  劉琮 りゅうそう  
  劉巴 りゅうは  
  劉馥 りゅうふく  
  劉辟 りゅうへき  
  劉曄 りゅうよう  
  劉理 りゅうり  
  呂蒙 りょもう  
  冷苞 れいほう  
  婁圭 ろうけい  
  魯淑 ろしゅく  
  魯粛 ろしゅく  
  盧植 ろしょく  

 

最終更新:2010年12月18日 13:21