王柏融

1993年9月9日生まれ 台湾屏東件万丹郷出身
読み方は「ワン ボーロン」
181cm90kg。三振が少なくバットコントロールが巧み、
初球から打つタイプである外野手。

2015年中華職業棒球大聯盟のドラフトで全体の4位でLamigoモンキーズに指名される。
同年9月に義大ライノズ戦でデビュー、8回裏にプロ初安打が相手投手のノーヒットノーランを阻止してこの試合のMVPに輝く。
その2日後にはプロ初ホームランを放ち、シーズン率は.324、9本塁打を記録。プレーオフの台湾シリーズで打率.500の2本塁打と活躍、台湾一に貢献すると
シリーズ最多の14安打を記録して優秀選手にも選出された。
この年のオフにプレミア12の台湾代表に選出、第2ラウンド進出はならなかったものの打率.400をマーク。
16年はシーズン打率.414、200安打とシーズン歴代最高打率を更新して最優秀選手および新人王、打撃王・安打王・ゴールデングラブ賞・ベストナインのタイトルも獲得。
17年はシーズン前にCPBL代表としてWBC日本代表の壮行試合に出場、楽天の則本兄からホームランを放つ。シーズン成績は三冠王と最多安打を獲得した。
またこの年は阪神、西武、巨人の他にMLBのスカウトが多数訪れていた。
18年シーズンは打撃フォーム変更で成績は若干落ちたものの159安打と成績を残した。この年のシーズン終了後にポスティングシステムを利用して海外移籍を目指すこととなった。

幾つかの球団の名前が出る中で、同年11月20日にハムが優先交渉権を獲得したと報じられ、同年12月7日に契約合意が発表。
19年春季キャンプの練習試合でヒットを量産、一時期足のハリでスタメンを外れたり当たりが止まったりもしたが、開幕した3月30日にヒットが出ると翌日の31日(対オリックス)に初打点をあげた。同年4月29日の対ソフトバンクにて試合中に左太ももに張りを訴え、翌日30日に登録抹消される。同年5月11日にファーム戦(対楽天)で復帰、同年5月14日に再び昇格、6月20日の対DeNAでは初めて4番の打席に入った。7月9日の対ロッテの守備中に右肩を痛め(右肩関節骨挫傷)て抹消、8月10日の対ソフトバンクで復帰も左足甲に死球を受ける。その後痛みをこらえて出場も左足甲の骨挫傷と判明、9月24日に抹消されて1年目のシーズンを終えた。同年12月10日に20年シーズンより背番号を99番から田中賢介が着用していた3番に変更されることが発表された(後述)。
20年シーズンは打撃不振で52試合出場に留まり、2軍暮らしも経験。21年シーズンは2軍スタートも、4月27日に昇格すると不振の中軸に代わり、DH中心だったがクリーンナップに名前を連ねることもあった。同年9月11日の対ソフトバンクにて自身最多の5打点猛打賞を記録した。同年11月7日に1年の契約延長が発表された。
起死回生をかけた22年シーズンであったが2軍でのプレーが中心となり、同年10月31日に退団することが発表されるも、同年12月5日に育成選手契約される事を発表、その後はファームの試合に出続けて23年7月30日に再びの支配下登録となる事が発表、同年8月15日に久々の1軍昇格、翌日の16日の対ロッテにて指名打者としてスタメン出場し、自身支配下復帰後初のスリーベースを放ちこの日のお立ち台の1人となった。23年11月13日に自身のインスタグラムにて今シーズン限りでの退団を発表、球団からも退団の発表があった。

エピソード

  • ニックネームは「大王」。
  • ラミゴ時代、チームメイトからは「ロンロン」と呼ばれていた。
  • 優先交渉権を獲得した時に球団からチームが取り組むトレーニング法から札幌市内の台湾料理店まで網羅する、107ページにわたる紹介資料を渡されていた。
  • 19年のファンフェスにもしっかり参加していた。
  • 背番号変更の経緯は、来日して怪我もあり成績を残せなかったことから背番号を変えたいと希望していたことを賢介が知って3番を提案される。1週間悩んだ末にその提案を受け入れたものであった。

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最終更新:2023年11月13日 16:33