金子千尋

1983年11月8日生まれ 新潟県生まれ
2004年に社会人(トヨタ自動車)を経て
自由獲得枠でオリックスへ入団する。

入団が決定した後に右肘の故障が発覚、ルーキーイヤーの05年はリハビリを優先。回復後に2軍で12試合に出場(勝敗つかず)。
06年は中継ぎ中心に1軍で21試合に登板、同年4月12日の対西武で救援として登板してプロ初勝利をあげる(後述)。同年7月1日の対西武で1軍初先発を果たす。
07年開幕当初は中継ぎ要員で登録、当初は不振であったが故障で投げることを控えていたカットボールを、交流戦で投げ始めて復調。
8月には先発に再転向、先発としての初勝利をあげると26日の対楽天では初完封を記録。
08年には自身初の開幕投手に指名され7回1失点で勝利をあげるも、この年は奪三振数がリーグ8位も被安打数被本塁打数がリーグ2位と
好不調の波が激しかった。それでもチーム9年振りのAクラス入りとCS出場に貢献した。
一時故障などもあったものの10年には最多勝タイトル(和田毅と分け合う)を、13年に最多奪三振、14年には沢村賞を始めとして、
MVPベストナインゴールデングラブ賞を受賞。
14年オフに右肘骨棘除去手術を受け、15年前半はリハビリに当て5月下旬に実戦復帰も、9月に右肩違和感で降板、10月3日の最終戦に復帰も規定に達しなかった。
16年は1軍通算100勝を達成(球団史上最少タイ記録の56敗)するも右肩痛に見舞われる。その後復帰して2年振りに規定投球数を達成も自身初の負け越しとなった。
17年シーズンは4月14日の対ソフトバンクにおいて通算21回目の完封勝利をあげ、杉内俊哉(当時)と並びこの月の月間MVPを受賞。途中調子を落とすも
同年8月30日の対ロッテにおいて3年振りの2ケタ勝利をあげた。
18年はシーズン序盤から不調、首から背中にかけての張りなどにも悩まされ、同年8月14日に抹消後は実戦登板がないままシーズンを終える。
終了後の契約交渉で、球団より野球協約の減額制限を大幅に超える減俸提示を受けた事から、同年11月28日にオリックスに自由契約を申し入れて受諾、同年12月2日に自由契約となった。
公示後に速攻で交渉の結果、同年12月4日に契約合意、12月10日に入団会見を行い登録名を「金子弌大(ちひろ)」にすることが発表された。

19年シーズン最初の試合(3/30,対オリックス)は先発だったが、次の試合ではオープナーとして短いイニングで投げていたりしてなかなか勝利の機会がなかったが、同年4月18日の対オリックスでようやく移籍後の初勝利+12球団から勝利をあげた(後述)。海外FA権を取得していたが同年10月19日に行使せずに残留することを発表した。
20年は主に中継ぎとして登板も、21年シーズンからは再び先発として投げている。同年5月18日の対楽天にて2000投球回を達成した。
21年シーズンは先発に専念も主に2軍暮らしが多かった。来シーズンより再び「金子千尋」に登録名を戻すことを発表した。22年シーズンは1軍出場はわずかにとどまり2軍暮らしが長くなるも、コロナ化の中で黙々と練習に励む姿があった。
シーズン終了後にコーチ就任要請があったものの現役続行を希望、話し合いの末に同年10月17日に自由契約となる事が発表、現役続行を模索していたが同年12月23日に現役引退を発表、特命コーチへの就任を発表、コーチ修行を経て23年11月18日に2軍投手コーチへの就任が発表された。

エピソード

  • 弌大という表記は風水の先生が「この漢字にすれば、今後、いい人生になる」とのアドバイスであった。
  • 全12球団勝利をあげた場所はプロ初勝利をあげた場所であるほっともっとフィールド神戸(当時のスカイマークスタジアム)であった。
  • 引退会見は球団公式ようつべにて配信された。
  • 23年7月1日に引退セレモニー。セレモニアルピッチでお子様と対戦、試合後には糸井SAと2打席対決後にハム選手から5回胴上げされていた。

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最終更新:2023年11月18日 20:51