『夏祭り』


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作者  ジーク 氏

 明日、僕は東京に発つ。
 大切な君に、そのことを伝えられないまま。



 人込みがその騒がしさを増す中、僕は一人、街頭の下で君を待っていた。
 時計に目を向けると、待ち合わせの時間からすでに三十分が経っていた。やはり無理だったのだろうか。寂寞とした思いに駆られた自分の背中が何かに押された。
「お待たせ」
 振り返るとそこには、浴衣姿の眩しい君がいた。僕は震えそうになった唇をきっと結ぶと、精一杯の笑顔で笑いかける。
「遅かったね。大丈夫だった?」
「うん、ごめんね。遅れちゃって」
 走ってきたのだろう、彼女は膝に手をつき大きく深呼吸していた。その顔には疲れが浮かんでいるのに、それを悟らせないよう浮かべる君の笑顔に、胸が締め付けられる思いだった。
「気にしないで。それより大丈夫? 人が多くなってきたけど」
「大丈夫だよ。この日のために、しっかり休んできたんだもん」
「じゃあ、行こうか」
 僕は彼女の手を握ると、彼女の命を縮める人込みの中に、足を踏み入れた。


 夏祭りに行こう。
 最初にそう言ったのは彼女のほうだった。雪のように白い部屋の中で、日焼けとは縁遠い肌をした君の言葉に、僕は選択を迫られた。
 普通に考えれば、夏祭りなんて連れて行けるわけがなかった。だが僕は、迷っていた。きっとそれは、君に言ってないことがあったから。
「ほらさ、このまま夏の思い出がないって、それはそれで寂しいじゃない。だからさ、ちょっとだけ。ちょっとだけでいいの」
 なぜ僕は、あのとき頷いてしまったのだろう。せめて楽しい時間を過ごさせてあげようなど、自分のエゴだと知りながら。


「あの金魚掬い、絶対おかしかったよね。薄すぎだよ」
 むくれてみせる彼女の足取りは、先程より明らかに重くなっていた。心配する僕に気付いたのか、
「あ、そんな心配しないで。まだ全然大丈夫だから、ね」
「休もう」
「でも」
「いいから」
 彼女の両肩を押さえ、言い聞かせるように言葉を口に出す。
「……分かった」
 彼女の残念そうな声が耳に届く。
 ああ、この痛みを我慢できるなら、どうしてあの時止めることができなかったのか。



 明日、僕は東京に発つ。
 さよならの言葉を胸の中にしまったまま。


「やっぱり、人が多かったかな」
「そうだね。でも、結構回れたし、そろそろ花火の時間だから、ちょうどいいかも」
 横目に見る彼女の姿は、人目に見ても疲れてると分かるものだった。僕は自分の肩に彼女の顔を寄せる。言葉は出ない。出せない。なにも、出てこない。
「またいつか、来ようね」
「うん、そうだね」
 彼女も、そして僕も、単調な声だった。二人とも分かっていた。だからこそ、言った。せめて現の中でも、夢を見ていたかったから。
 空に花火が上がり始めた。花が咲いては散る。星の海原だった空は、いつしか一面の花畑となっていた。
「綺麗だね」
僕は花火が嫌いだった。一瞬の美しさなど、認めたくなかった。
 ふと彼女を見ると、胸元が眼に入った。恥ずかしさと無力感が同時に僕の胸を揺らし、涙をこらえようとひたすら上を向いた。
 花火がクライマックスになるころ、ふと彼女が僕に言った。
「ありがとう」
 どうして今言うのか、分からなかった。分かりたくなかった。
「楽しかったよ」
そんなこと、今言わなくていいよ。やっとの思いで絞りだした言葉は、花火の音にかき消された。



「がんばってね」



 もう何も言えなかった。溢れ出る涙を止めることも、君を抱きしめることも、何もできなかった。
 彼女の思っていたよりも冷たい手が、僕の両頬に触れた。
 唇に感じたのは、涙の味だった。




明日、僕は東京に発つ。
再び戻るこの地に、君がいないことを知りながら。