『夏祭り』

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『夏祭り』」(2008/09/08 (月) 15:59:55) の最新版変更点

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作者  ジーク 氏  明日、僕は東京に発つ。  大切な君に、そのことを伝えられないまま。  人込みがその騒がしさを増す中、僕は一人、街頭の下で君を待っていた。  時計に目を向けると、待ち合わせの時間からすでに三十分が経っていた。やはり無理だったのだろうか。寂寞とした思いに駆られた自分の背中が何かに押された。 「お待たせ」  振り返るとそこには、浴衣姿の眩しい君がいた。僕は震えそうになった唇をきっと結ぶと、精一杯の笑顔で笑いかける。 「遅かったね。大丈夫だった?」 「うん、ごめんね。遅れちゃって」  走ってきたのだろう、彼女は膝に手をつき大きく深呼吸していた。その顔には疲れが浮かんでいるのに、それを悟らせないよう浮かべる君の笑顔に、胸が締め付けられる思いだった。 「気にしないで。それより大丈夫? 人が多くなってきたけど」 「大丈夫だよ。この日のために、しっかり休んできたんだもん」 「じゃあ、行こうか」  僕は彼女の手を握ると、彼女の命を縮める人込みの中に、足を踏み入れた。  夏祭りに行こう。  最初にそう言ったのは彼女のほうだった。雪のように白い部屋の中で、日焼けとは縁遠い肌をした君の言葉に、僕は選択を迫られた。  普通に考えれば、夏祭りなんて連れて行けるわけがなかった。だが僕は、迷っていた。きっとそれは、君に言ってないことがあったから。 「ほらさ、このまま夏の思い出がないって、それはそれで寂しいじゃない。だからさ、ちょっとだけ。ちょっとだけでいいの」  なぜ僕は、あのとき頷いてしまったのだろう。せめて楽しい時間を過ごさせてあげようなど、自分のエゴだと知りながら。 「あの金魚掬い、絶対おかしかったよね。薄すぎだよ」  むくれてみせる彼女の足取りは、先程より明らかに重くなっていた。心配する僕に気付いたのか、 「あ、そんな心配しないで。まだ全然大丈夫だから、ね」 「休もう」 「でも」 「いいから」  彼女の両肩を押さえ、言い聞かせるように言葉を口に出す。 「……分かった」  彼女の残念そうな声が耳に届く。  ああ、この痛みを我慢できるなら、どうしてあの時止めることができなかったのか。  明日、僕は東京に発つ。  さよならの言葉を胸の中にしまったまま。 「やっぱり、人が多かったかな」 「そうだね。でも、結構回れたし、そろそろ花火の時間だから、ちょうどいいかも」  横目に見る彼女の姿は、人目に見ても疲れてると分かるものだった。僕は自分の肩に彼女の顔を寄せる。言葉は出ない。出せない。なにも、出てこない。 「またいつか、来ようね」 「うん、そうだね」  彼女も、そして僕も、単調な声だった。二人とも分かっていた。だからこそ、言った。せめて現の中でも、夢を見ていたかったから。  空に花火が上がり始めた。花が咲いては散る。星の海原だった空は、いつしか一面の花畑となっていた。 「綺麗だね」 僕は花火が嫌いだった。一瞬の美しさなど、認めたくなかった。  ふと彼女を見ると、胸元が眼に入った。恥ずかしさと無力感が同時に僕の胸を揺らし、涙をこらえようとひたすら上を向いた。  花火がクライマックスになるころ、ふと彼女が僕に言った。 「ありがとう」  どうして今言うのか、分からなかった。分かりたくなかった。 「楽しかったよ」 そんなこと、今言わなくていいよ。やっとの思いで絞りだした言葉は、花火の音にかき消された。 「がんばってね」  もう何も言えなかった。溢れ出る涙を止めることも、君を抱きしめることも、何もできなかった。  彼女の思っていたよりも冷たい手が、僕の両頬に触れた。  唇に感じたのは、涙の味だった。 明日、僕は東京に発つ。 再び戻るこの地に、君がいないことを知りながら。 終

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