ゼロの奇妙な使い魔 まとめ

一章十五節~使い魔は空を見る 土くれは壁を見る~(後編)

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匿名ユーザー

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◆ ◆ ◆

 会場のホールに着いたときには、舞踏会はもうはじまっていた。安っぽさのない華美な装飾や、食物とも見えないほど見事に盛られた馳走の数々、常の様子とはうって変わって優麗に動く生徒の群れが、まさしくと思わせた。リキエルは、ルイズがどこかにいはしないかと目をせわしなくしたが、とても見つけられるものではなかった。
 リキエルは学院長室を出た後、一度ルイズの部屋に戻っている。だが、ルイズの姿はなかった。というよりも、女子寮全体にあまりひとの気配がなかった。舞踏会のために、皆どこかの控え室ででも、準備を整えているのだと思われた。
 舞踏会の華やぎにしみは作るまいと、リキエルは目立たぬように壁際を歩き、そのままバルコニーに向かった。どうせ平民は正面からでは入れないだろうと思い、厨房をたずねて、給仕のために設定された入り口を使ったのが幸いしている。また傷みの増したスーツではさすがにまずいと、厨房で給仕用のシャツとズボンを拝借したのだが、その程度ではごまかしにもなっていなかった。
 歩きながら、時折リキエルは人目を忍ぶ動きで食べ物をつまんだ。そうするうちに、タバサやキュルケの姿を認めることは出来たが、どうにもルイズは見当たらなかった。あるいは、まだ準備に手間取っているのかも知れなかった。
 バルコニーに出た。一角にはひとがおらず、孤独にぽつんと、水も置かれない小さなテーブルがあるばかりである。リキエルは、顔を上向けた。
 雲もかすみもなく、澄んだ空気だけがあった。ともすれば腰の引けてしまうような、満天の星空である。リキエルは何をするでもなく、凝然と夜の光に目を焼いた。
 と、その視界に奇妙なものが入り込んで来る。そう思って意識しなければ、目の錯覚か、星明りの軌跡としか見えないほどの、細かな白い筋である。しかし、そういう曖昧なものでも数を十、二十ともすると、気に留まるようになる。
 縦横に動き回るそれらの中の一本が、不意に群れを出て、リキエルの前に飛んで来た。動きがそうなら、形も奇妙な生き物だった。蛇のような棒状の白い体に、幾枚かの羽らしき膜がついている。虫とも何ともわからない。
 ――スカイフィッシュ、ロッズと呼ばれる生き物がいるが……。
 こいつらが、そうか? リキエルは一昔前に見た、うさんくさいテレビ特番や、本屋でぱららと適当に流し読んだ、未確認生物の特集本のことを思い起こしている。目の前の生き物が、果たしてそれらに出て来たロッズなのかはわからないが、リキエルは便宜的にそう呼ぶことにした。
 世界各地で目撃され、その存在と生態とが取り沙汰される奇妙な生物たちの一つ、それがロッズだが、そんなもののことは、昨日までは名前すら思い出しもしなかった。こうして目の当たりにしなければ、終生そのままかも知れなかったわけだ。パーティー会場に分け入って行くロッズを眺めながら、リキエルはそう思った。
 ロッズの行く先には、ワイングラス片手に数人の女の子を侍らせた『青銅』のギーシュがいる。どぎつい色彩の服装だったから、こいつはすぐに判別がついた。
 それから数秒して、唐突にギーシュの肘が不自然に屈曲した。結果、色男は手に持ったワインを、目の前の女子に引っ掛けることになった。リキエルは鼻を鳴らして、わやわやと騒がしい顛末から目を離し、また宙に投げた。
 いまロッズを呼び、またギーシュへ向かわせたのは、リキエルの意思だった。操ったのである。そう出来るとリキエルが気づいたのは、フーケと渡り合っている最中、ゴーレムを倒した直後であった。
 気づけばロッズたちは、リキエルの頭上を円を描くように飛び回っていた。はじめは、こいつらもこの魔法の世界の不思議生物か、くらいに思って眺めていたのだが、その動きが自分の視線の動きと連なっていることを、リキエルは次第に理解した。
 そこに及んだとき、リキエルの胸の内にあったのは歓喜だった。戸惑いはなかった。ロッズを操るその感覚は、以前から手の中にあったように思われるほど、自然だった。何より新しく能力を得たことは、すなわち自分の中にあるものが、確実に変わったことの証といえた。

 そして喜びは確信を伴っていた。根拠もなく、フーケを倒せるという無闇な確信が、あのときリキエルを突き動かしていたものの正体である。フーケとルイズらの問答を尻目にしつつ、試しにロッズに自分の腕を襲わせてみて、その能力の僅かな把握には至ったが、実際に何がどうなっていたのかなどは、いまも正確なところはわかっていない。
 ――これからわかればいいことだからな、そんな、こいつらのことなんかはよォ~~。
 そうだ、これからだ。半ば傲然と思いながら、リキエルは自分の手首に目を落とした。
 そこには、これまた奇妙なものがへばりついている。蛙と鳥とカブトムシを足してうっかり二で割ってしまったような、有機とも無機ともつかないデザインの何物かである。ふとしたときには煙のように透けたり、思いのまま透過させたりも出来るから、物体なのかも怪しいところである。しかもこれは、リキエルの意思で自由に発現し、消失するらしいのだ。
 ロッズを操れると気づいたとき、どこからともなくあらわれたものだった。あるいはこれを出し入れ出来るようになったために、ロッズを操れるようになったのかも知れない。いずれにせよ自身の変化の証だと思えば、リキエルは見ているだけで、気分が浮き立つ感じもするのだった。
 ホールでは、すました顔の楽士たちが音を合わせている。それと一緒に鼻歌でも歌ってやろうかと、リキエルが思ったときだった。門の方で、ルイズの到着を告げる声が上がった。やはり、少しばかり時間を食っていたようである。
 いつの間にか会場には、優しく囁くようにして曲が流れている。ルイズはそこに、普段にない静々とした足取りで入って来る。バレッタで纏め上げられた髪の色が、肌の色とともに白いドレスによく映え、さながら花といった風情である。うっすらと紅を差し、化粧までしているのが可憐だった。
 そちらに向き直った生徒たちの間に、ざわめきが広がって行く。
「なんだ、これは!? ルイズ・ヴァリエール……まさか!」「久しく忘れていたぜェ…ルイズが美人ってことをよォォォォ」「ば…化けた! 深い後悔が、ゆっくりやってくるッ! 唾をつけていればああああ」「可愛い! スゲェ可愛いッ! 百万倍も可愛い!」「この感情…こんなことがッ!! あ…あいつはッ!! ゼロだぞッ! あんな…ヤツにッ!!」「描写のないまま終わり。それがモブシーン・エキストラ」「何も泣くこたあーね―だろーがよ~~~。お前だって十分に綺麗さ」
 男連中は、常のルイズを知る者もそうでない者も、皆だらしなく鼻の下をのばした。女子たちからも、驚きや感嘆の声が少なからず上がる。一部の色男は、是非にも手を取り合って踊ろうと、早速にルイズを口説きにかかっていたりする。
 折も折、そこかしこで出来上がったペアが、曲に合わせて踊り始めた。ルイズの小さな晴姿は、たちまち人いきれの向こうに消えた。
 リキエルは軽く嘆息した。フーケを前にした言い合いの後は、ルイズとはここまでまともな会話もないまま来ている。昨夜からのわだかまりも、はっきり解けたとは言いがたい。そういう諸々もあって、ルイズとは少し話がしたい気分になっていた。
 ――部屋に帰ってから、とするか。他に仕方ねえしよ~。
 そう思い切って、ホールから外の景色に目を戻した。二つの月は、今日もともに明るい。遠くに連なる山々も、ただ黒いばかりの影とはならずに、陶磁器のように青白い光を返している。夜気に冷まされた風が、包むような動きで吹きつけて来たが、寒々しさはなかった。
 そのまま手すりに腰を預けて、またギーシュあたりにでもロッズをけしかけてみようか、などとぼんやり思っていると、不意に声をかけられた。
「楽しんでるみたいね」
 振り向けば、呆れたようなルイズの顔が見上げて来る。そこいらのテーブルから持って来たらしいワインボトルと、グラスを二つ手にしている。
 ボトルとグラスを脇のテーブルの上に置いて、ルイズは続けた。
「どうしたのよ、その格好は。牛柄じゃないのね。おかげで探すのに手間取ったったら」
「よお。格好といえば、お前の方だぜルイズ。変われば変わるもんだよなあああ、あんな泥だらけだったのが。すっかりめかしこんでよお。誰のコーディネートか知らないが、いい仕事をしたよな」
「何も出さないわよ。あんただって、もっといまみたいな格好したらどうなの。けっこう整った顔してるんだし、おしゃれに気をつかってみなさいよ」
 リキエルは肩をすくめた。
「ってもなあ、持ち合わせは一着きりだぜ。あのスーツだけだ」
「そういえばそうだったわね」
 あっさり言うと、ルイズは疲れたようにテーブルについた。実際、疲労はあるはずだった。フーケを捕らえてからこちら、十分に休めてはいないだろう、身体的にも心の面でも。ただルイズの表情は、どこかさっぱりとしたようでもあった。
 のんびりとした動作で、リキエルも席についた。二人は対面の位置に座っていたが、それでも小さなテーブルだったから、互いの距離はほとんどないようなものである。
「お前は踊ったりはしないのか? 主役だろうに」
 ホールの中央、先ほどルイズと彼女を取り巻いた連中のいた辺りを目で示しながら、リキエルはたずねた。
「踊ろうにも、相手がいないわ」
「誘われているようだったじゃあないか」
「いいのよ、あんな連中は。いままでさんざん馬鹿にしてくれたくせして、何よあの態度。結局馬鹿にしてるわ、まったくね。きっとあんた踊ったほうがよっぽど楽しいわ」
「使い魔とかよォ~?」
 言ってリキエルはへらへらと笑ったが、ルイズは「ええ、そのとおりよッ」と膨れた面をそのまま戻そうとしなかった。
 そうしてしばらく憤然としていたルイズだが、急に何か思うような顔になって、短くひとつ息をついた。それからリキエルを真直ぐに見て、小さく言った。
「信じてあげるわ。あんたが別の世界から来たってこと」
「突然だな。つーか、信じてなかったのか」
「半々、ってところね。だけど、あんたとフーケとのやりとりをね、思い返してみたの。そうしたら、けっこう信憑性あるんじゃないかって思えたわ」
 言葉を切って、かすかな逡巡を見せたあと、ルイズは続けた。
「あんたが帰る方法、探すわ。すぐには無理だけど、きっと見つける」
「気を張ることもねーぜ、そんなにはな。帰って何があるでもないんだ」
 リキエルはそう返した。いささか締まりに欠ける顔でいるものの、これは本心から出た言葉である。
 元の世界に帰りたくはないかというのは、実はオスマン氏からもたずねられた。リキエルが学院長室を出る間際、氏が思い出したように聞いてきたのである。そのときもリキエルは、大体に同じような返事をしている。
 恋人を残して来たのでもなく、大切な約束を残して来たのでもない。だから元の世界に、それほど強い未練はなかった。そしてまた、郷愁を感じるにもまだ早い。この世界での生活に不安がないではないが、もうしばらくの間、経験という意味でとどまる分には、むしろ望むところであった。
 リキエルは言ったが、ルイズはそれをのけるようにしてなおも言い募った。
「それでも、探すわ。……ねえ、ひとつ聞いていいかしら。どうしてフーケを捕まえようとしたの?私の手柄になる、とかって言ってたわよね。あれは、私の心を慰めようとしたの?」
「いや、押し上げたいと思ったからだ。感銘を受けて、オレの力で、どうにかして助けになろうとした。それが、オレ自身の成長にも繋がると思った」
「私もそう。私もあんたを尊敬してる。だから、あんたが元の世界に帰る方法を探すの。これは、あんたを召喚した私のけじめで、あんたに出来る数少ないこと」
 思わず、リキエルはルイズの目を見返した。瞬きしない大きな鳶色の瞳に、真摯な光が見える。
 軽い驚きがあった。驚きは、自分とルイズとの間に横たわっていた距離が、突然に狭まったように感じられたことから来ている。すぐにも交わりそうでいて、しかしどこか決定的な部分でそうならなかったものが、いまはがちりと噛み合っている。そういう感覚があった。
 そしてそれは、決して心地の悪いものではなかった。
 しばしの間、ふたりは半ば睨み合うようにして向き合っていたが、不意にルイズのほうは視線を外して、またなにか逡巡する体になった。今度のそれは長く、そしてよほど難解らしかった。ルイズは困惑とも苛立ちともとれるような顔をして、腕まで組んでいる。
 どうかしたかと思いつつそのまま眺めていると、ルイズはいまいちよくわからない顔のまま、いきなり置いてあったグラスを突き出してきて、言った。
「仲直りしましょう」
「仲直り?」
 ルイズは頷いた。
「あんたは私を羨ましいと言ったけど、私はあんたが、あんたのどうしてでも前に進んで行こうって態度が、眩しく思えた。だから、お互い様ってことで、仲直り」
「…………」
「あ、笑った。いま鼻で笑った! 聞こえたわ! 何よ、おかしいことないでしょッ!」
 ――ああ、そうだな。なあ~~んにもないな……。
 おかしいことなんてのはな。のどの奥で笑いながら、リキエルは思った。
 笑ったのは、単純にうれしかったからだ。言葉は過ぎるほど足りていないが、言わんとしているところは十分に伝わってきた。ゆうべのことや、今日の言い合いのことを考えていたのは、なにもリキエルばかりではなかった。はっきり仲たがいしていたのではないから、仲直りというのは少し変かも知れないが、それもいまは些末なことだった。
「なによ、もう」
 むくれ顔でルイズはこぼしたが、それ以上つっかかることもしなかった。へそを曲げたような、それでいて快さも見える表情を浮かべながら、「今日だけだからね」と小さく言って、リキエルのグラスにワインを注いだ。深い赤のワインだった。
 自分の分も注ぎ終えると、ルイズはさっそくグラスをとった。リキエルもならう。
「じゃあ、乾杯しましょう。仲直りと、それから……両目にとかどうかしら」
「両目? オレのか」
「うん。あんたのばっちり開いた両目に、乾杯」
「ふぅ~ん。なるほど、いいかもな。フーケも捕まえたしな」
 どちらからともなく、ふたりは目の高さにグラスを掲げた。
「使い魔の両目に」
「主人のお手柄に」
 と、華やかなダンスホールの片隅で、小さく祝いの声が挙がる。
 ここからだ、とリキエルは思った。ここから始まるのだ。召喚され、契約の魔法でふたりは繋がった。だが、使い魔とメイジの関係が出来上がったのだとすれば、いまがそうだった。それを祝福するものと思えば、こうして杯を交わしあうことも、何か特別なものに感じられてくるのだった。
 ――ゼロのルイズと、ゼロの使い魔に。
 心のうちでそう付け加えながら、リキエルはグラスをぐいと傾けた。香りを楽しむようなやり方は知らない。ルイズはそれをたしなめるような、呆れるような顔で見たが、すぐ思い直したようにくすくす笑った。そういう気楽さが、また心地よかった。どうせ水入らずの酒席である。
 しばらくして、そこに踊る相手に恵まれなかったらしい、『風上』のマリコルヌが通りかかった。どうしてか涙目で、やたらと棘の多い葉のサラダをぱくついている。
「おっどろいたなあ。ワインを注ぎあう使い魔とメイジなんてね。初めて見た」
 馬鹿にしたふうでもなく、心底から驚いた様子でマリコルヌは言った。
 リキエルとルイズはマリコルヌのほうへ振り向くと、酔いが回って赤くなり始めた顔を笑わせて、手に持ったグラスを掲げ上げた。

◆ ◆ ◆

 夜更けである。少し前から、ちょっとずつ雲が出始めていて、いまもひと際大きい雲の影に、双子の月が隠れたところだった。大きくも薄い雲であったから、さほど闇が深まるでもなかったが、どこか不吉な夜のさやけさはいや増すようだった。だがフーケは、そんなことを知る由もない。
 ぶち込まれた詰め所の内の牢には、窓がなかった。ついでに調度の類もなく、ぼろく小さな椅子と、それが寝床ということなのか、大量のわら束があるばかりである。そのわら束に寝そべったまま、フーケは身じろぎひとつしない。寝ているのではなかった。その証拠に彼女の両目は、どこからか微かに入ってくる光を鋭く返している。
 ――たいしたもんじゃないの、あいつらは。
 フーケは昼間のことを、自分を捕らえた人間たちのことを思い返している。わけてもリキエルの奇怪な言動は印象に残っていた。
 思えばあの平民は、初めの出会いからして普通ではなかった。どころか、顔を合わせるたびに厄介なことになっていた気がする。いまにも死にそうなうめき声を上げていたり、これまた死にそうな有様になっていたり、なぜかそれを自分が介抱したり。遂にはわけもわからないまま捕まってしまった。
 例外は、いつだったか早朝に顔を合わせたときだろうか。そのときはたしか、どうにかして宝物庫を破れないかと、朝の散歩がてら思案していたのである。そういえばあの男の一言で、思いがけなく宝物庫破りに活路が見出せたのだ。もっとも、結局はあのゼロのルイズのおかげで、なんとか破ることが出来たのだが。
 いまにして思えば、宝物庫のとき一息に踏み潰してやっていれば、こんな寒々しい牢の中に転がされることもなかったのだろう。だが、フーケはそれをしなかった。出来なかったのである。
 感傷があるのではなかった。リキエルの苦しむ姿を見、それまでのわずかな交流を思い起こし、哀れと思わないでもなかったが、そのままほだされてしまうほど自分は甘くはないつもりだったし、実際に主従ともども踏み潰す気でいた。
 ただほんの数瞬、ためらった。ゴーレムの足を止めてしまった。なぜかは、フーケ自身にもわからない。理由があるとするなら、あのとき一瞬だけリキエルと目を見てしまったことだ。
 爽やかな目、とでもいうのだろうか。意識ははっきりとしているようだったが、リキエルはどこも見てはいなかった。もし見ていたのなら、それはたぶん空だった。恐怖や諦めはなく、涼やかさのようなものをたたえた片側だけの瞳で、じっと空を見ていた。その目を見たとき、フーケは我知らず動きを緩めたのである。
 ――本当に、あいつはなんだったんだろうね。
 フーケは、最後にリキエルと交わした言葉を思い出した。
 質問があると言って寄って来たリキエルは、数年来の知り合いか、友人のような気安さでフーケに話しかけたのだった。
 ――よお、悪いな。こんなことに……いろいろと助けてもらっといてよォー、恩を仇で返すようなことになってしまってな。恨まないでくれると、オレはとても嬉しいんだが、どうだろうな?
 ――だんまりか。仕方がないことか、こんな与太話なんかにつきあわせてな。さぞ面倒に思っているだろう。あ、聞きたいことってのはこれじゃあないんだ。真剣に聞きたいことは別にある。
 ――それじゃあ本題に入るぜ。答えてくれなくても、それはそれでいーんだがな。……いいか、聞くぜ。初めてお前さんと会ったときのことだ。オレは、馬鹿みたいにうめいていたよな。それをお前は、走り寄って助けてくれた。なんの益にもならないのにな、不審者だったかも知れないのにな。あれは、どうしてだ?
 ――『人当たりのいいロングビル』としては、そうするべきだと判断したのか? それとも、単なる同情か何かだったのか?
 適当なことを言って、そのまま流してしまってもよかった。意図の読めない、よくわからない問いであったし、それに付き合う義理はまったくないはずだった。状況を考えれば、リキエルの決して望まないであろう返答をしても、なんらそしりを受ける筋合いはなかったろう。
 だがフーケは、真実思ったことを言う気になっていた。口調はふざけているようだが、リキエルの態度には真摯なものがあった。なんとはなしに、それに応えてみるのも悪くないと思っていた。それに、意地を張っても仕方がないという気持ちもあった。
 ――咄嗟だったからよ。判断とか、計算とか、少なくともそういうのじゃなかったね。
 ――オレはお前を捕らえる気でいる。それはこの問答によって左右されるようなものでは、弱い意志ではないのだ。だが今……『咄嗟』と言ったのか? 咄嗟にオレを助けたと……? オレが、そう答えてほしいと願う……『やさしい』答えだが、本当なのか? 本当のところは、それか?
 フーケは頷き返した。
 ――弱い意志じゃあないとキッパリ言ったばかりだが、……スマン、ありゃウソだった。お前のことを少し見逃したくなったぜ。
 ――でも、そうしないんでしょ。
 ――そうだな。……しかし、答えをもらえてよかった。
 また食事でも出来るといいがな、そういう縁があればよォ。最後にそう言う声を耳にしながら、フーケの意識は途切れる。
 最後の最後まで、それもひとの腹に一撃くれながら、奇妙なことを言う男だった。『土くれ』のフーケといえば、それなりに名の通った悪党である。捕まれば縛り首か打ち首か、よくて流刑遠島が筋である。まずもって、二度と顔合わせはないだろう。
 ないだろう、と思っていたのだが。
 ――諦めるには、随分と早い。
 考えてみれば、やりたいことも、やらなければならないこともある。ここで投げ出してしまうには、過ぎた重みのものもある。潔い覚悟を決める前に、足掻いてみようという気にフーケはなっている。
 あてられたかも知れないと、ふと思った。初めは、なんて不景気な顔だろうと思っていた。が、対峙してみたときの顔には、輝くようなものがあった。自信があらわれていた。そういうリキエルの姿を目の当たりにして、触発されてしまったのかも知れない。
 ゆっくりとフーケは腰を上げた。それから、格子の鍵に手を触れた。なかなかに強い『固定化』がかけられている様子だった。これは骨が折れそうである。
 牢に入る前の検査で、隠し持っていた杖はすべて没収された。そしてそれがよかった。ここがかのチェルノボーグであったなら、歯の詰め物まで調べ上げられ、身に着けるものは鬘の毛までむしられていただろう。だが所詮は、詰め所の気ない衛兵の仕事である。最後までは気づかれなかった。
 フーケは、懐から眼鏡を取り出した。指先に弦をつまみ、力をこめる。ぽきりと小気味よい音をたてて、弦は根から折れた。というよりも、外れた。この弦が、フーケの持つ最後の杖である。
 ――ふたりの囚人がいた。
 ひとりの囚人は壁を見ていた。もうひとりの囚人は星を見ていた。むかし、寝物語かなにかで聞いた話を、フーケは思い出していた。もうあらかた忘れてしまっていたが、そのうちの一節が、不意に思い浮かんで来たものである。私は、どっちだ。
 ここには星の見える窓はない。
「もちろん、私は壁を見る」
 ――それを破って、欲しいものを手に入れて来たんだからね。
 フーケは格子に向き直ると、静かに心を研ぎ澄ませ始めた。


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