ゼロの奇妙な使い魔 まとめ

ゼロいぬっ!-100

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匿名ユーザー

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墜落した戦列艦が上げる黒煙に燻ぶ中、コルベールは歩き続けた。
背中越しに聞こえる兵士の歓声や悲鳴にも振り返る事はない。
腕の中には息遣いの絶えた犬。それを我が子の様に抱き締める。

出来るだけ、ここから遠く離れたいと強く願った。
戦乱に放浪されて傷付いた彼の終焉の地はここであってはならない。
血や硝煙の臭いではなく風が薫る花畑、あるいは世界を見渡せる小高い丘か、
どこか誰も知らぬ場所に、そして誰にも知られずに葬られる。
それがトリステインであれ他の国であれ、決して墓を暴かれ利用されるなどあってはならない。
彼は大切な者を守る為、命を尽くして戦った。
その魂の平穏を乱すような事はたとえ始祖と神であろうと許されない。

「やあやあ待っていたよミスタ・コルベール!」

聞き覚えのある耳障りな声が高らかに響く。
コルベールの視線の先には身形の良い貴族が一人。
それはアカデミーから派遣された例の男だった。

「さあ、その薄汚い犬を我々に引き渡したまえ。
これほど貴重な研究資料、土の中で腐らせるには惜しい」

男は“我々”という言葉を殊更強調した。
恐らくはアカデミーの総意を示しているのだろう。
逆らえばアカデミー、引いてはトリステイン王国への反逆となる。
止まっていたコルベールの足が再び前へと歩み始める。
それを見て男は笑みを浮かべる。

「いや、君は実によくやってくれた。
さすがはアカデミーに所属していただけの事はある。
怪物について調べ上げ、こうして我々の元に連れて来てくれた。
君の貢献に、アカデミーも君の復職を認めるだろう」

コルベールを招き入れるように大きく両手を広げてみせる。
だが彼はコルベールの処遇などに興味はなかった。
圧倒的な力を誇示した“バオー”を手に入れる為の口約束。
この遺体を調べ尽くし、再現する事が出来ればトリステイン王国は最強となる。
さらには彼が推奨した“光の杖”の軍事利用も夢想ではなくなったのだ。
形骸化したアカデミーもかつてのような発言力を手にし、自分はその頂点に立つ。
男の目に映るのはコルベールではなく遥かな高みへと続く階段。

コルベールが男へと歩ずつ歩み寄る。
やがて互いの手が届く距離にまで近付き、男は手を差し伸べた。
しかし“彼”へと伸ばされた手は空を切った。
戸惑う男の横をコルベールは平然と通り抜けていく。

完全に無視された形となった男の拳が震える。
怒りと恥ずかしさが込み上げて顔を著しく高潮させる。
そしてコルベールへと振り返ると声を荒げて叫んだ。

「貴様! 分かってやっているのか、これは反逆だぞ!
今までは公に出来なかったが故に処罰を免れていたが、
実験部隊を脱走した罪は未だに有効! 本来ならば極刑だ!
それを見逃してやったにも拘らず再び背くとは度し難い!」

薄皮の様にへばり付いていた余裕の表情が男の顔から剥がれ落ちる。
杖を突きつけて恫喝する相手に目もくれずコルベールは歩いていく。
取るに足りない存在に無視されるなど屈辱に他ならない。
湧き上がる憎悪は人道に悖る方法さえも可能とさせる。
コルベールが自身を省みないというのならば別に人質を取ればいい。

「無論、今まで匿っていたオールド・オスマンも罰せられるだろうな。
そればかりか貴様の生徒達も事実を知りながら隠蔽していた可能性がある。
未来を担う貴族の子弟に、あらぬ嫌疑はかけたくないのだがなあ」

コルベールの足が止まる。
その背中にニヤついた笑みを浮かべながら男は近付いた。
そして彼の肩に手を触れようとした瞬間、コルベールは振り返った。
そこにいたのは魔法学院の教師などではない。
『白炎』をして怪物と云わしめた『炎の蛇』が睨む。
心臓を鷲掴みにされたのではないかという程の恐怖が男を襲う。
短い悲鳴を上げて尻餅をついた相手にコルベールは言い放った。

「もう学院に戻る事はありません。
それでも彼等に危害を及ぼすというのなら」

“今一度、この杖を振る事に躊躇いはない”
口には出さずとも、彼の鋭い視線が雄弁に語っていた。

遠ざかっていくコルベールの背中を男は見送る。
傍から見ても分かるぐらいにコルベールは満身創痍。
今なら如何に優れたメイジであろうとも仕留められる。

「誰か! 誰かいないのか! 反逆者だ!」

自分で動くという考えを完全に放棄して男は叫んだ。
離れているとはいえ、ここはまだ戦場の中だ。
騒ぎを聞きつければ誰かが駆けつけてくれるだろう。
そう期待して懸命に声を上げ続ける。
叫び続けた所為で黒煙を吸い込んで思わずむせ返る。
口元にハンカチを当てながら視線を戻すと、
そこにはこちらに歩み寄る人影があった。

「おお……!」

歓喜の混じった声が男の口から漏れる。
やはり始祖は自分を見捨てなかった。
次第に顕になっていく姿に男は始祖に感謝した。
手に持った杖は平民の兵士などではなく、
自身を倍して余りある体躯は鍛えられた軍人である事を示していた。
―――だが、煙の向こう側から現れた全容を見て男は凍りついた。

無惨に刻まれた火傷の痕。何も映さない盲目の瞳。
戦鎚じみた巨大な杖。オーク鬼の如き頑強な巨体。
何よりも男はその人物の顔に覚えがあった。
コルベールの所属していたアカデミー実験部隊の記録。
そこに副隊長として記載されていた男の名を呟く。

「『白炎』の……メンヌヴィル」

それが男の最期の言葉となった。
その直後、彼の肩から上は完全に失われていた。
つまらなそうに『白炎』は横薙ぎに払った杖を再び肩へと担ぎ直す。

「邪魔だ」

死体に目もくれずに吐き捨てるように言う。
しかし不満げだった表情も一瞬。
一歩一歩とコルベールに近付く度に、
その表情からは抑えようとも笑みが零れ落ちる。
迫り来る殺気にコルベールも振り向き、そして隠し切れぬ動揺を見せた。
その態度の変化を体温で察知してメンヌヴィルは狂喜する。

メンヌヴィルにとって十年の歳月は長かった。
傷が癒えるまで拷問に等しい苦痛と同居し、
光を失ってから屈辱に塗れて世界中を彷徨った。
眠りにつけば、あの夜を思い出して悲鳴と共に目覚める。
暖かな日差しさえも我が身を焼く記憶を蘇らせる。
楽しい時間が光の如く過ぎ去る物ならば、
その悪夢のような日々はどれだけ長い時間だったのだろうか。
怪物と成り果てるまでの道程を生き残れたのは執念のみ。
ただ、コルベールへの復讐心だけが彼を生かしていた。

そうだ、俺を見ろ。
俺はここにいるぞ、コルベール。
貴様の前に、貴様を狩る為だけにここにいる。
永劫とも思える時間も、苦痛も、屈辱も、憎悪も、
全てはこの戦いの為だけに存在していた。

「戦いは終わりました。これ以上の戦闘は無意味です」
「終わった…? 馬鹿を言うな、俺も貴様も生きている。
アルビオンとトリステインの戦など、どうなろうと知った事か」

コルベールの言葉を一笑に付してメンヌヴィルは杖を構えた。
『白炎』の言葉は額面だけのものではない。
彼は知らないがメンヌヴィルはここに来るまで自分の部下を手にかけた。
避難させようとする彼等を障害物であるかのように打ち殺したのだ。
発狂したと思い止めようとするアルビオン兵さえも焼き払い、
今まで築き上げてきた物全てを投げ打って『白炎』はここにいる。
ここにいるのは人間ではなく、妄執が動かす狂気の塊。

「貴様は追いつかれたと思っているようだが、それは少し違うぞ。
これは運命だ。俺と貴様はここで巡り会う事が決まっていた」

覚悟を決めて杖を向けるコルベールに、
メンヌヴィルは感極まったように語りかける。
何を言っているのか理解に苦しむ言動に思わず顔を顰める。
直後、彼等の真上に巨大な影が落ちた。
軍艦が来たのかと見上げるコルベールの視線の先、
そこには、まるで弦のように形を変えていく太陽があった。
日食の事を失念していた彼の表情が凍りつく。


「しまった!」
「気付いたようだな。だがもう遅い。
俺にとっては住み慣れた世界だが貴様はそうではあるまい。
これこそ天の恵み。始祖が貴様を討てと言っている、その証左よ。
日食が終わるまで果たして生きていられるかなコルベール!」

メンヌヴィルの巨体が闇の中に消えていく。
常でさえ不利な状況に加え、コルベールはワルドとの連戦。
残された精神力だけで凌ぎきれるとは到底思えなかった。
杖を握る手に力はない。彼の蓄積された経験が敗北を告げていた。

(……ここで終わり、ですか)
諦観に達したコルベールは僅かに安堵している自分に気付いた。
長き贖罪の日々は実を結ばず、見たいと願った異世界は遥か遠くに。
背負った罪の重さに苦しみ続けた生涯がようやく幕を下ろす。
嘘と裏切りを繰り返して人を傷付け続けた報いを受ける時が来たのだ。
メンヌヴィルとの因縁もここで断ち切られ、誰かを巻き込まずに済む。

そして“彼”の遺体を抱き留めてコルベールは願った。
もし、この日食の向こう側が“彼”の世界に繋がっているのならば、
せめて、その魂だけでも共に連れて行って欲しいと。

メンヌヴィルの魔法が完成する、その刹那。
一面の闇で覆われた世界を激しい稲光が白く塗り替えた。
まるで意志が介在するかの如く雷光がメンヌヴィルを襲う。
空を見上げるコルベールの目に映ったのは雷を纏う一頭の風竜。
電撃を放つ竜などハルケギニアには存在しない。
故にコルベールは気付いた。それが“彼”の内に潜んでいた力の源だと。

「おのれ…! 化け物如きが邪魔をする気か!」

忌々しげに見上げるメンヌヴィルに再び雷撃が迫る。
『白炎』同様に“バオー”も視覚ではなく触角で敵を察知する。
日食の闇はメンヌヴィルを覆い隠すカーテンにさえならない。
奥歯を噛み砕かんばかりにメンヌヴィルは憤怒の形相を浮かべた。
憤るべきは“バオー”とそれを仕留めそこなった自分の甘さ。
かつて“炎蛇”が自分を殺せなかったように、そのツケが今になって巡ってきたのだ。
己の失策を胸に刻みつけ、彼はフライでその場から早急に離脱した。
“バオー”と“炎蛇”そのどちらか一方なら確実に戦闘を続けただろう。
しかし、その両方と対峙すれば確実に敗れる。それでは意味がない。
生きてさえいれば必ずや次の機会が巡ってくるという確信が彼にはあった。
―――これは間違いなく運命なのだと。

「君は……」

コルベールの呼びかけを風竜の羽ばたきが掻き消していく。
大地に降り立ったバオーがコルベールとその腕に抱かれた“彼”を一瞥する。
生命の臭いは既に失われている。この状態から蘇生させるなど“バオー”にも不可能だ。
しかし彼は“バオー”の宿主だった。それならば僅かながら可能性が残されている。
幾度となく戦闘形態へと変身してきた彼の細胞は、
破壊と再生の繰り返しにより元の細胞よりも強靭な物に変貌している。
それを“バオー”の分泌液を分け与えて活性化させる事が出来れば、あるいは……。

しかし、それをした所でここに“彼”の居場所はない。
自分を焼き払おうとした男達は再び“彼”を研究材料にしようとした。
戦いは避けられない。だが人間を犠牲にしてまで生き延びるのを望むだろうか。


それでも“彼”に生きていて欲しい。
“バオー”は“彼”から学んだ。
“生きるとは何かに命を懸ける事だ”と。
“彼”が主である少女を守る事に命を懸けたのならば!
今度は自分が“彼”の命を守る事に命を懸けよう!
望みは捨てない! 自分は最強の生命力を持った生物なのだ!

“バオー”が自分の指に食らいつく。
傷口から分泌液の混じった血が零れ落ちる。
その指先を“彼”の口元に押し込んで体内に流し込む。
次いで口の端に引っかかっていた、千切れた前足を元の場所へと戻す。
後は、彼の生きたいと願う意志に賭けるのみ。
自分にまだやるべき事が残されている。

黒く染まった空を見上げる。
太陽は完全に影の中に隠れている。
時間がない。“バオー”は翼を大きく羽ばたかせた。

「無茶だ! 止めなさい!」

その行動の意味を察したコルベールが声を上げた。
風竜の翼膜は散弾によってあちこちに孔を穿たれ、
その翼を動かす背中の筋肉は炎によって焼け爛れていた。
如何な生命力を誇る生物でも再生には時間がかかる。
無理に動かせば根元から翼を失う事だって十分に有り得る。
今の“バオー”が高高度の落下に耐えられるとは到底思えない。
ここまで飛んできた事さえ奇跡なのだ。
これ以上を望むのはただの自殺行為にしか思えなかった。

しかし“バオー”は“彼”を抱きかかえて飛んだ。
黒一色の空を貫くように空へと昇っていく。
空気の壁を突き破り太陽に迫る青い弾丸。
それはやがてコルベールの視界から消え、
そして、ハルケギニアからも永遠に姿を消した―――。


少女は開いていた本を閉じた。
表紙には凛々しくも愛らしい犬の絵。
本を返しに来たはずなのに、いつの間にか読み返していた。
もう休み時間はとっくに過ぎている。
慌てて本棚の中に戻して図書室を飛び出した。
どんな言い訳をしようかと思案しながら廊下を駆ける。
終了間際にテストの空欄を埋めるぐらい必死になっていた彼女に、
部屋から出てくる人間に注意を払えるほどの余裕はなかった。
加速のついた勢いは急には止められない。
激突だけは避けようとして転倒する彼女にレビテーションがかけられる。

「遅刻しそうだからといって廊下を走るのはあまり感心しませんね」

溜息を零しながらコルベールは杖を振るって彼女を立たせた。
伝統ある魔法学院が嘆かわしいばかりです、と小言を漏らす彼に、
少女は何度も繰り返して頭を下げながら礼を言う。
もう走らないように、と注意してコルベールは彼女を解放した。
再度お礼を言って教室に向かおうとした彼女が不意に振り返った。


「ミスタ・コルベール。あの本、本当に面白かったです」
「そうですか。それは良かった」

本を紹介してくれたお礼を告げると、
まるで自分の事のようにコルベールは喜んだ。
戦争が始まると聞いてから久しく見なかった彼の笑顔に、少女も彼と同様の笑みを零した。
ふと彼女は本を読んでいて気付いた疑問を思い出した。
無論、コルベールが博識だからといってそんな事を知っていると思えない。
だけど彼なら何らかの答えを返してくれると期待して質問を投げかけた。

「コルベール先生。どうして、あの本には締めの言葉が無いのですか?」

少女の問いにコルベールは一瞬きょとんとした表情を浮かべ、
やがて優しげに微笑んでから彼女に答えた。

「ああ、それはね―――」


三陸の海岸沿いの道路に、その黒い乗用車は停まっていた。
辺りには行き交う他の車はなく、立ち入り禁止の看板が立てられていた。
『製薬会社の爆発物管理ミスにより崩落の危険があります、
調査が終了するまで立ち入り禁止です。皆様にはご迷惑をおかけします』
元々が私有地だったのでそれを不満に思う住民も無く、
せいぜい後で事故を知った釣り人が腹を立てて看板を蹴飛ばしていくぐらい。

クーラーが利いた車内で、白人の男はネクタイを緩めた。
暑苦しい外に比べてそこは天国のような快適さだった。
乱れた髪をバックミラーを見ながら整えて車載電話に手を掛ける。
そして番号をダイヤルすると二、三度咳払いをして緊張を和らげる。

「長官、私です」
『前置きはいい。実験体の少年は見つかったのか?』
「いえ、それはまだですが……」
『ならば連絡は不要だ、切るぞ』

その言い様に部下は思わず顔を顰めた。
だが、ここで電話を切られる訳にはいかない。
この報告を聞けば長官も喜ぶはずだと必死に縋りつく。

「少年とは別の“バオー”が見つかったんです!」
『どういう事だ。研究所の自爆で他の実験体は全滅したはずだ』
「それが幸運にも生き残っていたようです。
とはいえ損傷が激しく海岸に流れ着いてきた時には既に上半身だけでして」

ちらりと男が海岸へと目をやる。
そこにあるのは上からブルーシートが掛けられた『何か』。
大きさは象に匹敵し、その形状は地上に存在するあらゆる生物と異なる。
実に形容しがたい物を前に彼の部下も困惑を隠しきれない様子だった。
出来れば係わり合いになりたくない、そんな感情さえ窺える。
しかし、それにも構わず男は喜色満面で報告を続けた。


「ですが研究材料として非常に興味深い代物です。
形態変化により、まるで絵本に出てくるドラゴンのような―――」
『今すぐ焼却しろ』

長官の言葉に彼の饒舌な舌が動きを止める。
“ドレス”が失われた今、残された“バオー”はこれと少年の物だけ。
独占できる好機を前にして、そんな判断を下す上司が彼には信じられなかった。
だが、そんな彼の考えを見透かすかのように冷たい声色で言い放つ。

『聞こえなかったのか。全てを焼却しろ。
“バオー”も、その宿主も、データも、実験動物を、
何よりも我が国が“ドレス”に関与した一切の証拠をだ』
「りょ……了解しました、国防長官」


紅蓮の炎と黒煙が海岸に立ち昇る。
それを遠巻きに見ていた少女が気付かれぬように立ち去っていく。
ふと気付くと彼女の後を何かが付いて来ていた。
片足が動かないのか、ひょこひょこと覚束ない足取りで。
ハッハッと息を切らせながらその犬は近付いてくる。
餌を与えた訳ではないので、その内に居なくなるだろうと思っていた。
しかし、どこまで行ってもその犬は付いて来た。

「何で付いて来るのよ」

やがて根負けした彼女がバス停のベンチに腰掛けて訊ねる。
犬が言葉を話せないのは分かっている、だが彼女にはそれを知る術があった。
広げたスケッチブックの上で鉛筆を握り、いつも通り心を滑らせる。
彼女の意志とは関係なく動き出した手が“寂しそうだったから”と書き記す。

「寂しい? それはアンタも同じでしょ!」

心の奥を覗き込まれたような気がして少女は苛立ちをぶつけた。
あの爆発で彼女は居場所を失い、深い悲しみと恐怖の後遺症だけが残された。
もう自分を守ってくれた彼はいない、そう考えると生きる気力さえ湧いてこなかった。

彼女の怒声に、思わず犬がびくりと身を震わせ、
そして悲しそうにクゥンクゥン鳴きながらその場に伏せてしまった。
叱られたのもショックだったのかもしれないが、
それ以上に自分の置かれた境遇に悲しみを覚えたのだろう。
鉛筆が走る。次々と描かれていく人の姿に少女は彼がどれだけ愛されていたのかを知った。

―――だけど、もうここには居ない。
彼も私と同じ様に大切な人を失ったのだ。
その悲しみを理解できるのは、きっと他の誰でもない。
スケッチブックを閉じた少女は彼に手を差し伸べた。


「一緒に行く?」

その問いかけに彼は力強い一鳴きで応じた。
彼の返事を聞いた少女は静かに“そう”とだけ呟く。
そして数歩進んでから思い出したかのように振り返った。

「私はスミレ。貴方の名前は?」

振り向いて少女は彼に訊ねた。
その顔には、とても愛らしい笑みが浮かんでいた。


『―――それはね、彼の物語はまだ終わっていないからだよ』


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