空は果てしなく青く、天高く上った太陽は黄金色の光で地上を照らしている。植物の葉は青々と輝き、時折撫でる風揺れてサラサラと音を立てていた。
鳥の鳴き声が耳に優しく、近くを流れているらしい川の音は気分を落ち着かせてくれる。
実に素晴らしい天候だ。
この蒸し暑ささえなければ。
雨の水分を地面が吸収し、気温の上昇と共にそれを放出しているということは理解できるのだが、納得し難い不快感がここにはあった。
タルブの村の南に広がる森。その少し奥まった場所に身を寄せた人々は、拭う先から出てくる汗に辟易としていた。
村の有力者や逃げ遅れた行商人の代表が集まり、張り詰めた顔で今後の動向について話を進めている姿も、どこか気力が失せているように見える。そんなだから、他の村人達の表情も疲れを隠しきれないで居た。
夏なのだから、暑いのは当たり前。と言いたい所だが、生憎とトリステインは熱帯でも亜熱帯でもない。空気中の過剰な水分によって蒸される暑さとは、本来は縁が無いのである。そんなわけで、免疫の無い暑さに誰しも意識が朦朧としているのであった。
問題は、そんな疲労感が風邪を引いている人々にも広がっていることだ。
体力の無い子供や老人は多くが倒れたまま、熱と咳に魘され続けている。森の状況がコレでは安静にしていても回復の見込みは無く、それどころか悪化の一途を辿ることだろう。大人の中で風邪を引いている者の中には、避難を続けるのであれば自分を置いていって欲しいなどとのたまう者が出る始末だ。
しかし、そんな事を口走ってしまう気持ちが理解出来てしまうほど、状況は確かに楽観視出来るものではなかった。
戦場は近く、タルブ村の人々も延々とこの場所に止まるわけには行かない。食料の問題も存在するし、戦場で散った人間の肉を求めて亜人や獰猛な肉食獣が集まってこないとも限らない。
自衛の手段を持たない人々は、どこかに庇護を求めて歩く必要がある。そんな時、風邪の病に倒れた人々は足枷となるのは明白で、置いて行けという言葉に籠められた意味は決して軽々しいものではないのだった。
「弱音吐いてんじゃないよ。男だろ?」
弱音を吐く男の頬を一発引っ叩いたジェシカは、小刻みに熱い息を吐く男の額を濡れた布で拭きながら、励ますように言った。
弱気になっていては、治るものも治らない。風邪さえ治ってしまえば問題は解決するのだから、今はとにかく強い意志を持ってもらうことが一番なのだ。
だからこそ、見捨てないと伝えて、生きることを諦めさせない。
しかし、ジェシカのその言葉の半分は、自分に向けたものだった。
病人の数は、十や二十ではない。中には、本当に足手纏いにしかならない人が確実に存在している。だからと言ってそれを見捨てれば、以後は足手纏いだと感じる度に誰かを捨てる事を躊躇しなくなるだろう。
そんな心理が働いてしまうことを、ジェシカは恐れていた。
ジェシカだけの問題ではない。村人の中には何人か見捨ててでも、自分の家族を守りたいと思っている人間は少なくないはずだ。
見捨てられる人間は、自分の家族かもしれない。
そういう現実的の残酷な部分に気付いていないからこそ、誰かを切り捨てようと考えてしまうのだろう。幸いにして、ジェシカの家族や知り合いに風邪を引いている人間は居ない。その僅かな余裕が、彼女に本当の恐怖に目を向けさせていた。
誰かを見捨てなければならなくなったのなら、あたしも一緒に死んでやる。誰かの死を背負って生きられるほど、自分の背中は広くも力強くも無い。
そんなことを思うジェシカは、果たして臆病なのか、それとも単純にプライドが高いだけのか。どちらにしても、誰かを犠牲にするという選択肢が存在していないことは確かだった。
「さあて、次に行きますか」
体が拭き終わり、不快感から一時的に逃れた男が寝息を立て始めたのを聞いて、ジェシカは手に持った布を傍らに置いた水の入った桶に放り込む。
息を抜く暇は無い。
眼前には、木陰に並べられた無数の病人達の姿がある。ジェシカ同様、病人の世話に忙しなく動く十数人の手がまったく追いつかない病人の数。その中には、介助無しには生きられないほど衰弱している人間も居る。
地獄絵図とはいかないが、緩やかな絶望を感じさせる光景だ。
それでも、この状況でジェシカが頑張れるのは、風邪の治療薬を買いだしに行ったカステルモールが必ず戻ってくると信じているからであった。
ぐぅ。
気張ったのが悪かったのか、ジェシカの腹が小さく鳴り響く。
長く緊張感の続かない女であった。
「……お腹減った」
困ったように眉を寄せて、ジェシカはお腹を摩る。
生物である以上、人間は空腹を避けられない。
村で行われていた炊き出しのお陰で、今の所この場に居る避難民の多くは空腹を訴えてはいないが、極少数、食料の配給をしていた人間の多くが食事を求める腹の虫と格闘中だった。
ジェシカもその一人で、本来なら炊き出しで作った食事を一通り配り終わった所で、最初から多めに用意した炊き出しの残り物に手を出す予定だったのだ。
アルビオンが攻めて来なければ、今頃は炊き出しに参加した女性達と輪になって雑談に興じていたことだろう。そう考えると、戦争なんて余所でやれと本気で言いたくなってくる。
とはいえ、それを今言ったところで食い物が降って湧いてくるはずも無く、腹も膨らみはしない。
結局ジェシカに出来ることといえば、病人の看護をしながら食料の調達に出た他の人々の帰りを待つことだけだった。
「はぁ……、ひもじいわぁ」
思わず溜め息を零し、二度目の腹の音に肩を落とす。
そんなジェシカを神様が見かねたのか、思わぬ方向から救いの手が差し伸べられた。
「ジェシカさん、お腹減ってるんですか?」
問いかけたのは、ウェストウッドの子供達の面倒を見ていたティファニアであった。どうやら、子供達の世話は一息ついて他の手伝いを始めていたらしい。
普段耳を隠すために使っている大きな帽子が無いと思って手元を見てみると、その帽子が籠代わりになって鮮やかな赤い実を山のように乗せていた。
思わず、ごくりと喉が鳴った。
「そ、そんなこと、あんまり率直に聞かれても乙女のプライドって奴が……。いえ、やっぱり空腹です」
一時的に女らしさというものが表に顔を出したが、腹の虫には勝てなかったらしい。すぐに出した顔を引っ込めて、引き篭もりに転職したようだ。
「なら、コレを食べませんか?」
そう言って、ティファニアは木の実の入った帽子を差し出した。
「木苺です。さっき、沢山実をつけているのを見つけたので、子供達にも分けてあげようかと思って摘んで来たんです。前の家の近所で取れる実はちょっと食べ辛いものが多かったんですけど、コレはほんのり甘くて美味しいですよ」
差し出された帽子から一つ実を摘んで、ジェシカはそれを恐る恐る口に入れる。
軽く噛み潰した瞬間、果汁と共に口の中に甘さが広がった。
「あ、本当だ。美味しいわ」
「でしょう?」
ぱっと花が咲いたかのように、ティファニアは顔を綻ばせた。
味の保証が出来て安心したのか、それとも空腹に耐えかねたのか、ジェシカは次々と実を摘んでは口に入れ、顎を動かす。
「んー、ホント美味しいわ。食べたことが無いわけじゃないけど、小さい頃に食べた時はついうっかり死んでしまいそうなくらい辛かったから、苦手意識があったのよねえ」
果たして本当に年頃の少女なのか、頬が膨らむほど木苺を口いっぱいに詰め込んで、ジェシカは過去の記憶を振り返る。
「……辛い?珍しいですね。酸っぱかったことはありますけど、あまり辛いっていうのは」
「時期が悪かったのかしら?実はコレより大きかったけど表面が少し萎んでて、歯応えも少しあったわね。もしかしたら、枯れる途中だったのかも」
あの時は三日も寝込んだわ。と笑いながら軽く言って、ふと首を傾げる。
「でも、あれ?木苺って、今採れるんだっけ?あたしが食べたのは、確か秋の中頃だったような……」
同じ赤い実で、秋に取れる辛いものといえば……。
恐らく、唐辛子だ。寝込むほどだから、同じ唐辛子でも特に辛い品種だったのだろう。
多分、ジェシカさんが食べたのは違う実です。とは言えず、ティファニアは愛想笑いだけしてこの場を立ち去ろうとする。
一々過去の恥を蒸し返すことも無いだろう。このまま話をはぐらかせば、誰も不幸にならないで済む。
気付か無い方が幸せなことだってあるのだ。
「あれぇ?でも、厨房で食べさせて貰った時には、別の名前だったような……」
「し、失礼しまー……、あら?」
いよいよジェシカの推測が唐辛子の方向に向いた所で、ジェシカとティファニアの目に何かを探して走り回るシエスタの姿が映った。
「お、シエスタじゃん。おーい、シエスタ!……シエスタ?」
手を振り呼びかけるがまったく聞こえていないらしく、辺りを見回して走り続けている。
様子がおかしい。
周囲の目も気にせず誰かの名前を呼び続け、いつも暖かい笑顔を浮かべる顔を張り詰めたものに変えている。彼女のそんな顔は、ジェシカはここ数年見たことが無かった。
「ごめん、ティファニア。ちょっと行くわ。ご馳走様」
ティファニアに別れを告げて、ジェシカはシエスタに駆け寄る。
泣きそうな声で何度も何度も同じ名前を呼ぶ少女の姿は、見ていて痛々しいものだった。
「サイトさん!サイトさーん!どこに居るんですか!?返事をしてください!」
「シエスタ!」
正面に立ったジェシカにさえ気付かなかったのか、ぶつかって初めてシエスタはジェシカの存在を視界に入れて、あ、と声を漏らした。
「な、なに?」
「なに、じゃないよ。そんな酷い面ぶら下げて」
涙こそ零していないが、泣いているようにしか見えないシエスタの顔を、ポケットから取り出したハンカチで乱暴に拭う。案の定、瞼の下には涙がいっぱいに溜まっていて、ハンカチを大きく濡らしていた。
目元を隠されたのがきっかけになったのか、それまで平気なふりをしていたシエスタが鼻を啜るようになる。緊張の糸が緩んで、堪えていたものが流れ出始めていた。
「まったく、折角の美人を台無しだよ」
「う、ぐず……、でも、でもね、居ないのよ。サイトさんが、どこにも……。わたし、つい口を滑らせちゃって……。先生方が村に残ってるって……、そしたらもう」
「居なくなってたって?……なるほどね」
シエスタの言葉に相槌を打って、ジェシカは彼女の体を抱き締める。
詳しい事情や、どうしてそういう話の流れになったのかは分からないが、血気盛んな少年が正義感を出して突っ走ったといったところだろう。特に、珍しい話でもない。
タルブ村の中にも、村を守ろうと鍬や鎌を手に立ち向かおうとした若者は居たが、実際に竜騎士を前にして無謀な勇気を保っていた者は少なく、本当に命を投げ出しかねない者は強制的に引き摺られて避難させられている。
まだ村を守ることを諦めていない奴も居るが、その中の一人が監視下から抜け出したようなものだろう。
しかし、そう冷静に考えられるのは、才人とジェシカの関係が薄いからに過ぎない。シエスタの立場に立っていたのなら、ジェシカも同じように泣いたり探し回ったりと落ち着かなくなるだろう。
「もしかしたら勘違いかもしれないって、ぐす、あちこち探したけど、やっぱり見つからなくて……」
見かけよりもずっと気丈なこの娘が、こんなに取り乱すなんて。
これだけでも、サイトという人物がシエスタにとってどういう存在か理解できる。
村に訪れたトリステイン魔法学院の生徒達の中に何人か少年を見ているが、一人で飛び出して行ったという事は、サイトというのは風邪を引かなかった黒髪の男の子のことだろう。ハルケギニアでは見られない顔立ちで、随分と幼い印象があった。
あれがシエスタの想い人か。
身の丈に似合わない大きな剣を背負っていたが、護衛を務めているにしては、それほど強そうには見えない。それに、言っては悪いが、あまり考えて行動するタイプにも見えなかった。
もし、見掛け通りの性格だとすれば、村に人が残っていることは意図的に隠していたに違いない。わき目も振らず飛び出していくことが分かりきっていたのだろう。
行動パターンが子供のようだ。
良く言えば、母性本能をくすぐるタイプなのか。しかし、悪く言えば、頼りない。
まあ、人の好みなんて千差万別だ。あれこれいっても始まらない。今は、その少年の居場所を考えるほうが重要だろう。
森の中に居ないということは、やはり村に向かったと見るべきか。
「厄介なことになったもんだね」
まさか、森を抜け出して村まで探しに行くわけにもいかない。かといって、放っておいたらシエスタは一人で探しに行ってしまいそうな雰囲気だ。
こうなれば、とジェシカは腹を括って抱き寄せていたシエスタを離し、目を合わせた。
「アタシが村の様子を見に行ってやるから、シエスタはここで待ってな。いいね?」
「でも、ジェシカ……」
赤くなった目を向けてくるシエスタに、ジェシカは不敵に笑って、どんと胸を叩いた。
「あたしに任せときなって。きちんと連れ戻して来てあげるから、大船に乗った気でいなよ」
渦巻く不安を欠片も見せず、ウィンクまで追加する。
そんなジェシカの様子にシエスタは頼もしさを感じて、納得したように頷いた。
「……絶対、危ないことはしないでよ?サイトさんのことも心配だけど、ジェシカの事だって心配なんだからね?」
「分かってるって」
ジェシカは表情を崩して軽く笑い、シエスタの頭を撫でる。
それは、まるで気丈な姉が泣き虫の妹を慰めるような姿だった。
「じゃ、行って来るわ」
早足に駆け出したジェシカの背中を、シエスタは見送る。ただ、自分の不甲斐なさに、下唇を噛みながら。
「これじゃ、お姉さん失格ね」
呟いて、自分の年齢とジェシカの年齢を比較する。
忘れてしまいそうだが、ジェシカは年下なのだ。閉鎖的な学院での生活が長いシエスタよりも、人の出入りが激しく、男性の欲望を直接目にする居酒屋で生活しているジェシカの方が大人びてしまうのも仕方が無いのかもしれない。
それでも、年下に慰められてしまうというのはなんとも照れ臭く、年上としての矜持を傷付けられる。
もし、ジェシカが男だったなら、素直に頼れたんだろうなあ。などと考えて、脳裏に男装したジェシカを思い浮かべたシエスタは、予想以上に自分好みの人物像が出来上がって、思わず頬を赤くした。
愛しの彼と並べてみても、遜色は無い。いや、むしろ……。
「いやいやいやいや!ダメよ、シエスタ!そっちの道に走っちゃダメだって、ローラが言ってたじゃない!」
学院の使用人寮で同室の女の子の言葉を思い出して、シエスタはブンブンと首を振った。
コレは不味い。と、自分を欲望の満ちたイメージから追い払う。
しかし、そうすると、恋する乙女補正がかかって現実よりも美化された才人と男装のジェシカだけが脳の中に取り残されて、シエスタと言う存在が消えた二人だけの世界が出来上がる。
見詰め合う美男子。そして、流れ落ちる鼻血。
高鳴るこの気持ちの正体はなんなのか。
シエスタは、新しい世界に目覚めそうだった。
鳥の鳴き声が耳に優しく、近くを流れているらしい川の音は気分を落ち着かせてくれる。
実に素晴らしい天候だ。
この蒸し暑ささえなければ。
雨の水分を地面が吸収し、気温の上昇と共にそれを放出しているということは理解できるのだが、納得し難い不快感がここにはあった。
タルブの村の南に広がる森。その少し奥まった場所に身を寄せた人々は、拭う先から出てくる汗に辟易としていた。
村の有力者や逃げ遅れた行商人の代表が集まり、張り詰めた顔で今後の動向について話を進めている姿も、どこか気力が失せているように見える。そんなだから、他の村人達の表情も疲れを隠しきれないで居た。
夏なのだから、暑いのは当たり前。と言いたい所だが、生憎とトリステインは熱帯でも亜熱帯でもない。空気中の過剰な水分によって蒸される暑さとは、本来は縁が無いのである。そんなわけで、免疫の無い暑さに誰しも意識が朦朧としているのであった。
問題は、そんな疲労感が風邪を引いている人々にも広がっていることだ。
体力の無い子供や老人は多くが倒れたまま、熱と咳に魘され続けている。森の状況がコレでは安静にしていても回復の見込みは無く、それどころか悪化の一途を辿ることだろう。大人の中で風邪を引いている者の中には、避難を続けるのであれば自分を置いていって欲しいなどとのたまう者が出る始末だ。
しかし、そんな事を口走ってしまう気持ちが理解出来てしまうほど、状況は確かに楽観視出来るものではなかった。
戦場は近く、タルブ村の人々も延々とこの場所に止まるわけには行かない。食料の問題も存在するし、戦場で散った人間の肉を求めて亜人や獰猛な肉食獣が集まってこないとも限らない。
自衛の手段を持たない人々は、どこかに庇護を求めて歩く必要がある。そんな時、風邪の病に倒れた人々は足枷となるのは明白で、置いて行けという言葉に籠められた意味は決して軽々しいものではないのだった。
「弱音吐いてんじゃないよ。男だろ?」
弱音を吐く男の頬を一発引っ叩いたジェシカは、小刻みに熱い息を吐く男の額を濡れた布で拭きながら、励ますように言った。
弱気になっていては、治るものも治らない。風邪さえ治ってしまえば問題は解決するのだから、今はとにかく強い意志を持ってもらうことが一番なのだ。
だからこそ、見捨てないと伝えて、生きることを諦めさせない。
しかし、ジェシカのその言葉の半分は、自分に向けたものだった。
病人の数は、十や二十ではない。中には、本当に足手纏いにしかならない人が確実に存在している。だからと言ってそれを見捨てれば、以後は足手纏いだと感じる度に誰かを捨てる事を躊躇しなくなるだろう。
そんな心理が働いてしまうことを、ジェシカは恐れていた。
ジェシカだけの問題ではない。村人の中には何人か見捨ててでも、自分の家族を守りたいと思っている人間は少なくないはずだ。
見捨てられる人間は、自分の家族かもしれない。
そういう現実的の残酷な部分に気付いていないからこそ、誰かを切り捨てようと考えてしまうのだろう。幸いにして、ジェシカの家族や知り合いに風邪を引いている人間は居ない。その僅かな余裕が、彼女に本当の恐怖に目を向けさせていた。
誰かを見捨てなければならなくなったのなら、あたしも一緒に死んでやる。誰かの死を背負って生きられるほど、自分の背中は広くも力強くも無い。
そんなことを思うジェシカは、果たして臆病なのか、それとも単純にプライドが高いだけのか。どちらにしても、誰かを犠牲にするという選択肢が存在していないことは確かだった。
「さあて、次に行きますか」
体が拭き終わり、不快感から一時的に逃れた男が寝息を立て始めたのを聞いて、ジェシカは手に持った布を傍らに置いた水の入った桶に放り込む。
息を抜く暇は無い。
眼前には、木陰に並べられた無数の病人達の姿がある。ジェシカ同様、病人の世話に忙しなく動く十数人の手がまったく追いつかない病人の数。その中には、介助無しには生きられないほど衰弱している人間も居る。
地獄絵図とはいかないが、緩やかな絶望を感じさせる光景だ。
それでも、この状況でジェシカが頑張れるのは、風邪の治療薬を買いだしに行ったカステルモールが必ず戻ってくると信じているからであった。
ぐぅ。
気張ったのが悪かったのか、ジェシカの腹が小さく鳴り響く。
長く緊張感の続かない女であった。
「……お腹減った」
困ったように眉を寄せて、ジェシカはお腹を摩る。
生物である以上、人間は空腹を避けられない。
村で行われていた炊き出しのお陰で、今の所この場に居る避難民の多くは空腹を訴えてはいないが、極少数、食料の配給をしていた人間の多くが食事を求める腹の虫と格闘中だった。
ジェシカもその一人で、本来なら炊き出しで作った食事を一通り配り終わった所で、最初から多めに用意した炊き出しの残り物に手を出す予定だったのだ。
アルビオンが攻めて来なければ、今頃は炊き出しに参加した女性達と輪になって雑談に興じていたことだろう。そう考えると、戦争なんて余所でやれと本気で言いたくなってくる。
とはいえ、それを今言ったところで食い物が降って湧いてくるはずも無く、腹も膨らみはしない。
結局ジェシカに出来ることといえば、病人の看護をしながら食料の調達に出た他の人々の帰りを待つことだけだった。
「はぁ……、ひもじいわぁ」
思わず溜め息を零し、二度目の腹の音に肩を落とす。
そんなジェシカを神様が見かねたのか、思わぬ方向から救いの手が差し伸べられた。
「ジェシカさん、お腹減ってるんですか?」
問いかけたのは、ウェストウッドの子供達の面倒を見ていたティファニアであった。どうやら、子供達の世話は一息ついて他の手伝いを始めていたらしい。
普段耳を隠すために使っている大きな帽子が無いと思って手元を見てみると、その帽子が籠代わりになって鮮やかな赤い実を山のように乗せていた。
思わず、ごくりと喉が鳴った。
「そ、そんなこと、あんまり率直に聞かれても乙女のプライドって奴が……。いえ、やっぱり空腹です」
一時的に女らしさというものが表に顔を出したが、腹の虫には勝てなかったらしい。すぐに出した顔を引っ込めて、引き篭もりに転職したようだ。
「なら、コレを食べませんか?」
そう言って、ティファニアは木の実の入った帽子を差し出した。
「木苺です。さっき、沢山実をつけているのを見つけたので、子供達にも分けてあげようかと思って摘んで来たんです。前の家の近所で取れる実はちょっと食べ辛いものが多かったんですけど、コレはほんのり甘くて美味しいですよ」
差し出された帽子から一つ実を摘んで、ジェシカはそれを恐る恐る口に入れる。
軽く噛み潰した瞬間、果汁と共に口の中に甘さが広がった。
「あ、本当だ。美味しいわ」
「でしょう?」
ぱっと花が咲いたかのように、ティファニアは顔を綻ばせた。
味の保証が出来て安心したのか、それとも空腹に耐えかねたのか、ジェシカは次々と実を摘んでは口に入れ、顎を動かす。
「んー、ホント美味しいわ。食べたことが無いわけじゃないけど、小さい頃に食べた時はついうっかり死んでしまいそうなくらい辛かったから、苦手意識があったのよねえ」
果たして本当に年頃の少女なのか、頬が膨らむほど木苺を口いっぱいに詰め込んで、ジェシカは過去の記憶を振り返る。
「……辛い?珍しいですね。酸っぱかったことはありますけど、あまり辛いっていうのは」
「時期が悪かったのかしら?実はコレより大きかったけど表面が少し萎んでて、歯応えも少しあったわね。もしかしたら、枯れる途中だったのかも」
あの時は三日も寝込んだわ。と笑いながら軽く言って、ふと首を傾げる。
「でも、あれ?木苺って、今採れるんだっけ?あたしが食べたのは、確か秋の中頃だったような……」
同じ赤い実で、秋に取れる辛いものといえば……。
恐らく、唐辛子だ。寝込むほどだから、同じ唐辛子でも特に辛い品種だったのだろう。
多分、ジェシカさんが食べたのは違う実です。とは言えず、ティファニアは愛想笑いだけしてこの場を立ち去ろうとする。
一々過去の恥を蒸し返すことも無いだろう。このまま話をはぐらかせば、誰も不幸にならないで済む。
気付か無い方が幸せなことだってあるのだ。
「あれぇ?でも、厨房で食べさせて貰った時には、別の名前だったような……」
「し、失礼しまー……、あら?」
いよいよジェシカの推測が唐辛子の方向に向いた所で、ジェシカとティファニアの目に何かを探して走り回るシエスタの姿が映った。
「お、シエスタじゃん。おーい、シエスタ!……シエスタ?」
手を振り呼びかけるがまったく聞こえていないらしく、辺りを見回して走り続けている。
様子がおかしい。
周囲の目も気にせず誰かの名前を呼び続け、いつも暖かい笑顔を浮かべる顔を張り詰めたものに変えている。彼女のそんな顔は、ジェシカはここ数年見たことが無かった。
「ごめん、ティファニア。ちょっと行くわ。ご馳走様」
ティファニアに別れを告げて、ジェシカはシエスタに駆け寄る。
泣きそうな声で何度も何度も同じ名前を呼ぶ少女の姿は、見ていて痛々しいものだった。
「サイトさん!サイトさーん!どこに居るんですか!?返事をしてください!」
「シエスタ!」
正面に立ったジェシカにさえ気付かなかったのか、ぶつかって初めてシエスタはジェシカの存在を視界に入れて、あ、と声を漏らした。
「な、なに?」
「なに、じゃないよ。そんな酷い面ぶら下げて」
涙こそ零していないが、泣いているようにしか見えないシエスタの顔を、ポケットから取り出したハンカチで乱暴に拭う。案の定、瞼の下には涙がいっぱいに溜まっていて、ハンカチを大きく濡らしていた。
目元を隠されたのがきっかけになったのか、それまで平気なふりをしていたシエスタが鼻を啜るようになる。緊張の糸が緩んで、堪えていたものが流れ出始めていた。
「まったく、折角の美人を台無しだよ」
「う、ぐず……、でも、でもね、居ないのよ。サイトさんが、どこにも……。わたし、つい口を滑らせちゃって……。先生方が村に残ってるって……、そしたらもう」
「居なくなってたって?……なるほどね」
シエスタの言葉に相槌を打って、ジェシカは彼女の体を抱き締める。
詳しい事情や、どうしてそういう話の流れになったのかは分からないが、血気盛んな少年が正義感を出して突っ走ったといったところだろう。特に、珍しい話でもない。
タルブ村の中にも、村を守ろうと鍬や鎌を手に立ち向かおうとした若者は居たが、実際に竜騎士を前にして無謀な勇気を保っていた者は少なく、本当に命を投げ出しかねない者は強制的に引き摺られて避難させられている。
まだ村を守ることを諦めていない奴も居るが、その中の一人が監視下から抜け出したようなものだろう。
しかし、そう冷静に考えられるのは、才人とジェシカの関係が薄いからに過ぎない。シエスタの立場に立っていたのなら、ジェシカも同じように泣いたり探し回ったりと落ち着かなくなるだろう。
「もしかしたら勘違いかもしれないって、ぐす、あちこち探したけど、やっぱり見つからなくて……」
見かけよりもずっと気丈なこの娘が、こんなに取り乱すなんて。
これだけでも、サイトという人物がシエスタにとってどういう存在か理解できる。
村に訪れたトリステイン魔法学院の生徒達の中に何人か少年を見ているが、一人で飛び出して行ったという事は、サイトというのは風邪を引かなかった黒髪の男の子のことだろう。ハルケギニアでは見られない顔立ちで、随分と幼い印象があった。
あれがシエスタの想い人か。
身の丈に似合わない大きな剣を背負っていたが、護衛を務めているにしては、それほど強そうには見えない。それに、言っては悪いが、あまり考えて行動するタイプにも見えなかった。
もし、見掛け通りの性格だとすれば、村に人が残っていることは意図的に隠していたに違いない。わき目も振らず飛び出していくことが分かりきっていたのだろう。
行動パターンが子供のようだ。
良く言えば、母性本能をくすぐるタイプなのか。しかし、悪く言えば、頼りない。
まあ、人の好みなんて千差万別だ。あれこれいっても始まらない。今は、その少年の居場所を考えるほうが重要だろう。
森の中に居ないということは、やはり村に向かったと見るべきか。
「厄介なことになったもんだね」
まさか、森を抜け出して村まで探しに行くわけにもいかない。かといって、放っておいたらシエスタは一人で探しに行ってしまいそうな雰囲気だ。
こうなれば、とジェシカは腹を括って抱き寄せていたシエスタを離し、目を合わせた。
「アタシが村の様子を見に行ってやるから、シエスタはここで待ってな。いいね?」
「でも、ジェシカ……」
赤くなった目を向けてくるシエスタに、ジェシカは不敵に笑って、どんと胸を叩いた。
「あたしに任せときなって。きちんと連れ戻して来てあげるから、大船に乗った気でいなよ」
渦巻く不安を欠片も見せず、ウィンクまで追加する。
そんなジェシカの様子にシエスタは頼もしさを感じて、納得したように頷いた。
「……絶対、危ないことはしないでよ?サイトさんのことも心配だけど、ジェシカの事だって心配なんだからね?」
「分かってるって」
ジェシカは表情を崩して軽く笑い、シエスタの頭を撫でる。
それは、まるで気丈な姉が泣き虫の妹を慰めるような姿だった。
「じゃ、行って来るわ」
早足に駆け出したジェシカの背中を、シエスタは見送る。ただ、自分の不甲斐なさに、下唇を噛みながら。
「これじゃ、お姉さん失格ね」
呟いて、自分の年齢とジェシカの年齢を比較する。
忘れてしまいそうだが、ジェシカは年下なのだ。閉鎖的な学院での生活が長いシエスタよりも、人の出入りが激しく、男性の欲望を直接目にする居酒屋で生活しているジェシカの方が大人びてしまうのも仕方が無いのかもしれない。
それでも、年下に慰められてしまうというのはなんとも照れ臭く、年上としての矜持を傷付けられる。
もし、ジェシカが男だったなら、素直に頼れたんだろうなあ。などと考えて、脳裏に男装したジェシカを思い浮かべたシエスタは、予想以上に自分好みの人物像が出来上がって、思わず頬を赤くした。
愛しの彼と並べてみても、遜色は無い。いや、むしろ……。
「いやいやいやいや!ダメよ、シエスタ!そっちの道に走っちゃダメだって、ローラが言ってたじゃない!」
学院の使用人寮で同室の女の子の言葉を思い出して、シエスタはブンブンと首を振った。
コレは不味い。と、自分を欲望の満ちたイメージから追い払う。
しかし、そうすると、恋する乙女補正がかかって現実よりも美化された才人と男装のジェシカだけが脳の中に取り残されて、シエスタと言う存在が消えた二人だけの世界が出来上がる。
見詰め合う美男子。そして、流れ落ちる鼻血。
高鳴るこの気持ちの正体はなんなのか。
シエスタは、新しい世界に目覚めそうだった。
森の外に繋がる獣道。多くの村人が通って踏み固められ、藪や突き出した小枝といった障害物が除去されたそこを走るジェシカは、従姉妹が新しい世界に目覚めかけていることなんて気付くことも無く、その場の勢いに流されて調子に乗り過ぎたかと早くも後悔していた。
「ああは言ったものの、サイトってのが村の中に入り込んでたら、アタシじゃどうしようもないんだよねえ」
竜騎士隊に包囲された村は、既に外と中との交通を遮断されている。村の周囲には遮蔽物らしい遮蔽物も無い為、忍び込むのは至難の業だ。
それは才人にも言えることなのだが、彼の場合は戦う手段があるし、村に向かった時間が竜騎士隊が村を制圧する前である可能性がある。
ジェシカとしては、森の出入り口辺りで足踏みしていてくれるとありがたいのだが。
「……儚い期待よね」
猪突猛進に飛び出していくような人間が、敵の目を恐れて立ち止まったりはしないだろう。
一度した約束は決して破らないのが、ジェシカの流儀だ。シエスタに大丈夫だと言った以上は、結果を出すまで立ち止まるつもりは無い。
しかし、早速暗礁に乗り上げてしまった気分であった。
「考え事しながら動いてるときに限って、悩んでる時間も無いときたもんだ」
足元に転がる小枝を踏んで、肩に落ちてきた木の葉を払ったジェシカは、目の前に広がる風景に溜め息を吐いた。
森を抜けたのだ。
一歩前に出れば、もうそこは森の中ではない。天井のように広がる木の葉の影は途切れ、踏み固められた道が草原を横切るように伸びている。道の先には空に煙を昇らせるタルブの村が見えるし、その頭上には死肉に群がるハゲワシのように空を飛び交う竜騎士の姿もあった。
ここから先はアルビオン軍の初期攻撃目標であり、トリステインの防衛圏。
つまり、戦場である。
口の中に溜まった唾を飲み込んで、ジェシカは少しずつ早くなり始めた心臓を服の上から押さえつけた。
「どーしよっかなあ。ここから先に出たら、絶対見つかるよねえ……?」
浮かぶ冷や汗をそのままに、ちらっと空を見上げる。
村の頭上を支配している竜騎士隊の目を盗んで村に入り込むなんて、無理で無茶で無謀だ。
仮に無理矢理入り込もうとして見つかった場合、抵抗する力の無いジェシカでは追い返される程度ならともかく、万が一捕虜にでもされたら何が待っているか分からない。
きっと、アレやコレやソレを、道具だったり、複数だったり、獣だったりでグッチョグチョにされ、最後には薬で考える力も奪われて、ヒギィとかアヘェとかしか言えない体にされてしまうのだ。
うら若き乙女が背負う過酷な運命にジェシカの頬は真っ赤に染まり、ひゃあぁ、なんて悲鳴を上げて何処かのミ・マドモワゼルのように腰がクネクネと動いていた。
「って、なんでアタシは興奮してるんだ!?……落ち着こう。ちょ、ちょっと深呼吸を……」
落ち着きのなくなってきた自分を自覚して、大きく息を吸う。
膨らんだ変な好奇心を押し潰し、聞きかじりの知識から生まれた妄想を打ち消した。
自制心の強さは、同じ黒髪の従姉妹よりも上のようだ。
「はー……、すー、はぁ、すー、はぁ……。ん、よし!」
「何が、よし、なのよ?」
「うへぇ!?」
突然足下から聞こえてきた声に、ジェシカの心臓が体ごと跳ねた。
一気に血圧の上がった体を巡る過剰な酸素に、頭がぐらりと揺れる。
それをなんとか耐え切ったジェシカは、地面から草でも生えるかのように上半身を露出させた少女に向き直った。
「え、エルザさん?こ、ここ、こんな所でなにを?」
「なにって……、届け物の配達途中に顔を出したら、ジェシカが居ただけよ」
地面に手をつき、土の中に埋まっていた下半身も外に出したエルザは、まだ買ってそれほど経っていない黒いドレスの土汚れを叩いて払う。それで落ちない汚れは放置された。
「ん、でもジェシカが居るってことは、目的地は近いってことよね?じゃあ、無理に暗い場所を歩かなくてもいいわけか。顔出して正解だったわね」
事情の飲み込めないジェシカを置いて、エルザは一人で納得したように呟くと、自分が出てきた地面の穴に顔を近づけた。
それに合わせて、ぴょこ、とジャイアントモールが顔を出す。
普段から愛らしい円らな瞳が、今日は一層に強く輝いていた。
「良ぉーし、よしよしよしよしよし。よく頑張ったわ、ヴェルダンデ。お陰でトカゲ乗りの連中に見つからずにここまで来れた。凄いわ、立派よ」
短い毛の生えた体をエルザに撫で回され、ヴェルダンデは嬉しそうに鼻先をピクピク動かす。
だが、ただ撫でられることで満足しないのか、エルザの体を頑丈な爪の生えた大きな前足で叩くと、今度はちょっと違う鼻先の動きで何かを訴えた。
「うん?ああ、ゴメン、忘れてたわ。報酬をあげないとね。ご褒美は、二匹でいい?」
ヴェルダンデの頭が左右に振られる。
「じゃあ、三匹?」
ブンブン、と勢い良く頭が縦に振られた。
「三匹か。黒くて長いのが、三匹。……三本同時攻めなんて、っもう、このドエロ!」
わけの分からないこと口走って恥ずかしげに赤く染まった頬を押さえたエルザは、ヴェルダンデの頭を叩いて良い音を響かせ、何処からともなく黒光りする巨大で長いモノ。もとい、自分の腕ほどもある黒ずんだミミズを三匹取り出した。
なんで叩かれたのか良く分かっていないヴェルダンデの目が、ミミズに釘付けになった。
「行くわよ、ヴェルダンデ。……とってこーい!」
抱えられるような形で支えられていたミミズの巨躯が、ジャイアントスイングの遠心力で遠く投げ飛ばされる。それを、ヴェルダンデが土中を掘り進みながら追いかけた。
「……ふぅ。良い汗かいたわ」
何故かやり遂げた顔になったエルザが、額に流れる汗を袖で拭って息を吐く。
ヴェルダンデが少し離れた所で一匹目のミミズをキャッチし、素早く食べ終えて二匹目に狙いを澄ませたところで、やっと雰囲気的に置いてきぼりにされていたジェシカが我を取り戻した。
「えーっと、エルザさん?」
「ん?なによ、さん付けで呼んだりして。水臭いじゃない」
かけられた声に振り向いたエルザが、以前とは少しだけ変えられた呼び方に怪訝な表情を浮かべる。
「いや、でも、年上だし……」
倍近い時間を生きている相手に向かって、ジェシカは言い辛そうに答えた。
エルザが吸血鬼であることは教えられていたが、ジェシカがエルザの実際の年齢を聞いたのは最近のことである。見た目よりちょっと歳を取っているのかな?という程度の認識だった為、以前は呼び方がエルザちゃんだったのだが、実は母親と殆ど同年代であることを知って、さん付けに改めたのであった。
目上の人間に対するような、ちょっと縮こまった態度を見せるジェシカに、エルザは困り顔に少しの笑みを混ぜた表情になった。
「ああ、年齢のことなら気にしなくたっていいわよ。さん付けでわたしを呼んだりしたら、傍から見て不自然でしょう?だから敬語も要らないし、従来通り、ちゃん付けで呼んで。というか、呼べ」
最後が何故か命令形だが、とりあえず納得したように首を縦に振ったジェシカは、頭の中で何度か呼び方の練習をすると、エルザをちゃん付けで呼んで話を本題に移した。
「それで、エルザちゃんがここに居るのって、なんで?」
エルザの口から、溜め息が漏れた。
「最初に言ったわよ。届け物の途中に顔を出しただけだって。……あっ、聞きたいのは届け物の中身と、何処に行くのかってことかしら?」
意思の疎通に僅かなズレを感じてエルザが言い直すと、ジェシカはコクリと頷いた。
「別に珍しいものでもなんでもないんだけど……、ちょっと待っててね」
エルザはそう言うと、おもむろにスカートを持ち上げ、肌に優しい上質コットン生地の裏地に出来た大きな膨らみに手を伸ばした。
スカートの裏側であるため、膨らみの位置は手探りだ。しかし、生地の良さのせいか、伸ばした手が膨らみに触れる度、少ない摩擦と意外に広い裏地の中を泳ぐように膨らみの中身はスルスルと逃げていく。
「んー……?入れるときは簡単だったのに、取り出すとなるとちょっと手間がかかるわねえ」
どうやら、スカートの裏は大きなポケットになっているらしい。手で持ち運べる程度の荷物なら収納できるらしく、件の届け物もそこに入れられているようである。
ただ、構造的な欠陥なのか、取り出す際にスカートを捲る必要があるようで、エルザはジェシカ以外の目が無いことをいいことに、太腿まではっきり見えてしまうほどスカートを高く持ち上げ、ブンブンと振り回している。
それでも荷物はポケットの中に篭城を決め込み、外に出てくる様子は無かった。
「このっ、出て来い!往生際が悪いわよ!」
「往生際とか言う以前に、はしたないって……、うわぁ!?」
思わず突っ込みを入れそうになったジェシカが、振り回されるスカートの向こうに大人の空間を発見し、驚きに思わず声を上げる。
子供が見てはいけない、神秘の世界を見つけてしまったのだ。
「……?どうしたのよ。ちゃんと出てきたわよ」
スカート裏のポケットから、ぼと、と落ちた包みを抱えて、エルザが不思議そうに首を傾ける。一見してあどけない子供の仕草なのだが、今のジェシカにはそれが妖艶な色香を放っているように見えて、どうにも顔が赤くなるのを止められなかった。
「いえ、何でもありません」
「……そう?」
もう一度首を傾げたエルザは、頭上に疑問符を浮かべながら包みを解き始める。
それを横目に見ながら、ジェシカは瞼の裏にしっかりと刻み込まれた光景にこめかみを押さえた。
ドレスと同色のストッキングにガーターベルト。大切な部分を覆う下着は、肌の色がはっきり確認出来るほど透けたレース生地で、赤紫のリボンがプレゼントを飾り立てるように結ばれていた。
穿いていない状態の直接的な色気よりも、穿いている状態の背徳的な色気よりも、よっぽどエロい印象を根付かせるエロティシズム。
その道のプロのお姉さんだって滅多に穿かないような、際どいにも程がある下着を常用しているなんて……。
「やっぱり、さん付けで呼びます」
大人って凄い!
そう思った、ジェシカ16歳の夏であった。
「?」
自分の下着のことでジェシカが変な尊敬の念を抱き始めたことなんて露知らず、ただ首を捻るしかないエルザは、一抱えもある包みを解いて、現れた無数の薬包紙の一つを手に取った。
「コレが、わたしがここにきた理由よ。どっかの血筋マニアに頼まれて、タルブの人たちに配る予定の風邪薬。買って来るって話は聞いてたでしょ?」
ジェシカの手の平に薬包紙を載せて、その中に収められた粉を見せる。
水のメイジの力を借りなくても風邪に対して効果をあげるそれは、本来なら平民の手の届かない高級品だ。しかし、村に滞在するシャルロットの母の名義で出された資金が、村の住人に一通り配給できるだけの量を確保することを許した。
小匙一杯分あるかどうかという量の粉が、平民の年収に匹敵する価値がある。突然にそんなことを言われたら、すぐには納得出来ないだろう。一年の労働が、たった一匙分の薬にしかならないなんて。
しかし、タルブの村人達にとっては待ち望んだ代物であることに変わりはない。ジェシカも首を長くして待っていたそれは、絶望感の漂う避難民達に希望を与えてくれるはずだった。
「予防薬にもなるって話だから、ジェシカも飲んでおいたほうがいいと思うわ。ずっと病人の傍に居たんでしょ?甘く味付けしてあるから、遠慮せずにがーっといっちゃいなさい」
「あ、うん。……へぇ、便利なものだね」
言われたままに薬包紙を口の前に持ってきて、盛られた粉末を口内に流し込む。
瞬間、舌の上に広がった途轍もない苦味に、ジェシカの表情が歪んで皺だらけになった。
「み、みふ……!」
「ぶふっ、くっくっくっく……。残念だけど、ミミズはもう無いわよ」
口の中の苦味を取り除こうと水を求めたジェシカに、エルザが笑いを漏らして腹を抱えた。
聞き間違いをしたという様子ではない。わざと水とミミズを聞き間違えたふりをしているのだ。
「みふ!みふはっへば!!」
涙が零れそうになるほど刺激的な味が、ジェシカに強烈な喉の渇きを与えている。
粉薬を飲むときには水が必要だと言う認識は有ったのだが、量が量だ。唾で十分に飲み込めると思ったし、甘い味付けだと言うから警戒もしなかった。それが、間違いの元だ。
薬はしつこく口の中に張り付き、唾で飲み込もうとするジェシカを嘲笑うかのように、無駄無駄無駄ァッ!とハイになってジェシカを攻め立てている。
「えー、蜜ぅ?貴女、薬を飲むのに蜂蜜なんて使うつもり?贅沢ねえ」
「ひはう!みふっへいっへるへひょ!!」
尚も聞き間違いしたふりをするエルザの胸倉を掴み、ガクガクと揺さぶる。しかし、完全に遊びに入ったエルザは、その程度で音を上げることは無かった。
「は、はふぁったわね!」
「ふふふ、わたしは一度として水無しで飲めるだなんて言ってはいないわ。薬が甘いなどというありもしない幻想を抱き、飲み水を用意しなかった貴女の負けよ、ジェシカ」
何時の間に勝負事になっていたのか。
サディスティックな笑みを浮かべたエルザは、嘲るように高笑いしてジェシカの手を振り解くと、颯爽と逃げ出した。
ジェシカの歩いてきた獣道を逆走していくエルザに手を伸ばして、待て、と声をかけようとするが、口の中の苦味とそれが高級品であるという事実がジェシカの行動を妨げる。
平民の年収が口の中に納まっているのだ。おいそれと無駄には出来ない。
「お、おふぉれー!」
でも結局、口の端から粉を少量吹いて、ジェシカは恨みを込めた声を上げた。
森の木々に去り行くロリ吸血鬼の後姿が隠れ、やがて景色に溶け込んで見えなくなる。
目的地は分かっているのだから、追おうと思えば追えなくは無い。しかし、ジェシカにはシエスタとの約束があるため、このまま帰るというわけにはいかない状況だ。
森の中から一歩も出ないまま終わりでは、シエスタも納得しないだろう。
一先ず口の中の風邪薬を何とかしよう、と湧き水でもないものかと周囲を見回したジェシカは、足元に開いた穴を見て苦味でクシャクシャになった表情を更に歪めた。
エルザが何処から来たのかは分からないが、少なくとも、この穴は森の外に通じているはずだ。もしかしたら、村の近くに出入り口があるかもしれない。
シエスタとの約束を優先するなら、この穴に入ってさっさと村の様子を見に行くべきだ。しかし、口の中の苦味はどうにも耐え難い。
解決策が一つ見つかると、すぐに別の問題が発生するから人生と言うものは過酷だ。
先日の雨が今日降れば、口の中の苦味ともおさらば出来るのに。
もしそうなったら、風邪の薬自体飲むことは無かっただろう。そんな事実を無視して、天候に文句をつけたジェシカは、心の中でチクショウ!と叫んで、穴に中に飛び込んだ。
村の様子を見ることが出来たら、すぐに帰って誰かに水を貰おう。
そう思って行動したのはいいのだが、ヴェルダンデという案内役も無く、真っ暗な穴の中をどうやって移動するのか。
そんなことにジェシカが気付いたのは、穴の中ですっかり迷子になってからのことであった。
「ああは言ったものの、サイトってのが村の中に入り込んでたら、アタシじゃどうしようもないんだよねえ」
竜騎士隊に包囲された村は、既に外と中との交通を遮断されている。村の周囲には遮蔽物らしい遮蔽物も無い為、忍び込むのは至難の業だ。
それは才人にも言えることなのだが、彼の場合は戦う手段があるし、村に向かった時間が竜騎士隊が村を制圧する前である可能性がある。
ジェシカとしては、森の出入り口辺りで足踏みしていてくれるとありがたいのだが。
「……儚い期待よね」
猪突猛進に飛び出していくような人間が、敵の目を恐れて立ち止まったりはしないだろう。
一度した約束は決して破らないのが、ジェシカの流儀だ。シエスタに大丈夫だと言った以上は、結果を出すまで立ち止まるつもりは無い。
しかし、早速暗礁に乗り上げてしまった気分であった。
「考え事しながら動いてるときに限って、悩んでる時間も無いときたもんだ」
足元に転がる小枝を踏んで、肩に落ちてきた木の葉を払ったジェシカは、目の前に広がる風景に溜め息を吐いた。
森を抜けたのだ。
一歩前に出れば、もうそこは森の中ではない。天井のように広がる木の葉の影は途切れ、踏み固められた道が草原を横切るように伸びている。道の先には空に煙を昇らせるタルブの村が見えるし、その頭上には死肉に群がるハゲワシのように空を飛び交う竜騎士の姿もあった。
ここから先はアルビオン軍の初期攻撃目標であり、トリステインの防衛圏。
つまり、戦場である。
口の中に溜まった唾を飲み込んで、ジェシカは少しずつ早くなり始めた心臓を服の上から押さえつけた。
「どーしよっかなあ。ここから先に出たら、絶対見つかるよねえ……?」
浮かぶ冷や汗をそのままに、ちらっと空を見上げる。
村の頭上を支配している竜騎士隊の目を盗んで村に入り込むなんて、無理で無茶で無謀だ。
仮に無理矢理入り込もうとして見つかった場合、抵抗する力の無いジェシカでは追い返される程度ならともかく、万が一捕虜にでもされたら何が待っているか分からない。
きっと、アレやコレやソレを、道具だったり、複数だったり、獣だったりでグッチョグチョにされ、最後には薬で考える力も奪われて、ヒギィとかアヘェとかしか言えない体にされてしまうのだ。
うら若き乙女が背負う過酷な運命にジェシカの頬は真っ赤に染まり、ひゃあぁ、なんて悲鳴を上げて何処かのミ・マドモワゼルのように腰がクネクネと動いていた。
「って、なんでアタシは興奮してるんだ!?……落ち着こう。ちょ、ちょっと深呼吸を……」
落ち着きのなくなってきた自分を自覚して、大きく息を吸う。
膨らんだ変な好奇心を押し潰し、聞きかじりの知識から生まれた妄想を打ち消した。
自制心の強さは、同じ黒髪の従姉妹よりも上のようだ。
「はー……、すー、はぁ、すー、はぁ……。ん、よし!」
「何が、よし、なのよ?」
「うへぇ!?」
突然足下から聞こえてきた声に、ジェシカの心臓が体ごと跳ねた。
一気に血圧の上がった体を巡る過剰な酸素に、頭がぐらりと揺れる。
それをなんとか耐え切ったジェシカは、地面から草でも生えるかのように上半身を露出させた少女に向き直った。
「え、エルザさん?こ、ここ、こんな所でなにを?」
「なにって……、届け物の配達途中に顔を出したら、ジェシカが居ただけよ」
地面に手をつき、土の中に埋まっていた下半身も外に出したエルザは、まだ買ってそれほど経っていない黒いドレスの土汚れを叩いて払う。それで落ちない汚れは放置された。
「ん、でもジェシカが居るってことは、目的地は近いってことよね?じゃあ、無理に暗い場所を歩かなくてもいいわけか。顔出して正解だったわね」
事情の飲み込めないジェシカを置いて、エルザは一人で納得したように呟くと、自分が出てきた地面の穴に顔を近づけた。
それに合わせて、ぴょこ、とジャイアントモールが顔を出す。
普段から愛らしい円らな瞳が、今日は一層に強く輝いていた。
「良ぉーし、よしよしよしよしよし。よく頑張ったわ、ヴェルダンデ。お陰でトカゲ乗りの連中に見つからずにここまで来れた。凄いわ、立派よ」
短い毛の生えた体をエルザに撫で回され、ヴェルダンデは嬉しそうに鼻先をピクピク動かす。
だが、ただ撫でられることで満足しないのか、エルザの体を頑丈な爪の生えた大きな前足で叩くと、今度はちょっと違う鼻先の動きで何かを訴えた。
「うん?ああ、ゴメン、忘れてたわ。報酬をあげないとね。ご褒美は、二匹でいい?」
ヴェルダンデの頭が左右に振られる。
「じゃあ、三匹?」
ブンブン、と勢い良く頭が縦に振られた。
「三匹か。黒くて長いのが、三匹。……三本同時攻めなんて、っもう、このドエロ!」
わけの分からないこと口走って恥ずかしげに赤く染まった頬を押さえたエルザは、ヴェルダンデの頭を叩いて良い音を響かせ、何処からともなく黒光りする巨大で長いモノ。もとい、自分の腕ほどもある黒ずんだミミズを三匹取り出した。
なんで叩かれたのか良く分かっていないヴェルダンデの目が、ミミズに釘付けになった。
「行くわよ、ヴェルダンデ。……とってこーい!」
抱えられるような形で支えられていたミミズの巨躯が、ジャイアントスイングの遠心力で遠く投げ飛ばされる。それを、ヴェルダンデが土中を掘り進みながら追いかけた。
「……ふぅ。良い汗かいたわ」
何故かやり遂げた顔になったエルザが、額に流れる汗を袖で拭って息を吐く。
ヴェルダンデが少し離れた所で一匹目のミミズをキャッチし、素早く食べ終えて二匹目に狙いを澄ませたところで、やっと雰囲気的に置いてきぼりにされていたジェシカが我を取り戻した。
「えーっと、エルザさん?」
「ん?なによ、さん付けで呼んだりして。水臭いじゃない」
かけられた声に振り向いたエルザが、以前とは少しだけ変えられた呼び方に怪訝な表情を浮かべる。
「いや、でも、年上だし……」
倍近い時間を生きている相手に向かって、ジェシカは言い辛そうに答えた。
エルザが吸血鬼であることは教えられていたが、ジェシカがエルザの実際の年齢を聞いたのは最近のことである。見た目よりちょっと歳を取っているのかな?という程度の認識だった為、以前は呼び方がエルザちゃんだったのだが、実は母親と殆ど同年代であることを知って、さん付けに改めたのであった。
目上の人間に対するような、ちょっと縮こまった態度を見せるジェシカに、エルザは困り顔に少しの笑みを混ぜた表情になった。
「ああ、年齢のことなら気にしなくたっていいわよ。さん付けでわたしを呼んだりしたら、傍から見て不自然でしょう?だから敬語も要らないし、従来通り、ちゃん付けで呼んで。というか、呼べ」
最後が何故か命令形だが、とりあえず納得したように首を縦に振ったジェシカは、頭の中で何度か呼び方の練習をすると、エルザをちゃん付けで呼んで話を本題に移した。
「それで、エルザちゃんがここに居るのって、なんで?」
エルザの口から、溜め息が漏れた。
「最初に言ったわよ。届け物の途中に顔を出しただけだって。……あっ、聞きたいのは届け物の中身と、何処に行くのかってことかしら?」
意思の疎通に僅かなズレを感じてエルザが言い直すと、ジェシカはコクリと頷いた。
「別に珍しいものでもなんでもないんだけど……、ちょっと待っててね」
エルザはそう言うと、おもむろにスカートを持ち上げ、肌に優しい上質コットン生地の裏地に出来た大きな膨らみに手を伸ばした。
スカートの裏側であるため、膨らみの位置は手探りだ。しかし、生地の良さのせいか、伸ばした手が膨らみに触れる度、少ない摩擦と意外に広い裏地の中を泳ぐように膨らみの中身はスルスルと逃げていく。
「んー……?入れるときは簡単だったのに、取り出すとなるとちょっと手間がかかるわねえ」
どうやら、スカートの裏は大きなポケットになっているらしい。手で持ち運べる程度の荷物なら収納できるらしく、件の届け物もそこに入れられているようである。
ただ、構造的な欠陥なのか、取り出す際にスカートを捲る必要があるようで、エルザはジェシカ以外の目が無いことをいいことに、太腿まではっきり見えてしまうほどスカートを高く持ち上げ、ブンブンと振り回している。
それでも荷物はポケットの中に篭城を決め込み、外に出てくる様子は無かった。
「このっ、出て来い!往生際が悪いわよ!」
「往生際とか言う以前に、はしたないって……、うわぁ!?」
思わず突っ込みを入れそうになったジェシカが、振り回されるスカートの向こうに大人の空間を発見し、驚きに思わず声を上げる。
子供が見てはいけない、神秘の世界を見つけてしまったのだ。
「……?どうしたのよ。ちゃんと出てきたわよ」
スカート裏のポケットから、ぼと、と落ちた包みを抱えて、エルザが不思議そうに首を傾ける。一見してあどけない子供の仕草なのだが、今のジェシカにはそれが妖艶な色香を放っているように見えて、どうにも顔が赤くなるのを止められなかった。
「いえ、何でもありません」
「……そう?」
もう一度首を傾げたエルザは、頭上に疑問符を浮かべながら包みを解き始める。
それを横目に見ながら、ジェシカは瞼の裏にしっかりと刻み込まれた光景にこめかみを押さえた。
ドレスと同色のストッキングにガーターベルト。大切な部分を覆う下着は、肌の色がはっきり確認出来るほど透けたレース生地で、赤紫のリボンがプレゼントを飾り立てるように結ばれていた。
穿いていない状態の直接的な色気よりも、穿いている状態の背徳的な色気よりも、よっぽどエロい印象を根付かせるエロティシズム。
その道のプロのお姉さんだって滅多に穿かないような、際どいにも程がある下着を常用しているなんて……。
「やっぱり、さん付けで呼びます」
大人って凄い!
そう思った、ジェシカ16歳の夏であった。
「?」
自分の下着のことでジェシカが変な尊敬の念を抱き始めたことなんて露知らず、ただ首を捻るしかないエルザは、一抱えもある包みを解いて、現れた無数の薬包紙の一つを手に取った。
「コレが、わたしがここにきた理由よ。どっかの血筋マニアに頼まれて、タルブの人たちに配る予定の風邪薬。買って来るって話は聞いてたでしょ?」
ジェシカの手の平に薬包紙を載せて、その中に収められた粉を見せる。
水のメイジの力を借りなくても風邪に対して効果をあげるそれは、本来なら平民の手の届かない高級品だ。しかし、村に滞在するシャルロットの母の名義で出された資金が、村の住人に一通り配給できるだけの量を確保することを許した。
小匙一杯分あるかどうかという量の粉が、平民の年収に匹敵する価値がある。突然にそんなことを言われたら、すぐには納得出来ないだろう。一年の労働が、たった一匙分の薬にしかならないなんて。
しかし、タルブの村人達にとっては待ち望んだ代物であることに変わりはない。ジェシカも首を長くして待っていたそれは、絶望感の漂う避難民達に希望を与えてくれるはずだった。
「予防薬にもなるって話だから、ジェシカも飲んでおいたほうがいいと思うわ。ずっと病人の傍に居たんでしょ?甘く味付けしてあるから、遠慮せずにがーっといっちゃいなさい」
「あ、うん。……へぇ、便利なものだね」
言われたままに薬包紙を口の前に持ってきて、盛られた粉末を口内に流し込む。
瞬間、舌の上に広がった途轍もない苦味に、ジェシカの表情が歪んで皺だらけになった。
「み、みふ……!」
「ぶふっ、くっくっくっく……。残念だけど、ミミズはもう無いわよ」
口の中の苦味を取り除こうと水を求めたジェシカに、エルザが笑いを漏らして腹を抱えた。
聞き間違いをしたという様子ではない。わざと水とミミズを聞き間違えたふりをしているのだ。
「みふ!みふはっへば!!」
涙が零れそうになるほど刺激的な味が、ジェシカに強烈な喉の渇きを与えている。
粉薬を飲むときには水が必要だと言う認識は有ったのだが、量が量だ。唾で十分に飲み込めると思ったし、甘い味付けだと言うから警戒もしなかった。それが、間違いの元だ。
薬はしつこく口の中に張り付き、唾で飲み込もうとするジェシカを嘲笑うかのように、無駄無駄無駄ァッ!とハイになってジェシカを攻め立てている。
「えー、蜜ぅ?貴女、薬を飲むのに蜂蜜なんて使うつもり?贅沢ねえ」
「ひはう!みふっへいっへるへひょ!!」
尚も聞き間違いしたふりをするエルザの胸倉を掴み、ガクガクと揺さぶる。しかし、完全に遊びに入ったエルザは、その程度で音を上げることは無かった。
「は、はふぁったわね!」
「ふふふ、わたしは一度として水無しで飲めるだなんて言ってはいないわ。薬が甘いなどというありもしない幻想を抱き、飲み水を用意しなかった貴女の負けよ、ジェシカ」
何時の間に勝負事になっていたのか。
サディスティックな笑みを浮かべたエルザは、嘲るように高笑いしてジェシカの手を振り解くと、颯爽と逃げ出した。
ジェシカの歩いてきた獣道を逆走していくエルザに手を伸ばして、待て、と声をかけようとするが、口の中の苦味とそれが高級品であるという事実がジェシカの行動を妨げる。
平民の年収が口の中に納まっているのだ。おいそれと無駄には出来ない。
「お、おふぉれー!」
でも結局、口の端から粉を少量吹いて、ジェシカは恨みを込めた声を上げた。
森の木々に去り行くロリ吸血鬼の後姿が隠れ、やがて景色に溶け込んで見えなくなる。
目的地は分かっているのだから、追おうと思えば追えなくは無い。しかし、ジェシカにはシエスタとの約束があるため、このまま帰るというわけにはいかない状況だ。
森の中から一歩も出ないまま終わりでは、シエスタも納得しないだろう。
一先ず口の中の風邪薬を何とかしよう、と湧き水でもないものかと周囲を見回したジェシカは、足元に開いた穴を見て苦味でクシャクシャになった表情を更に歪めた。
エルザが何処から来たのかは分からないが、少なくとも、この穴は森の外に通じているはずだ。もしかしたら、村の近くに出入り口があるかもしれない。
シエスタとの約束を優先するなら、この穴に入ってさっさと村の様子を見に行くべきだ。しかし、口の中の苦味はどうにも耐え難い。
解決策が一つ見つかると、すぐに別の問題が発生するから人生と言うものは過酷だ。
先日の雨が今日降れば、口の中の苦味ともおさらば出来るのに。
もしそうなったら、風邪の薬自体飲むことは無かっただろう。そんな事実を無視して、天候に文句をつけたジェシカは、心の中でチクショウ!と叫んで、穴に中に飛び込んだ。
村の様子を見ることが出来たら、すぐに帰って誰かに水を貰おう。
そう思って行動したのはいいのだが、ヴェルダンデという案内役も無く、真っ暗な穴の中をどうやって移動するのか。
そんなことにジェシカが気付いたのは、穴の中ですっかり迷子になってからのことであった。