ゼロの奇妙な使い魔 まとめ

一章十三節~土くれは機を逃さない~

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 遠く月明かりの下、闇色の森は黒い絨毯のようにも見えた。その上を春の夜風が撫でていく。
 梢の擦れあって起きる微かなさざめきは潮騒のようで、繁った葉が波打つ様が、さしづめ寄せて返す波だった。風はリキエルのもとにも届いて、夜気にさらされて冷えた体を余計に凍えさせていく。
 三度四度そんなことが続いて、風は出し抜けに弱まったが、一度飛ばされた熱はなかなか戻ってこなかった。体の自由が利かず、満足に身震いもできないリキエルは、首をすくませてぶるぶると細かく振った。しつこく寒気の残る首の後ろは、見上げるようにして熱を渡らせる。
 上げた目線の先には、ちょうど月が来ていた。月齢か何かが関係しているのか、ふたつの月はいつにも増して明るく、近くの星がよく見えないほどだった。それでもちょっと目を転がすだけで、幾百もの星のまばゆさに行きあえるのは、それだけ空気が綺麗なのだ。
 リキエルは、星を見るのがわりと好きだった。フロリダに住み始めてから見つけた趣味である。とは言っても、夜空にそう強く惹かれたというのではないし、望遠鏡を買うほどの酔狂でもない。ごく軽い天体観望だった。夜の家路を行くときなどに、ときたま思い出したように空を仰いで、しばし凝然とするだけで満足がいった。
 星を見ている間だけは、まぶたこそ上がらなかったが、不思議と汗をかくことはなかった。その日の疲れも常からある色々なわずらいも、吸い取られたようになくなった。ほんのいっとき息苦しさを忘れられた。連想して首筋のアザにまで考えが及ぶこともあったが、それでパニックになることもなかった。
 むかしベッドの上で父親の写真を眺めていたときの感覚に、それはわずかに通じるところもあるようだったと、リキエルはいまにして気づいた。
 ――星座とかってのはあるのか。
 ふとそう思った。ハルケギニアにも決まった星座などはあるのだろうか。
 もし無いとなると、困るでもないがなかなか寂しいことだ。詳しく知ろうとは思わないが、夜空を見るのと同じに、星座について考えるのは嫌いではない。
 星は数多あって、一見して無法にも思えるほど散らばっている。それらが形や名前、ときには役割を与えられてできる星座という概念に、リキエルの心は不思議と強く握り締められる。手の届かないものへの憧れか、自分の心にぴたとした定まりを持たないことからくる、羨望のためだとリキエルは思っている。
 ひとつ確証になりそうなことがあった。存分に満足がいくまで星を見たあとには、いつも決まって絶望が襲ってくるのである。自分に対する虚無感と無力感を伴う、色濃い絶望だった。絶望だと感じるのは、リキエルがその感覚をよく知っているからだ。パニックを起こすたびに身をさいなむ絶望は、耐え難いものではあるが、ある意味ではとっくに馴染み深いものになっている。
 ――それでも懲りずに星を見てしまうのは……。
 オレの心や精神とかってものが、完全ではないからだ。心の満たされないものを、星を見るときの安堵でごまかしているのだ。そしてそんな半端な心根だから、羨みとか憧れなんてものも感じる。
 夜空を眺めることは、リキエルにとって憂さ晴らしであり、自身の無力を再認することだった。そういうわけだから、リキエルは星を見るのが好きではあっても、そう頻繁に眺めることはしなかった。
あるいは、ちょっといい気分になったところで切り上げた。いまも空を見上げていたのは、ものの十秒ほどだ。
 リキエルは、また益体も無いことを考えたり、呆然と風景を眺めたりするだけになった。
 そのとき下のほうで、すました声ととげとげしい声が言い合った。
「いいこと? ヴァリエール」
「いいわよ? ツェルプストー」
 キュルケとルイズである。リキエルはうんざりした気持ちで下を向いた。くそ、と小声で悪態をついた。
「あのロープを切って、リキエルを地面に落としたほうが勝ちよ。あたしが勝ったらリキエルはあの剣を使う。いいわね?」
 キュルケが含めるように言った。
「使う魔法は自由。あたしは後攻でいいかしら」
「どうぞ、勝手にすれば」
「ま、それくらいはハンデよ。足りないかもしれないけど」
 剣呑な一瞥をキュルケにくれてから、ルイズは無言で一歩踏み出し、リキエルを見上げた。
 リキエルは縄で縛られて、本塔の壁に吊るされていた。地上まではざっと二十メイルある。落ちれば、簡単に命も落ちていく高さだった。そのろくでもない事実を忘れるために、延延と物思いにふけっていたのだが、この辺りが潮時らしかった。悪あがきとばかりに、リキエルは一時間ほど前のことを思い返してみる。
 プレゼントと言ってキュルケが持ち出してきたのは、ルイズとリキエルが武器屋で薦められた、シュペー卿の鍛えという触れ込みの大剣だった。
 その剣はキュルケの語ったところでは、たったの四千五百エキューだったそうである。それと聞いて目を丸くするルイズに、リキエルはそれが、即物的にどれほどの価値になるのかをたずねた。
 エキュー、ドニエといった呼称だけならば今までに何度か耳にしたが、相場といったものにまでは理解が行っていない。知っているのは長さや距離の単位だけだ。こちらは呼称こそ違うが、数字的には元の世界のものとほぼ同じだったから、覚えるのは楽だった。
「立派な庭のついた立派な屋敷を買って、立派な池を掘らせて立派な厩舎を建てて、ついでに立派な山を造ってもお釣りがくるほどの大金よ」
 低く小さく抑えてはあったが、ルイズは刺々しい声で早口に言った。そしていまの自分の懐具合を鑑みたか、驚きからさめると、露骨に悔しそうな顔になった。
 くらりとくるようなことを聞いて、リキエルは早々に自分の中の価値観をほうり捨てることにした。
立派とやらの程度は知れないが、ルイズが言うくらいだから、それは相当なものだろう。
 ただ実のところ、キュルケの話は大概が嘘なのである。武器屋の親父がキュルケに提示した剣の売値は、本当は新金貨で四千五百だった。それはそれで破格と言えるが、買値のほうも半分以下の千にとどまっている。キュルケが値切ったのだ。しかもその無茶な値切りを通すのに、自分の色まで仕掛けている。
 要は、キュルケは見栄を張っているわけなのだが、ルイズにもリキエルにも、それを看破するほどの目はなかった。ただただ驚いたり、悔しがるばかりである。
 リキエルたちの反応に気をよくしたキュルケは、ことさら得意げに自国のメイジが鍛えた剣を自慢し、最後には猫なで声になって、リキエルに使ってほしいと言った。ついでにルイズのおけらをからかった。
 もちろん、キュルケと顔を合わせるだけで一両日は不機嫌でいられるルイズが、いつまでもただ黙っているはずはなかった。顔面に朱を注ぎ直すと、猛然とキュルケに噛みついていった。
 そうして始まった娘二人の口げんかは、延延と終わりの気配を見せず、夜が更けこんでも、勢いを増して続くだけだった。リキエルは初めての乗馬や久々の人混みで疲れていたから、壁を背に床に座り込んで、それを見守っていた。
 口げんかと言っても大方の流れは、ルイズが噛みついて、平然とキュルケが受け流してからかい、またルイズがいきり立つというものである。単純だった。どちらかが飽きるか疲れるかすれば、そのうち収まる程度のいさかいだった。
 事実、二人の言い争いはじきに下火になって、次第に冷戦の兆しを見せ始めた。落としどころとしては妥当である。だが、雲行きがおかしくなったのはそこからだった。
「だいたい厚かましいのよ。使い魔の使う道具なら間に合ってるの」
 ルイズが言った。冷ややかな口調ではあったが、すがめた目と噛みこまれた歯とを見ると、いますぐ怒鳴りたいのを、ようやく押さえ込んでいるだけらしかった。かなり苛立っている。
「そういうわけだから、折角ですけど剣はお返しするわ」
「それを決めるのはリキエルなんじゃない?」
「主人のわたしが駄目と言ってるでしょう。だから駄目に決まってるのよ」
「嫉妬はみっともないわよ? ヴァリエール」
「嫉妬? 誰が嫉妬してるのよ」
 キュルケは腰に手を当て、ついと顎を突き出すようにした。長身のキュルケがそうすると、さして上背のないルイズは余計にちっぽけになったように見える。
「そうじゃない。リキエルに剣を買って上げたかったんでしょう? あなた。それを、先にあたしがプレゼントして見せるもんだから、嫉妬してるんじゃなくって?」
「誰がよ! やめてよね! ツェルプストーの者からは豆の一粒だって恵んでもらいたくない! そんだけよ!」
 とうとうルイズは怒鳴ったが、キュルケはまったく意に介した様子もなく、口笛でも吹き始めそうな、余裕をたたえた顔で続けた。
「嫉妬でないなら僻みかしらね。錆びをかき集めて造ったようなボロ剣も買えない、自分の貧乏さ加減を僻んで、店一番の品を軽く手に入れたあたしに難癖をつけてるんじゃないの?」
「なんですって」
「大変ね、お金のない家に生まれると。あ、お家よりも前にお国が貧しいのかしらね。トリステインの貴族ったら、プライドばっかり高いからかしら、上辺だけは飾りたがるもの」
 ぼけっとしていたリキエルだったが、はっとしてルイズの顔色をうかがった。
 自国と生家の柄を、ルイズは何より誇りに思い敬愛している。リキエルの見る限り、それは心の支えにもなっている。そのナイーヴな部分を、こう粘っこく貶められるのは、耐え難い恥辱を受けるのと同じことだろう。いまのキュルケの言葉は、相当に響いたはずである。
 はたしてルイズは、尋常な様子ではなかった。目を見開いて唇を震わせている。憤りの度がどこかを越したのか、額から首筋までの血が引けて、もともとの色白が痛々しいほどになっている。
 そんなふうに色を失っているのに、表情は笑みを作っていくから、自然と不気味な顔になる。むごい形相だった。じっと見ていると、薄ら寒い感じさえした。
 出来損なった冷笑をたたえて、ルイズは毒を吐いた。
「あんたなんか、ただの色ボケじゃない。ゲルマニアで男漁りばかりしてたもんだから、そのうち相手にされなくなって、あわててトリステインに留学して来たんでしょ? 恋の狩人とか微熱とかいろいろ言ってるけど、単におおお、お、男がいなくちゃ生きていけないってだけでしょッ。男なら誰でもいいんじゃないの? もう色狂いよね、ここまで来ると。なんて浅ましいのかしら!」
「……言ってくれるじゃない」
 ルイズが言い終えるころには、キュルケの態度も一変していた。さっきまで平気の平左といった風情でルイズをいなしていたのが、まるで嘘だった。
 物腰に力がこもり、所作のいちいちにしなやかさが見られなくなった。表情の消えた顔からは、それでも十分に苛立ちが汲み取れて、一見冷ややかに細められた目にも、隠しきれない険があった。
 やがてキュルケは、ルイズと同じような睨み顔になった。ルイズはそれを、二、三本の皺を眉間に足しながら、口の端を横に引き伸ばして結び、さらに睨み返した。そうしてしばらくの膠着があってから、どちらともなく杖を抜き、先を向け合った。
 このままじゃあ、けが人が出かねないなとリキエルは思ったが、二人を積極的に止めようとは思わなかった。巻き添えを食いたくなかった。まさか殺し合いにはならないだろうからと、そそくさベッドの陰に逃げた。そこにはキュルケの知り合いらしい娘がいて、本を読むのに没頭していた。
 ――そういえば、こいつはなんなんだろうな。
そう思って、リキエルは少しばかり観察してみた。
 綺麗な娘である。体つきはルイズ以上に子供っぽいが、線だけみればキュルケよりも緻密だ。顔も同様で、鼻筋や顎の形、頬の肉づきなどをみても過不足がない。目の大きさが際立つようではあるが、そういうところも含めて、うまい具合に均整がとれている。
 ただ、いかんせん面白みに欠ける顔とも言えた。秀麗は秀麗なのだが、少しそれに過ぎるところがある。そう思わせるのは、不躾な視線を向けられても動かない、表情の乏しさかもしれなかった。
 リキエルはすぐに飽きて、ルイズとキュルケに目を戻した。即発の状態が続いている。
「決闘よッ!」
 同時に言い放ち、二人が堰切ったように動き出した。後ろに足を送ってキュルケが杖を振り上げるのに、ひと呼吸遅れてルイズが応じ、半歩踏み出して腰を沈めた。手を伸ばせば触り合える距離で対峙し、二人してすぐさまルーンを唱え始める。
 黙黙と本を読んでいた青髪の娘が、敏捷な動きを見せたのはそのときである。娘が脇の杖を引っつかんで、右から左にぶわと振るうと、やわらかい風が部屋を横切り、生き物のようにキュルケとルイズの杖にからんで、そのままもぎ取ってしまった。
 大儀そうにまた杖を立てかけて、娘は言った。
「室内」
 あっけにとられたのはルイズだった。躍起になったところに、思いがけない方向から水を差されたと感じた。そしてそれは、すぐ苛立ちに変わった。
「なにこの子。さっきからいるけど」
「タバサよ」
 キュルケが肩をすくめた。
「あたしの友達」
「なんで、あんたの友達がわたしの部屋にいるのよ」
「なあに? いまごろ気づいたわけ。とってもとっても鈍いわね」
「なんでいるのかって聞いてるの。悪いのは頭だけじゃないのね」
 ルイズとキュルケは、また睨みあった。上がった熱は、杖を奪われた程度では下がりがきかないようで、両名それならばと、今度は取っ組み合いでも始めそうな勢いがある。
 例によってリキエルは傍観を極めこむつもりだったが、我が身が可愛ければ、むしろここで仲裁に入るべきだったのかもしれない。
 タバサがまた音も立てずに動いて、キュルケに何ごとか耳打ちした。にやりとキュルケが頬を歪めて、ルイズに伝言の耳打ちをした。忌々しげだったルイズがふんふんと頷いて、納得顔になった。
「ね、いい考えでしょう」
「考えたのはあんたじゃなくて、そのタバサでしょ」
「小さいことにこだわるから小さいままなのかしら」
「早く出ましょう、外へ。ええ、いますぐに。早急に、さっさとねッ」
 ――……外だ? 徹底してるんだな、わざわざ屋外に出てまでやりあうのか。そういえば、ギーシュとの決闘もそうだった。
 ひとり感心するリキエルを置いて、三人娘は列をつくって部屋を出て行った。ちょっとして、ルイズだけが駆け戻ってきて、さっさと来なさい! と怒鳴った。
 寮を出てしばらく歩き、やがて本塔に着いた。
 唐突だった。タバサがどこからか縄を取り出して、リキエルをぐるぐる巻きにし、その端をいつの間にか呼んだらしい、彼女の使い魔と思しきドラゴンに咥えさせた。落とさないでね、シルフィードと言うキュルケの声がちょっとばかり小さいと思えば、もうそこは地上二十メイルだったのである。
リキエルがあっと叫ぶ間の早業であった。
 ――で、オレの体を使って的当てか。小娘どもぉ、正気かよォ~。
 とリキエルは、方法を提案したタバサと、喜々として乗ったキュルケを呪った。ルイズにしても、頭に血がのぼっていたのはわかるが、難色くらいは示してほしかったと思った。
 また風が出てきた。縄がきしきしと音をたてる。
 本塔のどこかに括りつけられたらしい縄は、シルフィードに乗ったタバサが見ているようだが、この娘の部屋での態度を思い返してみると、リキエルは心許なく思うほかない。はじめに部屋に入ったときも観察していたときも、タバサは本に熱中しきりで、リキエルのほうを見ようともしなかった。
 もしいざという時があって、それでも本を読むばかりでいられては困る、とリキエルは不安になる。
ルイズとキュルケの杖を奪い取ったことから、周りに関心をはらっていることはわかったが、初対面な上に平民の自分にもそうであるかはわからない、と思うのだ。
 下の二人も、見たところ縄を切ることにばかり目が行っていて、後のことを考えているのかひどく疑問だった。上調子なままで放たれた魔法が、体にぶちあたらない保証はない。キュルケの腕前は知らないし、ルイズは十中八九で爆発を起こすだろう。そしてそのルイズが先攻である。
 思い至って、リキエルは胸の辺りが風のせいばかりではなしに冷えていくのを感じた。いざというのは、案外近くに迫っているのかもしれないと思った。背筋が不快にざわめいて、頬に汗が流れるのがわかる。リキエルは歯を食いしばった。ちくしょおおお、来やがったッ!
 いつも突然だった。発作は場所を選ばず、特別なきっかけも要らず、気まぐれにリキエルを襲ってはいつの間にか去っていく。嵐と同じだった。それでなくとも常から息苦しい気分でいるのに、どうしてこんな目にあうのかと、リキエルはこの感覚がするたび、無力感と絶望のほかに、どうしようもない焦りと苛立ちを覚える。
 呼吸がろくにできなくなり、歯の間から耳障りな音が漏れ、唇は乾いていく。目に映るものが出たり消えたりを繰り返し、白くなったり緑になったり、急に真っ赤になったりする。全身から汗が噴き出す。考えることが細切れになる。吹きつける風が熱くなる。痛くなる。
 ついに両まぶたが落ちたが、リキエルはその少し前から、ほとんど何も見えてはいなかった。酸欠で意識を失いかけていた。
 そんなリキエルの様子に、しかしルイズたちは気づかなかった。だらりと首を落として、微動もしない様は、傍目にはふてくされて俯いているように映った。
 ルイズは杖を振った。命中させやすいということで、『ファイヤーボール』を放とうとしたものだが、杖先からは火花さえ出ず、一拍の後にリキエルの背後で爆発が起きた。規模は大きく、本塔の壁には酷いひびが入った。大失敗だった。
 頭を抱えるルイズを押しのけ、キュルケが嫌味なほど華麗な所作で『ファイヤーボール』を唱えた。
無論ルイズへのあてつけだった。キュルケは『火』系統のメイジで、腕はトライアングルクラスである。
 ひとの頭より大きな火の玉が、キュルケの杖の先から一直線に飛ぶ。縄が一瞬で燃え落ちて、リキエルは真っ逆さまになる。すぐさまタバサが飛んできて、『レビテーション』でリキエルの落下を止め、傷ひとつつけずに地上まで降ろした。
 キュルケが歓声を上げた。


 本塔の入り口近くに、ローブを目深に被った一人のメイジがたたずんでいる。『土くれ』のフーケという。
 フーケは盗賊だった。主に貴族の屋敷を仕事場に選び、金品や芸術的価値のある品を奪い、特に珍しいマジックアイテムの噂が流れれば、三も聞かずに参じて掻っ攫っていく。大胆な手口を使うことでも知られており、『錬金』の魔法で壁を破るのはまず常套で、ときには巨大なゴーレムで押し込みを働き、そのまま屋敷を半壊させることもある。城下に出没し始めたのは近年のことだが、それ以前からトリステイン国内では被害が相次いでいおり、貴族らの頭を悩ませている。希代の盗賊なのだ。
 その盗賊がいま目をつけているのが、魔法学院の本塔にある宝物庫だった。
 フーケは『レビテーション』を使って浮き上がり、塔の五階あたりで止まって、外壁に手を当てた。
ややあってから下りてくると、フーケは舌打ちして、壁を靴裏で蹴りつけた。乾いた音がして、細かい壁の欠片がぽろぽろと落ちる。
 ――確かに、ただの石ではある。
 けどあんまり分厚すぎる。ここまでとは思わなかった。
 宝物庫の『固定化』は強固で、容易に『錬金』を受けつけない。では力押しならばどうかとフーケは考えていたが、どうやら、それもままならないようだった。どう足掻いても、多くの時間と精神力を割かれることになる。
 だが今回の獲物には、既にかけ過ぎるほど手間をかけている。いまさら引けない。なにより国中の貴族を震え上がらせた盗賊の意地が、それを許さなかった。フーケはまた舌打ちした。
 不意に、いくつかのひとの気配と草を踏む音がした。どうやら近づいてきている。フーケは咄嗟に本塔を回りこんで、影の中に入って息をころした。


 そのゴーレムは、気づけばいた。実際は塔で影になっていたのが、明かりの下に出てきたというだけだったが、そう思えてしまうほど突然に、それは姿を見せたのである。
 見とれてしまうほど巨大な土のゴーレムで、三十メイルはあるだろうとルイズは思った。完成度や動きの細やかさから鑑みて、トライアングルクラスの、それもかなり強い力を持ったメイジが操っているのがわかる。
 緩慢だが確かな足取りで、ゴーレムは一歩一歩とこちらに歩いてくる。その肩に、黒ずくめの人間が立っているのをルイズは認めた。きっとあれが術者ね。
 術者はこちらに気がついている風だったが、止まるつもりはないようだった。
 そんなふうに冷静に見ていられるのは、事態がまだ飲みきれていないからだと、これも沈着な思考でルイズは考えた。証拠に、いまさっきまで目の前に居たキュルケは、早々に逃げを打っている。
 ――このまま居たら、踏み潰される。
 ルイズはようやく我に返った。同時に、底冷えするような恐怖を感じる。ゴーレムはだいぶ近づいて来ていて、いっそ土の壁が迫ってくるような、異様な威圧感にさらされた。ふとした瞬間に気を抜いたりすれば、そのまま腰も抜けてしまいそうな気がする。
 だが、視線を舌にずらした途端、そんな恐怖はどこかへと飛んだ。
「リキエル?」
 本塔の下に、縄で巻かれたリキエルが転がったままになっている。命の危機だというのに、身じろぎひとつしない。縄のせいで満足に立ち上がれないにしても、あんまり動きが無さすぎる。ちょうど何かの拍子に落ちた蓑虫が、羽を成すこともなく、蓑の中で息絶えたような格好だった。
 ルイズは駆け出した。もう思い出していた。あの使い魔は、ことあるごとにパニックを起こすような奴だった。まぶたが落ちると言って騒いだことは一度や二度ではないし、ほんの少しの間部屋を空けて、戻ってきたら喉を押さえてえずいていたこともある。縄を打たれて、高いところに宙吊りにされて、そんな常人でも恐慌を来たすようなことに、そんな奴が耐えられるわけがないのだ。
 わかり切ったことの筈だった。まるで動かないということは、リキエルはいま、気を失うかそれに近い状態でいるに違いなかった。キュルケとの張り合いなんかでのぼせ上がってと、ルイズは自分の迂闊さに腹が立った。
 走り寄って覆いかぶさるように組み付き、リキエルを仰向けにする。全身の力が抜けてしまっているのか、むしろ硬直しているためなのか、ひどく重かった。
 月明かりに照らされた顔は、締まりなく顎が垂れ、上下の歯の間から、わずかに舌の先が覗いていた。両目は半ば開いていたが、その奥の瞳は小刻みに震えていて、焦点が定まっていなかった。呼吸をしていて、血色も悪くないのはよかった。
「リキエル。起きなさいリキエル! 早く目を覚ますのッ」
 ルイズはリキエルの肩を掴んで、無茶苦茶に揺すった。
「潰れちゃうわよ! 死んじゃうのよ!」
「…………」
「起きなさいってば! こんなっ、ロープで縛られて寝てるんじゃないわ!」
 喚きながら、ルイズはリキエルの縛りを解きにかかった。そうしている間にも、着々とゴーレムは近づいてくる。もう目と鼻の先だった。
「起きなさいってば! 這うか転がるかくらいできるでしょ!」
「ルイズ、よせ。さっさと逃げろ」
 いきなりリキエルが口をきいたのに驚いて、ルイズは手を止めかけたが、すぐにまた動かし始めた。
手が震えてしまい、結び目に上手く指が入らない。
「起きてるならそう言いなさいよ。……く、このロープ。あんた自分で動けないのッ?」
「無理だ。さっきから力が入らなくてなァ。縄が解けても、お前の力じゃあオレを引きずっても間に合わないぜ。だからよォ~ルイズ、もう逃げろ。お前まで踏み潰されてしまうからな」
 肘がきしむほど腕に力をこめた。半ば苛立ちでそうしていた。縄が解けないのと、リキエルの勝手な言葉のせいである。身を挺して助けようとしているのに、逃げろとはなんだ。言う声が、やたらと落ち着いているのにも腹が立った。この馬鹿使い魔、いつもいつも、なんで死に掛けになるとべらべら喋るようになるの!
 ゴーレムが、とうとう一歩のところまで迫った。ルイズはそれと気づいていたが、怒りと苛立ちをあえて募らせることで、恐怖を押し込めていた。
 周囲に影が落ちた。どうやら、頭の上にはゴーレムの足がある。さっき見ていた様子から考えれば、もうあと何秒も数えないうちに、土の塊は落ちかかってくるはずだった。ようやく縄は解けたが、リキエルに言われた通り、自分にはそのあと引っ張って行けるだけの力は無い。気づけば腰も抜けている。万事休したとルイズは思った。
 だがゴーレムは、何かに痺れたように数瞬、動きを止めた。
 その隙を逃すまいというように、タバサがシルフィードを殺到させた。シルフィードは、群生する草に後ろ足がつくほど低く飛び、突き抜けるような勢いでルイズたちを引っつかむと、ゴーレムの股を抜いて再び飛び上がった。そのときの颶風で、そこらの草は根こそぎなぎ倒された。
 思い出したように、ゴーレムが足を踏み出した。ルイズには、さっきより心持ち軽々とした動きに見えた。


 学院の敷地を出て、ゴーレムをただの土くれに戻すとき、フーケはにやりと笑った。腕には、布を被せた筒状のものを抱えている。それが狙いの品だった。
 ――ひびを入れてくれたのには、助かったね。
 あのひびのおかげで、宝物庫を破ることができた。こうして『破壊の杖』も手に入った。魔法が使えず、『ゼロ』とかいう呼び名で馬鹿にされているらしいが、そのゼロには感謝の言葉を贈りたいくらいである。
 ――さて……。
 もうひと仕事だと、フーケは笑いを引っ込めた。そして森の闇に消えた。

◆ ◆ ◆

 宝物庫が破られた件は、夜の間に学院全体に知れていた。教師たちは、朝から宝物庫へ集まり、現場の検分も兼ねた緊急の会議を行っている。
 フーケという盗賊は、有名なわりにその実態を知る者がいない。はっきりと顔を見た者はおらず、性別も年の頃も、何ひとつ正確なところはわかっていないのだった。貴族の屋敷や関係する施設ばかりが狙われることから、貴族に恨みを持つ者ではないかとも言われるが、その話も憶測の域を出ない。
 それでも名が割れているのは、現場に必ず刻まれる犯行後声明のためだ。検分した教師たちも、宝物庫の壁に『破壊の杖、確かに領収いたしました。土くれのフーケ』と刻まれてあるのを見つけている。ちなみに、『土くれ』の二つ名は本人が名乗ったものではなく、現場に土くれしか残さないその手際から、いつしか呼び習わされるようになったものである。
 検分が終わり、応急の処置として壁の穴がふさがれると、さて今回の責任は誰にあるかという話になった。まっさきに糾弾を受けたのは、昨夜の当直であるミセス・シュヴルーズだった。
「申し訳ありません」
「謝罪はけっこうです」
 教師たちの輪の中から、木で鼻をくくるような声が上がった。周りの教師を押しのけて出てきたのは、ミスタ・ギトーである。年若く優秀なメイジだが、物言いにずけりとしたところがあって、しかも短気な男だった。
「それよりミセス・シュヴルーズ、この失態をどうするおつもりか。おめおめと鼠賊の侵入を許し、あまつさえ『破壊の杖』を奪われるとは。自覚に欠けますぞ?」
「…………」
「泣いたって、お宝は戻ってはこないのですぞ。それとも弁償ができますか、あなたのお給料で『破壊の杖』が? 無理でしょうな。確かこの前、家を建てたそうですし」
「……申し訳ありません」
 シュヴルーズは、目に涙して繰り返した。その涙を拭こうと、震える手でハンカチを出したが、目に当てる前に取り落としてしまった。慌てて膝を屈してハンカチを拾う。が、そのまま立ち上がれず、シュヴルーズはついには泣き伏した。
 折りも折り、ようやくオスマン氏がやってきた。オスマン氏は、まず泣き崩れたシュヴルーズに目を見張り、次いでギトーをじろりと見た。ギトーは決まり悪く顔を背けた。
「これこれ。女性を苛めるものではない」
 オスマン氏が、子供を叱る口ぶりで言った。
「君はどうも怒りっぽくていかんな。ミスタ……えーと、ギトギト君?」
「ギトーです、ギトー! 私は油汚れじゃありませんッ」
「そうじゃったか。いやぁ、惜しかったの。まあ、君の名前なんぞはこの際どうでもいいんじゃ。それよりも聞きたいことがあるでな。ここにお集まりの教師、全員にじゃ」
 そこでいったん切って、オスマン氏は教師一人ひとりの顔を、覗き込むようにして見た。その視線は柔和で静かなものだったが、教師たちはその瞳の中に、重々しい威厳のようなものを感じた。それは偉さや、力の強さといったものとはまた違う、幾重にも年輪をこさえた大樹の持つような、悠久を思わせる威風だった。
 こほんと空咳して、オスマン氏は口を開いた。
「この中で、当直の仕事をまともにしたことのある者は、何人おられる?」
「…………」
 教師の誰一人として、問いかけには答えなかった。あるいは青ざめて、あるいは口惜しげに、だんまりを通すだけである。言い返そうにも言葉がないのだ。詰問を受けたときのシュヴルーズと、だいたい同じだった。
「気持ちはわかる、まさかという気持ちはの。じゃがそれこそが、賊につけ入られる隙になったのは紛れもないことじゃ。そう、我々には油断があった。慢心があった。メイジだらけのこの学院にと、たかを括っておった。責任は、私を含めた全員にあったのじゃ」
 沈痛な面持ちで言いながら、オスマン氏はシュヴルーズの肩に手を置いた。そして優しく撫でさすった。顔をあげたシュヴルーズが、若い娘のように腕にすがりついてくるのを、オスマン氏はとめなかった。
「去ったことは、去ったことじゃ。過去はええ。それよりも、我々は事後の対策を、それも最善の手を考えねばならん」
 そう、鋭く言い切ったのに応えるようにして、宝物庫の扉が開いた。
 入ってきたのは、まず先頭がコルベールである。その後ろにルイズ、キュルケ、タバサが続き、最後のリキエルが扉を閉めた。教師のほとんどが、この場に生徒がいることを訝しがり、そのうちのさらに何人かは、片目の平民の不景気面に、露骨に眉をひそめた。
 コルベールがオスマン氏に近寄って、その腕に引っ付いているシュヴルーズをじろじろ見てから、背後のルイズらを引き立てた。
「連れて来ました。彼女たちです」
「うむ。では昨夜のことを、詳しく話してくれるかの?」
 シュヴルーズを引っぺがしながら、オスマン氏が言った。
「はい」
 強張った声と顔で、真っ先にルイズが進み出た。こういうことに馴れがないのか、どうやら少しばかり緊張した様子である。
 ルイズは現場で起こったことを、決闘のこと以外は残らず喋った。突然に土ゴーレムが現れたこと。その肩に乗った、黒ずくめのメイジのこと。ゴーレムが宝物庫の壁に、四度にわたって拳を打ちつけたこと。破壊された壁の中から、黒ずくめメイジが持ち出したもののこと。城壁を越えたゴーレムが崩れて、ただの土になるまでのこと。途中でどもりつつも、すべて細かに語った。
 語り終えるとルイズは、一息ついて呼吸を直してから、これで全部ですと言った。
「そのメイジは、現場に何か残していったかね?」
「いいえ、土の山しかありませんでした」
「ではほかに、何か気づいたことなどはなかったかの?」
「わかりません。これといったことは……」
 ふんふんと頷きながら、オスマン氏は眉の端をぽりぽりとかいた。そうして俯く姿は、ごく真剣に考え事をするふうではあったが、見ようによってはだるがっているようでもある。
 事実は後者であった。オスマン氏は心底、この件を面倒に感じている。さっきまで言っていたことは、当直のことでの叱咤は本心だが、そのあとについては半ば以上、自分の株を上げるための方便である。そのお膳立てのために、コルベールに入ってくるタイミングを指示する徹底ぶりだった。そしてルイズの話の内容から、事態が予想したより厄介らしいと知って、一気に面倒くさくなったのである。
 本音をひた隠しに、オスマン氏は長いあごひげを梳いた。
 そのとき、また宝物庫の扉が開いた。現れたのはオスマン氏の秘書、ミス・ロングビルである。二十人近いひとの群れにも眉ひとつ動かさず、乱れのない足取りで、その群れをかき分ける。
「申し訳ありません」
 オスマン氏に向かってロングビルは頭を下げた。
「朝から、急いで調査をしておりました」
「と言うと、この件について? ……仕事が早いの、ミス」
「はい。早朝にフーケのサインを見ました。宝物庫のほうが、どうも騒がしかったものですから。それからすぐに、外に調べに出ました。結果を言いますと、フーケの居所がわかりましたわ」
「な、なんですと!」
 色めき立ったのは、それまでは静かにしていたコルベールである。
「いったいどこに?」
 ロングビルの語ったところでは、フーケと思しき人間は、学院から半日ほど歩いたところにある、森の中の打ち捨てられた小屋にいるとのことだった。近くにいた農民が、その廃屋に、黒いローブをまとった男が入るのを見たらしいのだ。さらに農民は、こうも言ったらしい。ローブの男は、大事そうに木製のチェストを抱えていたと。
 瑣末な情報ではあったが、その程度のことでも、ほかに何もない状態では重要な手がかりといえた。少なくとも、確かめてみる価値はありそうだった。
「そこは、歩いて半日ほどなのじゃな?」
「そうです。馬で四時間ほどでしょう」
「よし、捜索隊を編成する」
 オスマン氏が言うのに、コルベールが待ったをかけた。
「それよりも、王室に報告したほうがよいのでは? 王室の衛士隊ならば確実でしょう」
「ばかもの!」
 鋭くオスマン氏は言った。日和見にできるほど緩い事態でないことは、面倒に思える程度には承知の上だ。
「報告なぞしとる間に、フーケは意気揚々、山でも海でも好きなところへ逃げられるわ。そもそも、これは魔法学院の問題じゃぞ、当然学院の者の手で解決せねばならん! さあ、我と思う者は杖を揚げよ。フーケを捕らえて、名を上げようと思う貴族はおるかッ」
 しばらくしても、杖は揚がらなかった。その場にいる貴族たちは、言い交わしたように全員が、不自然に視線を泳がせている。シュヴルーズを自覚に欠けると言っていたギトーも、足元から視線を上げようとはしない。
 皆が皆、気まずい沈黙に耐えかねて身じろぎを始めたころ、とうとう一人のメイジが顔の前に杖を掲げた。ルイズである。
 つまらなそうに髪をいじっていたキュルケが、それを見て片眉を上げ、やがてこちらも杖を掲げた。さらにそれを受けて、タバサがのんびりと杖を掲げ上げる。
「あらタバサ、あんたはいいのよ。あたしはヴァリエールに、美味しいところを取られたくないだけなんだから」
 慌てたようにキュルケが言うと、タバサはキュルケとルイズを交互に指差した。
「心配」
「そう? ありがとうね」
「……ありがとう、タバサ」
 軽い口調だが、熱の入った声でキュルケが返し、ルイズも一拍遅れて目礼した。
 教師陣から、悲鳴のような声があがった。捜索隊は、とりもなおさず捕縛の役目を兼ねる。相手がやり手の盗賊メイジともなれば、危険な役目だった。ルイズたちのような、年端もいかないメイジに務まるものではない。何より生徒に危険を冒させるわけにはいかない。
 だがその声も、オスマン氏がいちいち宥めて黙らせた。
「確かに彼女たちは生徒じゃ。しかし敵を見ている。……少なくとも、いまの君らよりはまともに働けそうじゃ」
 あんまりな物言いに、数人の教師は顔を上げたが、どの顔もまたすぐに下を向いてしまう。言い返す口を持たないようだった。
 オスマン氏は心うちでため息をついた。教師が、生徒の前でそんなことではどうすると思った。一人や二人くらいは杖を揚げるかと期待したが、ちょっとやそっと煽ったくらいでは、誰も何も言い返しもないようである。各々の中の火種が、どうにも小さすぎるらしい。これだから、君らには任せられんと言うのじゃ。
「まあ、大丈夫じゃろうて」
 ぽんと手を叩いて、オスマン氏はルイズらに向き直った。
「と言うのもな、まずミス・タバサは、シュヴァリエの称号を持つ騎士じゃ」
 キュルケを含めたその場の貴族は、一様に驚いた顔になって、タバサをまじまじと見た。
 シュヴァリエというのは、王室から下される爵位のひとつである。最下級のものではあるが、その位を手に入れるには著しい業績が要るため、その他の下位の爵位と比べ、数段も重みを異にする。家柄や領地に左右されず、一個の人間の能力を認め 称える意味で与えられる、まさに称号だった。
「続いてミス・ツェルプストー。聞き覚えのある方も多いのではないかの? ゲルマニアの軍人の家の出じゃ。彼女自身、トライアングルクラスのメイジでもある。それから、ミス・ヴァリエールは…
…そうじゃな」
 オスマン氏は淡く言いよどんだ。ルイズの評判は、特に魔法が使えないことは耳に入っている。褒めるに難しいものはあった。だが、大の大人が尻ごみする中、一番に杖を揚げたのは他でもない彼女である。胸のうちで動く老婆心に照らしても、その見上げた意気を、自分がそぐようなことをしてはならなかった。
 ――ガンダールヴのこともあるしの。
 危険な任務ではあるが、あるいはそういった中でこそ、ルイズの使い魔が伝説の力を見せるかも知れなかった。生徒による探索隊の編成を認めたのは、その見極めのためでもある。ある種の賭けであった。
「かのヴァリエール公爵家の息女で、学業においては他の生徒に抜きん出るものがある。しかもその使い魔はメイジと決闘し、善戦するほどの剣の腕を持っておる。その一部始終、聞き及んでおる方も多いはずじゃ」
 最後の言葉は教師たちに向けたものだったが、視線はリキエルに定まっている。
 思えば、直接に顔を見るのは今日が初めてだ。こうして間近に見れば、実に頼りなげな青年である。過日鏡の向こうで奮戦していた姿とは、似もつかなかった。決闘のときの鬼気迫る感じとはうって変わって、肩に重石を乗せているような、鬱したところが目立つ。そしてその肩にはさらに、本人のあずかり知らぬところで、大きな期待をかけてしまっているのだ。
 応えておくれよ、とオスマン氏は思う。身勝手は承知の上である。だが真実、任務の無事の成功を願う気持ちでもあった。
「さて、まだ反対を唱える者はおるかの? ……おらんな。ではあらためて、魔法学院は、諸君らの努力と貴族の義務に期待する」
 ルイズたち三人に向かって、いよいよ厳しくオスマン氏は言った。リキエルからは、あえて目を外した。
 その声にあてられてか、三人は顔を引き締め、姿勢も正した。
「杖にかけて」
 三人が唱和し、礼にのっとった辞儀をする。教師たちは、その光景に胸打たれたというような顔をした。この段にきて、ようやく貴族としての羞恥を、はっきり感じる者が出始めたようだった。
 さすがにこれはこたえたらしいの、とオスマン氏は思った。これでもうちぃと、マシになるかの?
 ――……いや。
 と思い直した。ずっと座りこんでいたのだ、いきなりは歩くまい。次は立てるかどうかじゃな、と思ったのだ。


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