「きゅいきゅい! おねーさま、何か変なのね」
シルフィードに言われるまでもなく彼女は場の異常さに息を呑んだ。
眼下に映る世界は白一面。辛うじて巨大な塔が影のように浮かぶ。
それはシルフィードが間違えて雲の上に出てしまったのかと錯覚してしまうほどに、
地上とは懸け離れた“異世界”だった。
地表を覆い尽くさんばかりの濃密な霧を前に彼女は躊躇う。
いくら優れたメイジが集まったからといって、こんな現象を引き起こせるはずはない。
いや、そんな事は後で考えればいい。今はそれよりも一刻も早く彼女を見つけなくては。
覚悟を決めて飛び出そうとした彼女の足が止まる。
シルフィードに言われるまでもなく彼女は場の異常さに息を呑んだ。
眼下に映る世界は白一面。辛うじて巨大な塔が影のように浮かぶ。
それはシルフィードが間違えて雲の上に出てしまったのかと錯覚してしまうほどに、
地上とは懸け離れた“異世界”だった。
地表を覆い尽くさんばかりの濃密な霧を前に彼女は躊躇う。
いくら優れたメイジが集まったからといって、こんな現象を引き起こせるはずはない。
いや、そんな事は後で考えればいい。今はそれよりも一刻も早く彼女を見つけなくては。
覚悟を決めて飛び出そうとした彼女の足が止まる。
――――無理だ。
1メイル先も判らぬ白い闇の中、手探りだけで彼女を探し出せるものか。
敵の数も正体もハッキリしていない上に誰が味方かも判らない。
そんなところで私に一体何ができる?
宮殿から一歩外へ出てしまえば私は無力な少女に過ぎない私に。
無謀な事は止めて騎士団や衛士隊に任せるべきだ。
それにもう、彼女は既に……。
1メイル先も判らぬ白い闇の中、手探りだけで彼女を探し出せるものか。
敵の数も正体もハッキリしていない上に誰が味方かも判らない。
そんなところで私に一体何ができる?
宮殿から一歩外へ出てしまえば私は無力な少女に過ぎない私に。
無謀な事は止めて騎士団や衛士隊に任せるべきだ。
それにもう、彼女は既に……。
結論付けようとした自分の頭を杖に叩きつける。
目の前で飛び散る火花のように、脳に詰め込まれた屁理屈が吹き飛ぶ。
いくじなし、臆病者と心の内で自分をなじる。
目の前で飛び散る火花のように、脳に詰め込まれた屁理屈が吹き飛ぶ。
いくじなし、臆病者と心の内で自分をなじる。
シャルロットはいつも周囲の期待に応えるように努力してきた。
それは演技と言い換えてもいいのかもしれない。
王宮は彼女に“何もしないこと”を望んだ。
ガリア王家を継ぐ直系の血筋は彼女一人。
もし、その身に何かあれば大問題になりかねない。
彼女の身体は彼女自身だけの物ではない。
その責任を彼女は子供の頃から自覚していた。
だから財宝を守るかの如く、彼女は王宮で大切に育てられた。
それを不自由だと思ったことはない。
王家に生まれた者の宿命だと信じて疑わなかった。
そう自分を偽って生きてきた。
それは演技と言い換えてもいいのかもしれない。
王宮は彼女に“何もしないこと”を望んだ。
ガリア王家を継ぐ直系の血筋は彼女一人。
もし、その身に何かあれば大問題になりかねない。
彼女の身体は彼女自身だけの物ではない。
その責任を彼女は子供の頃から自覚していた。
だから財宝を守るかの如く、彼女は王宮で大切に育てられた。
それを不自由だと思ったことはない。
王家に生まれた者の宿命だと信じて疑わなかった。
そう自分を偽って生きてきた。
だけど召喚の儀式に臨んだ、あの時。
その瞬間、私は本心に気付いてしまった。
その瞬間、私は本心に気付いてしまった。
空のように青く澄んだ鱗。
雄々しい羽ばたきに風が舞い上がる。
靡く髪を抑えながら私は向き合った。
自分が呼び出した使い魔、そして自分の本心に。
“誰にも縛られることなく、どこまでも飛んでいける自由な翼”
それが私の求めていた物。大切な従姉妹が教えてくれた新しい世界への希望。
雄々しい羽ばたきに風が舞い上がる。
靡く髪を抑えながら私は向き合った。
自分が呼び出した使い魔、そして自分の本心に。
“誰にも縛られることなく、どこまでも飛んでいける自由な翼”
それが私の求めていた物。大切な従姉妹が教えてくれた新しい世界への希望。
幼かった頃の自分にとって、
冒険とは綴られた文字の向こうにしか存在しなかった。
王宮という限られた世界で過ごす日常に何の疑問も抱かなかった。
―――それを彼女が打ち破ってくれた。
本を読んでいた私の手を引いて強引に連れ出した。
燦々と降り注ぐ陽の光を背に振り向いた彼女は愉しげで、
今を生きている喜びに満ち溢れていた。
同じ色なのに彼女の髪は私よりもずっと輝いて見えた。
外で目にしたものは何もかもが輝いていて。
知識では知っていても私は少しも理解していなかった。
世界はこんなにも広く、興味深いものだということを。
冒険とは綴られた文字の向こうにしか存在しなかった。
王宮という限られた世界で過ごす日常に何の疑問も抱かなかった。
―――それを彼女が打ち破ってくれた。
本を読んでいた私の手を引いて強引に連れ出した。
燦々と降り注ぐ陽の光を背に振り向いた彼女は愉しげで、
今を生きている喜びに満ち溢れていた。
同じ色なのに彼女の髪は私よりもずっと輝いて見えた。
外で目にしたものは何もかもが輝いていて。
知識では知っていても私は少しも理解していなかった。
世界はこんなにも広く、興味深いものだということを。
今も彼女の温もりが感じ取れそうな手を強く、強く握り締める。
死ぬのは怖い。お父様やお母様が悲しむのかと思うとすごく辛い。
“シャルロット姫”がいなくなれば王宮や国も大変な事になるだろう。
死ぬのは怖い。お父様やお母様が悲しむのかと思うとすごく辛い。
“シャルロット姫”がいなくなれば王宮や国も大変な事になるだろう。
だけど、私は彼女を失う事が何よりも怖い。
自分勝手と責められてもいい。
それでも私は彼女を、イザベラを助けたい。
自分勝手と責められてもいい。
それでも私は彼女を、イザベラを助けたい。
昔の私のように、白い霧の中で進むべき道も頼れる者もない彼女を。
昔の彼女のように、力強く手を引いて連れ出そう。
昔の彼女のように、力強く手を引いて連れ出そう。
「………今度は私が助ける番」
小さく呟いて彼女はシルフィードから飛び降りた。
『フライ』を唱えながら向かう先には火花の如く明滅する赤い光。
その只中にシャルロットは躊躇うことなく飛び込んでいった。
『フライ』を唱えながら向かう先には火花の如く明滅する赤い光。
その只中にシャルロットは躊躇うことなく飛び込んでいった。
「何のつもりよ。杖を向ける相手を間違っているんじゃない?」
褐色の肌の少女が胸の谷間から抜き出したタクトを構えて睨む。
彼女の傍らには残骸が煙を上げて横たわっていた。
それは人型を模した土塊のゴーレム、その成れの果て。
火球を受けた胴体が消し炭と化して崩れ落ちる。
容易く屠った出来の悪い土人形には一瞥もせず、
キュルケは霞がかった視界の奥に立つ男に侮蔑の混じった眼を向ける。
このゴーレムを自分に嗾けた、見知らぬ生徒の姿を。
彼女の傍らには残骸が煙を上げて横たわっていた。
それは人型を模した土塊のゴーレム、その成れの果て。
火球を受けた胴体が消し炭と化して崩れ落ちる。
容易く屠った出来の悪い土人形には一瞥もせず、
キュルケは霞がかった視界の奥に立つ男に侮蔑の混じった眼を向ける。
このゴーレムを自分に嗾けた、見知らぬ生徒の姿を。
「もう、もう終わりなんだ……。俺達もあんな風に殺されちまうんだ」
止め処なく溢れ出した涙が男の顔を濡らす。
言葉に入り混じってヒヒヒヒと乾いた笑いが響く。
その表情はまるで笑うかのように引き攣り、さながら狂人の様相を呈していた。
足元に転がる焼死体に、上下の感覚さえ失いかねない白く濃密な霧。
恐怖に耐え切れなくなった男の理性は自ら狂う事で崩壊を避けようとしていた。
血走った目がキュルケの早熟にして豊満な肉体を捉える。
舐め回すかのような男の視線に、思わずキュルケは晒した素肌を腕で隠す。
言葉に入り混じってヒヒヒヒと乾いた笑いが響く。
その表情はまるで笑うかのように引き攣り、さながら狂人の様相を呈していた。
足元に転がる焼死体に、上下の感覚さえ失いかねない白く濃密な霧。
恐怖に耐え切れなくなった男の理性は自ら狂う事で崩壊を避けようとしていた。
血走った目がキュルケの早熟にして豊満な肉体を捉える。
舐め回すかのような男の視線に、思わずキュルケは晒した素肌を腕で隠す。
「どうせ死ぬんなら好き放題やってやる。どうなろうが知ったことか」
吐き捨てるかの如く叫ぶ生徒を前にキュルケは溜息を漏らした。
負け戦が決まると略奪や暴行に走る兵士が多く出るというのは聞いた事がある。
死を前にして自棄になり、人としての尊厳を捨てて畜生にまで堕ちる。
この男もその類だったのだろう。兵士でさえない生徒ならば当然かもしれない。
だが、その浅ましい姿はかつて貴族の子弟であった者とは思えぬ有様だった。
(あんな奴が私を思う様に蹂躙するですって?)
想像しただけで喉元に吐き気が込み上げる。
嫌悪感などという生易しいものではない。
生き残る努力を放棄して無関係の人間まで巻き込む、
そんな男には指一本触れるどころか肢体を見る事さえ許されない。
憎悪を通り越して殺意に至ったキュルケの冷徹な眼が男を捉える。
負け戦が決まると略奪や暴行に走る兵士が多く出るというのは聞いた事がある。
死を前にして自棄になり、人としての尊厳を捨てて畜生にまで堕ちる。
この男もその類だったのだろう。兵士でさえない生徒ならば当然かもしれない。
だが、その浅ましい姿はかつて貴族の子弟であった者とは思えぬ有様だった。
(あんな奴が私を思う様に蹂躙するですって?)
想像しただけで喉元に吐き気が込み上げる。
嫌悪感などという生易しいものではない。
生き残る努力を放棄して無関係の人間まで巻き込む、
そんな男には指一本触れるどころか肢体を見る事さえ許されない。
憎悪を通り越して殺意に至ったキュルケの冷徹な眼が男を捉える。
まるで明かりに群がる羽虫のように欲望を露にして男は詰め寄る。
彼女との力量差を弁えず、一歩また一歩と彼は死へと近付いていく。
その時の彼は正しく“飛んで火に入る夏の虫”そのものだった。
彼女との力量差を弁えず、一歩また一歩と彼は死へと近付いていく。
その時の彼は正しく“飛んで火に入る夏の虫”そのものだった。
呻き声に似た声でルーンを紡いでいた男が杖を振るう。
その直後、両者の中間で地面が盛り上がり、先程より一回り巨大な人型を成す。
だが、それも一瞬。キュルケの杖から放たれた火球が完成したばかりのゴーレムを飲み込む。
一点に凝縮された高熱は土人形を食い破るかの如く胴体に丸い孔を穿った。
上下に分断された人形が崩れ落ち、元の土塊へと還っていく。
途端、視界が赤く映るほど昇っていた頭の血が急速に引いていくのを男は感じた。
今の魔法は彼が持つ最大の武器だった。それをあの赤髪の少女は歯牙にもかけず一蹴したのだ。
汚物を見るかのような眼差しで再び少女は杖を掲げる。
その先に灯るのは先程のゴーレムを粉砕したのと同じ火球。
もし喰らえば人体など蝋燭にも等しく溶け落ちる。
その直後、両者の中間で地面が盛り上がり、先程より一回り巨大な人型を成す。
だが、それも一瞬。キュルケの杖から放たれた火球が完成したばかりのゴーレムを飲み込む。
一点に凝縮された高熱は土人形を食い破るかの如く胴体に丸い孔を穿った。
上下に分断された人形が崩れ落ち、元の土塊へと還っていく。
途端、視界が赤く映るほど昇っていた頭の血が急速に引いていくのを男は感じた。
今の魔法は彼が持つ最大の武器だった。それをあの赤髪の少女は歯牙にもかけず一蹴したのだ。
汚物を見るかのような眼差しで再び少女は杖を掲げる。
その先に灯るのは先程のゴーレムを粉砕したのと同じ火球。
もし喰らえば人体など蝋燭にも等しく溶け落ちる。
「ひぃぃああああぁぁぁぁぁああ!!」
間近に迫った死を目にして男は発狂したように地面を這った。
震える足では逃げられないと思ったのか、それとも本当に壊れてしまったのか。
だが、その行動はキュルケにとっても予想外の出来事だった。
濃密な霧の中で相手を見極めるのは僅かに映るシルエットだけだ。
しかし突然相手が伏せた事によって完全に目標を見失ってしまったのだ。
震える足では逃げられないと思ったのか、それとも本当に壊れてしまったのか。
だが、その行動はキュルケにとっても予想外の出来事だった。
濃密な霧の中で相手を見極めるのは僅かに映るシルエットだけだ。
しかし突然相手が伏せた事によって完全に目標を見失ってしまったのだ。
「くっ!」
苦し紛れにキュルケは男の居た場所へと火球を放った。
放たれた『フレイムボール』が炸裂して周囲に火炎を撒き散らす。
これで悲鳴を上げればしめたもの。そこに魔法を打ち込んで今度こそ終わりだ。
そう確信してキュルケは耳を澄ませて男の出方を待つ。
仮に堪えて新しいゴーレムを作ったとしても自分の方が早い。
彼女にとって、これは戦いというよりもモグラ叩きに等しかった。
放たれた『フレイムボール』が炸裂して周囲に火炎を撒き散らす。
これで悲鳴を上げればしめたもの。そこに魔法を打ち込んで今度こそ終わりだ。
そう確信してキュルケは耳を澄ませて男の出方を待つ。
仮に堪えて新しいゴーレムを作ったとしても自分の方が早い。
彼女にとって、これは戦いというよりもモグラ叩きに等しかった。
不意にキュルケの身体が前のめりに崩れる。
何かに躓いたのかと彼女は足元に視線を向けた。
だが、そこにあったのは石ころなどではなかった。
獣の如くぎらついた瞳と荒々しい呼吸。
這い回り汚れきった泥だらけのブラウスとマント。
弱者と見くびっていた相手が自分の足首を掴んでいた。
振り払おうとした瞬間、か細い足首に万力じみた力が込められる。
何かに躓いたのかと彼女は足元に視線を向けた。
だが、そこにあったのは石ころなどではなかった。
獣の如くぎらついた瞳と荒々しい呼吸。
這い回り汚れきった泥だらけのブラウスとマント。
弱者と見くびっていた相手が自分の足首を掴んでいた。
振り払おうとした瞬間、か細い足首に万力じみた力が込められる。
走る激痛に悲鳴を堪えたキュルケの顔が引き攣る。
ただえさえ男性の腕力には遠く及ばないというのに、
追い詰められて理性を失ったからか、男は普段以上の力を発揮していた。
足を抑えたまま男はキュルケの身体に圧し掛かる。
そして杖を振るおうとする手を押さえつけながら彼女の服に手を掛ける。
ただえさえ男性の腕力には遠く及ばないというのに、
追い詰められて理性を失ったからか、男は普段以上の力を発揮していた。
足を抑えたまま男はキュルケの身体に圧し掛かる。
そして杖を振るおうとする手を押さえつけながら彼女の服に手を掛ける。
憎悪に満ちた視線でキュルケは男を見上げる。
だが杖を振るえない今の彼女は男の暴力を前にあまりにも無力すぎた。
キュルケと男の実力は比べるべくもない。
この魔法学院で彼女に勝てる者など教員を含めても数名。
だからこそ彼女の胸中には致命的な油断が生じていた。
それは時として自身の命をも脅かす猛毒となる。
下卑た表情を近づける男にキュルケは覚悟を決めた。
(アンタの勝ちよ。気が済むまで好きなだけ嬲ればいいわ)
これは戦いに慢心した“私”への厳罰。
二度と忘れぬよう屈辱と共に身体に刻み付ける。
そして、この男に必ずや代償を支払わせよう。
だが杖を振るえない今の彼女は男の暴力を前にあまりにも無力すぎた。
キュルケと男の実力は比べるべくもない。
この魔法学院で彼女に勝てる者など教員を含めても数名。
だからこそ彼女の胸中には致命的な油断が生じていた。
それは時として自身の命をも脅かす猛毒となる。
下卑た表情を近づける男にキュルケは覚悟を決めた。
(アンタの勝ちよ。気が済むまで好きなだけ嬲ればいいわ)
これは戦いに慢心した“私”への厳罰。
二度と忘れぬよう屈辱と共に身体に刻み付ける。
そして、この男に必ずや代償を支払わせよう。
獣臭い吐息がかかるほど互いの顔が近付く。
ふと、キュルケは自分に影が落ちるのを感じた。
それは男の物ではなく、さらにその頭上。
自分に覆い被さる相手の向こう側から何かが迫ってきていた。
ふと、キュルケは自分に影が落ちるのを感じた。
それは男の物ではなく、さらにその頭上。
自分に覆い被さる相手の向こう側から何かが迫ってきていた。
影しか窺えない霧の中で彼女はその姿を見て思った。
―――天使が舞い降りてきたのだ。
透き通った冬の空の色に似た青くて長い髪。
それがふわりと羽のように広がり白一色の世界に際立つ。
白い霧を突き抜けて舞い降りた、その天使のような少女は。
―――天使が舞い降りてきたのだ。
透き通った冬の空の色に似た青くて長い髪。
それがふわりと羽のように広がり白一色の世界に際立つ。
白い霧を突き抜けて舞い降りた、その天使のような少女は。
ニードロップで男の後頭部に鈍い音を響かせながら降り立った。