ゼロの奇妙な使い魔 まとめ

8 男の矜持 中編

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匿名ユーザー

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 血と肉が飛散し、骨が宙を舞った。
 戦斧の勢いはそれだけに止まらず、勢い余って地面を抉り、土の中に潜んでいた岩までも打ち砕く。
 苛烈にして強烈な一撃は、人間を容易くミンチに変えてしまう。
 そんな攻撃を、なんとか後ろに飛ぶことで回避したキュルケは、嫌な予感はこれだったのかと今更に思い出して、恐怖に引き攣る頬を指で揉み解した。
 馬の頭部が、見事に粉々になっている。一歩遅ければ、キュルケが身をもってアレを再現していたことだろう。
「馬鹿力ね」
 技術も何も無い、ただ力任せに振るうだけの雑な武器の扱い方だ。しかし、その結果として十分以上の破壊を撒き散らせていることを思えば、小手先の技なんてものは無力だと実感せざるを得ない。
 果たして、自分で勝てるのか。
 戦う力が十分とはいえない仲間達の命を背負ったキュルケは、後ろ手に杖を握って喉をごくりと鳴らした。
「き、キュルケさん?なにか、すごい声がしたんですけど……、そ、そこになにかいるんですか?」
 ミノタウロスの雄叫びが聞こえたのだろう。馬車の後ろからシエスタが顔を出して、こちらの様子を窺おうとしてるのが、キュルケの目に映った。
 キュルケは先に雨の中に居たために目が慣れているが、シエスタはそうではない。雨のカーテンが視界を遮り、そこに何かが居る程度にしかシエスタには見えていないのだ。
 手探りでこちらに近付こうとするシエスタの姿に、ごふ、とミノタウロスが笑った。
「シエスタ、こっちに来ちゃダメ!ギーシュたちと一緒に走って逃げなさい!!」
「え、ええっ、どうして……?」
「いいから、早く!」
 可能な限り語気を強めて追い払い、キュルケは牛頭の亜人と戦うべく杖を握る。対して、ミノタウロスは馬車の中に戻ったシエスタに目を向けて、ぶほ、と唾を飛ばしてまた笑っていた。
 キュルケのことなど、歯牙にもかけない。
 舐められている。
 代々優秀な火の系統のメイジを輩出する名門ツェルプストーが、その名を背負う女が、一介の亜人に見下されている。その事実に、キュルケの感情が昂っていく。
 そっちがその気なら、やってやろうじゃない。炎の真価は情熱と破壊。その体現たるツェルプストーの炎を味わわせてやる。
 掛け合わせるのは火の3乗。徹底して熱に特化した圧倒的な炎。決闘用の、広範囲を焼けない代わりに突破力を重視したツェルプストーの炎だ。
 これならば、ミノタウロスの体だろうが竜の鱗だろうが、関係なく撃ち抜ける。
 キュルケの絶対の自信が篭った炎が杖の先端に灯り、触れる雨を瞬く間に蒸発させて高熱を撒き散らした。
 だが、それが思わぬ結果を生む。
「熱っ、熱っ、あっちち!」
 雨の中で炎の魔法を使うとどうなるのか。キュルケは雨で炎が弱まる、という程度の認識しかなかったのだろう。まさか、鉄をも溶かす炎が超高温の水蒸気を生み出してメイジ自身を傷つけるなど、考えもしなかったに違いない。
 右手に握った杖の先端を中心に周囲はあっという間に水蒸気に包まれ、その熱にびっくりしたキュルケは杖を取り落とし、あ、と声を上げた。
 緊張感が足りていない。
「ごふ、ごふ」
 まるで、こうなることが分かっていたかのようにミノタウロスはキュルケに目を向け、心底おかしそうに笑った。
「くぅ、なんか腹立つわね!」
 感情のままに悪態を吐いてみるが、逆にそれが虚しく感じて余計に腹が立った。
 今度は雨に気をつけて炎を扱って見せると、キュルケは足元に転がった杖に手を伸ばす。
 だが、二度も攻撃を許すほど、ミノタウロスは甘くは無かった。
 杖を取るためとはいえ、眼前の敵から目を離すとなどというあるまじき行為は、学生同士の決闘の範疇を超えるような殺し合いの空気を知らないからこそだろう。タバサなら足先で杖を引っ掛けて手に戻すという芸当が出来たかもしれないが、それが出来るか出来ないかが、実戦経験の有無の、絶対的な差であった。
 雨を切りながら、戦斧はキュルケの後頭部を目掛けて振り下ろされる。
 視界に落ちた僅かな影が刃の到来をキュルケに教えるが、飛び退くにはもう遅かった。
 赤い髪が裂け、いくつも命を奪ってきた戦斧の冷たい刃が褐色の肌に届く。
 キュルケの意識が、鈍い衝撃音と共に刈り取られた。
「ふご、ごふ、ヴ、ヴオオオオオオオォォォォッ!!」
 痺れるような利き手の感覚に、ミノタウロスが咆哮する。
 低地へと流れる水の流れに乗って、赤いものがサラサラと泳いで行く。
 血走った目が、忌々しそうに大穴の開いた馬車の幌から覗く杖に向けられた。
 ぱしゃ、と音を立てて上等な靴が水の流れを遮り、その上に濡れて重くなったローブが払い捨てられた。
 滴を垂らして金色の髪が揺れ、その下の端正な顔に戦士の顔が浮かぶ。
 キュルケ達よりも先に馬車に乗っていた四人の内の一人、金髪の兄妹の片割れが杖を手にミノタウロスを睨み付けていた。
「今は追われ身を隠す身なれど、御婦人の危機を見過ごしたとあっては祖先たる始祖と誇り高き王家の名折れ」
 風が雨を吹き飛ばし、視界を澄み渡らせる。
「このウェールズ・テューダー、女子供を襲う下衆には容赦せん」
 今は倒れたアルビオン王家の直系たる男が、ミノタウロスの前に立ち塞がった。
 ウェールズの周囲を覆っていた風が杖の先端に集まり、雨が再び視界を覆う。
「無事か、キュルケっ!」
 馬車の中からギーシュが飛び出し、その後ろからモンモランシーやマリコルヌも姿を現した。
 駆け寄ってキュルケを抱き起こしたギーシュは、その手に触れた赤いものに目を向け、ヒドイ、と弱弱しく声を洩らす。
 サラ、と赤が指の隙間から零れた。
「髪がこんなにも短く……」
 肩口まで短くなってしまったキュルケの長髪が、また一房水に流れていく。だが、その下に隠れた肌に傷は無かった。
「エア・ハンマーでヤツの斧を弾くのが精一杯だったのでね。彼女の髪までは救えなかった」
 ミノタウロスに目と杖を向けたまま謝罪するウェールズに、ギーシュは仕方ないと頷き、次に駆け寄ってきたフレイムに目をやって、キュルケの体をその大きな体の上に横たえた。
「こっちに、御者さんが居るわ!気を失ってるけど、大きな怪我は無いみたい!」
「なら、その人も運んでくれ!マリコルヌは馬車の中の人々を先導するんだ。出来るだけ遠くまで移動するぞ」
 馬車から離れた位置で声を上げたモンモランシーと何をすればいいのか分からずにオロオロとしているマリコルヌに指示を出して、ギーシュは杖を手にウェールズに声をかける。
「加勢します」
「すまないが、学生では足手纏いだよ。ここは私に任せて行きなさい。それよりも、私の連れを頼む。……大切な妹なんだ」
 足手纏いという言葉に悔しそうにしながらも、ギーシュはしっかりと頷いてフレイムと共に走り出す。
「ヴルゥオオオオオオオオッ!!」
 逃げ出すギーシュたちの姿を目で追って、ミノタウロスがまた雄叫びを上げた。
 獲物が逃げる。せっかくの美味そうなな獲物が逃げてしまう。
 逃がさない。逃がしてなるものか。
 牛のものに似た足を動かし、群れのリーダーと思しき少年にミノタウロスは斧を振るう。
 だが、斧は手首に走った痛みに取り落とさざるを得なくなった。
 見れば、右腕に鋭く突き立つ杖の姿がある。
 ドロドロと血液が溢れ、流れ落ちていく。タバサの氷でも、才人の剣でも貫けなかった鋼の肉体を、たった一本の杖が傷つけたのだ。
 螺旋を描く風を纏ったこの杖の持ち主が誰かなど、確かめなくてもミノタウロスには理解出来ていた。
「エア・ニードルの味はいかがかな?鋭さだけなら、他のどの魔法よりも優れていると自負しているのだが」
 ニヤリ、とウェールズの口元に不敵な笑みが浮かぶ。
 ミノタウロスが、咆哮を放った。


 幾人もの足音が雨の中を駆け抜ける。
 馬車から離れ、街道を逆送するように走る集団を先導しているのは、御者を背負いながらも意外な足の速さを見せるマリコルヌだ。それに続くようにしてキュルケを背負ったフレイムとヴェルダンデが短い手足を動かして必死に駆け、さらに後ろを馬車の先客達やシエスタやモンモランシーといった女性達を横抱きにした青銅の人形が四体走っている。
 殿を務めるギーシュは、杖を握ってワルキューレを維持しながら、ミノタウロスの居る後方への警戒を続けていた。
 馬車の陰はもう見えなくなっている。雨の勢いは止まることを知らず、風によって一層酷くなっているくらいだ。
 息苦しくなって口を開けて呼吸をすると、雨の滴が口の中に飛び込み、冷たい味を下の上に広げる。気温もすっかり下がって、夏とは思えない寒さになっていた。
「あの人、置いてきて良かったの?」
 モンモランシーが後ろを気にするようにして、ギーシュに疑念をぶつける。
 見ず知らずの人を囮に使ったことに罪悪感を感じているらしい。
 仲間の誰かが犠牲になれば良かったなんて気持ちは無いだろうが、ミノタウロスは自分達がモット伯の屋敷から誘い出したも同然なのだ。それを他人に押し付けていることに、良心が痛むようだった。
「仕方ないだろ。僕らにどうにか出来る相手じゃないんだ。足止めしてくれるって言うんだから、とにかく逃げて身を隠さないと。この雨の中なら、すぐにヤツも見失ってくれるはずだ」
 罪悪感を感じているのは、なにもモンモランシーだけではない。
 ミノタウロスを前に口上を述べていたウェールズの声を聞いていたギーシュは、今すぐにでも身代わりになって戦いに赴きたい気持ちで一杯なのだった。だが、自分ではあっという間に踏み潰されて時間稼ぎにもならないことくらい、誰かに指摘されなくても分かっている。
 僅か数ヶ月前まであった驕りや傲慢は、才人に破れ、ワルドには歯が立たず、ミノタウロスに恐怖を抱いたことで、どこかに消えていた。
「でも……っ!」
 食い下がるモンモランシーに、ギーシュは奥歯を噛み締めて腹に力を入れる。
「僕だってもどかしんだよ!でも、足手纏いになってたら意味が無いだろ!?せめて、僕がラインクラスのメイジなら、この地面を底なし沼に変えてやるのに……!」
 生き延びておられた王女殿下の想い人。それを犠牲に生きながらえなければならないこの屈辱。
 今日ほど自らの無力さを呪ったことは無い。
 奥歯が砕けるのではないかと思うほど顎に力を入れ、耐え難い感情をギーシュは無理矢理押さえつける。
 今は託された使命を全うしなければならない。
 まったく無関係の母子と、ただ一人残ってくれたお方の妹君を守るという使命を。
 馬車が横転してから目を覚まさない少女の顔を覗き込んで、ギーシュは杖を握り直した。
「ギーシュ!森の中に入ったほうがいいんじゃないのか!?このまま街道を進んでたら、簡単に見つかっちゃうよ!」
「この雨なら森に入っても同じだよ!とにかく、距離を離すことだけ考えてくれ!」
 マリコルヌの不安そうな声に力強く返し、周囲を見回す。
 街道は森と平野の境目にあるため、少し道を外れれば森の中に入ることは出来る。身を隠すには悪くない場所だろう。
 しかし、雨による不透明度が枝葉の天井で軽減されてしまうし、足場は街道よりもずっと悪い。そんな場所に人間を背負ったワルキューレを器用に走らせられるほど、ギーシュはゴーレムの扱いに自信は無かった。
「ひぃ、ひぃ、はぁ、ごめん、森に入るってのは、ただ休みたかっただけで、正直、そろそろ限界なんだ」
「もう、仕方ないわね」
 人を一人背負って走るのは、元々体力のあるほうでは無いマリコルヌには酷な労働だ。そんなマリコルヌを見かねて、ギーシュのゴーレムに運ばれているモンモランシーが杖を取り出して魔法を唱えた。
「レビテーション」
 マリコルヌの体が地面から浮き上がり、走っていた足が空振る。
「その状態なら、少しは休めるでしょ?」
「た、助かったよ、モンモランシー。君は命の恩人だ」
 背負った御者の重さが消えたわけではないが、とりあえず体さえ支えていれば足を動かす必要は無い。
 荒くなった息を整え、休息を始めたマリコルヌを羨ましそうに見て、ギーシュは頬を叩いて緩みそうになる気を張り直す。
 まだ頑張らなければ。後ろから聞こえる足音が聞こえなくなるまでは。
「はぁ、はぁ、はぁ……、足音?」
 自分で考えておいて、奇妙なことに気付く。
 耳を澄ませば、雨が地面を打つ音に紛れて水を弾きながら土を蹴り上げる音が、確かに聞こえてくる。
 希望的な観測をギーシュはしなかった。
 ああ、次は僕の番かと、自分でも信じられないほど冷静になって音に耳を傾け、杖を握る手を確かにするだけだ。
 少しずつ、少しずつ走る速度を落として、自分の作ったゴーレムと一緒にマリコルヌや使い魔達が逃げるのを見送る。
 そのまま振り返るな。振り返らずに走り続けてくれ。
 淡い願いを胸に、とうとうギーシュは走るのを止めて、泣きそうな顔で振り返った。
「ごふ」
 やっぱり、とは思わなかった。
 コノヤロウとか、ぶち殺してやる。なんて感情も無い。
 ただ怖かった。
 ああクソ、もう斧を振り上げてるじゃないか。これはもう、死んだかな。
 他人事のような言葉が脳裏を駆け巡り、それなのに歯は噛み合わずにガチガチと音を立てる。
 とりあえず、この杖は絶対に離しちゃいけない。ゴーレムを走らせ続けなければ、モンモランシー達の逃げる速度は、比較にならないほど遅くなってしまう。ああ、でもそうすると、僕は魔法が使えないわけか。
 茶色い毛に覆われた腕がぶくりと膨れて、ミノタウロスの体が傾いだ。
 体重を乗せた、全力の一撃。
 ギーシュの瞳に赤いものが映り、そこでやっと、心が正常に動き出した。
「やっぱり死にたくなーい!」
 叫ぶや否や、ギーシュは滑り込むようにミノタウロスの股の隙間に飛び込み、亜人の背後へと回る。そのまま曝け出された無防備な背中に涙の浮かぶ目を鋭く向けると、筋肉の塊のような膨らんだ尻からヒョロリと生える尻尾を左手で握り締めた。
「ぶもっ!?」
 驚きにミノタウロスが声を上げるが、ギーシュにとってはそんなことは知ったことではない。
 ただ、掴んだ尻尾を引っ張り、引き千切ってやろうと足に踏ん張りをかけるだけだ。
「ううぅぅぅあああああああっ!!」
 剣で切れないものが、引っ張って切れるはずが無い。それでも、今のギーシュがミノタウロスに抵抗する術は、それしかなかった。
 尻尾の付け根に感じる痛みの元凶を振り払おうとミノタウロスが体を振り、ギーシュを払い飛ばそうとする。だが、ギーシュは杖を握った右手を左手に覆い被せ、握力を加算して耐え凌ぐ。
 体を振るだけではダメだと判断したミノタウロスが両腕を後ろに回そうとするが、腕は背後に回らない。膨れ上がった筋肉と強靭すぎる肉体が、肩の稼動域を狭めているのだ。
「ど、どうした!その程度かね!?」
 尻尾を掴んでいるだけの心許無い命綱は、辛うじてギーシュに虚勢を張るだけの余裕を与えてくれていた。
 だが、それだけだ。ミノタウロスを打倒するには至らない。
 ギーシュがやっていることは、時間稼ぎ以上のものではないのだ。
「尻尾に手が届かないなんて、バカな生き物だな、ミノタウロスというものは!悔しいか?悔しいなら、僕を振り払ってみろ!ほら、その汚いケツを振れよ!」
 体を振るだけなら耐え忍べる。その確信を得たギーシュは、ミノタウロスを口汚く罵って怒りを誘う。
 時間稼ぎ。それこそが目的なのだから、可能な限り時間を奪ってやればいいのだ。
 ミノタウロスが怒って自分に固執すれば、その分だけモンモランシー達は遠くへ逃げることが出来る。
 この手が何も握れなくなるまで、骨が折れて、指が千切れるまで、延々と食らい付いてやる。
 心を支配する恐怖が、誰かを守れるのだという安心と幸福感に満たされ、気分がどんどんと高まっていく。
「さあ!どうした、この化け物!この状態をどうにか出来るものなら、やって……、み……」
 ギーシュの勇ましい声が途絶え、信じられないものを見るかのように周囲に目を走らせる。
 ラグース・ウォータル……
 どこかで聞いたことのある響きが鼓膜を揺らし、視界を白く染まった氷の結晶が埋め尽くす。
 百本に及ぶ氷の矢が、ギーシュの周囲を取り囲んでいた。
「魔法……!?亜人が魔法なんて……!あっ、クソッ、忘れていたよ!!」
 モット伯の屋敷の地下で、タバサが言っていたことを思い出す。
 このミノタウロスは、魔法を使うのだ。背後が安全地帯なんてことは、ありえない話だった。
 人の声帯とはまったく違うはずの喉が詠唱を完了し、杖の代わりとなっている斧が背中越しに振られた。
「うぃんでぃ・あいしくる」
 無理矢理作られた声が魔法を発動させた。
 四方八方から狙われた氷の刃が、冷たい風に乗って打ち出される。
 ギーシュに取れる選択は、このまま串刺しになるか、尻尾を離して降参することで魔法を中断してくれることを祈るか、あるいは、唯一の逃げ場であるミノタウロスの股を再び潜るかしかない。
「一か八かだああぁぁぁっ!」
 死ぬ気も、生き残れる可能性の低い降参をする気も無いギーシュは、ミノタウロスの股の間に悲鳴のような声を上げて飛び込んだ。
「ヴルォオオオオオオオオォォォォオォッ!」
 ミノタウロスが低く吼え、斧を真下へと突き下ろす。
 股を潜る行為は二度目。そこは、既に予測された逃げ道だった。
 迫る斧の先端を青い瞳に映して、ギーシュは強引に上半身を捻って斧から身をかわす。
 肺が締め付けられるような感覚に続いて、背筋に攣るような痛みが走った。それでも避け切れなかった斧の刃が腕をシャツごと切り裂き、浅くない傷を作る。
 声にならない悲鳴を上げている間に斧は引かれ、二撃目を繰り出そうとしていた。
 ミノタウロスの腕の範囲から考えれば、今から起き上がって逃げたところで、間に合いはしないだろう。
 生命の危機に活性化した脳が一瞬で絶望的な結果を計算し、他の可能性を探り出す。
「こんのおおおぉぉぉぉっ!!」
 目の前にあるミノタウロスの足を抱き込むように掴み取って、ギーシュはそのまま立ち上がろうと両足に力を籠めた。
「ごふ、ごふ、ごふ」
 ミノタウロスが嘲笑う。
 脆弱な人間の力で自分を持ち上げることなど出来はしない。無駄な努力だ。
 斧による、第二撃。足に組み付いている今なら、今度こそ外しはしないだろう。
 確信を込めて腕を振り、足元へと斧を落とす。
 それでも、運命の女神はミノタウロスの味方をしなかった。
「ぶもおおぉっ?」
 ギーシュの必死の悪足掻きは、重い斧を振るうミノタウロスの重心を僅かに崩し、雨に緩んだ地面が追い討ちをかけるように摩擦を奪い取る。
 巨体が揺れ、背中向けに倒れこんだ。
「みたか、化け物!」
 荒く息を吐き、膝から崩れ落ちそうな体を必死に支えて、ギーシュは倒れたミノタウロスに怒声を上げた。
「キュオオオオオオォォォン!」
 肩で息をするギーシュの前で、ミノタウロスの口から悲鳴のような声が飛び出した。
 背筋が反り、両手足を振り回して暴れ始める。
 同じような悲鳴を何度も繰り返し、地面を幾度も殴りつけると、ミノタウロスは血走った目をギーシュに向けて立ち上がった。
 だが、そこに今までのような圧倒的な存在感は無い。足取りは覚束無く、体が右に振れたかと思えば、左に体を倒しそうになる。息も酷く不規則で、なにかに耐えているかのようだった。
 雨の音に混じって、なにか大きなものが落ちる音がギーシュの耳に届いた。
「やっぱり、これで終わりとはいかないか……」
 音の発生源は、ミノタウロスの背中から落ちた氷の塊だった。
 ギーシュを狙ったウィンディ・アイシクルの刃だ。大量の氷の矢は、的を外してミノタウロスの背後に氷の剣山を作り出し、その上にミノタウロスは自重のままに倒れこんだのである。
 メイジは、余程の訓練を積まない限り魔法を二つ同時に使えない。ギーシュが今、ゴーレムを走らせているために魔法が使えないように、ミノタウロスもまた、タバサや才人の攻撃を弾いた奇妙な魔法をギーシュを攻撃するために解除していたのだ。
「まったく、タフな相手だよ」
 氷の欠片を地面に落とし、それに血を交えているが、致命傷には至っていないらしい。
 心底呆れたようにギーシュは溜め息を吐くと、数度の深呼吸を経て集中を高めた。
「それが、手品の種、か」
 ミノタウロスが斧を振るい、聞き慣れない魔法を詠唱し始める。学院では習う事の無い特殊な魔法なのか、あるいは、このミノタウロス独自の魔法なのか。
 どちらにしても、これで絶対の防御が復活したというわけだ。そして、もう二度と同じような罠にはかかってはくれないだろう。
 本気で時間稼ぎしか出来なくなったギーシュは、このまま走って逃げれば逃げ切れたりしないだろうか、なんてことを考え、歯軋りをして自分を睨みつけるミノタウロスを見て、やっぱり無理だと悟る。
 名前も知らない土地に骨を埋めるのは癪だが、意外と気分はすっきりとしていた。
 一矢報いることに成功したからだろう。そして、あの背中の傷ならモンモランシーたちを追うことは出来ないだろうという満足感もある。
 ドットどころか、魔法も無しに良く頑張ったものだと、自分で自分を褒めてやりたい気分だ。
「ああ、でも、やっぱり死にたくないなぁ」
 正直な感想が洩れる。
 だが、そろそろ限界だった。
 雨に延々と打たれ続けた肌は、激しい運動にもかかわらず冷えて痺れたようになり、火事場のバカ力でミノタウロスの攻撃を強引に避け続けたために筋肉が錆び付いたように動かない。
 敵にダメージを与えた。その事実が緊張の糸を緩め、せっかく限界を無視出来るトランス状態から正常な感覚を引き戻してしまったのだ。
 立っているのもやっと。
 そんな状態のギーシュに、ミノタウロスの攻撃を避ける術は無い。
 対して、ミノタウロスは怒りを隠そうともせずに斧を引き摺ってギーシュに歩み寄り、今度はゆっくりと確実に殺すため、自身の腕の太さほどしかないギーシュを胴体を掴み取った。
 震える足のせいで逃げることも出来ず、ギーシュの体が吊り上げられる。
「ヴルルルル……」
 獣らしい唸り声を響かせて、ミノタウロスがギーシュを掴む腕に力を入れる。
 握力だけで全身の骨が軋む音を、少しずつ薄れていく意識の中に聞いて、ギーシュは痛いとも感じられずにミノタウロスの顔をぼうっと見詰めた。
 良く見れば、左目がない。
 屋敷の地下で見たときは両目とも揃っていたように思えたが、いつ無くしたのだろう。
 右腕が、ぽきりと折れる。
 二度目のとき、キュルケをあの方が助けたときは、やっぱりあった気がする。
 何かが折れる音が連続して、胸の辺りが突然柔らかくなった気がする。
 三度目は……、ああ、そうか。あの時振り返った瞬間、諦めかけていたのに諦め切れなかったのは、目が潰れていたのが見えたから。
 呼吸が出来なくなり、目の前が黒く染まり始める。
 一矢報いたのだ、あの方は。一矢報いて、それで……、それで?
 喉の奥から、何かが持ち上がってくる。
 満足して死んだのか?
 意識が一瞬途切れて、すぐに戻った。
 ありえない。
「貴族は死の淵にあっても、背中を見せたりはしない」
 まして、敵が強大であるから甘んじて死を受け入れるなど、それこそ貴族の名折れだ。
 辛うじて絞り出された声に、ミノタウロスの動きが止まった。
「よく言った小僧」
 男のものとも女のものとも思えない不思議な声と共に、ギーシュの眼前、ミノタウロスの腕の上にひょいと乗り上がったのは、一匹の小さな猫だった。
 口に咥えられたナイフがカタカタと音を鳴らし、まるで誘うかのようにギーシュに刀身を晒している。
 声は、このナイフから発せられていた。
「悪くない度胸だ。流石、姐さんの友人だけはある。タダ働きは好きじゃねえが、見捨てちゃ後が怖いからな。この地下水様が、ちょっとばかし手伝ってやるよ」
 気楽そうな声の終わりに、“ウィンドブレイク”の魔法をナイフは発動させた。
 猫が首を振り、ミノタウロスの顔面に魔法を直撃させる。
 無くなった左目の傷を刺激されたのだろう。ミノタウロスは悲鳴を上げ、ギーシュの体を離して顔を抑えた。
 ミノタウロスの手から解放されたギーシュの体が地面に落ちて、力なく横たわる。その隣に降り立った猫が地下水を放して、にゃあ、と鳴いた。
「なんだ、だらしねえな。最近のガキは自分で立てもしねえのか?ほれ、俺を握れ。体が動かねえならなんとかしてやるから、手を伸ばせ」
 う、と息を呑み、ギーシュは激痛の走る体に鞭を打って左手を伸ばす。
 指先が土を掻いて、少しだけ前に進んだ。
「頑張れ、あと少しだ。おい猫、もうちょっと近くに置けなかったのかよ?」
「にゃー」
 地下水の文句に、猫は不満そうに鳴いて森の中へと走り出した。
「あー、行っちまいやがった。まあ、猫に文句を言ったところで仕方がねえか。よし、頑張れよ小僧。あと指一本分だ」
 緊張感のない声がギーシュの耳に届く。
 気が抜けるような声だが、いまはそれに縋るしかない。
 呼吸が出来ているのかどうかさえ分からないままギーシュは懸命に手を伸ばし、爪の先を地下水の柄に重ねた。
「オオオオオオオオオオッ!」
 ギーシュの手と地下水が重なったところに、痛みを乗り越えたミノタウロスの足がギーシュを踏み潰さんと迫る。
 一秒遅かったか。
 地下水が感情の乗らない言葉を内心で呟いて、手助けをするつもりだった少年に無意味な希望を抱かせてしまったことを声に出さずに詫びる。
 あの猫め。
 マチルダの依頼で体を奪ったいくつもの獣の最後の一匹に向けて、地下水が愚痴っぽく声を溢した。
「エア・ハンマー!」
 若い男の声が風の魔法を発動させ、ミノタウロスの体を弾いた。
 ぐらり、と牛頭の亜人の体が揺れて、僅かに足が地面を叩くタイミングが遅れる。
 地下水には、それで十分だった。
 跳ねるように飛び起き、ミノタウロスの足を切りつけながら後退する。
 死にかけていた体とは思えない、敏捷な動きだった。
「ウェールズ皇太子殿下……、生きておられたのですか?」
 体の痛みも意識の混濁もなくなったギーシュが、勝手に動く体を気味悪く思いながら助けてくれた人物に声をかけた。
 雨でクシャクシャになった髪をかき上げ、ギーシュの自意識過剰なものとは違う自然な笑みを浮かべて、はは、と軽く笑う。少しだけ情けない顔が、何故かギーシュには格好よく見えた。

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