ゼロの奇妙な使い魔 まとめ

8 男の矜持 前編

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匿名ユーザー

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8 男の矜持
 土砂降り、という言葉がこれほど相応しい情景は、気候の安定しているハルケギニアでは非常に珍しい。
 黒に近い灰色の空から滝の如く降り注ぐ雨は、地面の吸水力を遥かに超える雨量をもって大地を水で満たし、数多の川を氾濫させていく。
 収穫期を迎えたタルブの麦畑の被害も大きく、生活用水として利用している川から溢れ出た泥流によって、実を結んだばかりの畑の幾つかが流されていた。
 自然の猛威に対して成す術が無いのは、地球もハルケギニアも違いは無いらしい。
 タルブ村の外れにある寺院の中で、ホル・ホースはそんなことを呑気に考えていた。
「ティファニアー!どこ行ったんだい、ティファニアー!!」
 雨の中、大声で義妹の名前を呼んでいるのは、学院から連れ出したマチルダである。
 当初は連れ出されることに抵抗を示していたが、どこからどういう情報が洩れたのか、学院にマチルダの夫と娘が遊びに来ているなんて噂が立ち、教員から学生、使用人に至るまでが好奇心に満ちた目を向けてくるため、居辛くなって結局逃げてきたのであった。
 間違いなく噂の根元はマルトーと寮長だが、折檻は帰ってからと決まっている。
 ほとぼりが冷めるまで仕事を放ってのバカンスのつもりだったマチルダは、しかし、タルブで一番楽しみにしている義妹との再会が、なぜかティファニアの不在という悲しい結果によって妨げられていたのだった。
「クソッ!やっぱり、あのクソッ垂れ王子を殺しておくんだった!!純真で臆病で人を疑うことを知らないティファニアを唆しやがって!クソッ!クソッ!!」
 村人の証言から、ティファニアにウェールズが同行していることは既に判明している。このことから、マチルダの脳内ではウェールズに誑かされたティファニアが遠く連れ去られ、とても口で言えないような色んなことをさせられていることになっていた。
 主にあの凶悪な胸を使って、卑猥なことを。
「ぶっ殺す!!絶対、ぶっ殺す!!見つけ次第ぶっ殺す!!」
 氾濫した河川の水に足首まで浸けて雨に濡れるのも構わず、マチルダは叫び続ける。
 その殺気は、本物であった。
「ねえ……、あれをなんとかしてよ。いい加減、耳が痛くなってきたんだけど」
 窓辺にダラリと力なく頬を乗せていたエルザが、素知らぬ顔で寺院の中央に視線を向けているカステルモールに声をかける。
 現在、寺院の中ではトリステイン魔法学院の教員であるコルベールが、タルブの御神体とも言われる竜の羽衣を原形を留めないレベルにまで分解していた。
 それの何が楽しいのか、カステルモールは先ほどからニヤニヤしながらコルベールの作業を眺め続けているのだ。
「なんとかしろ、と言われても、この雨の中では私の風竜も長くは飛べないから、探しになどは行けないぞ。雨は竜の天敵だからな」
 竜は蛇やトカゲと一緒で、変温動物らしい。全ての変温動物がそうとはいえないが、体温の低下によって活動が鈍るという点は同じだとか。
 高高度の冷たい空気に晒されることに慣れている風竜も同様で、分厚い鱗が風の冷たさから体を守り、鱗と鱗の間にある小さな隙間に熱を溜め込むことで体温を保っているのだが、雨はその隙間に入り込んで直接体を冷やしてしまう。

 雲の上にまで移動してしまえば雨の影響は受けないが、それでは地上の様子がまったく確認できないから意味が無い。ティファニアは馬車に乗って出かけたということから、街道を行く馬車を探すとすれば、どうしても雨に濡れることは避けられないだろう。
 竜というものは意外にも不便なのであった。
「使えないわねえ」
「万能な存在などないからな。少々の不都合は諦めてもらうしかなかろう」
 ティファニアー!と叫ぶマチルダの声と雨の音をBGMに、エルザとカステルモールは冷めた目でどうでもいい会話を終わらせた。
「素晴らしい!素晴らしいですぞ!愉快な蛇君の究極的な未来が、このようなところでお目にかかれるとは……、くうぅぅ、なんという幸運!なんという奇跡!」
 あっちが煩ければ、こっちも煩い。
 竜の羽衣は研究馬鹿のコルベールの琴線に触れたらしく、タルブに来てからというもの始終この調子だ。これでも、鼻水と涙を垂れ流して大喜びしていた初日に比べれば落ち着いたほうなのである。
 寺院の外の景色から内側へと視線を動かしたエルザは、あっちもどうにかしてくれとカステルモールに視線で訴えかけるが、肩を竦めて首を振られ、舌打ち交じりに溜め息を吐いた。
 せっかく太陽が無いというのに、この雨では外に出られもしない。
 退屈で溜まった鬱憤に耐えかねて、拗ねるようにエルザの頬がぷくっと膨れた。
「ねえお兄ちゃん、なにか面白いことないの?」
 窓辺から体を起こし、背中に向かって倒れる。そこにあるのはイスの背もたれではなく、ホル・ホースの胸板があった。
 エルザは、イスに座るホル・ホースの膝の上にちょこんと乗っていたのだった。
「アレのマネでもしてたらどうだ。楽しそうだぜ?」
 そう言って指差した先にはコルベールがいる。確かに、本人は人生の絶頂期を迎えたかのような幸せそうな顔をしていた。
 多分、幸せですか?と問いかければ、幸せです!と拳を握って豪語するだろう。
「世界が明日滅ぶとしても拒否するわ」
「じゃあ、そのまま退屈してろ」
 冷たい返答にエルザはまた頬を膨らませる。
 実につまらない。
 こんなにもつまらないのなら、賞金稼ぎに追い掛け回されていた頃の方が楽しかった。お腹を空かせながら走り回り、休む暇なく街から町へと飛び回った日々。なんと充実した毎日だったことか。
 一週間前後でしかない旅の記憶を大げさに掘り返し、エルザは背中に感じる暖かさに短く息を吐いて座る位置を少しだけ深くした。
 ぷらぷらと地面から遠く離れた足を動かして、さらにもう少し奥に座り直す。それでもなにか物足りないのか、特に使われていないホル・ホースの腕をお腹の前で持ってきて、やっとエルザは満足そうに小さな鼻を鳴らした。
「……おら、こちょこちょこちょこちょこちょ」
「うきゃあっ!?わ、わ、あひ、あはは、あはははっはっはっはははっ」
 退屈を持て余しているのはエルザだけではない。手持ち無沙汰のホル・ホースもまた、なにか面白い物はないかと探していたのだ。
 膝の上というちょうどいい位置に居るエルザが自分の両腕を抱きこんだことで、なにを思いついたのか、唐突に脇をホル・ホースがくすぐり始める。
 突然のことに驚いたエルザも笑い始め、親が子供と戯れるようなほのぼのとした光景が寺院の一角を彩った。
 だが、それも長くは続かない。
「あはっ、あははははっ、あひぃ、ひぅ、ううぅ、うん……、はぅ、あぁ、はぁん」
 エルザの笑い声が徐々に嬌声に変わり、ほのぼのとした雰囲気に艶かしい色が混ざりだす。
 大体、いつも通りの展開だった。
「あぅ……、はぁ、あうぅ、ん……、んくっ!……う?あれ、なんで止めちゃうのよ?」
 手の大きさの関係上、脇以外の色んな場所を刺激していた手が止まり、エルザは不満そうに声を上げる。
 そこに待っていたのは白けた冷たい視線であった。
「なあ……、なんでお前は、いつもそういう方向に持って行きたがるんだ?」
 何かある度、下半身方面へ引き摺られている気がする。
 呆れたような声に、エルザはムズムズする感覚に体を揺すりながら答えた。
「そういう方向って……、感じたままに行動してるだけよ。逆に言わせて貰えば、なんでココは反応しないわけ?趣味じゃないにしても、多少なりとも反応してくれないと、正直ショックなんだけど」
 そう言いながら、深く座ったことでホル・ホースの股間に接触している小さなお尻を、エルザはぐりぐりと動かした。
 帰ってくる感触はフニャフニャとした硬さの欠片もないものだ。分かってはいたが、こうして実際に感触を確かめてみると、女として色んなものが傷つく。
 こっちはいつでも覚悟は出来ているというのに、なんで挑発に乗ってこないのか。
 忠犬でもおあずけが過ぎれば主に噛み付くということを、そのうちベッドの上で教えてやろうかと、そんな気分になる。
「ああ、そういえば、テメエは変態だったな」
 なんとも冷たい反応に口を尖らせる。だが、すぐに気を取り直して、ふん、と鼻で息を吐くと、エルザは小さな胸を精一杯に張った。
「楽しいわよ、変態。お兄ちゃんもちょっとだけ足を踏み外してみない?っていうか、是非とも踏み外しましょう!二人の将来の為に!」
 一体どんな将来設計を立てているのか。
 変態呼ばわりされてもまったく否定せず、むしろ他人にまで推奨し始める変態幼女は、自らだけに留まらず、変態という病原菌の感染拡大を目論んでいるのかもしれない。
 ふんふんと鼻息を鳴らし、くすぐりの続きを求め始めたエルザの首にチョークスリーパーを極めたホル・ホースは、自分の体の半分ほどしかない年上の少女が動かなくなったのを確認してカステルモールに目を向けた。
「そういえば、地下水はどこに行ったんだ?朝から見てねえ気がするんだが」
「正確には昨日から、だ。あの無機物なら、その辺の適当な動物の体を乗っ取って、ミス・マチルダにティファニア嬢を探しに行かされたよ。真面目に探さなければ圧し折る、と脅されていたのを見たから、今頃必死にあちこちを駆け回っていることだろう」
 疲れ知らずという一点を買われて徴発されたようだ。恐らく、見つけるまでは帰ってこないだろう。もしかしたら、そのまま逃げ出しているかもしれない。
 あのヤロウも災難だな。なんて他人事のように呟いて、ホル・ホースは気絶したエルザの頬をぐにぐにと引っ張った。
「よし、やる事も特にねえし、ちょいと昼寝でも……」
「お昼ごはん持って来たよ!」
 ホル・ホースがカウボーイハットをずらして目元を覆うと同時に、寺院の入り口から鞣革を雨避けにしたジェシカが明るい声を上げた。
 両手に抱えるようにしてバスケットを支え、笑顔のまま首を小さく傾ける。
「絶妙なタイミングだな」
 クッ、とカステルモールが笑った。
「まったくだぜ、畜生」
 眠気と空腹、どちらを選ぶかと迷ったところで、シチューの食欲をそそる香りを鼻に感じたホル・ホースは、エルザを脇に抱えて腰を上げた。
 ティファニアを探すマチルダと未知の技術に酔いしれるコルベールの歓喜の声を耳にしながらの昼食は、少しだけ苦かった。


 雨に打たれ、髪を乱し、ぐっと喉を鳴らす。
 マリコルヌの風の魔法のお陰で雨と風はいくらか防げてはいるものの、雨の勢いそのものを掻き消すには至らない。タバサがこの場に居れば雨を完全に防げるのかもしれないが、それをすると、あの場所にミノタウロスに対応できない人間を置いて行く必要が出てきてしまう。
 他に方法があったのかもしれない。しかし、それはもう過去のことだ。今考えたところでどうにかなるものではない。
 眼下には水浸しの大地が広がっている。森も平野も変わりはしない。川から溢れ出た泥水が茶色く濁し、霧のように散った雨水が白く染め上げているだけだ。
 もう、こんな景色がどれほど続いただろうか。
 五分か、十分か、それとも一時間か。
 タバサたちと別れてからというもの、時間の感覚がおかしくなっている気がする。
 一秒でも早く、シルフィードをタバサたちの下に返さなければ、危険は時間と共に増していくのだ。彼女達がミノタウロスに目を付けられていることは確実なのだから。
「あったわ、見つけたわよキュルケ!」
 森と草原の境目に指を向けて、モンモランシーが雨音に負けない声を上げた。
 示した先には、一本の整備された道がある。河川などからは遠く、意図的に土台を盛り上げて作ってあるお陰か、まだ水に沈んではいないようだ。
 正確な現在地がわからないため、あの道がどこに繋がっているかは分からない。だが、ちょうど良く馬車が近付いてきているのが見えたことで、キュルケの腹は決まった。
「降りてシルフィード。あの道の馬車の前に、出来るだけ驚かさないように、そっとね」
 きゅい、と返事をするように鳴いて、シルフィードが降下の体勢に入った。
 徐々に地面が近付き、翼が起こす風に地面に出来た水面が揺れる。
 振動が肌を貫いて着地したことを知らせると同時に、馬の嘶きがキュルケたちの鼓膜を震わせた。
「う、うわあっ、盗賊かっ?」
 御者が手綱を引き、馬車の進行方向を反転させようとする。
 勘違いだが、そう思われても仕方が無いだろう。見通しの悪い雨の中、馬車の前に突然に現れた相手に警戒を抱くのは当然だ。
 しかし、ここで逃げられては困るキュルケは、慌ててレビテーションを使って御者の操る馬を少しだけ浮かせると、シルフィードから下りてトリステイン魔法学院の生徒の証明となる五芒星の刻まれたタイ留めを提示した。
「あ、こ、これはこれは、貴族様でしたか……」
「挨拶はいいわ。それよりも、この馬車の目的地と客の数を教えなさい」
 手を振り、他のメンバーにもシルフィードから下りるようにと指示を出しながら語調を強めて問いかけるキュルケに、御者は怯えた様子のまま口を開いた。
「ラ・ロシェールを経由して、に、西に向かいます。幾つかの村を渡った後、ダングルテールを回るつもりですが……。あ、乗客は四名で、若い母子と兄妹の二組です」
「なら、まだ馬車は十分に広いわね?」
「え、ええ。この雨を見た客が、前の村でかなり降りましたので……、ってもしかして、乗るんですかい?」
「話の流れから考えれば、分かるでしょ」
 屋根のある馬車を確保できたことで余裕が出てきたキュルケは、御者に悪戯っぽくウィンクしてギーシュたちを呼び寄せる。
「どこに行くって?」
「ラ・ロシェールに向かうそうよ。シルフィード、聞いたわね?なら、急いでご主人様の下に戻りなさい。あたし達はラ・ロシェールで待ってるわ」
 聞くや否や、シルフィードは高く鳴き声を上げて翼を動かし、空へと舞い上がった。
 タバサと才人の二人がミノタウロス相手に負けるなんて思っては居ないが、それでも嫌な予感は肌に張り付いて取れない。
 キュルケは、雨に濡れたから冷たいのか、それとも予感めいた不気味な感覚で冷えたのか分からない体を両手で擦って、ノロノロと荷台に移動した。
「お邪魔するわ」
 そう言って、先に乗っていたモンモランシーとシエスタの手を借りたキュルケが馬車に乗り込むと、目に見知らぬ人間の姿が映る。
 両端に設置された長椅子の奥に座っているのは、御者の言った通り、まだ自分達と変わらないくらいの母と抱きかかえられた子供が一組と、上等とはいえないローブで身を隠した綺麗な金髪の兄妹であった。
 身を隠しているのは、たぶん訳有りなのだろう。兄の方は精悍な顔立ちをした男前でキュルケの好みであり、妹の方も気が弱そうだがやっぱり美人で、悲劇的な物語が似合いそうな印象を受ける。
 ああ、なるほど、訳有りだな。なんて思ってしまう、そんな二人だ。
「フレイム、こっちへいらっしゃい」
「きゅるるるるる」
 使い魔を含めた全員が乗ったのを確認して、幌の向こうにいる御者に馬車を走らせるように告げると、キュルケは雨の中ですっかり弱った様子の自分の使い魔を招き寄せて、杖をくるりと振った。
 初歩の初歩であるコモン・マジックの発火に毛が生えた程度の火の系統魔法を、慣れた手つきと流れるような詠唱で発動させる。揺らめくように生まれた小さな火は、フレイムの背中を暖めるように浮かんだ。
 嬉しそうにフレイムが喉を鳴らすのに目を細めて、キュルケは深く息を吐いた。
 走り出した馬車の振動に身を委ねると、途端に眠気が襲ってくる。
 雨の影響で、思っている以上に体力を消耗しているらしい。今以上に気を抜くと、このまま眠ってしまうことになるだろう。
 髪も体も服も乾いていない状態で眠ってしまえば、間違いなく風邪を引く。それに、フレイムのためにも火を消すわけには行かない。
 ぐっと体に気合を入れて自分の頬を両手で叩いたキュルケは、眠気をなんとか吹き飛ばして空中に浮かべた炎を強めた。
「ちょっと、ギーシュ。なにこっち見てるのよ」
 キュルケの作った炎に手を伸ばしてフレイムのお零れに与っていたモンモランシーが、奇妙な視線に気付いて目を鋭くさせた。
「え、見て無いよ。うん。見て無い。なあ、マリコルヌ」
「ああ、そうだとも。僕らはなにも見ていない。自意識過剰ってやつじゃないかな、ミス・モンモランシー」
 モンモランシーが視線に気付いた瞬間、同時に顔を逸らしたギーシュとマリコルヌは口を揃えて無罪を主張する。だが、それはあまりにも怪しく、モンモランシーの疑惑をより強めるだけだった。
 スカートが捲れ上がっていたとか、シャツの隙間から肌を覗き見てたとかだったら、今すぐグーで殴ってやる。
 そう思いながら、モンモランシーはギーシュたちが向けていた視線の先を探して、自分の体を見下ろした。
「いったい何を見て……、って、きゃああああぁぁぁあぁぁぁぁっ!?」
「ああ、そいうえば、雨に濡れてるのよね、あたし達」
 両腕で体を隠すようにして縮こまったモンモランシーを横目に、キュルケは自分の体を見下ろして淡々と呟いた。
 たっぷりと水を吸ったシャツの生地が、肌にしっかりと張り付いて透けていたのだ。
 外なら雨や霧状の滴が邪魔して見えなかったのだが、キュルケが火という光源を作ったことで、モンモランシーの白い肌も、キュルケの褐色の肌も、今ははっきりと浮かび上がっている。
 安物でありながらも厚手の生地の服を着ていたシエスタだけが、胸の膨らみの先っぽまで曝け出すという恥辱から逃れていた。
「こ、このドスケベ!エロ!変態!死んじゃえ、バカ!!」
「うわああぁあ、ゴメンよモンモランシー!」
「ぼ、僕らは無実だ!偶々視線の先に君達が居ただけで、僕らは悪くないぞ!雨が降ったのも偶然じゃないか!言い掛かりは止めてくれ!」
 乙女の柔肌を見られたことで顔を真っ赤に染め上げたモンモランシーが、情け容赦の無い蹴りを早々に白旗を揚げたギーシュと言い訳がましいマリコルヌにぶちかます。
 ギーシュとマリコルヌの体が蹴られて転がる度、馬車は右へ左へと揺れる。それをニヤニヤと見詰めるキュルケの横で、迷惑そうな顔をしている馬車の先客にシエスタが身を低くして謝っていた。
「ふぅ……、ふぅ……、今日はこのくらいにしといてやるわ」
 足が疲れて痺れるほど蹴り続けたモンモランシーは、沈黙したギーシュとマリコルヌを見下ろして、頬を流れる雨のものなのか汗によるものなのか分からない水を拭いた。
 疲れ果てて長椅子に腰を下ろし、肌に張り付いたシャツを摘んで中に空気を送る。
 だが、すぐに乾くはずも無く、指を離せばシャツはまた肌に張り付いて透けてしまう。
 そこでやっと、モンモランシーは自分が水の系統のメイジであることを思い出して、杖を振り上げた。
 水が邪魔なら、移動させればいいのだ。服や体に付いた水を一箇所に集めるだけなら、別に難しいことはない。
 あまり多くない魔法のレパートリーの中から最適なものを選び出し、モンモランシーは詠唱を経て杖を振り下ろす。
 瞬間、馬車が激しく揺れた。
 いや、揺れるなどという程度のものではない。局地地震に見舞われたように上下左右に揺さぶられた後、馬車は横倒しになったのだ。
 突如として倒れた馬車の中でキュルケたちは悲鳴を上げながら絡み合うように転がり、ヴェルダンデのもふもふの体を終着点に倒れ込む。先客の四人も同じように衝撃を体に受けて倒れたが、母の胸に抱かれた子供と兄妹の妹の方が気を失った程度で、怪我らしい怪我は無さそうだった。
「あ、あんた、一体何の魔法を使ったのよ!?」
「ちがっ、誤解よ!わたし、こんな魔法覚えて無いわ!っていうか、まだ魔法使ってなかったんだから、なにも起きるわけ無いでしょ!」
 非難めいた視線を向けるキュルケや先客たちに首を振り、モンモランシーは自分ではないと主張する。
 だが、タイミングがあまりにも合い過ぎていて、釈明としては説得力が薄かった。
 白い目が集中し、じくじくと胸を締め付ける。
 段々耐え切れなくなって、モンモランシーは目元に涙を浮かべた。
「本当に違うのよぉ……」
 ぐすぐすと鼻を鳴らし始めたのを見て、誤解だったかもと思い直したキュルケは、一人の少女の姿を脳裏に描いて申し訳無さそうにした。
 ルイズじゃあるまいし、魔法に失敗して馬車を横転させるなんてことはありえないか。
 本人が聞いたら憤怒しそうなことを思い、泣きべそをかくモンモランシーの頭を抱き締めるようにして慰める。こういう役割はギーシュのはずなのだが、当の伊達男はマリコルヌと一緒に目を回していてまったく役に立ちそうに無かった。
「はいはい、ゴメンね。疑って悪かったわ。でも、そうすると、馬車が倒れた理由が……」
 あやすようにポンポンと背中を軽く叩いてモンモランシーを落ち着かせたキュルケは、馬車の外へと目を向けて外の様子を窺う。
 強い雨の音のせいで、外から入る音の殆どは掻き消えている。何かあったとしても、音からそれを察するのは難しいところだ。
 となれば、直接見るなり、馬車が倒れてから反応の無い御者を探して聞くなりしなければならない。
 せっかく乾かし始めた服や髪が濡れてしまうため、外に出るのは躊躇われるが、どうせ倒れた馬車を戻すために外に出る必要が出てくるのだ。諦めるしかない。
 適当に納得してモンモランシーをシエスタに託したキュルケは、先客やモンモランシー達に馬車の中に居るようにと声をかけて、雨の中に飛び出した。
 ほとんど無風だった風も少しずつ強くなり、雨に向きが生まれて滴の形を変えている。厚い雲から晴れ間は覗かず、天候が回復する気配は無い。このまま風が強くなり続ければ、馬を走らせることも出来なくなるだろう
 そうなる前に、再出発の準備を整えなければならない。
 空を見上げ、やれやれと息を吐いたキュルケは、土の中にめり込むように倒れた馬車の横を通って、御者台へと向かった。
「御者さん……?やっぱり、居ないのかしら」
 案の定、御者台は空席で、放り出された革の手綱が転がっているだけだった。
 どこかに放り出されたのかもしれない。
 5メイル先が見通せるかどうかの灰色の景色の中、足元の手綱を拾い上げる。
 手綱の紐が、何かに引っかかったようにピンと伸びた。
 その瞬間、嫌な感覚が背筋を走った。
「なんで、上のほうに……?」
 呆然と呟くキュルケの視線が、手綱の先端を追って高い位置へと移動していく。
 馬の轡に繋がっている手綱の先が、キュルケの身長よりも上へと向かって伸びているのだ。
 馬車を引いていた馬の背丈は、こんなにも高かっただろうか?170サントはある自分の背丈よりも轡の位置が上に来るような大きな馬なら、一見したときに強い印象を残していても不思議ではないのだが。
 ぬるりと生暖かい液体が手に触れても、まるでそんなものは存在しないというように意識すら向けないで手綱の先を見ていたキュルケは、そこに妙な影を見つけた。
 巨木を思わせる大きな影が、雨のカーテンに浮かんでいる。手綱の先端は、そこに向かって伸びていた。
 ごふ、ごふ、とどこかで聞いた息遣いがお腹の奥に響く。
 なんでここに……、ありえない。!
 冷たい刃物を押し付けられたような感覚がキュルケの肌を粟立たせる。
 これは、夢などではない。幻覚でもない。
 間違いなく、現実だ。
 およそ想定していなかった光景が目の前に現れ、混乱した脳は体を動かすことを忘れて硬直する。
 危険だ。逃げなければ。走れ。仲間に呼びかけて。早く。早く。早く。
 意識ははっきりとして、やるべきことを正確に判断しているのに、体はまったく動かない。
 ボトリと足元に落ちてきた馬の頭は耳の辺りを大きく抉られていて、白っぽい液体が血液に混じって付着している。雨に洗われてそれらが取り払われると、中には皺の入ったピンク色の肉団子が雨水にプカプカと浮いていた。
 人のものじゃない。良かった。じゃあ、御者はどこに?どこかに転がっている?
 的外れなことを考えて、湧き上がる吐き気を押さえつける。
 がち、と奥歯が頼りなく噛み合ったところで、キュルケの体に痺れが走る。
「ヴルオオオオォォォォォォォォッ!!」
 雄叫びと共に、馬の首を吊るしていたミノタウロスの戦斧がキュルケに向けて振り下ろされた。


 雨を避けるために木陰に身を隠した才人とタバサは、周囲に警戒を向けたまま空を見上げていた。
 シルフィードを見送ってから、そろそろ十分。待てば長いが、なにか別のことに注意を向けていれば、いつの間にか過ぎている時間だ。
 そろそろ、キュルケたちは安全な場所に逃げられただろうか。
 落ちてくる雨の滴を目で追って、才人は隣にいる年下の小さな女の子に視線を移した。
 青い髪を雨に濡らし、冷えた肌を抱くように片腕を体に巻いている。もう片方の腕は杖を代わらずに支え続けていた。
「なあ、タバサ。囮に残ったのはいいけど、本当にミノタウロスが襲ってくるのか?」
 剣で斬りつけ、氷の槍を吐きたて、炎に巻いたのだ。致命的な傷を負わせるには至っていないが、普通なら怖がって近付いては来ないだろう。明らかに警戒をしている様子を見せている今なら尚の事だ。
 しかし、タバサは確証を得ているようにしっかりと頷く。
 どういうわけか、随分と修羅場慣れしているこの少女は、過去の経験と独自の知識に基づいた答えを出しているらしい。でなければ、才人をこの場に留めはしなかっただろう。
 脱出時、突然パーカーの裾を掴まれて、黙って此処に立っていて、などと言われた時はどういうことなのかと混乱したが、事情を聞けばなるほどと頷けた。
 これまでの行動でシルフィードが重量オーバーになったことなど無いのに、ここにきてそんな問題が浮上したのは、大雨で土の中が水浸しになったことで土の中に潜れなくなったヴェルダンデをシルフィードに乗せなければならなくなったからだ。
 普段ならシルフィードも多少の無茶が利くのだが、雨による体温低下で力が十分に出ないため、無理に飛べば墜落の恐れが出てくる。
 タバサが才人を選び、この場に留まったのは、最低限シルフィードが飛べるだけの重量に留めた上で、ミノタウロスに対応できるように駒を配置を配置したに過ぎない。それでも、十分に危険が付きまとう選択だが、咄嗟の判断にしては良くやれた方だろう。
 逃げた七面鳥より、手元のケーキ。囮役をそんな風に例えられたときは、流石に才人も頬を引き攣らせて唾を呑み込んだが。
「しかし、襲って来る様子がいつまで経ってもないのはなんでだ……?」
「相棒、それはこっちが気を抜くのを待ってるんだよ。向こうは獣だからな、獲物が油断したところを襲って来るんだよ」
 警戒を続けることに疲れを見せ始めた才人に、デルフリンガーが緊張感を持たせるために声を発する。
「ほら、そこっ!」
「うをおっ!?」
 なんでもない方向に声を飛ばし、才人を驚かせる。
 どう見ても敵の居ない場所を示したのに驚くということは、警戒が緩い証拠だ。
 うわっはっはっは、と楽しそうに笑い声を上げるデルフリンガーに、騙されたことに気付いた才人は、思わず構えてしまった自分が恥ずかしくなって、この錆剣め、と苦々しく毒づいた。
「……確かに、おかしいかもしれない」
 伝説の使い魔と伝説の剣のコンビを微笑ましくも無表情で見守っていたタバサが、眼鏡のレンズに付いた水滴を拭いながら、周囲を観察してそう言った。
「悪かったな、気が緩んでて」
「あなたのことじゃない」
 不貞腐れた様子を見せる才人に否定の言葉を投げかけて、タバサは杖を振り上げ魔法の詠唱を始めた。
「ラグース・ウォータル・イス・イーサ・ウィンデ……」
 周囲にたっぷりと存在する水を集め、無数の氷の刃に変える。
 タバサの最も得意とする“ウィンディ・アイシクル”の魔法だ。
 風が渦巻き、空中に浮かぶ数十もの氷の矢をタバサを中心に円を描くように回転させる。
「た、タバサ?」
 恐る恐る声をかける才人に耳を貸すことなく、タバサは前方、旧モット伯邸に向けて杖を振り下ろした。
 凍て付く風が雨を凍らせながら吹き荒れ、氷の矢は目に見える範囲にある全ての窓を破って屋敷の中へと突撃する。
 破れた窓ガラスが地面に降り注ぎ、屋敷の一部が粉砕されて才人たちの頭上に飛び散った。
 一瞬にして激しい銃撃を受けたような姿に変わった屋敷は、表面を凍らせて白く染まったかと思うと、雨を受けてすぐに解凍され、ぽろぽろと壁の表面を崩していく。
 十秒か二十秒か、破壊の残滓が途切れるのを待ったタバサが、改めて屋敷の姿を瞳に映して悔しげに下唇を噛む。
「何してるんだよ、タバサ!ミノタウロスが怒って出てきたらどうすんだ!?」
 モット伯の屋敷はミノタウロスの巣だ。そこをこれほど破壊されれば、黙っているなんてことは無いだろう。
 襲われないのであれば、それに越したことは無い。
 そういう考えがあった才人が抗議するように声を上げるが、タバサは首を振って才人に目を向けた。
「前提が間違っている。敵は狩りの最中だから、怒っていても怒っていなくても、襲ってくることに違いは無い。でも、今前提の一つが崩れた」
 タバサの視線が滑る様に移動する。
 才人の手に握られた、デルフリンガーがそこにあった。
「奴さんは、ケーキより七面鳥が好きだったってことか?」
「そう。普通の獣じゃない」
「そんなに空腹か。卑しい野郎だ」
 苛立ちを含んだ言葉を発するデルフリンガーと、異様な雰囲気を纏い始めたタバサに不思議そうな顔をした才人は、いったい何の話なのかと首を捻る。
「詳しい説明は剣から聞いて欲しい。シルフィードの向かった方向へ全力で走って。あなたなら、わたしのフライよりもずっと早く走れるはず」
「……なんかよくわかんねえけど、走ればいいんだな?」
 こくりと頷いたタバサに才人は膝を叩いて気合を入れると、小柄な少女のひょいと持ち上げて体を肩に担ぎ、息を大きく吸った。
「え?わたしを運ぶ必要は……」
「黙ってないと、舌を噛むぞ」
 タバサの声により大きな声を被せて、才人は左手に輝くガンダールヴの齎す力のままに駆け出した。
 マリコルヌよりも、いや、比べることすら失礼なほど軽いタバサの体は、まるで負担にならない。これなら、昨日よりも速く走れる。
 強い雨によって、どの地面も先日の森のような状態になっている。だが、今の才人にはそれは平地と大して変わらなかった。
「うおりゃああああぁあぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
 左手のガンダールヴのルーンがギラギラと輝き、才人の体に強大な力を注ぎ込む。
 ハルケギニアの大地をドップラー効果と共に駆け抜ける。
 後の世に、突然の豪雨の日に現れ子供を攫うという、マッハ少年なんて名前の怪談が生まれたかどうかは、定かではない。

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