ゼロの奇妙な使い魔 まとめ

7 人を食らう獣 後編

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匿名ユーザー

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 しかし、推測はそこまでで、モンモランシーの求める疑問に答えられるところにまでは到達していなかった。

「その理由って、いったいなんなのよ」
「う、うーん、なんだろうね?」

 細かい指摘を受けてしまうと、途端に詰まってしまう。
 結局、何の進展も無いまま、二人は首を傾げて廊下を歩き出した。
 廊下の片側を飾る窓を、雨粒がぽつぽつと叩く。
 雨が降り始めたようだ。
 一度降り始めれば、あっという間に雨脚は強くなり、ひび割れた窓の向こうで木々が雨粒を
受けて枝を垂らし始める。
 それを見ながら、ギーシュとモンモランシーは次の部屋へと移動する。
 一番怪しいと屋根裏部屋を漁りに行ったマリコルヌと才人はこの場にいない。キュルケとタバサも階下から探索しているため、姿は見えなかった。
 二人きりの空間。
 必死になって金に目を輝かせていた状態から目を覚ませば、そんなことに気付いてしまう。
 人気の無い廃屋に二人という条件が、無性にモンモランシーの胸をドキドキさせていた。
 同じ屋根の下に野次馬が四人潜んでいるという事実は、既に脳内から排除されている。

「えっと、その……、あ、雨、ふ、降ってきたわね?」

 一人胸を高鳴らせて、勝手に緊張し始めたモンモランシーが、場の静かな空気に耐えられずに声を出した。
 なんでどもっているのよ!なんて心の中で自分を責めて、必死に落ち着こうと息を整える。

「え?ああ、そうだね……」

 気持ちを走らせるモンモランシーだけでなく、実のところ、ギーシュも今の雰囲気に妙な感覚を抱いていた。
 心臓の鼓動に似た大きな雨粒が立てる音が、少し早いリズムで音色を奏でている。それに釣られて心拍数も上昇する。
 要は、僅かに興奮状態にあるのだった。
 頬が仄かに赤らみ、無意味に造花の薔薇を弄り始める。
 プレイボーイ気取りで女の子との接点も覆いギーシュだが、実際に深い関係になった相手はいなかったりする。だから、今のこの二人だけの間に流れる甘い空気には不慣れなのだ。
 ちらちらと、盗み見るように互いの顔を見合わせ、視線が合うとそっぽを向く。
 そんなことを何度か繰り返したところで、隣り合って歩く二人の手が、中空を彷徨った。
 繋ぐべきか、繋がざるべきか。いや、いっそのこと寄り添って腕や肩を組んだりしちゃうべきだろうか。でも、恋人関係は一度解消して、その後に修復したってわけでもないし。
 同じようなことを考えて、同じように悩む二人は、似た者同士なのかもしれない。
 青春真っ只中である。
 それでも、二人はまったく同じ人間ではない。
 モンモランシーよりも、ギーシュはいくらか積極的だった。
 サラサラと流れるように降る雨に目を向けて、割れた窓ガラスの隙間から雨粒が跳ねるのを好機に、ギーシュが窓側を歩くモンモランシーの肩を引き寄せる。

 悲鳴に似た声を小さく上げて、モンモランシーがギーシュの顔を見上げると、いつものようにギーシュは造花の薔薇に頬を寄せてさわやかさを演出するキザな笑みを浮かべていた。

「もっと内側を歩かないと、雨に当たってしまうよ。ここの窓は、随分と隙間だらけのようだからね」
 それだけなら別に肩を抱く必要など無いのだが、ギーシュはモンモランシーから手を放そうとはしない。モンモランシーも、特に抵抗はしなかった。
 これで本人はカッコイイと思っているクネクネした動きや邪魔臭い薔薇を動かす癖が無ければ素直に惚れられるのだが、その辺も含めてギーシュなのだろう。ちょっと頼りなくて、実際に頼りないくらいが、この男にはちょうどいいのかもしれない。
 モンモランシーは、そんなギーシュに心をときめかせてしまう深刻な病気だった。更に、宝探しの出発の際に聞いた、君は僕が守るよ宣言で、治るはずだった病が進行している。
 重病患者まで後一歩。そろそろ医者も匙を投げ出す頃だろう。
 歩みが遅くなり、互いの視線を気にするように目を動かす。
 邪魔はいない。強い雨は光を遮り、二人が何をしても姿を隠してくれるだろう。
 申し合わせたように二人の足が止まって、視線が絡み合う。
 胸の鼓動が徐々に強くなって、相手に聞こえてしまうのではないかと思うほど強く激しく脈を打つ。
 いつの間にか熱い息が唇に当たるほど顔を寄せた二人。雨音を背景に、重なる影。
 こんな事態に、ヤツが黙っている訳が無かった。

「そうはさせるかあああぁぁあ!誰も見て無いと思ってイチャイチャしてんじゃねえぞ、このド腐れカップルがッ!!」

 廊下の曲がり角に隠れていたマリコルヌが、目を血走らせてギーシュとモンモランシーに飛び掛る。その後方には、同じく隠れて覗き見をしていた才人が、マリコルヌのマントを掴んだ状態で引き摺られていた。
 止めようとして失敗したらしい。

「ま、マリコルヌ!?」
「あんた達、いったい何時の間に……!」

 ばっと距離を離し、青春を満喫していたことを誤魔化そうとするが、目撃者や目撃した事実が消えるわけでは無い。マリコルヌの怒りが収まることも、当然無かった。
「昨日はサイトがメイドとイチャイチャしてるかと思ったら、次はお前らか!?なんだコノヤロウ!見せ付けたいのかよう!!そんなに僕を苛めて楽しいのか!?あんコラ言ってみろやゴミ虫がーッ!!」

 覗き見していたのはマリコルヌであって、別にギーシュたちが見せ付けたわけではない。しかし、今のマリコルヌにそんな理屈が通じるはずもなく、ギーシュはただ襟首を掴まれて上下左右に激しく揺さぶられるしかなかった。

「コノヤロウ!コノヤロウ!!恨みと妬みと嫉みとモテない男達の憎しみが篭った拳を喰らいやがれえええぇぇえぇえぇっ!!」

 風より速いと豪語するマリコルヌの拳が、ギーシュに向けて放たれる。

「クッ、何で僕がこんな目に……」

 すぐに襲い来るだろう傷みに、ギーシュは目を瞑り、歯を食い縛る。
 だが、マリコルヌの拳はギーシュの頬を軽く叩いただけで、肉を抉り、歯を折り、首の骨を損壊させるような威力は発揮しなかった。
 嫉妬に狂ったマリコルヌが手加減をするなんて。と、ギーシュやモンモランシーや才人の視線が集まる中で、丸い体が崩れる。
 床に膝を突いて目元に涙を浮かべたマリコルヌのシャツの下から、表紙を革で覆った一冊の本がばさりと床に落ちた。
 力なく四つん這いになり、ぽたりと落ちた涙が窓の隙間から入り込んだ雨と一緒に床に染みを作る。
 マリコルヌは、泣いていた。

「情け無い。……なんて情け無いんだ、僕は!」

 突然始まったマリコルヌの語りに、ギーシュたちは耳を澄ませた。
「ああ、そうさ。僕は、ギーシュやサイトに嫉妬してる。イチャイチャしてる姿を見る度にはらわたが煮えくり返りそうな思いに囚われてる。殺したいほど憎い。いや、実際に何度か殺そうと思った。男の数が減れば、余った女の子が自分に振り向いてくれるなんて、卑しい考えをしていたんだ……」

 淡々と言葉を放つマリコルヌを横目に才人が本を拾い上げる。マリコルヌの語りよりも、こっちの方が気になったのだ。
 ギーシュとモンモランシーの二人にも見える位置で革表紙の本を開くと、才人の視界が肌色で一杯になった。

「う、うわあああぁぁっ!な、なんだ、なんなんだい、それは!?」
「いやああぁぁっ!なんてもの持ってるのよ!!」
「おおぉ……、無修正かぁ……」

 顔を真っ赤にして反応するギーシュとモンモランシーとは対照的に、才人はカラーで印刷された洋物のお子様には見せられない雑誌に目が釘付けになっていた。
 金髪の美女が、あられもない姿で扇情的なポーズをとっている。頁をめくれば、別の女性が脂肪で出来た球体を自己主張させていた。
 黒や白での塗り潰しやモザイクなどという小細工は用いられていない。局部もモロである。
 からみのシーンもあるらしく、男の股間にぶら下がる大き過ぎるだろうというものが容赦なく女性を貫いていた。
 内容や印刷の質からして、かなりの上物のようだ。
 真っ赤な顔をして顔を逸らし、なんて破廉恥な!と憤るギーシュに才人が悪戯心を出して雑誌を見せびらかすと、両手で顔を覆って壁に向かってしゃがみ込んでしまう。逆に、モンモランシーに雑誌を突きつけると、きゃーきゃー言いながらも指の隙間から覗き込んでいた。
 ギーシュは純情で、モンモランシーは意外とむっつりスケベらしい。新発見である。
 そんなふうに才人が小学生みたいなことをしている間も、マリコルヌの独白は続いていた。

「ああ、そうさ!屋根裏部屋で見つけたとき、興奮したんだ!なんてものを見つけてしまったんだってね!神様からの贈り物なのかもしれない。一生モテない人生のぽっちゃりさんである僕に、始祖ブリミルが見かねて神の軌跡ってヤツを使ってくれたんだって。でも、そうじゃないんだ……。こんなものをくれるくらいなら、モテるようにして欲しかったんだ。あ、いやまあ、貰えるものは貰うんだけどね?ああ、でも……」

 一向に終わりそうに無い話を聞く気も起きず、才人は反応の面白いギーシュに再び雑誌を見せ付けて遊び始める。

「ほら、ギーシュ。テメエはいつも女の事ばっかり話してるんだから、コレくらい大した事ねえだろ?ちゃんと見ろよー」
「わー!わー!聞こえない聞こえない!!そんな下品なものはしまってくれー!」

 ブンブンと首を振り、決して顔をこちらに向けようとしないギーシュを、才人はニヤニヤと笑みを浮かべながら眺める。
 モンモランシーがちらちら見てるのもしっかり確認済みだ。後でネチネチと突っついてやるネタである。
 わーわー。きゃあきゃあ。ぐちぐち。ニヤニヤ。
 それぞれ異なった反応を示して、なんだか賑やかで不思議な光景が繰り広げられていた。
 そんな中に紛れるように、赤い髪と青い髪が踊る。
「なにやってんのよ、あんたたち?」
「うおぉっ!キュルケ!?た、タバサまで……、いつの間に」
 足音も無く背後に現れたキュルケとタバサの姿に才人の体が跳ねた。
 一部始終とは行かずとも、何をやっていたかは大体知られているらしく、キュルケの表情には呆れの色が強く現れている。一緒に居たタバサも、いつもの如く無表情なのだが、どこか白けた雰囲気があった。

「あなた達、ちゃんと探してた?」
「ああ、探してたとも。うん、ほら、そこに落ちてるだろ?」

 慌てて取り繕ったギーシュが、床に落ちた雑誌を指差す。それを拾い上げて、キュルケが溜め息を付く。
 やはり、召喚されし書物では無いらしい。ぽい、と放り捨てる動作も酷く乱暴で、ゴミ同然な扱いだ。

「そっちの本は?」
「え、これ?」

 キュルケが指差した才人の手元には、一応タバサという見た目が子供にしか見えない少女がいるために閉じられたエロ雑誌がある。
 騒ぎの原因だという認識はあるようだが、これが屋敷の中で回収されたものだという情報までは掴んでいないようだ。
 ちらり、とマリコルヌに視線を向ければ、まるで恐怖で固まった小動物のように、体を小刻みにフルフルと揺らしていた。
 その雑誌を渡さないで欲しい。それは僕にとって、生きる希望なんだ。
 そんな声が聞こえてきそうだった。

「あー、えーっと、マリコルヌの私物」

 こんなものの為に恨みを買うべきではないと判断した才人は、咄嗟に嘘をついた。
 マリコルヌの目が輝き、拝むように上半身を上下させている。
 若干気持ち悪かった。

「私物?……そう、ならいいわ」

 才人とマリコルヌを見比べて、その目に疑わしげな色を滲ませたキュルケは、意外にもすぐに引き下がる。
 納得した様子は無いが、あまり拘るつもりもないようだ。
 顔を窓に向け、降りしきる雨を見つめる。外は暗く、雨の滴で灰色に濁り始めていた。

「雨が強くなってきたわね。長居しても仕方ないし、早めに切り上げて帰りましょう」
「え、もう終わりなのか?まだ来てばかりじゃねえか」
 きょとん、と目を丸くして才人がキュルケに向かい合う。
「雨が降ってるんだから、ここで雨宿りすれば良いじゃないか。シエスタたちも呼んでさ、晴れるまで探索を続ければ……」
「ダメよ」

 少しだけ語句を強めて、キュルケが才人の言葉を遮った。
 珍しく真剣な表情を浮かべるキュルケの横で、タバサが床にしゃがみ込み、何かを拾い上げる。
 小さな指に摘まれたこげ茶色の短い毛にタバサは、やっぱり、と呟き、それを見るキュルケの表情が一層に引き締まった。

「どうしたんだよ?なんかおかしいぞ、お前ら」

 分かれて行動を始めてから、それほど時間が経っているわけではない。それなのに、別れる前と今とでは雰囲気が一変している。
 当然ともいえる才人の疑問に、キュルケはタバサが拾い上げたこげ茶色の毛を視線で指し示して、屋敷に潜んでいる怪物の名を告げた。

「ミノタウロスよ。屋敷のどこかに、ミノタウロスが隠れてる。一階の食堂に、あたしたちの前に屋敷に入り込んだらしい泥棒の死体があったわ」

 聞き慣れない名前に疑問符を浮かべる才人に代わって、ギーシュやマリコルヌが表情を凍りつかせた。

「ほ、本当に、ミノタウロスなの?」

 確かめるようにモンモランシーが問いかけると、タバサが深く頷いて、間違いないと答える。
 口の中に溜まった唾を飲み込んで、キュルケが言葉を続けた。

「食堂にあったのは、食べ残しみたい。どんな趣味をしてるのか知らないけど、ご丁寧に皿に盛られてたわ……」

 思い出した光景にキュルケは顔色を青くして、込み上げる吐き気から口元を抑えた。

 ミノタウロスとは、牛頭の亜人である。
 身長は2メイルから3メイルで、筋骨隆々。肌は短い剛毛で覆われ、皮膚の強度と合わせてオーク鬼とは比べ物にならない強度を誇っている。頭部の形状に似合わず雑食であるが、特に肉を好み、中でも人間の若い女が好みらしい。知能も発達しており、会話は勿論、文字を書くことも出来るという。
 生息数こそ少ないが、腕力馬鹿のオーク鬼や体ばかり大きいトロル鬼やオグル鬼などよりも人間にとっては脅威と言われている生物だ。
 メイジ殺し。
 一般的に平民がメイジを倒すことの出来る技能を持っている場合に語られる名だが、このミノタウロスもまた、生半可な魔法を受け付けないという意味でメイジ殺しの異名を持つ。
 同体格のオーク鬼よりも全体的な能力が高く、竜の亜種であるワイバーンと一対一で勝ち得るだけの力を秘めているのだから、化け物としか言いようがない相手だ。
 そんな怪物が近くにいる。
 その事実が、才人たちに緊張を強いていた。
 ギシ、と音が鳴った。
 階段を一段下りる度、足場の床板が悲鳴を上げるように軋んでいる。
 モンモランシーとマリコルヌを守るように円陣を作った才人たちは、その状態のまま屋敷の中を移動していた。
 ロビーの見える二階の廊下。今、ちょうどそこから階段を下りようとしているところだ。
 階段を下りれば、ロビー中央を一直線に横切るだけで玄関に到達する。出口までの距離は遠くはない。
 当初、窓ガラスを割って外に脱出するという手も考えられたのだが、窓は二人も三人も同時に通れる大きさではないし、僅かな時間でも人数が散らばることは避けるべきだと、タバサが珍しくも強く主張したのだ。
 外は雨。キュルケの魔法は火が中心であるために十分な威力が発揮できず、地面が水を吸う事で安定を失えば、才人の動きも鈍くなる。辛うじて、タバサの水と風を織り交ぜた魔法がミノタウロスには有効だと思われるが、一人で全員を守れるわけではない。
 ミノタウロスの急襲に迅速に対応出来る状態を維持しつつ、シルフィードを呼んで即座に撤退する。
 それが、才人たちに許された最善の策だった。

「来るかな?来るのかな?」

 一番怯えた様子を見せるマリコルヌの声に、びくりと肩を跳ねさせたモンモランシーが黙れとばかりに睨みつける。
 散々騒いだのだから、ミノタウロスがこっちの存在に気付いていないはずが無い。数の多さから警戒をして姿を現さないのだろう。
 それは、才人たちの狙い通りでもある。
 円陣を組んで、襲撃に対処できる状態であることを敵に知らせてやれば、相手も突然襲いかかってくることはない。ミノタウロスの体の頑丈さと膂力を武器に突撃されることが、火力に不安のある才人たちにとっては一番怖いことなのだ。
 このまま、何事も無く屋敷から出られることを願って、才人たちは階段を下りきる。後はロビーフロアの中央を抜ければ玄関だ。
 逸る気持ちを押さえつけて、一歩、また一歩と絨毯の残骸の上を進む。
 あと十歩。あと九歩。あと八歩。
 手を伸ばせば、もう指先が外に出るのではないか。
 そんな距離に辿り着いたとき、キュルケがはっとなって床に視線を向けた。
 力の抜ける感覚。いや、足元が無くなるような浮遊感。
 屋敷に入ってすぐに尻餅をついたことを思い出して、それが窪みなどではない事に今更ながらに気が付いた。

「みんな、走っ……!」

 声を出し、この場所が危ないということを知らせるには、もう遅かった。
 目の前の景色が上昇していく。それが自分が落下しているからなのだと気付いて、何かに掴まろうとしても、手は宙を掻くばかり。
 土台となっていた石材と土が降り注ぎ、その中に友人達の悲鳴が混じる。埃が呼吸で喉に張り付き、魔法を使う暇さえ手に入らない。
 もうダメか。
 そんな言葉がキュルケの脳裏を過ぎる。
 だが、落下の衝撃は意外にも早く訪れた。

「痛ぁっ……!」

 石や土の塊よりもずっと小さく軽い音を立てて、キュルケの体が土砂の上に転がった。
 強く打ち付けた背中の痛みと呼吸の乱れに、背筋を弓なりに逸らす。幸いにして、頭をぶつけることは無かったようだ。

「だ、大丈夫か?」

 警戒中にデルフリンガーを握っていた才人が逸早く立ち直って、頭を振りつつ穴の中で周囲を見回す。
 大きな瓦礫は無く、下敷きになっていたギーシュやマリコルヌも、特に怪我らしい怪我も無く起き上がる姿が見える。モンモランシーはポケットに入れていた香水が割れたらしく、濡れたスカートと強い匂いに顔を顰めていた。

「こっちは大丈夫だけど……、タバサは?タバサは無事なの?」

 ホッと息を吐いて、キュルケが親友の姿を探す。
 返事は、真後ろからやってきた。

「平気」
「わぁっ!?ちょ、ちょっと、驚かさないでよ」

 そんなつもりは無かった、と言いながら、タバサは髪や服に付いた埃を手で払う。
 擦り傷一つ無い姿に胸を撫で下ろして、キュルケは自分達が落っこちた原因を求めて頭上に視線を移した。

「大きな穴が開いちゃったわね。床が腐ってたのかしら?」

 ぽっかりと大きな丸い穴が開いている。キュルケの身長では手を伸ばしても届きそうには無いが、身長の高い男性が二人で肩車でもすれば指先が届きそうな距離だ。レビテーションやフライを使えば、上れない距離ではない。
 視線を天井から戻して、自分達のいる暗い穴の底に向ける。
 それにしても、この空間は何なのか。
 土埃で視界が覆われているために良く見えないが、人工的に掘られて作られた通路であることだけは把握できる。ところどころ、補強したような跡があるのだ。

「こ、こらマリコルヌ!なにをそんなに興奮しているんだね!?」

 キュルケの思考を邪魔するように、ギーシュの声が狭い空間に響いた。
 見ると、マリコルヌが天井と床を繋ぐように等間隔に並べられた鉄の棒の間に首を突っ込んで何かを凝視している。

「牢屋?なんでこんなところに……」

 マリコルヌが息を荒げて見ていたのは、廊下の端に作られた鉄格子の嵌められた狭い空間であった。
 見た目はどう見ても牢屋で、出入り口にも錠前がかけられ、中には鎖の付いた足かせや刺々しい器具が転がっている。

 興味を引かれてキュルケも近付いて見てみると、背中が三角形をしている木馬や、乗馬用と
は思えない鞭、太くて赤い蝋燭も転がっていること気付く。石畳の床には、何かの染みが色濃く残っていた。

「これ、拷問器具よね?モット伯って、影でこんなことをしてたの……?」

 はぁはぁ言っているマリコルヌの横で、同じく牢屋の中を覗き込んだモンモランシーが、顔を青褪めさせて口元を手で覆っている。
 トリステインでは、拷問は数百年前に廃止されている。正確に言えば、ある種の条件を満たした犯罪者にのみ、適用が認められている状態だ。司法と王宮の認可無く拷問を行えば、一家郎党の爵位の剥奪を含めた重大な罰が与えられることになっている。
 歴史上、拷問を好んで行う趣味を持った人間は数多く居る。そういった人物は例外なく忌み嫌われ、後の歴史上に置いても恥ずべき者として認知されていた。

「まったく、けしからん!このような残虐な行為……、貴族の風上にも置けぬ!!」

 武門の生まれとして、貴族らしさを腰が引けながらも重んじているギーシュが、拳を握りながら怒声を上げた。
 未だこういうことが影で行われているという事実にショックを受けるモンモランシーの肩を抱いて慰めながら、モット伯に対して次々と侮蔑の言葉を並べ立てる。
 そんな光景に、牢屋の中身が本当はどういう風に使われるものなのかを察していた他の人間は、どう説明したものかと考えて、すぐに諦めた。
 純情な少年少女の心をこれ以上穢してはいけない気がしたのだ。

「タバサにもちょっと早いわね」
「……?」

 もう一人分かっていない人間に、キュルケは優しく笑いかけて視線を逸らさせる。
 大人になるということは、こういうことなのかもしれない。

「とりあえず皆、一度上に上りましょう。ここにいても仕方ないし、ミノタウロスがいつ来るか分からな……」
「お、おい、キュルケ」
「なに?どうしたの……って」

 SだとかMだとかの人専用の部屋のことなど置いて、危機的状況であることを思い出したキュルケに、才人が肩を叩きながら声をかける。左手にはデルフリンガーを握り、右手は人差し指を頭上に向けていた。
 指の先を追って、キュルケと隣にいるタバサが頭上に視線を向けると、外に落ちた稲妻の光にシルエットを作った奇妙な頭が、穴の向こうからこちらを覗き込んでいる姿が見えた。
 稲妻の後に聞こえる、大岩の落石に似た音が途切れるまで、キュルケたちはその場で呆然とそれを見上げ、落雷の音の終わりと共に呟いた。

「……ミノタウロス」

 牛頭の亜人がこちらの声に反応したかのように、涎を垂らしてのそりと動き出した。
 来る。
 その感覚にキュルケは慌てて声を上げた。

「え、円陣を組んで!!」
「無理だって!この狭い場所じゃ!」

 急いで崩れた陣形を戻そうとするキュルケだが、周囲の状況に対応できず、才人に指摘を入れられる。その間にもミノタウロスは動き、穴の中へと飛び込もうとしていた。

「モンモンの嬢ちゃんとふとっちょは下がりな!相棒と小僧は前だ!キュルケとタバサの二人は援護を頼むぜ!!」
「うおお!?久しぶりに喋ったな、デルフ」

 才人の手に握られたインテリジェンスソードが、六千年という月日で培った冷静さを見せる。
 指示に従って、モンモランシーとマリコルヌが通路の奥へ移動し、キュルケとタバサが才人の後ろに隠れて杖を構える。ギーシュは、一歩離れてワルキューレを二体、自分の前に呼び出した。
 空気を押し潰すようにしてミノタウロスが穴の中に身を投げ、積もった土砂の上に降り立つ。
 ミノタウロスの身長と穴の深さは、ほぼ同等のようだ。ミノタウロスが大きいのか、穴が浅いのか。人が歩くのに十分な広さと高さがある通路を見れば、どちらかは明白だろう。
 フゴフゴ、と鼻を鳴らし、ミノタウロスは漂う匂いを犬の如く確かめる。
 人間の、それも美味そうな若い女の匂いに、口元がニヤリと笑っているかのように歪んだ。

「体に自信はあるけど、こういう意味で食べられる気にはなれないわね」
「若干一名、油っぽくて食えたもんじゃねえだろうけどな」

 口の端から次々と零れ落ちる涎に頬を引き攣らせて、湧き上がる嫌悪感を誤魔化そうとキュルケと才人は軽口を叩く。
 威圧感だけならオーク鬼と大して変わらない。それが、二人に若干の余裕を与えていた。

「冗談言ってないで、早く何とかしてよ!」

 一応、自分も何とか戦おうと杖を取って戦う準備をしているモンモランシーが、そんなキュルケと才人に突っ込みを入れた。
 はいはい、と気の無い返事をして、ぐっと才人はデルフリンガーを握る手に力を込める。
 左手の甲に浮かぶガンダールヴのルーンが、強く輝き始めた。

「行くぞ、ギーシュ!」
「分かってるよ!ワルキューレ!!」

 青銅の戦乙女が才人と共にミノタウロスへと突撃する。
 狭い空間に用いることの出来る兵法など知りはしない。ただ、純粋にぶつかるだけだ。
 迎え撃つミノタウロスが人間そっくりの手に握った戦斧を横薙ぎに振るう。それだけで、二体のワルキューレが真っ二つになった。
 潜るようにして戦斧から逃れた才人は、破壊されたワルキューレの残骸を蹴り上げ、ミノタウロスの頭部にぶつける。
 人間相手なら、ガンダールヴの脚力で蹴り飛ばされた青銅の塊を受ければタダでは済まないだろう。しかし、ミノタウロスにはダメージにならない。
 しかし、視界は塞がれた。
 更に身を屈めてミノタウロスの足元に接近した才人は、そのままデルフリンガーを両手で握り、ミノタウロスの左足に向けて振り抜く。
 剣の刃が筋張った牛と同じ形の脚に突き刺さり、体毛ごと皮膚を削る。
 だが、刃が通ったのはそこまでだった。

「硬ってえぇっ!!?」

 皮膚の下にある筋肉を断つには至らず、斬るためにつけた勢いがそのまま腕に跳ね返り、痺れたような痛みが手全体に広がる。デルフリンガーの柄を手放すことこそ無かったが、反動で刃はミノタウロスの左足から外れて地面を叩いていた。 
 才人の攻撃などものともせず、腕力で強引に振り抜いた戦斧を戻したミノタウロスは、邪魔臭そうに才人の上に戦斧を降らせる。
 地下室が崩れるのではないかと思うような振動が突き抜けて、戦斧が才人の居た場所を大きく抉った。
 間一髪、後退することに成功した才人は、まだジンジンと痺れる手に目を向けて、うへ、と声を漏らす。
 体の中でも比較的細い足首を狙ったのだが、まったく斬れる気がしない。鋼鉄の塊でも相手にしているかのような気分だった。

「なんだ相棒、情けねえな!あのくらい斬れねえと伝説の名が廃るってもんだぜ!」
「うるせえ!テメエがナマクラじゃなかったら斬れてたよ!」

 錆び付いた大剣に文句を返して、柄を改めて握り直す。
 ごくりと喉を鳴らす才人を嘲笑うように、ミノタウロスはゆっくりと地面を抉った戦斧を構え直して、ごふごふ、と笑った。
 お前の攻撃は効かない。だが、こちらは一撃でお前を殺せる。
 そんなことを言っているように見えた。

「馬鹿にされてる気がするんだが、気のせいか?」
「多分、間違っては無いと思う」

 才人の呟きに、杖を構えて魔法の詠唱を終えたタバサが答えた。

「攻撃する」

 隣のキュルケに告げて、タバサが杖を振るった。
 冷たい空気が一点に集まり、氷の彫刻を形作っていく。
 閉鎖された地下に水分は多くない。しかし、外で振り続ける雨の湿気は確実に流れ込んできている。
 氷の槍を作るのには、十分な水分だ。
 ウィンディ・アイシクルのように複数の弾丸ではない、一点突破のジャベリンの魔法。それにスクウェアクラスの魔力を乗せて、タバサはミノタウロスへと打ち出した。
 氷の砲弾が短い距離を一瞬で詰める。
 狙いは、心臓だ。
 決して鈍重ではないミノタウロスでも、銃弾に匹敵する速度で接近する氷の槍を砕くには速さが圧倒的に足りない。身を捩り、逃れようとしたときには、氷の槍は既にミノタウロスの胸に到達していた。

「……ダメ」

 タバサの小さな声が才人たちの耳に届く前に、氷の槍が砕けた。
 槍の先端を構成していた小さな破片が、辛うじてミノタウロスの胸の皮膚を貫いている。だが、やはり筋肉を破壊するにまでは至っていない。才人と同じ結果だ。

「いくらミノタウロスの体が強靭だとしても、これはちょっと異常」

 タバサの知識では、魔法を防ぐほどの強度を持っているのは、ミノタウロスの皮膚であって筋肉ではない。もしかすれば毛にも相当な強度があるのかもしれないが、貫けている現状では関係ないだろう。
 なにか秘密がある。
 そうタバサが結論を出して警戒を強めると、キュルケがタバサの前に出て杖を振るった。

「斬ったり突いたりがダメなら、後は焼くしかないじゃない!」

 とびっきり強力なファイア・ボールの魔法を使い、灼熱の火球をミノタウロスに向けて投げるようにして放つ。
 ミノタウロスが黙ってそれを受ける筈も無いが、迎撃しようと振られた戦斧は火球に集約された炎を広げるだけで砕くには至らなかった。
 一瞬で、ミノタウロスの周囲が炎に包まれる。それと同時に熱波が才人たちを襲った。

「どれだけ体が頑丈でも、ものには限度ってものがあるのよ。どんなに硬い肉も、じっくり焼けば中まで火が通るようにね!」

 急激な温度変化によって生まれた気流に髪を靡かせ、腰に手を当てて不適に笑う。
 炎の生み出す赤い光が、キュルケの髪を鮮やかな紅色に変えていた。

「いや、でもこれは不味いんじゃ……」

 才人の呟きに、何が?とキュルケが首を傾げた。
 一階ロビーの崩れた床の残骸を覆いつくすように炎が広がり、ミノタウロスはその中心で熱に炙られて悶えている。斧を振って火を消そうとするが、焼け石に水のようだ。
 効いている。ミノタウロスの体を、炎は確かに焼いている。
 なら、何が問題なのか。
 それを考えたところで、キュルケはすぐに気が付いた。

「あっ、空気の通り道!」
「そうだよ!このままだと、俺たち酸欠で死ぬぞ!」

 火のメイジとして、燃焼と空気の関係性をしっかりと勉強していたキュルケが、さっと顔色を変える。地下道の中にどれほどの空気があるのか分からないが、そう多くは無いはずだ。
 ミノタウロスが炎に焼かれて死ぬのが早いか、才人たちが酸欠で倒れるのが早いか。我慢比べの始まりである。
 だが、我慢を意識するよりも先に、結果が出た。

「……あー、ダメっぽい?」
「そのようだね」

 一体何に引火しているのか、燃焼はじわじわと広がり、一層に地下に残ってる酸素を消費していく。
 それだけに留まらず、炎に炙られていたミノタウロスの様子も徐々に落ち着き始め、焼けていた毛皮の燃焼が止まり始めていた。
 これに最初に反応したのは、次の魔法の詠唱に移っていたタバサであった。

「……魔法を使ってる。無駄に頑丈なのは、多分アレが原因」

 血流を操作し、皮膚の下に水の防護幕を形成していたのだ。今は、毛皮の周囲に水分を集めて熱を遮断する層を作っているらしい。

「ま、マジかよ」

 水の系統にも詳しいタバサだから理解できたミノタウロスの秘密についての説明に、才人たちが驚きに悲鳴のような声を上げた。
 敵とこちらの魔力や精神力の差が分からない以上、弱点や防護幕の強引な突破を考えるのは無謀だろう。
 戦い慣れしたタバサの頭が、即座に一つの答えを導き出した。

「撤退を推奨する」
「異議ある人!」

 タバサの言葉にキュルケが全員を見渡して、確認を取る。
 こくこく、と頷く才人たちにキュルケも強く頷くと、モンモランシーに明かりの魔法を使わせて通路の奥へと走るように促した。

「この地下室に入るための本当の出入り口がどこかにあるはずよ!無ければ壁の薄い場所を探して錬金で穴を開ければいいわ!とにかく走って!!」

 横に並べば二人だと余り三人だと狭い通路を、キュルケ達は直走る。
 直後、ミノタウロスが雄叫びを上げてこちらに向けて走り出した。

「き、来た来た来た!もっと速く走って!!」

 ミノタウロスの頭に生えた角と両肩が、地下道の壁面を削る。キュルケたちなら問題なく走れる場所も、ミノタウロスの体格だと引っかかるらしい。
 それ幸いにと、走る勢いを強めたキュルケたちは、どこに繋がるのかも分からない道を走り続ける。
 やがて、ミノタウロスの姿が後方に見えなくなると、少しだけキュルケたちの走る速度が緩まった。
 一本道の通路は、右や左にクネクネと曲がり、無駄に長く続いている。
 ミノタウロスが追いかけてくる可能性を考えて走り続けた才人たちが出入り口の扉を見つけるまで、実に五分以上の時間が必要だった。

「着いた……!鍵は開いているのかね?」

 道の行き止まりに作られた、階段と扉。それを見て、ギーシュが声を発した。

「かかってないわ!」

 先頭を走っていたモンモランシーが、短い階段の上にある斜めの戸に手をかけて、グイと押し開く。
 途端、雨が流れ込み、キュルケたちの体をあっという間にずぶ濡れにした。
 地下通路の出口は、屋敷の裏手に繋がっていた。壁から若干の距離を置いた所に廃棄された井戸に偽装した形で配置されていて、朽ちた滑車まで付けられている。

「タバサ、シルフィードを」
「分かってる」

 もう濡れるくらいはどうでもいいといった顔でキュルケがタバサに声をかけると、すぐにタバサが口笛を鳴らしてシルフィードを呼び寄せる。
 激しい雨に音が掻き消されて聞こえないのではないかと思われたが、そうでも無いらしい。
 シルフィードは厚い雲を突き抜けるように下りて来て、あっという間に才人たちの前に現れた。

「きゅいー!」

「お疲れ様です、皆さん」
 雨に濡れることが不満だというようにシルフィードが鳴き、その背から姿を見せたシエスタが才人たちに労いの言葉をかける。フレイムやヴェルダンデも一緒に顔を出して、それぞれに鳴き声を上げた。
 そんなシエスタと使い魔達に手を振って答えたキュルケは、さっさとモンモランシーたちにシルフィードに乗るようにと急がせる。
 いつミノタウロスが襲ってきてもおかしくは無いのだ。目を放した以上、相手の次の行動は読めなくなっている。急ぐに越したことはない。

「え、えっと、雨宿りはされないんですか?」
「悪いけど、事情があって無理よ。説明は後でするから、まずは出来るだけ早くここから離れないと……」

 気を逸らせたキュルケがひょいとシルフィードの上に乗り、雨に濡れて失った体温を取り戻そうと体を震わせる。

「皆、乗った?出発するわよ……、なにしてるの、タバサ」

 シルフィードの上に乗った仲間の姿を数え始めたキュルケが、雨に濡れながら無表情にキュルケたちを見上げているタバサの姿に気付く。その隣には、才人の姿もあった。
 二人とも、シルフィードに乗ろうとする気配は無い。むしろ、後ろに下がってシルフィードから距離を離そうとしていた。
 まさか、もうミノタウロスが追いついたのか。
 そう思って周囲を見回してみるが、それらしい影は見つからない。
 なら、なぜ乗らないのか。
 キュルケが手を差し伸べて乗るように言っても、タバサも才人も首を振るだけで、まったく乗ろうとしない。
 そうしている間に、シルフィードの翼が大きく開かれ、飛び立とうと動き始めた。

「待って、あなたのご主人がまだ乗って無いわよ!」
「どうしたんだね、才人もタバサも!早く乗らないか!」

 悲鳴のように叫んでキュルケがシルフィードを止めようとするが、シルフィードは何も聞こえないように翼を動かし続ける。ギーシュがモンモランシーやマリコルヌと手を伸ばして乗るようにと説得を続けるも、二人は首を縦に振ることは無かった。
 ゆっくりとシルフィードの体が上昇を始める。
 何度か乗ったことがあるからこそ分かるシルフィードの動きの鈍さに、キュルケはやっと二人が乗らなかった理由に思い至った。

「重量……!?」

 シルフィードが荷物を背中に乗せて飛べる、その最大重量に達しているのだ。
 人間だけで五人。使い魔が二匹。特に、ヴェルダンデとフレイムの体は、人間よりも大きくて重い。コレだけ乗れば、シルフィードでなくても飛行に支障が出るだろう。
 タバサはそれを知っていて、雨の中でもミノタウロスと戦える才人と自分を残したのだ。

「なに考えてるのよ、バカ!」

 親友だと思っていた相手に裏切られた気分になって、思わず悪態を吐く。
 だが、今飛び降りてタバサを叱り、そのまま一緒に残っても、足手纏いにしかならない。それが痛いほどに分かるから、キュルケは唇を噛んで悔しさに耐えるしかなかった。
 じっとそれを見つめたキュルケは、顔が見えるか見えなくなるかのギリギリのところで、タバサが唇を少しだけ動かしたことに気が付いた。
 何を言っているのかは分からない。いや、声に出してさえいないのかもしれない。
 まるで、今生の別れを思わせる姿にキュルケが歯噛みすると、意外なところからタバサの代弁者が現れた。

「早めに迎えに来て、だってさ」
「……マリコルヌ?」

 キュルケの後ろに座っていたマリコルヌが、もう姿が見えないタバサたちに視線を向けたまま、キュルケの疑問に答えていた。

「僕、実は読唇術が得意なんだ。唇の形が少しでも見えてれば、何を言っているかは大体分かるんだよ。凄いだろ?」

 そう言って軽く笑うマリコルヌにキュルケは何故だか胸を熱くして、タバサの言葉を伝えてくれたお礼にマリコルヌの顔を自身の胸の谷間に埋めた。

「ありがとう、マリコルヌ。正直、あんたにお礼を言う日が来るとは思わなかったけど、ホントに感謝してるわ」
「ど、どういたしましてぇ……」

 顔を赤くして幸せに目を回したマリコルヌが、力の抜けた返事をする。
 意外と暖かいマリコルヌの頭を抱いたまま、キュルケはじっと雨の中に消えたタバサと才人のいた場所を見つめて、顔に薄く笑みを浮かべた。
 暫しの別れだ。だが、すぐに再会できる。
 ミノタウロス程度の敵に負ける二人ではないのだから。いや、もしかすれば、迎えにいく頃にはミノタウロスの死体が転がっているかもしれない。
 そう。今は逃げるのではない。仲間を安全な場所までエスコートする、そんな淑女としての役目を承っただけなのだ。

「待ってなさい、タバサにダーリン!すぐに迎えに行くからね!」

 稲妻の走る空に向けて、キュルケは高く叫びを上げたのだった。

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