ゼロの奇妙な使い魔 まとめ

3 しがない職業意識 後編

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匿名ユーザー

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 なぜ、こんなことになっているのだろうか。

 軍から支給されている剣を握り締めて部下のミシェルに背中を預けたアニエスは、自分の置かれた現状を嘆きながら心の中で呟いた。
 アルビオンの内戦が終わってからというもの、トリステイン国内できな臭い空気が流れていることは肌で感じていた。軍内部でも人員の移動が盛んになり、お偉方が頻繁に王宮に出入りをしては会議を繰り返している。
 とはいえ、商人が呼ばれていないところを見ると、軍備が進められているというよりは、万が一の備えといったところなのだろう。その余波で士官の訓練は厳しいものとなり、一方で戦力と目されていない平民の軍人は邪魔者扱いで、碌な編成も成されずに街の警邏に回される。
 平民であるアニエスもまた、城から追い出された口だ。弛まぬ努力でなんとか出世をしているが、所詮は傭兵交じりの部隊の小隊長。下っ端の域は出ていない。
 仕方なく街の中を回ること三時間。そろそろ交代の時間だと思ったら、コレだ。

 杖を持った没落貴族と思われるメイジが二人、剣や斧で武装した傭兵が五人、それに何処からか持ってきた椅子や角材を持った酔っ払いが八人ほど。総勢十五名に囲まれているこの現状。
 酔っ払い同士の喧嘩を止めていただけのはずが、どうしてか、メイジや傭兵たちが目を血走らせて殺気を漂わせている。
 それもこれも、奇妙なオッサンがわき目も振らずに通りを走っているのが悪い。
 せっかく取り押さえた酔っ払いごと突き飛ばされ、ふらついたところを偶々通りかかったメイジにぶつかって怒りを買ってしまい、メイジの放った魔法をギリギリで避けたと思えば、それが通りすがりの傭兵の集団に当たってしまう。
 傭兵達を攻撃したのはメイジなのだから、そっちを狙えば良いものを、どうしてか魔法をかわしたこちらが悪いことになっている。理不尽だ。

 今度見つけたら、思い切り殴ってやる。

 この現状を作り出した原因であるオッサンに心の中で恨み言を吐き、アニエスは自分と部下を取り囲む男達を牽制するように鋭い視線を投げかける。
 それなりに戦場を経験し、修羅場を潜り抜けてきた自信はある。だが、その分、多勢に無勢がどれほど危険なことは理解していた。少なくとも、数で三倍以上の差は、素人と達人くらいに力の差が無ければ危うい状況だ。戦うという選択は愚の骨頂だろう。

 剣の柄を篭手にぶつけて規則的な金属音を鳴らすことで部下に意思を伝えたアニエスは、逃げるのに適した方向を探して視線をゆっくりと巡らせる。
 メイジや傭兵に直接ぶつかるのは得策ではないだろう。負けるつもりはないが、万が一があるし、手間取っているうちに背後から攻撃されては目も当てられない。となると、選択肢は一つだけだろう。
 アニエスの意図にミシェルも青い髪を揺らして了解の意志を示す。
 その様子を一瞬だけ向けた視線で確認して、アニエスは剣を握る手に力を篭めた。
 心の中で数字を数え、行動までのタイミングを計る。

 ひとつ。

 アニエスとミシェルの呼吸のリズムが重なり、口に出していない数字がイメージの中で同調を示した。 

 ふたつ。

 二人の様子の変化に気付いたのか、囲んでいた男達も息を呑み、相手の動きに対応しようと腰を軽く落として獲物を握る手に力を篭める。
 メイジの持つ杖に光が灯り、魔法が発動しようとしていた。

 みっつ!

 二人のメイジが放つ炎と風の刃を、二手に分かれて回避する。
 一瞬の離別。だが、跳ねるようにして互いの肩を合わせたアニエスとミシェルは、剣先を腰の位置で前に向け、突破口となる酔っ払いたちの群れに突っ込んだ。

「退け!退かねば我が剣が貴様らの心臓を貫くぞ!」

 軍人二人の突撃に、顔面の筋肉を引き攣らせた酔っ払いたちは一瞬で酔いを醒まして道を開ける。幸いにして、開いた道の向こうは壁ではなく、狭い路地。人が一人、なんとか通れる程度のものだ。

「ミシェル、わたしが殿を務める。先に行け!」

 一歩分足の動きを遅らせたアニエスは、隣に並ぶミシェルの背中を押して路地に押し込めると、その場で体を反転させる。ミシェルは、振り返ることも無く路地の向こうに姿を消す。アニエスが無事でいるという信頼があるのだ。
 突撃によって酔っ払いは散り散りになったが、メイジや傭兵は逆に勢い付いている。好戦的な表情を浮かべて、近づいてくる様子が見えていた。
 懐に手を入れて目的のものがそこにあることを確認すると、アニエスはそれを左手で握って外気に晒した。

「真面目に相手をしてやるつもりは無い。鉛弾でも食らっていろ!」

 ゲルマニアで設計された新式の銃。トリステインでもやっと流通してばかりのそれの引き金を引いて、篭められた金属の塊を火薬の燃焼によって弾き出す。
 鼓膜が破れそうな強い破裂音を立てて発射された弾丸は、先頭を走る傭兵の男の脇腹に命中し、熱を伴った痛みを生み出して男の足を止めた。それによって、後ろにいた男達も縺れ合うようにして動き止めている。

「この隙に……っ!」

 稼いだ時間を生かして逃げようとするアニエス。だが、動きが制限されても、戦うことが出来る者がいたことを、アニエスは失念していた。

「ファイアー・ボール!」

 メイジの魔法が炎の塊を生み出し、大砲のように打ち出される。
 不意打ちに等しいタイミングで放たれた炎の魔法を交わす術は無く、アニエスの体があっという間に火に包まれた。

「う、ああああぁっ!」

 肌を焼く感覚に思わず悲鳴を上げる。
 熱を帯びた空気が口の中に入って肺を痛めつけ、視界が赤と白に奪われた。

「こ、このおっ!!」

 マントの留め金を無理矢理引き千切り、耐え難い熱さをマントと共に振り払う。
 メイジとの戦いを想定して作られたアニエスのマントは、線維自体が熱に強いものが使用されているだけでなく、内側に少量の水の入った袋を縫いつけることで火に対して強い防衛効果を発揮する。
 路地に入ろうとしていた所を狙われたために、メイジの放った炎は背中を覆うマントを焼いただけに留まっていたらしい。マントを脱ぎ捨てれば、すぐに熱は遠退いた。
 他の部分にまで火が及んでいなかったのは、奇跡的な幸運だろう。

「クソッ!逃げ損ねたか!!」

 炎を浴びせられたことよりも、撤退できなかったことを嘆いて、アニエスは剣を構える。単発であるがために使い物にならなくなった銃は炎を放ったメイジに投げつけて処分してしまう。
 痛い出費だが、背に腹は変えられないだろう。幸いにも、銃を投げつけられたメイジは、軽い音を頭から響かせて倒れてくれていた。

「さあ!わたしはもう、逃げも隠れもせん!痛い目を見たいやつから前に出ろ!」

 正確に言えば、炎に戸惑っているうちに路地の入り口を塞がれたために逃げられなくなっただけなのだが、物は言い様だろう。
 しかし、残る敵の数はメイジを含んだ傭兵六人。一人は銃弾を脇腹に受けたために動きが鈍いが、戦えないわけではない。戦士としての錬度はこちらが一段上のようだが、数の差がある以上、勝ち目は無い。先に逃げたミシェルが衛士を呼んでくるまでの時間を稼ぐにしても、包囲状態では望みは薄いだろう。

 どうしたものか。

 考えている間にも敵は動き、こちらの隙を探し続けている。敵も、時間をかければ衛士が来ることが分かっているのだ。すぐにでも攻めに出てくるだろう。
 そして案の定、敵の行動は早かった。
 剣を持った者を先頭に、左右後方を斧で武装した男たちが並んで突っ込んでくる。先頭の一人はこちらの動きを止めるための牽制だろう。アニエスの足が止まったところを、斧を持った男達が止めを刺す。そういう流れのようだ。
 単純に突っ込んでくるのなら捌きようは幾らでもある。だが、それは男達の更に後方でメイジが魔法の詠唱をしていなければの話だ。

 ならば。

 刹那の判断で自分の行動をイメージしたアニエスは、目の前に迫った男の目を狙って足元の土を蹴り上げた。
 目の中に入った不純物に男は目を瞑り、狙いの定まらなくなった剣を振り下ろす。

 まず、一人!

 すれ違い様に後頭部を一撃し、そのまま次の男の足を払って他の傭兵達に対する壁を作りつつ、後方に控えるメイジを狙う。
 メイジさえなんとかなれば、あとは難しくないはずだ。

 難しくない、はずだった。
 だが、実際には一人目の男の目潰しを成功させたところで、予定外の因子が入り込み、計算を破綻させていたのだ。
 騒動が聞こえていなかったのか。アニエスの背後にあった何処かの店の玄関口から、窺うような声と共に人が顔を出した。
 黒い帽子を被った幼い少女の姿。羽扉の高さが、ちょうど視界を隠しているせいで、ここの状況が見えていなかったのだろう。
 既に目を潰された男は剣を振り下ろそうとしている。ここで剣を回避すれば、剣はそのまま顔を出した幼い少女の頭を割るだろう。だが、逆にここで見捨てれば、自分はそのまま戦い続けることが出来る。
 一瞬の葛藤。だが、結論に辿り着くのに時間は必要なかった。

「……!」

 危ない。

 その一言を発する間もなく、伸ばした手が少女の頭を覆う。
 手首を覆う篭手に傭兵が振り下ろした剣が当たり、火花を散らして鈍く金属を切り裂いていく。篭手の下にあった布地が破断して、無防備となった肌を露出させる。
 肉に、鉄が食い込んだ。
 覚悟した痛みに耐えかねて、アニエスの食い縛った歯の隙間から悲鳴が漏れた。

「い、っく、ああああ……っ!」

 ふらついたことによって剣筋が鈍ったお陰か、手首に落ちた剣は骨を寸断するまでには至らず、途中で動きを止めて滑るように地面へと落ちていく。
 驚きに目を開いた少女の顔を確認する間もなく、アニエスは斬られた左手をそのままに、襲い掛かる次の傭兵へ右手に握る剣を向けた。
 崩れた体勢からの一撃。女であるがために足りない膂力。牽制にもならない剣の動きは、逆に傭兵達に勢いを与えてしまい、体勢を立て直す時間が無いために乱暴に振るしかない剣は容易く弾かれる。

 負けか。

 腹を割こうと迫る斧の姿を視界に入れて、アニエスは剣を握る右手をなおも振ろうとする。
 生きる理由がある。生きなければ、生きてやらなければならないことがあるのだ。敗北が確定していたとしても、認めるわけにはいかない。
 しかし、弾かれたことで痺れた右手は思うように動いてはくれず、左手は血に濡れて感覚さえなくなっている。
 人間、死ぬときは案外あっけないものだ。それが、世の常。世の理。
 心のどこかで、やっと楽になれることを喜んでいる自分がいる。必死に運命に抗おうとする自分をせせら笑って、無駄だと、無理だと、耳元で囁いている自分がいる。
 右手の痺れのままに取り落とした剣。それが自分の末路だと、誰かが伝えているのだ。
 このまま死んでも、悪くは無いのかもしれない。
 走馬灯のように蘇る記憶も無く、抗う意志も何時の間にか消えて、訪れる死の瞬間を待ち続ける。
 しかし、そこで違和感に気が付いた。

「…………ん?」

 長い思考を経てもなお、覚悟した痛みが訪れない。
 アニエスの眉がハの字に曲がり、目が注視していた斧の存在を認識する。
 斧の先端は鎧に包まれた自分の腹に触れるか触れないかの位置で止まり、そこから動く様子を見せない。視線を逸らして他の傭兵達を見てみると、同じように動きを止めていた。
 まるで、時が止まったかのような世界。だが、実際に止まっているのは傭兵達だけで、それ以外のものは変わらずに活動を続けているようだ。
 喧嘩を見物していた通行人たちが、驚いたように何かを見ている。視線が一つに定まっていないということは、それは複数なのだろう。徐々に、死の気配に飲まれていたアニエスの思考が元の冷静さを取り戻し、通行人たちが見ているものが何であるかを悟った。
 赤、青、黄色と、それぞれに基調となる色を極めてデザインされた華やかな、それでいて過剰な露出度の衣装を身に纏った、歳若い少女達だ。
 一人、また一人と、先程庇った少女が顔を出していた店から小走りで現れては、手に持った縄で暴れていた傭兵達を縛り上げていく。
 なぜ、傭兵達は抵抗しないのか。
 その答えも、既に出ていた。

「……眠っているのか」

 眠りの魔法をかけられたのだろう。誰がやったのかは知らないが、間一髪のところで自分の命は救われたということだ。
 一瞬、ミシェルが間に合ってくれたのかとも思ったが、ミシェルの姿がこの場に無いということは、その線は薄いのだろう。となれば、通りすがりのメイジか、あるいは、先程庇った少女の関係者か。店の店員が傭兵達を捕縛しているところを見ると、後者の可能性が高そうだ。
 アニエスは、本音を言えばメイジという存在が嫌いだった。生きる理由を作った存在ではあるが、同時に、復讐すべき相手でもある。だが、命の恩人ならば、相応の礼を尽くすくらいの礼儀は持ち合わせていた。
 一言礼を言おうと、どんな姿かも分からないメイジを探してアニエスが視線を周囲に向けていると、ちょん、と自分の服の袖を引く存在に気が付いた。

「左手、大丈夫?」

 黒い帽子に白いフリルをいっぱいつけた黒いドレスを身に纏った少女が、血が流れ続けている左腕を覗き込んでいる。あまりに近くで眺めているものだから、アニエスは驚いて体を跳ねてしまう。その拍子に左腕から血が飛び散った。
 少女の頬に赤い色が付着する。
 すまない、とアニエスが言う前に、真新しいハンカチを取り出して頬を拭った少女は、じゅる、と口の中で音を立てていた。
 奇妙な寒気がアニエスの背筋に走り、思わず一歩下がる。それが正しい行動のように思えた。

「し、心配ありがとう。だが、こんなものをそんなにじろじろと見るものじゃない」

 まだ少しだけ痺れている右手で、血が流れ続ける左手を隠すように庇う。
 子供に見せて良い怪我ではないが、特にこの少女には見せてはいけない気がする。
 理由の無い恐怖を抱いたアニエスは、その際に左手に感覚が無いことに気が付いた。
 もしかしたら、この左手は使い物にならないかもしれない。
 悲しそうな、それでいて悔しそうな顔で、ピクリとも動かすことの出来ない左手に視線を送り、篭手を外していく。

「ん……っ!これは、酷いな……」

 篭手の下につけていた手袋の布地は破れ、その下に裂けた皮と肉の姿がある。骨の姿が見える傷口からは血は絶えず零れ続け、垂れ落ちた地面を黒く染めていた。
 腱は切れていないようだが、治療を受けても元のように動くかどうかは微妙なところだろう。
 復讐にいたる道は、大きく後退したようだ。

「地下水。これ、なんとかなるかしら」

「シャルロットの姐さんに教えてもらったばかりで、付け焼刃だからな。どこまでやれるかはわかんねえよ」

 少し気落ちした様子で左手を眺めるアニエスの横で、黒ドレスの少女はは手に持ったナイフに声をかけて、その返答に小さく頷いていた。

「それは……、インテリジェンス・ナイフか?」

 話に聞いたことがあるだけの存在を思い出してアニエスが尋ねるが、それに答えることなく少女はナイフをアニエスの左手に近づけた。
 何をするつもりなのかと問いただそうとする間もなく、ナイフからどこかで聞いたような言葉が聞こえてくる。
 規則的なルーンと呼ばれる特殊言語のの詠唱。

「魔法!ナイフが、魔法を使うのフガッ!?」

「ちょっと黙ってて」

 邪魔臭そうにアニエスの口を塞いだ少女は、そのままナイフに魔力を送る。
 秘薬の補助が無ければ、治癒の魔法もそれほど強力なものとはなりえない。だが、膨大な魔力を用いれば、初歩的な魔法でも効果は倍増する。
 ナイフと少女の二人の魔力を合わせた基本中の基本とも呼べる水の魔法は、アニエスの左手に淡い光を灯らせて、その肌と肉を少しずつ癒していた。

「なんとか肉が繋がったが……、打ち止めだ」

 光が収まったところで、ナイフが刀身をカタカタと揺らして疲れたように呟いた。
 腕からの出血は止まり、傷口も見た目には塞がっている。
 本当に治っているのか?と疑問を抱いたアニエスは、左手を動かそうとして走った激痛に頬を引き攣らせた。

「い、痛あぁっ!?」

「暫くは安静ね」

 痛みで歪んだアニエスの表情を見て取った少女は、笑顔でそう告げると、顔に付いた血を指先で拭って口に含む。

「ん……、んん?」

 一瞬頬が緩んだかと思うと、すぐに困ったような、なんともいえない表情を浮かべてアニエスを見つめる。瞳には、どこか同情心とも取れる色が含まれていた。

「ああ。うん、まあ、職業的にちょっと難しいか」

 何の話か分からず、アニエスは激痛の走る左腕を押さえながら首を傾ける。それに少女はなんでもないと誤魔化して、痺れの取れたアニエスの右手を手に取った。
 軽く引っ張られたことでアニエスの足がふらつく。
 切った左手からは、かなりの量の血が失われていたらしい。頭の中が霧に覆われているように思考がまとまらないし、体にも力が入らない。
 引っ張る力に抵抗することも出来ず、多くの少女達に囲まれてきっちりと簀巻きにされた傭兵達を横目に少女の後を追う。

「何処へ連れて行くつもりだ」

「お店よ、お店。傷は塞いだけど失った血は戻らないわ。だから、失くしちゃった分、飲み食いしていきなさいな。ちょうど貸切にしてることだし、臨時収入もあったし」

 そう言って、少女はドレスのポケットから布袋を取り出した。
 中身の少なそうな七つの袋を見て、アニエスはそれが自分に襲い掛かってきた連中の数と符合することから、それが何なのかをすぐに察した。

「あの傭兵連中の財布か!?い、何時の間に……」

「眠らせたついでに、ちょろっとね」

 楽しげに笑う少女の手の中で、意志を持ったナイフも軽快にカタカタと金属の重なる音を立てている。
 この歳で、とんだ悪党だ。
 助けるべきではなかったかも知れない、と僅かに後悔したところで、アニエスは少女の言葉に気になる部分を見出した。

「眠らせた、ということはヤツらを止めたのは……」

「その話はちょっと落ち着いてからにしましょ」

 軽い光に満ちた店の前。“魅惑の妖精”亭と書かれた看板の下を潜って、アニエスは少女と共に生涯立ち入りはしないだろうと思っていた、男性向けの酒場に足を踏み入れた。

「お客様、一名入りまーっす」

 少女の調子の良い声に、店の外に出てこなかった何人かの少女が、いらっしゃいませ、と笑いながら定番の言葉を返す。傭兵達を縛り終えた少女達も店の中に戻ってくると、本来は客を迎えるはずの店内は従業員のためのパーティー会場へと様変わりし、あちこちでワインボトルの栓を開ける音が響いていた。

「貸切ではなかったのか?」

 身内だけの宴会を開いているようにしか見えない光景に、アニエスは目を丸くして疑問を少女に投げかける。

「貸切よ。店の子達が自由に出来る、っていうところが変わってるけどね」

 そこで、少女はアニエスの手を放して小走りで少しだけ距離を開けると、ふわりと広がったスカートを指先で摘んでアニエスに振り返った。

「経緯はどうあれ、助けてくれたお礼を言わせて貰うわ。とは言っても、もう借りは返したけどね」

 そう言って、少女は優雅にお辞儀をした後、可愛らしく片目を閉じてウィンクする。

「やっぱり、おま、いや、貴女か。わたしを助けてくれたのは。とすると、このような態度は失礼だな」

 アニエスは少女の履く編み上げのブーツの前で跪いた。
 すっと息を吸って、背筋を伸ばす。

「知らぬこととはいえ、これまでの数々のご無礼どうかお許し下さい。貴女様がいかなる貴族の子女であるかは存じませんが、このアニエス、命を救われた恩は決して忘れません。今は恩を返す当ても無いことをお許し下さい。しかし、何時か必ず、この恩に報いて見せることをここに誓いましょう」

 覚えてばかりの略式の儀礼。見るものによっては、酷く滑稽なものに映るだろう。見よう見まねというのが良く分かる、あまり上手くない口上だ。
 だが、確かに感じている恩義を言葉にする方法を、アニエスはこれ以外に知らなかった。
 そんな至極真面目なアニエスの態度のなにがおかしかったのか、少女が口元を押さえて笑い始める。顔を赤くし、お腹を抱え、耐え切れない様子で最後には盛大に笑い声を上げ始めた。

「な、なにか……?」

 頭を上げて戸惑うアニエスに、一頻り笑った少女は拳からにゅっと飛び出した親指で店の奥を指し示す。
 そこには、テーブルに横たわって顔を青くしたまま動かない変な格好の男が居た。

「多分、ここを貸切にしたこととか、わたしの服を見て勘違いしたんだと思うけど、残念ながらわたしの保護者はアレよ。貴族どころか、何処にも定住してない根無し草。ま、ちょっと前までは隣の国で騎士をしてたけどね」

「……没落貴族というやつか?」

 爵位を取り上げられても、財産が全てなくなるわけではない。特に、野に下ってばかりの貴族は小金持ちが多い。どう見ても平民向けではない衣服も、購入できないわけではないだろう。
 浪費癖があるというのは少々いただけないが。
 一人納得しているアニエスの呟きに、エルザは首を振った。

「間違ってはいないけど、没落以前に家自体が無いわ。なんかの偶然でシュヴァリエになったけど、私情を優先して一ヶ月くらいで蹴っ飛ばしてきたから」

 なんという愚行か。
 メイジ至上主義で、かつ血筋を重んじる傾向にあるガリアで貴族に慣れたということは奇跡に近いのに、それを自分から捨てるなんて。つい最近も、そんな話をどこかで聞いたが、世の中には馬鹿が多いのか?
 どうにも納得できない行動に、アニエスは痛くなる頭を抱えて盛大に溜め息を吐いた。

「ま、それはともかく、一杯どう?今夜ここの支払いは全部わたし持ちだから、遠慮することは無いわよ」

 近場のテーブルの上にナイフを置き、代わりにワインボトルを一本手に取って手元で揺らした少女は、誘うように笑みを浮かべる。
 鮮血のような赤い液体が、ガラスの中で扇情的に揺らめいていた。

「……狙いは何だ」

「あら、なによ突然。別に、なにかを企んでる訳じゃないわよ?」

 騒いでいる女の子達から杯を二つ分けてもらい、その中にワインを一杯に注ぎ込む。安くも高くも無いワインの香りは、渇いた喉を潤すにはちょうど良い味だろう。
 小さな手で二つの木杯を器用に支える少女からその一つを受け取り、アニエスは探るような視線を送った。

「先程、借りは返した、と言っていたが、わたしは貸しが残っている。この左腕の治療分の貸しがな」

「気にしなくて良いわよ。というか、なんでそんなに警戒するわけ?」

 渡されたワインも飲もうとせず、目を鋭くさせるアニエスに少女が問いかけると、アニエスは少女の姿をつま先から頭まで眺めて答えた。

「見た目と言動が一致していない。大人びている、と言うには不自然なんだ。まるで同年代か年上の大人を相手にしている気分になる。勿論、ただの気のせいだと言われれば、その通りかも知れないがな」

「……気のせいよ、きっと」

 冷や汗をたらりと流して、少女は素知らぬ顔でワインを飲み干す。
 それが話の先を促す仕草だと判断したアニエスは、続いて先程少女がやったように拳から親指を出して、店の奥を指し示した。
 そこには、未だに動く気配の無い男の姿があった。

「それ以上に気になっているのはアレでな。どうも、どこかで聞いたような格好をしているんだよ。ついでに言えば、そのどこかで聞いたことのある人物と経歴が似通っている。ガリアでシュヴァリエをしていた、というところとかな」

 あれは手配書だっただろうか。

 そんな呟きに、少女は両手を上げて降参のポーズをとった。

「OK。気付いてなければちょっと頼みたいことがあったんだけど、もういいわ」

「観念したか、10エキューの賞金首」

 やれやれ、と疲れたように頭を小さく振った少女は、空の杯とボトルを手に、適当な椅子に腰を下ろした。

「で、賞金首だとわかっている相手をどうするつもりなのかしら」

「当然、捕縛するさ」

 ワインの入った木杯を捨てて、アニエスは一歩前に出る。
 右手が剣の鞘を下げた腰元に伸びた。

「武器も無いのに、どうやってわたしを取り押さえるつもりかしら?」

「……あっ」

 腰に伸ばした手が空気を掴んで素通りする。
 そういえば、剣を通りに落としたまま拾っていない。
 今頃そのことに気付いたアニエスは、進めた足を戻し、悔しそうに唇を噛んだ。

「形勢逆転かしら」

 椅子に座ったまま、テーブルに置いたナイフを手に取った少女は、それを突きつける様に前に向けて薄く笑みを浮かべる。
 やはり、そこにあるのは外見の年齢に相応しくない、冷徹な表情だ。目の奥は薄暗い光を宿し、前にいる人間を人間として見ていない。
 言うなれば“食料”。
 たった一つの単語が頭の中に浮かんだ瞬間、アニエスは言い知れぬ寒さを肌で感じていた。

「……なんかやってるところを横入りするみたいで悪いんだけど、お嬢よ。俺、なんでこんなところにいるんだ?っていうか、ここ何処?さっきから記憶が曖昧なんだけど」

「……緊張感が続かないわね」

 おーい、と声をかけるナイフを下ろして、手をひらひらと振る。
 トラウマを記憶喪失という形で克服した無機物は無視だ。

「面倒臭いのは嫌いだし、仲間を呼んでも良いわよ。呼びに行ってる間に倒れてる連れを叩き起こして、この街から退散することにするわ」

 ふん、と鼻を鳴らし、手持ちの金をテーブルの上にすべて置いた少女は、名残惜しそうにワインを木杯に注いで飲み干す。

 また、逃亡生活か。

 そんな呟きを聞いて、アニエスは拳に入れていた力を抜いた。

「わたしは……」

「アニエス隊長!」

 口を開きかけたアニエスを遮って、ミシェルが数名の衛士を引き連れて羽扉を吹き飛ばす勢いで現れた。
 肩で息をしているところを見ると、相当急いでいたことが窺える。足回りは跳ねた土で薄汚れ、マントには何かに引っ掛けたような傷がいくつも付いていた。

「ミシェル……」

 部下であり、最も頼れる相棒でもある人物に、アニエスは深く息を吐く。
 ホッとする反面、残念だと言う気持ちもあった。無事でいてくれたことは嬉しいが、間に合わなかったことも事実だ。目の前の少女がいなければ、自分は死んでいた。

 そうだ。死んでいたのだ。

 小さく言葉を漏らして、アニエスはどさくさ紛れに逃げ出そうとしている少女の姿を視界に納めた。
 そんなアニエスの様子に気付かず、ミシェルは乱れた息を整えながらアニエスに正対した。

「表に転がっているヤツらは移送中です。表に居たこの店の人間に事情も大方説明してもらいました。どうやら、助けられたみたいですね」

 ひょい、と後ろにつれている衛士たちの間から顔を出した黒髪の少女に目を向けて、ミシェルはぐっと自分の手を握り締める。

「すみません、間に合わなくて……。確か、そちらの黒い服の幼い少女が、メイジだとか」

 突然の乱入者に驚いている“魅惑の妖精”亭のウェイトレスたちの合間を縫って姿を暗ましかけていた少女が、肩をびくりと震わせてゆっくりと振り向いた。
 その少女に遠慮なく近づいたミシェルは、黒い手袋に包まれた小さな手を取り、少し羨ましそうな顔をして目線を合わせる。

「君はその歳で素晴らしい魔法の才能を持っているそうだな?あのジェシカという少女から聞いたぞ。子供でありながら、その実力。放っておくには惜しい人材だ。どうだろう、我がトリステイン軍に参加しないか?勿論、もう少し成長してからだが」

 顔を限界まで近づけ、お互いの鼻先が触れ合うかと思う距離に詰め寄ったミシェルが唐突にスカウトを始めたことに少女は呆気に取られ、話を半分聞き流しながら助けを求めるようにアニエスを見た。

「ミシェル。彼女にも都合と言うものがある。それに、幼い子供を軍に誘うとは何事だ」

「はっ、申し訳ありません!」

 ぱっと少女の手を放して直立不動で敬礼をしたミシェルにアニエスは苦笑いを浮かべて、今度は固まっている少女に視線を向けた。
 アニエスの視線に気が付いた少女は、少し冷めた目で寂しそうに笑う。
 逃げるつもりが無い、と言うわけではないだろうが、無理に抵抗するつもりもないようだ。
 賞金首とはいえ、その金額は10エキュー。捕まったところで、大した罰は受けないだろう。
 小さな手柄と気にかけるほどでもない人情を天秤にかけて、心の中で重さを比べる。
 だが、そうしている自分が情けなくなって大きく首を振ると、アニエスはミシェルに撤退の指示を出した。

「見逃してくれるの?」

 応援に駆けつけた衛士と共にミシェルが店の外に出たのを見計らって、アニエスに少女は声をかける。
 見逃される事について、屈辱だとか、感謝と言った感情は、その幼い顔からは見えない。どちらでも構わない、そういう雰囲気だった。

「借りを返すだけだ。左腕の治療分のな」

「そう。なら、素直に受け取っておくわ」

 少女はそう言って、つばの広い黒い帽子を脱ぎ取った。

「まだ、自己紹介をしてなかったわね。わたしはエルザ。夜を歩く種族、吸血鬼エルザよ」

 ぴくりとアニエスの右手が動く。
 だが、それを意図的に収めて、なるほど、と呟いた。

「見た目通りの年齢ではない、ということか」

 それなら、この少女の雰囲気も納得できる。

「退治はしないの?一応、人間の血を吸う危険な種族ってことになってるんだけど」

「一度見逃すと決めた以上、二言は無い。それに、ここ数年、トリステイン周辺では吸血鬼騒ぎは起きていないからな。どうやってかは知らないが、共存する方法があるんだろう?だったら無理に退治する理由は無い」

「隠れて血を吸っているのかもよ?」

 悪戯っぽく笑いながら言うエルザに、アニエスは中空を右手で掴み取った。

「血なら、蚊だって吸うさ。痒くも無く、血を吸ったことにも気付かなければ、蚊だって退治はされない」

 差し出した手の中には、小さな黒い虫が納まっている。夏の風物詩が、そこに無残な姿を晒していた。

「蚊と一緒にはして欲しくないわね」

「なら、自分は蚊ではないと証明していれば良い。今までのように、な」

 ふっと笑ったアニエスに、エルザは首を振って肩を竦めた。

「名を交わしたところで、もう会う事も無いだろうが、わたしも教えておこう。トリステイン王国第三実験小隊隊長のアニエスだ」

 自然に伸ばした手を重ねて、軽く握り合わせる。
 左手を赤く染めた軍人と握手する黒ドレスの幼女の組み合わせは、非常に滑稽で、どこか和やかなものだった。
 幼女の口元が悪魔の笑みを浮かべていなければ、の話だが。

「じゃ、もう一つの貸しを返してもらおうかしら」

「ん、何を言って……、もう一つ?」

 戸惑いの声を上げるアニエスの態度を見て心底楽しそうに笑うエルザは、ちょん、と自分の服の胸元に指を当ててゆっくりと撫でた。
 そこには、黒い色に隠れて見えない赤い染みがある。
 傭兵の剣を受けたアニエスの腕、そこから飛び散った血の痕だ。

「新調してばかりのドレスを汚した、その借り、きちんと返してもらうわよ?」

 一着80エキューのドレスの値段に、アニエスの安月給が詰まった財布が悲鳴を上げた。

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