ゼロの奇妙な使い魔 まとめ

ゼロいぬっ!-88

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匿名ユーザー

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突き刺さった杖が風に融けていく。
杖だけではない、炎に巻かれたワルド子爵の身体も消滅していく。
偏在の最期を見届けてモット伯は傷口に手を当てた。
“頼むから外れていろ”と祈る気持ちで彼は自分の体を診る。
臓器や急所さえ避けていれば水系統のメイジの治療で助かる見込みはある。
もしかしたら助かるかもしれないという可能性に彼は賭けた。

財産を失ったり脅迫されたりと不運続きだった分、そろそろ運が向いてきてもいいだろう。
いや、風向きは間違いなく私の方から吹いてきている。
そうでなければ捨て身とはいえワルド子爵を倒せるはずがない。
当然だ。こんなところで私が死ぬなど考えられない。
まだ倒れん。この先には待ち望んだ世界が広がっている。
ようやくこれから始まろうとする物語を見届けずに終わってたまるものか。

ついと指先が傷口とその周囲へと伝う。
しばらく手を当てて押し黙っていたモット伯が顔を上げる。
手を差し伸べるキュルケを断り、杖を拾って支えとしながら立ち上がる。
ざわめく兵士達に杖を掲げて彼は力の限り叫んだ。

「見よ! スクエアメイジといえど死力と策を尽くせば倒せぬ相手ではない!
臆するな誇り高きトリステインの精鋭達よ! 突き進んだ先にこそ活路はある!」

一瞬の沈黙。だが次の瞬間はそれは大歓声に押し流された。
兵士達の口から次々と王国と彼を讃える声が上がる。
手に持った武器や杖を掲げて戦場に割れんばかりの鬨の声を響かせる。
それに満足げな笑みを浮かべてモット伯はゆっくりとその場を離れた。
その彼の背中にキュルケは心配そうに声をかけた。

「……大丈夫なの?」
「大丈夫なわけがなかろう。私はもう疲れた、戻って一休みする」
「そうじゃなくて傷の方よ!」
「心配いらん。悪党というのはいつも平然とした顔でのさばるものだ」

手をひらひらと揺らしながら振り返りもせずにモット伯は彼女の前から立ち去った。
あれだけ軽口を叩ければ大丈夫だろうとキュルケが溜息を漏らす。
彼が立ち去った後、そこには点々と続く血の痕だけが残されていた。


雄叫びが上がる丘の向こう、静かに息づく森の中で誰にも聞こえぬ悲鳴が上がった。
喉元を切り裂かれて倒れる兵士が最期に見た光景。
それはモット伯と戦っているはずのワルド子爵の姿だった。
自らの血溜まりに沈んだ兵士達には目もくれず彼は苛立たしげに丘を睨む。
元々、捨て駒として扱う為だったとはいえ偏在の一人が、
寄生虫としか見ていなかった相手に敗北を喫するなど許されない事だった。
そして同行していたフーケもドットメイジと平民如きに敗れ去った。
あまりの不甲斐なさにワルドは唇を噛み締める。
だがいい。あの怪物に勝つ為なら誇りも全て投げ打つ覚悟がある。
最後に勝利するのは僕だけだ。僕だけでいい。
運び手を失くし地面に横たわった“光の杖”を見下ろす。
これは間違いなくハルケギニアの技術で作られたものではない。
人の理解を超えた魔法以上の存在。
このような物が存在するのなら“聖地”には必ず僕が求めるものがある。

その為にも“バオー”を完全にこの世から消し去らねば。
ワルド子爵の手が“光の杖”へと伸びた瞬間、彼の耳は異常な音を捉えた。
例えるなら獣の唸り声……いや、“バオー”の物に近い。
音の発生源は風を掻き乱しながら自分の元へと近付いてくる。
それも風竜に匹敵するほどの速度を維持したまま。

刹那、杖を構えた彼の眼の前にそれは現れた。
回転する刃で枝葉を切り飛ばしながら迫る鋼鉄の塊。
頭上から自分めがけて飛来した物体にワルドは未知の恐怖を覚えた。
彼は知らない。それが地球という世界で活躍した戦闘機という物だと。
フライで避けた直後、彼の居た場所へと零戦は舞い降りた。
それでも回り続けるプロペラは“光の杖”を巻き込んで甲高い音を響かせた。
レンズが砕けて飛び散り、その上を車輪が容赦なく轢いて鈍い音を奏でる。

「おのれェ!」

ワルドの口から怨嗟の声が上がった。
“光の杖”の構造を理解できないワルドでさえ、それが致命的なダメージだと一目で判った。
もはや、あの鉄柱は“バオー”を倒す切り札とはならない。
戦闘機はそのまま地面を滑走し大木に激突して動きを止めた。
込み上げる殺意を隠すことなく向けた先から一人のメイジが姿を見せる。
その服装は戦場とは不釣合いで、杖も戦闘向けとは言い難い。
凡庸としか思えぬ人物が何故こんな物を扱っているのか。
そんな疑問は邪魔された苛立ちに比べれば微々たる物だった。


着地時に打った頭を押さえながらコルベールは操縦席から降りる。
その眼は真っ向から戦うべき相手を捉えている。
過去の過ちからコルベールはずっと逃げ続けていた。
だけど犯した罪は決して消える事はなく彼を苛ませた。
戦いを捨て贖罪に捧げようとも心休まる時はなかった。
―――そしてコルベールは彼と出会った。
ハルケギニアとは違う別の世界の住人。
それを知った時にコルベールの心は躍った。
もしかしたら彼を連れて異世界へと行けるかもしれない。
過去を振り切って新たな世界に旅立てると思った。
人々が平穏に暮らせる世界を一度でも目にしたかった。


それが間違いだと気付いたのは何時だったのか。
彼について調べていくうちに私は知ってしまった。
私以上に過酷な、そして悲しい運命を彼は背負っていた。
なのに彼はそれを受け入れて生きていた。
幾度となく運命が彼を屈服させようとも抗い続けた。
その姿が私に教えてくれた。人はその運命から、過去から逃れる事は出来ない。
だからこそ人は戦う。決着を付けてその先へと進むために。

「彼の邪魔はさせませんよ」

宣言するようにコルベールは告げた。
残された僅かな時間を彼の望むままに、そして最期まで見届けよう。
それだけが異世界の友人にできる最後の餞なのだから。


「くっ!」

風竜の上でワルドは苦しげに声を漏らした。
自分の策が悉く覆されていく様を彼は偏在の眼を通して見ていた。
相手が“バオー”ならばそれも仕方ないだろう。
常識さえも凌駕する異世界の怪物ならば納得できる。
だが、彼の目的を阻んだのは一人一人が取るに足りないちっぽけな存在。
今も偏在の一人は何処の馬の骨とも知れぬメイジと交戦している。
“光の杖”が失われた以上、ワルドは独力で“バオー”を倒すしかなくなっていた。
どこで歯車が狂ってしまったのか、その問いに答えられる人間は存在しない。

ワルドの指示を受け、風竜が加速度を増す。
まるでバオーの身体だけを空に置き去りにするかの如く、
噛み付かれた前足から肉を引き裂く音が断末魔のように響き渡る。
その風竜の正面から彼等の元へ一匹の竜が迫っていた。
獰猛な牙を剥き、閉ざした口からは舌のような炎を覗かせる。
バオーは瞬時に敵の意図を読み取った。
竜同士が交錯する一瞬、そこで炎の吐息を自分だけに浴びせようとしている。
仮に炎が風竜に届いたとしてもワルドの魔法がそれを遮る。
如何に“バオー”が進化しようとも弱点だけは決して克服されない。

火竜が炎を吐く前に仕留めようとビースス・スティンガーを放つも、
それらは届く事なく風系統の魔法に散らされていく。
だがブレイク・ダーク・サンダー・フェノメノンは撃てない。
ここで体内電流を流せば間違いなく風竜は飛べなくなる。
ワルドは空を飛べるがバオーには出来ない。
故に、この高高度から地上に叩きつけられる事になる。
そうなれば仮に生き延びたとしても再生するまでに時間が掛かる。
その隙を、この男が見逃してくれるとは到底思えなかった。

見る間に縮まっていく互いの距離。
彼の目の前で火竜が大きく息を吸い込む。
その直後。意を決して彼は咥えられた前足を自ら切り飛ばした。
炎を避けて彼の身体が放物線を描いて落ちていく。


「おかえりなさいませ伯爵」
「うむ」

自分の野営地に戻ったモット伯が部下の挨拶に応える。
長期戦に備え、野営地では幾つものテントが張られており、
寝床としてだけではなく備蓄基地として食糧や水、医薬品が貯蔵してある。
その中の一つである自分のテントへと入りモット伯は荷物を運び出す。
ようやくモット伯の傷に気付いた兵士が声を上げた。

「伯爵! そのお怪我は一体!? 今すぐ治療を!」
「騒ぐな。見た目ほど深くない」
「しかし……」
「それより私はとても疲れているのだ。黙って休ませろ」
「はあ…伯爵がそう言われるのでしたら」
「もう一生分は働かされたからな。後は他の連中に任せる」

軍の目付け役がいたら即刻軍事法廷にかけられそうな一言に、
兵士は思わず溜息をつきながら彼に提案した。

「でしたら、そこの森の木陰などどうでしょうか。
日差しを届きませんし、空気の篭るテントよりは過ごしやすいかと」

兵士の指差す先を見てモット伯はふむと顎に手をやった。
確かにテントの中よりは快適そうな空間に思える。
それに誰にも邪魔される心配がないというのが何よりも素晴らしい。

「なるほど、それはいい考えだ。では他の者が来たら」
「はい。適当にあしらっておきますのでごゆっくりお休みください」

なかなか機転の利く兵士に見送られながらモット伯は森へと足を運んだ。
生い茂る木々の合間から心地よい木漏れ日が差す。
大樹に背を預けて彼は一息ついた。
兵士の言うようにそこは戦場とは無縁の穏やかな世界だった。
時折、響く砲声が僅かにそれを思い起こさせるぐらいか。
とはいえ、もはやモット伯には関係のない事だった。
じくりと痛む傷跡に思わず彼は手を添えた。

「やはり……腕だけは一流だったか」

傷跡から離した手は真っ赤に染まっていた。
ワルドの杖は寸分の狂いもなく急所を貫いていた。
思ったよりも時間が残されていない事実に焦ることなく、
モット伯は静かに持ってきた荷物を解き始めた。
荷物の中から最初に彼が取り出したのは一枚の封筒。
そこにはモット伯のサインと印が捺されている。
出立前に書かされた遺書を手に取り、それを再び元の場所に戻した。
書くべき事は既に書いてあるし、事ここに至って書き加える言葉も見つからなかった。

やるべき事を終えたモット伯は今度は本を取り出した。
それは戦場での暇潰しに彼が持ち込んだ物の一部だった。
大半を売り渡すことになったが、それでもお気に入りの数冊だけは手元に残した。
もう何度も目を通しているのに何故それを選んだかは分からない。
ただ残された時間が自由に使えるなら読書でもして過ごそうと彼は決めていた。


その彼の耳元で枯れ枝を踏み砕く音が聞こえた。
杖へと伸ばそうとした手が何もない宙を掻く。
ああ、そうか。荷物を持ってくる時に邪魔だから置いてきたのか。
死にぞこないの首を獲りに来た無粋な輩の顔を拝もうと首を横へと傾ける。
しかし、そこにいたのは兵士ではなかった。
薄汚れた格好をした小さな子供が数人。
恐らくは森に避難したタルブの村の子だろう。
どこか事態を把握しきれていないのか、轟く砲声にも怯える様子が感じられない。
近くに親がいるような気配はない。
恐らくは森に隠れるのに飽きて出てきてしまったのだろう。
大きく開いた目が不思議そうにこちらを見つめる。
貴族など見たこともないに違いない。
どれだけ私が偉いのか分かれば、そんな無礼な態度は取れまい。

「退屈か?」
「うん、大人しくじっとしていろって言われたけど、そんなの無理だよ」
「そうだよ。せっかくいい天気なのにさ遊べないんだもん」
「何やってるのか知らないけどさっさと終わらないかな」

訊ねる私に子供達の口々から文句が返ってくる。
だろうな、と思いながらモット伯は空へと視線を移す。
様々な思惑の絡んだこの戦争もこの子らには係わり合いのない事。
子供の目から見れば我々が愚かな行いに勤しんでいるようにしか映るまい。

「心配せずともじきに終わる」
「本当に?」
「ああ。私は嘘吐きだが、たまには本当の事も言う」

子供達が返答に困るような言葉を返しモット伯は持っていた本を戻した。
そして代わりに擦り切れ褪せた一冊の本を抜き出す。
何度も読み直し冒険に心躍らせた少年の頃の思い出。
頁を開いた瞬間、モット伯の脳裏にそれが蘇る。

「それまで本を読んでやろう。『イーヴァルディの勇者』の物語だ。
お前達も題名ぐらいは聞いた事があるだろう」
「知らなーい」
「あんまり村に本とかないもんな。ほとんど劇団も来ないし」

にべもない子供達の答えにモット伯が顔を顰める。
トリステインの文化も進んでいると思ったが辺境ではそうではないのか。
仕方ない。後で遺書に姫殿下への御注進として一筆加えておこう。


「私がこれぐらいの年には読み書きもできたのだがな」
「え? おっさん字書けるの? 凄えな!
うちの村で完璧に読み書きできるのなんてシエスタ姉ちゃんぐらいなのに」

聞き覚えのある名前にモット伯の目が驚愕に見開く。
しかし、それも一瞬。そういう縁もあるだろうと笑みを浮かべるに留めた。
咳払いして本を読む準備を始めたモット伯の周りに子供達が集まる。
その時、不意に子供の一人がモット伯に質問を投げかけた。

「ところで勇者って何?」

それは難しい質問だ、とモット伯は前置きして空を見上げた。
ここからでは良く見えないが今も無数の艦隊と竜が飛び交っているはずだ。
モット伯はそこにいるであろう誰かの姿を思い浮かべて言った。

「何者も恐れることなく、誰かの笑顔の為に立ち向かえる者。
人はそういう者を勇者と呼ぶのかもしれないな」


空に投げ出されたバオーが残った前足の刃を風竜の身体に突き立てる。
それでも勢いを殺せず刃が肉を裂きながら身体の上を滑っていく。
激痛に風竜の喧しい悲鳴が上がる。
振り返ったワルドが目にしたのは尻尾間際で踏み止まるバオーの姿。

「まだ足掻くか!」

前足の片方を失い、もう一方は風竜に突き刺さっている。
もはや刃を振るう事もできず、この状態では雷も放てない。
挽回の機会などない。次の手で必ず仕留められる。
なのに尚も食い下がるバオーにワルドの額から冷たい汗が伝う。

「何故そこまでして戦う? どうして貴様は倒れぬ!?」


“竜の問いかけにイーヴァルディの勇者は答えました。彼女に命を救われたからだと”
“たった一切れのパンとスープでしたが、どれほど貴重な物か村の実情を見て知っていました”
“それを彼女は与えてくれた。それも見知らぬ旅人の為に惜しげもなく”
“だからこそ僕は剣を取る! 彼女のような人がいるなら戦える!”
“この力は僕の物じゃない! 与えられた力は大切な誰かを守る為にある!”


放たれるウインド・ブレイクがバオーの身体を弾き飛ばす。
突き刺さった刃も風竜の身体を裂きながら離れていく。
今度こそ確実に宙へと投げ出されたのを確認してワルドは笑みを漏らした。
これで仕留めたとは思わない。今までも奴は幾度となくこちらの思惑を覆した。
地面に叩きつけられたのをこの目で見届けて、そして止めを刺す。
痛みで暴れる風竜を黙らせ、ワルドはバオーの落ちた先へと向かった。
急降下のような姿勢で飛ぶ竜の背で彼はバオーの姿を見止めた。
だが、それは彼の予想を大きく裏切る形でだった。

最初に目に飛び込んだのは青い風竜の幼生。
そして、その背にバオーは立っていた。
剣の柄を咥え、そして光り輝く刃を抜き出す。
刹那。残った彼の前足に刻まれたルーンが光を放つ。


「相棒の力が“身体を武器に変える”としたら、そのルーンは“感情を力に変える”
いくら力を使い果たしても相棒の心が折れない限り、決して負けはしねえ」

引き抜いたデルフの言葉に大きく頷く。
身体の中を力が溢れんばかりに満たしていく。
この身にはルイズやタバサ、ギーシュ、アニエス、コルベール先生、
学院や町で出会った人達、皆の想いが詰まっている。
そこには倒れていったアルビオンの人達の想いも共にある。
それはこの世界で築き上げてきた思い出。
元の世界では得る事ができなかった本当の宝物。

彼は一度だけルイズに振り返って告げた。
それを最初に与えてくれた自分の主人に、
たった一言“ありがとう”と言葉ではない言葉で。

タバサとルイズが見守る中、彼は空へと飛び出した。
片足だけとは思えぬ脚力は弾丸のように彼の身体を撃ち出す。
風竜と交錯する一瞬。デルフリンガーはワルドの胴体を捉え―――。


「おっさん。その続きは? その後、どうなるんだよ」

ゆさゆさと子供の一人がモット伯の身体を揺する。
彼の瞼は閉じられて本は次の頁を開こうとしない。
勇者が剣を振るう、その間際で物語は止まっているのだ。
続きを急かす為にモット伯を起こそうと彼等は奮闘していた。
その彼等の姿を森の中から出てきた人影が捉える。

「こら! あんた達! 森から出ちゃダメって言ったでしょう!」
「そうだ! もし流れ弾でも飛んできたらどうするんだ!」

それは一組の男女で、男の方はがっしりとした体躯に、
女の方は気の強そうな印象を持たせていた。
夫婦と思しき2人が子供達へと近寄り怒鳴り声を上げる。
それは真に彼らの事を心配しての言葉だったが、
戦争の意味も知らない子供達に理解させるのは不可能だった。
ふと女性の視線が大樹の根元に止まる。
そこには見るからに身形のいい人物が腰を下ろしていた。
そして、その頬をぺしぺしと叩く自分の息子。

「………!」

彼女の頭に昇っていた血が急速に引いて蒼ざめていく。
電光石火の動きで子供を捕まえるとその場に頭を伏せた。
その隣で不思議そうにしている息子の額も地面につけさせる。


「申し訳ありません貴族様! 私の教育が至らぬばかりにとんだご無礼を!」

どうかお許しを、と懇願する彼女にモット伯からの返事はない。
恐る恐る顔を上げた先でモット伯は表情を変えぬままそこにあった。
戸惑う彼女の横で子供は平然と母親に告げた。

「おじさん、さっきまで本読んでくれてたんだけど眠っちゃったんだ」
「え……?」

その一言が意味するものを察して彼女は夫に視線を送った。
それに頷いて同意を示すと彼は赤黒く染まったモット伯の服を捲った。
大きく見開かれる両の眼。服を戻しながら彼は瞼を閉じて黙祷を捧げた。
妻へと振り返り、押し黙ったまま彼は首を横に振った。

「まだ話の途中だったんだけど……」
「ダメよ。おじさんは疲れているの、ゆっくり休ませてあげましょう」

未練がましく彼の傍らに立つ息子に諭すように母親は言った。
渋々他の子供達もそれに従い森の中へと戻っていく。
去り行く間際、夫婦はモット伯へと振り返り、深く深くその頭を下げた。

「じゃあなー、おっさん。続きはまた今度聞かせてくれよな」

そんな事をのたまった悪ガキの頭を叩く平手の音。
遠ざかっていく喧騒を耳にしながらモット伯は薄っすらと瞳を開けた。

まったく物を知らない子供だとモット伯は力なく笑った。
見た目には僅かに皺が動いたようにしか見えなかっただろう。

続きなど聞かせるまでもない。
どんな話であろうと『イーヴァルディの勇者』の結末は決まっている。
どんな強敵であろうと苦難であろうと彼は必ず乗り越える。
そして必ず勝利を手にして帰っていく、守るべき者のいる場所へと。

「もう少しだけ……続きを……見ていたかったんだがな」

彼の手元にあった本が血に染まっていく。
血で貼りついた本は二度と次の頁を開くことはない。
たとえ話が続こうとも、その先を見ることは永劫に叶わない。
それがたとえどれほど待ち望んだ物語であろうとも……。


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