0 命の祈り
タルブ村の端に建つ、ちっぽけなおんぼろ小屋。
森の入り口に建てられたそれは、元は木こりの休憩所として使われていたもので、タルブ村の産業が農業中心になってからは使われることの無くなった場所であった。
何年も放置されていたために外観は酷いもので、壁に穴が空いていたり、窓や扉の立て付けが悪くなっていたりと、とても住めたものではなくなっている。だが、そんな場所でも住み着く人間は居るもので、最近タルブの村に越してきた正体不明の三人組が、ちょうどここで寝泊りをするようになっていた。
使い古された三台のベッドと家具ともいえない家具。そして、本来の役目を果たせないほど朽ちていたために外された窓と扉。照明器具も、調理場もないそこは、最低限と呼べるだけの構造すら存在していない。ついでに言えば、修繕の予定も無い。
贅沢な生活が許されていた一時期を除けば野宿が当然だった三人組にとっては、雨露が凌げて、それなりに柔らかいベッドで眠れるだけで十分のようだ。
そんな人間が住み着いているぼろ小屋に、赤と青の双子の月が暗い地上を照らす時間を見計らって立ち寄る人影があった。
つばの広い帽子の下から金色の長い髪を溢し、緑を基調とした衣服に包まれた何処か幼いながらも発育した肉体を揺り動かして走っているその人物は、ウェストウッド村からタルブの村に移住してばかりのティファニアだ。
普段は生真面目で素朴で純情なはずの少女が、夜回りに出ている村の自警団の目を当たり前のように掻い潜り、一面に広がる畑の横を通り過ぎる。
かつて道であったはずの固められた地面は、林業を捨ててから劣化の一途を辿り、移動するのにはまったく適した状態ではない。そのためか、元々運動神経がいいわけでもないティファニアは、何度も転びながら目指すべき場所へと向かっていた。
遠く聞こえる獣の遠吠えに身を震わせ、それでも走り続けて幾度も転倒すること約十回。なんとか目的の小屋の前に辿り着いたティファニアは、ガラスも木の板も嵌めていない窓辺の前で立ち止まって、その柔らかくて小さな手に握り締めていた小ぶりの鈴を二度鳴らした。
虫の音にも聞こえる高い響きが、タルブ村の外れで静かに響き渡る。
りん、と染み渡るような静かな音色に、金属の重なる鋭い音が答えた。
三度、一定の間を置いて音が鳴るのを確認したティファニアは、少しの間を置いて小屋の中へと足を踏み入れる。
森の入り口に建てられたそれは、元は木こりの休憩所として使われていたもので、タルブ村の産業が農業中心になってからは使われることの無くなった場所であった。
何年も放置されていたために外観は酷いもので、壁に穴が空いていたり、窓や扉の立て付けが悪くなっていたりと、とても住めたものではなくなっている。だが、そんな場所でも住み着く人間は居るもので、最近タルブの村に越してきた正体不明の三人組が、ちょうどここで寝泊りをするようになっていた。
使い古された三台のベッドと家具ともいえない家具。そして、本来の役目を果たせないほど朽ちていたために外された窓と扉。照明器具も、調理場もないそこは、最低限と呼べるだけの構造すら存在していない。ついでに言えば、修繕の予定も無い。
贅沢な生活が許されていた一時期を除けば野宿が当然だった三人組にとっては、雨露が凌げて、それなりに柔らかいベッドで眠れるだけで十分のようだ。
そんな人間が住み着いているぼろ小屋に、赤と青の双子の月が暗い地上を照らす時間を見計らって立ち寄る人影があった。
つばの広い帽子の下から金色の長い髪を溢し、緑を基調とした衣服に包まれた何処か幼いながらも発育した肉体を揺り動かして走っているその人物は、ウェストウッド村からタルブの村に移住してばかりのティファニアだ。
普段は生真面目で素朴で純情なはずの少女が、夜回りに出ている村の自警団の目を当たり前のように掻い潜り、一面に広がる畑の横を通り過ぎる。
かつて道であったはずの固められた地面は、林業を捨ててから劣化の一途を辿り、移動するのにはまったく適した状態ではない。そのためか、元々運動神経がいいわけでもないティファニアは、何度も転びながら目指すべき場所へと向かっていた。
遠く聞こえる獣の遠吠えに身を震わせ、それでも走り続けて幾度も転倒すること約十回。なんとか目的の小屋の前に辿り着いたティファニアは、ガラスも木の板も嵌めていない窓辺の前で立ち止まって、その柔らかくて小さな手に握り締めていた小ぶりの鈴を二度鳴らした。
虫の音にも聞こえる高い響きが、タルブ村の外れで静かに響き渡る。
りん、と染み渡るような静かな音色に、金属の重なる鋭い音が答えた。
三度、一定の間を置いて音が鳴るのを確認したティファニアは、少しの間を置いて小屋の中へと足を踏み入れる。
鍵どころか、扉さえ存在していない小屋の中に進入するのは簡単だ。だが、朽ちた床板は少女の軽い体重でも軋み、砕けそうになっている。迂闊に足を踏み出せば、そのまま床板を踏み抜くことになるだろう。だが、いくら足元を確認しながら慎重に歩みを進めても、悲痛な音を立てる床板に安全な場所を見つけることは出来なかった。
それでも大きく一歩前に出たティファニアは、小屋の奥を覗き込んで囁くように声を発した。
「地下水、さん?」
天井が月の光を遮っているために、小屋の中は暗闇に満たされている。所々に開いた穴から降り注ぐ月明かりは細く、反射した何かをキラキラと光らせるに留まっていた。
確認するように尋ねた声に、男性とも女性とも判別出来ない声が返ってくる。それは、キラキラと光る何かから発せられているようだった。
「ここにいるぜ。ただし、今日も俺は何も見ちゃいねえし、なにも聞いちゃいねえ。平穏で退屈な時間を過ごす。それだけだ」
“明かり”の魔法が唱えられ、ナイフの先端が仄かに白く光る。
ランプの明かりよりもずっと小さな光は、今も寝息を立てている存在を起こさないための配慮であると同時に、小屋の外に光が漏れないための工夫でもあった。
その明かりの端に、桃色に似た奇妙な霧が浮かんで消える。
眠りの魔法の残滓だった。
「ゴメンなさい。今夜も、ご迷惑をおかけします」
「謝る理由がないし、迷惑だとも思っちゃいねえよ。いや、むしろ感謝してるくらいだ」
ぺこりと頭を下げるティファニアに、自身が操るウェールズの肉体を起こした地下水が面倒臭そうに頭を掻く。
ここ数日手入れがされていない髪が、一層酷く乱れた。
「今の俺の魔力なら朝まで眠らせられると思うが、夜のお嬢が相手だと計算できねえ。やるのなら、早めに頼むぜ」
「……はい」
地下水の見守る中、弱弱しく返事をしたティファニアは、三つ並ぶベッドの中央、少し汚れたシーツにある大小二つの盛り上がりの片方に視線を向けて、手を翳した。
左手の中指に光る指輪に嵌め込まれた青い石が、淡い光を放つ。
いつになく儚い光は、石に宿った力が弱まっていることを示している。元々あまり大きくない青い宝石は、いつの間にか指で摘む事さえ躊躇われるような、指の先にすら満たない大きさになっていた。
それでも大きく一歩前に出たティファニアは、小屋の奥を覗き込んで囁くように声を発した。
「地下水、さん?」
天井が月の光を遮っているために、小屋の中は暗闇に満たされている。所々に開いた穴から降り注ぐ月明かりは細く、反射した何かをキラキラと光らせるに留まっていた。
確認するように尋ねた声に、男性とも女性とも判別出来ない声が返ってくる。それは、キラキラと光る何かから発せられているようだった。
「ここにいるぜ。ただし、今日も俺は何も見ちゃいねえし、なにも聞いちゃいねえ。平穏で退屈な時間を過ごす。それだけだ」
“明かり”の魔法が唱えられ、ナイフの先端が仄かに白く光る。
ランプの明かりよりもずっと小さな光は、今も寝息を立てている存在を起こさないための配慮であると同時に、小屋の外に光が漏れないための工夫でもあった。
その明かりの端に、桃色に似た奇妙な霧が浮かんで消える。
眠りの魔法の残滓だった。
「ゴメンなさい。今夜も、ご迷惑をおかけします」
「謝る理由がないし、迷惑だとも思っちゃいねえよ。いや、むしろ感謝してるくらいだ」
ぺこりと頭を下げるティファニアに、自身が操るウェールズの肉体を起こした地下水が面倒臭そうに頭を掻く。
ここ数日手入れがされていない髪が、一層酷く乱れた。
「今の俺の魔力なら朝まで眠らせられると思うが、夜のお嬢が相手だと計算できねえ。やるのなら、早めに頼むぜ」
「……はい」
地下水の見守る中、弱弱しく返事をしたティファニアは、三つ並ぶベッドの中央、少し汚れたシーツにある大小二つの盛り上がりの片方に視線を向けて、手を翳した。
左手の中指に光る指輪に嵌め込まれた青い石が、淡い光を放つ。
いつになく儚い光は、石に宿った力が弱まっていることを示している。元々あまり大きくない青い宝石は、いつの間にか指で摘む事さえ躊躇われるような、指の先にすら満たない大きさになっていた。
なけなしの力を振り絞って行われるのは、命の魔法だ。
死者を死者のまま蘇らせる忌むべき力ではない。僅かな希望と献身的な祈りによって紡がれる、命を支えようとする力だ。
失われたものは戻ってこない。それは、魔法という物理の概念を越えた力でも例外ではない。
それでも、零れかけた水を戻そうとすることくらいは出来る。器を直し、残った水を別のもので補い、いつか、元に戻るときまで支え続けるくらいは。
そして、その行為は、決して自然の摂理を越えたものではないはずだ。
支え続けることで手に入るものがあるはず。
そう信じて、ティファニアは夜の僅かな時間を、神への祈りに費やしていた。
死者を死者のまま蘇らせる忌むべき力ではない。僅かな希望と献身的な祈りによって紡がれる、命を支えようとする力だ。
失われたものは戻ってこない。それは、魔法という物理の概念を越えた力でも例外ではない。
それでも、零れかけた水を戻そうとすることくらいは出来る。器を直し、残った水を別のもので補い、いつか、元に戻るときまで支え続けるくらいは。
そして、その行為は、決して自然の摂理を越えたものではないはずだ。
支え続けることで手に入るものがあるはず。
そう信じて、ティファニアは夜の僅かな時間を、神への祈りに費やしていた。