ゼロの奇妙な使い魔 まとめ

一章八節 ~ゼロは頭を下げない~

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 リキエルには考えがあった。その考えとは、『逃げる』ことだった。
 奇妙なことだが、この逃げるという発想は、自分の肉体に脈々と流れる何かによって引き出されたものであるように、リキエルには感じられた。それほど自然に、この考えは浮かんできたのである。
 ただ、それも仕方のないことだとリキエルは思った。魔法の万能性は授業で目にした通りで、その気になれば大の大人一人いたぶる程度、朝飯前どころか断食していても軽いものに見えた。そして平民相手となれば、貴族は力を振るうのに躊躇しないだろう。
 まともにやり合おうなどという考えは、初めからリキエルにはない。言いがかり同然の理由で、怪我などさせられてはたまらなかった。ともすれば、逃げる以外に選択の余地も無いのだ。呼び出しを無視されたギーシュは輪をかけて激怒するだろうが、逃げ切れれば問題はない。損するばかりのものごとに自分からぶつかって行くのは、伊達か酔狂か、はたまた馬鹿かである。
 そういうことで、食堂を出たリキエルは、シエスタに言われたのとは逆の方角へと向かっている。食後の胃袋が驚かないよう、心がけて走った。
 暫くすると、開けた場所に出た。そこは広場で、中庭になっているらしかった。芝生がよく刈り込まれており、片隅にはベンチも置かれている。森閑として、それこそ人がいないことを差し引いても静かな場所だったが、それはそれで、いい意味で寂れた趣がある。
 ただ、惜しむらくは少々日の当たりが悪いことだ。場所が悪いというのもあるだろうが、広場を挟んで屹立する二つの塔が、多少なりとも差し込むはずの光も遮っているらしかった。その影になっているのである。
 それでも、基本的に落ち着いた雰囲気の漂う場所なので、来る時間帯を選ぶか、季節が移り日が差すようになれば、散策にはうってつけの場所になるだろうなと、リキエルは呼吸を落ち着かせながら思った。
 リキエルは広場を横切って、ベンチに座り込んだ。その周辺と広場の中央付近だけが、陽光の温もりを思うさま享受していた。影と光の境界は曖昧に飽和して、それは一種神秘的な現象にも見えてくる。日当たりが悪いのは、実はこれを計算に入れたものかも知れなかった。
 リキエルはここで、ほとぼりが冷めるまで待つことに決めた。

◆ ◆ ◆

 ――ふ~ん。仕事は、さぼらず、やった、みたいね。
 枠の一部ごと吹き飛んだ窓から、強めの風が吹き込んでくる。寒々しくはなく、むしろ春を感じさせるようで、肌に心地よいものだった。
 ―洗濯も、やってた、みたいだし。仕事は、してる、のよね。
 時折、そんな風の流れに乗って、端唄でもさえずっているような鳥の声が運ばれてくる。学院に巣でも設けた輩か、それとも、冬が去る代わりに飛び出してきたものだろうか。
 ――でも、だけど、なんで、いつも、食事時に。
 ただ、冬の名残ともいうべきものも随所に見られるようだった。霜柱が溶けて、溶けてはまたできるを繰り返すうちに、ぬかるんでしまった地面などもそれだ。
「あいつは! いなくなるの! あの牛柄は! 食事用意させたのに! 使い魔としては考えられないくらい良い食事! 用意させたのに! 椅子まで!」
 移ろう季節の変わり目を、意図して気に留めようとする人間は多くない。それは人の心が荒んでいるから、というわけでもなく、忙しいからである。忙しなく心揺らす人間は、その揺れに振り回されて周りが見えなくなるのだろう。そういった意味でルイズは今、何も目に入っていないようだった。
 ルイズは桃色のブロンド髪を振り乱し、今朝の授業で自身が作った小クレーターに、ばすんばすんと足を振り下ろした。
「ああ~! もうなんなのよ! これじゃあ……!」
 ――わたしが、馬鹿みたいじゃない!
 ルイズとて、何も喚き散らすために教室に来たわけではなかった。リキエルを探しに来たのである。
 昼食前になっても戻って来ず、食事が始まってからも顔を出さなかったリキエルを、初めルイズは捨て置くことにした。平民が一人、昼食をとり損なうからどうだというのだ、まして主人を放っておく使い魔には、食事抜きの罰くらい軽いものだ、と思った。
 しかし、デザートが配られる頃になってルイズはふと、昨晩のリキエルの様子を思い出したのである。もしも教室で、昨日のようなパニックを起こしたのだとすれば、流石に放置はできなかった。
 ルイズは頭に血が上るのを感じた。どうしてわたしが使い魔に振り回されなきゃいけないのよ! というのは、言葉にも出していた気がする。
 傍目にもわかる不機嫌な空気を纏って、ルイズは誰よりも早く食堂を出た。椅子から立ち上がるときに、隣の席のマリコルヌが驚いた顔をしていたが、ルイズは気にも留めていなかった。
 そして、一応自分の部屋も捜索した後、教室に着いてみれば見事にもぬけの殻である。ルイズの怒りは、心頭どこまでも巡った。
「デザート我慢してまで探しに来たのに! もしクックベリーパイが出てたら……あ、あああいつ! 容赦しないわ!」
 いつしか、ルイズの怒りはリキエルが失踪したことよりも、デザートを食べ損ねたことに対して向けられるようになっている。ただ、ルイズの脳内でボロクソにされるのは、あくまで元凶のリキエルだった。ばきんばこんと足を振り下ろしては、ルイズはリキエルにそうしているつもりになって、溜飲を下げるのである。
 ひとっつ蹴っては我がため~。ふたっつ蹴っては私のために~。みっつ蹴っては云々と、三度三度怨嗟を込めて、ルイズは足踏みをし続けた。


「……ふうぅぅ――」
 ルイズはとりあえずの怒りを発散し終え、顔にもいくらかの穏やかさを取り戻していた。彼女の思考世界のリキエルは、釜茹でに処された後に香辛料をふられ、大蛇バジリスクの腹におそまつさまでしたの状態である。
 名を呼ばれたのは、そうしてクレーターの周りを――リキエルが片づけをしたクレーターの周りを――埃だたせてから、とりあえず部屋に戻ろうと思ったときだった。
「ミス・ヴァリエール!」
 その大きな声に驚いて、ルイズが首を回すと、メイドが必死の形相で立っていた。言葉を交わしたことはないが、顔に残ったそばかすと黒髪は記憶に残っていて、食堂で給仕をしていることも覚えている。
「えぇと、確か給仕の……」
 メイドが焦ったように頭を下げた。
「シエスタといいます。そんなことよりもミス・ヴァリエール! リキエルさんが!」
「……あいつが、なに? どこにいるか、知ってるの?」
 ルイズの目が剣呑なものに変わった。怒りが再燃したようである。
「それが――」
 しかし話を聞くと、その怒りは驚愕へと形を変え、次には焦燥へと転じた。
「ギーシュと、あいつが?」
「はい! ミスタ・グラモンがヴェストリの広場にリキエルさんを呼び出して……あんまり時間もないし、ミス・ヴァリエールに知らせなくちゃって、私」
「ヴェストリの広場ね。わかったわ。でも、時間って?」
 シエスタは複雑そうな顔をして答えた。
「リキエルさんに広場の場所を聞かれて、全然違う場所を言いました。反対の方向を言ったんです。少しは時間稼ぎになると思って」
「その間にわたしを呼ぼうと?」
「はい。早めに見つけられてよかった。多分まだ、リキエルさんは広場に着いてません……でも」
「どうしたの?」
「いえ、ただ、リキエルさんはどうして広場の場所を知ろうとしたのか、って思ったんです。怪我じゃすまないことはわかってるのに、どうしてリキエルさんは広場に行こうとしたんでしょう?」
「……さあ、見当もつかないわ」
 ルイズは一瞬考え込む素振りを見せたが、すぐに首を振った。そうしてから、ふいに俯く。胸のうちにまた、忌々しい気持ちが浮かんできていた。顔も、また険しいものになっている。
 ――そうよ。次から次へと、どうしてわたしが、どうしてわけもわからないのに、どうしてあいつのために走り回らなくちゃならないのよ。
「ミス・ヴァリエール?」
「……なんでもないわ。行くわよ、自分の使い魔がボロボロにされるのは見たくないはないし。そんなことになったら、あの平民またパニックに――」
 言いながら、ルイズは総毛立った。昨晩のリキエルの狂態を、またまた頭の中に思い描いたのである。話をしていただけで、呼吸もままならなくなるほど取り乱すあいつが、魔法で折檻なんか受けでもしたらどうなるだろうか。
「ミ、ミス!?」
 思ったときには、ルイズは駆け出している。仮定の話だと思おうとすればするほどに、いやな想像はより確固としたものになっていく。振り回されていると思うには、その想像は少し鮮明に過ぎた。焦らずにはいられなかった。

◆ ◆ ◆

「諸君! 決闘だ!」
 薔薇の造花を掲げた『青銅』のギーシュが、高らかにそう告げると、広場に怒号にも似た歓声が巻き起こった。
 口々に囃し立てる貴族たちの声や、方々から聞こえてくる口笛は、ぶつかり合い、互いの勢いを増しているようだった。それがより一層の喧騒を、常には静かなヴェストリの広場に与えている。
 右と後ろを向けば、隙間なく貴族が立ち並び、左と前を見れば、間隙の縫い目もないメイジの壁がある。そしてその壁の前に、満面に得意気な色を浮かべたギーシュがいた。
 一通り見回しながら、リキエルは呆然と立ち尽くしている。
 リキエルが最初に異変を感じたのは、広場に少しずつ人が集まり始めたときである。とはいっても、意外と人は来るんだな、と思っただけで、ベンチに座り直しただけだった。安心しきっていて、しばらくそこを動く気にはならなかった。メイジたちが自分を指差して、何事かを言い合っているのには気づいていたが、興味は向かなかったし、むしろ意識してそれらを無視した。気にしてしまうと、パニックを起こしたときの、周囲のあからさまな囁き合いと、洗わずに放置した金魚の水槽のような、酷く嫌な気分になる視線を、咄嗟に思い出してしまいそうだったのである。
 リキエルがようやくそこを動く気になったのは、人がどんどん増えていくのを見て、持ち前の人混み嫌いを発揮したからだった。そして広場の真ん中を通って、広場を出ようとしたとき、ギーシュの姿を認めたのである。
 リキエルはいつも片方の目が開かないが、視力は比較的良い方だった。ブロンドの髪の毛を揺らし、薔薇の造花を口に咥えたギーシュを、見間違えはしない。
 リキエルは走り出そうとした。何故ギーシュがこの場にいるのかは知れなかったが、どうでもよかった。ただ、逃げるべき相手から逃げ果せることだけを考えたのである。
 ――しまったァアアア!?
 とそのときになって気がついた。ギーシュが平民を、つまりはリキエルを叩き伏せるのを一目見物しようと集まった学院のメイジに、周りを囲まれてしまっていた。逃げ出そうという気は、一瞬で萎え失せた。
 中には、妙にギラギラした目つきの者も居て、あわよくば自分がこの場で、この平民を叩きのめしてやろうと息巻いているのが、分かりたくもないのによく分かった。逃げようとすればそういった連中が、ギーシュに代わって真っ先に自分を攻撃するだろうと、リキエルは思った。
 そしてリキエルは今や、完全に追い詰められている。パニックを起こさないのが、リキエルには自分で不思議なくらいだった。
「とりあえず、逃げずに来たことは、誉めてやろうじゃないか」
「……」
 ギーシュが、嫌味を含んだ笑みをリキエルに向けた。リキエルは言葉もない。ギーシュは不満そうに鼻を鳴らしてから、思い直したようにまた微笑んだ。貴族という身分やその言葉の響きにはおよそ似つかわしくない、いやらしい笑い方だった。
「まあいい。では始めるか」
 ギーシュは薔薇の造花を、騎士が槍を構えるようにして胸の上辺りに据えた。優雅さを尊重したらしい、ゆっくりとした動きが、ギーシュの余裕を表している。どうやらその造花が、ギーシュの杖になっているようだった。
 リキエルは放心したようにその動きを見つめていたが、ギーシュが、これもゆったりとした動きで造花を振り上げるのを認めて、とっさに身構えた。ギーシュが何をするかは知れないが、むざむざやられる気はなかった。
 ギーシュがスッと造花を振るうと、花弁が一枚、ヒラヒラと舞い落ちた。その花弁は、地面に落ちるか落ちないかといったところで、女性を象ったと思しき甲冑の騎士に姿を変えた。
「僕はメイジだ。だから魔法で戦う。よもや文句はあるまいね?」
 ギーシュが言うのと同時に、周りのメイジが示し合わせたように、ギーシュとリキエルを取り囲む輪を広げた。存分にやってしまえ、ということらしい。
「……!」
 リキエルは、冷や汗をかきながらギーシュをにらみ付けた。心には、不気味に佇む青銅の騎士への恐怖と、この状況を見世物にしているメイジたちへの怒りがあって、それは両方とも、目の前で薄ら笑いを浮かべているギーシュに向けているものでもあった。
 ギーシュはリキエルの視線を、面白いものでも見るようにして受け止める。
「言い忘れたな。僕の二つ名は『青銅』。青銅のギーシュだ。従って、青銅のゴーレム『ワルキューレ』がお相手するよ」
 ギーシュの言葉が終わるとともに、ゴーレムが拳を振り上げてリキエルに向かってきた。見た目に反して滑らかな動きをしたので、リキエルは面食らったが、驚いてばかりもいられなかった。
 ゴーレムはよたよたとした走りで、それほど俊敏はとはいえなかったが、楽観できるほど遅くもない。足を踏み出すたびにするガシャガシャという金属的な音は、はりぼてではあり得ない重みを感じさせた。その速さと重みを青銅の硬さで生身に受けては、ただでは済まないだろう。
 ――落ち着け……。形がああなんだ。どんな風に動くかはわかるんだ。それにそんなに速いわけじゃあない。すぐに動けばなんとかなる!
 リキエルはゴーレムが叩きつけてきた拳を、飛びすさってよけた。地面を蹴る勢いが強すぎて、うまく着地できず、蹴つまずいて背中から転ぶ。ゴロゴロと無様に転がったが、そのまま後方回転の要領で立ち上がることができた。結果的に、ゴーレムから距離を取った形になる。
「へえ……やるじゃあないか」
 リキエルの一連の動きは、ほとんど偶然によって生まれたものだったが、ギーシュはそうは思わなかったようで、少し目を細めてそう言った。
「ではこれでどうかな?」
 ギーシュは杖を振るい、二枚目の花弁を落とした。これも先ほどと同様、瞬時に青銅の騎士へと変じる。
「一体だけじゃあないのかッ」
「初めは十分と思ったんだがね、それでも。君に敬意を表す意味で二体目だ」
 リキエルは一気に青ざめた。こめかみの上あたりから、冷や汗が止め処もなくあふれてくる。二の腕を使い、リキエルはそれをぬぐった。
 前を向けば、一体目のゴーレムが右から、二体目が左側から走って来ていた。
 ――ど…どっちから!? え…えとまず最初にすることは…右側のやつの方が少し近いからッ! えと…左側によけて…いや、左側からも来てるんだから右に、いや駄目だ…どっち道二体目の攻撃はよけられない!
「は!?」
 考えている間に、一体目は目前へと迫って来ている。その腕が強く引き絞られるのを見て、リキエルは言い知れない寒気を感じた。気道が一瞬で詰まり、口からは「ヒュッ」と空気が漏れる。
「ウォオオオオ!?」
 リキエルはゴーレムの拳を、体を思い切りひねる事でかわした。それはまさしく無条件反応の産物だったといえる。ゴーレムの腕が風を切るブンッという音で、リキエルはまた寒気立ったが、同時によけられたことを実感し、安堵した。
 が、そう思ったのも束の間だった。ぞわりと別の悪寒がして、リキエルがそちらを向けば、既に二体目のゴーレムが、腕を突き出すところだった。
「あ」
 とリキエルが零した瞬間、防ぐ間もなく、ゴーレムの拳が鳩尾の下に入る。リキエルはそのまま吹き飛ばされ、受身も取れず芝生に叩きつけられた。
「グ、ウああああああああ……っ」
 リキエルは、体をくの字に曲げてうめいた。うめきながら、舌の根のあたりまでこみ上げてきた胃液を、どうにか飲み下す。喉仏のあたりに、焼けただれるような感触とちりちりとした痛みが残って、しばらく尾を引いた。
 二体目のゴーレムの存在を、失念していたわけではなかった。むしろ、思いがけず一体目の攻撃をうまく避けられたため、二体目の攻撃もよけられるかもしれないという算段さえ持っていた。だが、二体目のゴーレムはリキエルの予想以上に、迫ってくるのが速かったのである。
 ――ちくしょう! いてェ! いてえええ……っ。ちくしょう、チクショウッ! こんな目に! どうしてオレが遭わなくちゃあならない! オレが何をしたっていうんだ! くそ! 土が目に入るっ。あ、汗がッ、出て! ちくしょう、何もしてないのに。それとも何か? 何もしないのが悪いっていうのか? じゃあオレなんかに何ができるっていうんだッ!?  クソッ、目が、まぶたがッ!
 パニックに陥りかけながらも、リキエルは立ち上がった。倒れ伏したまま、ゴーレムに袋叩きにされることを恐れた。
「おやおや、立ち上がるとは思わなかったな……。手加減が過ぎたかな?」
「あ!? なにィイイ!」
 ギーシュの言葉に顔を上げて、リキエルは目を疑った。ギーシュが三度、気障な動きで杖を振り、花弁を落としているところだった。
「さて、三体目だ。どうする? 平民」
 二体のゴーレムが、ギーシュの前に戻っていく。そして、新たに生まれたゴーレムを挟んで止まった。三体の青銅の騎士が、ギーシュの前に立ち並ぶ。ゴーレムの壁に護られて、ギーシュはリキエルに嘲るような視線を投げた。
 しかし余裕の裏で、傍目にもリキエルにもわからないが、実をいえばギーシュは焦っている。ギーシュはただ一撃、自分のゴーレムの攻撃を与えればそれで終わると思っていた。ワルキューレの拳を腹にでも叩きつければ、リキエルは血反吐を吐き出すか、それでなくとも、胃の中のものを吐瀉させる程度はできると踏んでいたのである。
 実際、今のパンチでリキエルは、今日一日は食事をうけつけないほどのダメージを内蔵に受けており、立ち上がるだけで辛いほどの有様だった。
 しかし、ゴーレムを使い、本気で人を殴ったことのないギーシュにはそれがわからない。魔法への絶対の自信と貴族のプライドとで凝り固まったギーシュの目には、魔法を受けて立ち上がる平民の姿が、何か不気味なものに映ったのである。一度ゴーレムの拳をさけられていることも、ギーシュの焦りを強くしていた。
 ギーシュは二体目のゴーレムを出した時から、手加減などしてはいなかった。リキエルが予想以上にゴーレムの動きを機敏なものに感じたのは、そのためだった。
「三体の青銅の乙女! その突撃を受けて、はたして無事でいられるかなァ~?」
 ギーシュが杖を振り、それに呼応してゴーレムが動き出す。左右の二体はリキエルを挟みこんで楕円を描き、真ん中の三体目はそれに少し遅れる形で、一直線に走ってくる。やはり初めの攻撃とは比べ物にならないほど、その動きは速かった。
 リキエルはパニックへの恐怖とゴーレムのへの恐怖、そして焦りに責められた。そうなりながらも、ゴーレムの攻撃をさけようと、必死で頭を回転させようとする。
 ――右と左のやつをまずどうにかしなきゃあ…どうする!? まずは、前に…いや後ろか…に逃げてやりすごして………汗が止まらない……じゃなくて、前からもゴーレムが来る。いや違う…左右からの攻撃が……早くしなくては!
「ど…どうする!? ……はくッ!? く…苦しいィィッ。い、息が……」
 そのときだった。最悪とも当然ともいえるタイミングで、パニックの発作が出始める。
 リキエルはのどを押さえて片膝をついた。息を吐くことも吸うこともままならず、舌を突き出しながらもがいた。恐怖と焦りがさらにつのり、それがまた、より症状の悪化に拍車をかける。
「クァッ! 息ができねえッ! ヒック、ひっく、クァ!! まぶたがケイレンして来た……ッ!!」
 リキエルの様子を見て取って、ギーシュの口の端がニィイッと吊り上った。端正な顔立ちが、醜悪な獣のようになる。
 もう、焦りや不安の欠片さえ、ギーシュにはなかった。むしろそんなものを貴族である自分に抱かせた平民を、完膚なきまでに叩きのめしてやろうとしか思わなかった。
「どうやらパニックになったようだね。無理もない。平民の力などそんなもの! まあ分かりきっていたことだが、君はこの場に、僕に叩きのめされるために姿をあらわしたというわけだなぁああああぁ!」
「くそッ! は、はやく、は、やくどうにか……ッ!?」
 動くことにさえまともに思考が裂けなくなったリキエルに追い討ちをかけるように、開いている方のまぶたがストーン……と落ちた。
 リキエルの視界が、わずかばかりの明かりが透けてくるだけの、木の洞の中のような闇に閉ざされた。その一拍の後にきた衝撃とともに、今度は世界が真っ白になる。そしてまた、意識が闇へと吸い込まれてゆくのをリキエルは感じた。殴られたのが、どうやら左の頬であるらしいことが、ようやくわかるだけだった。

◆ ◆ ◆

 教師の方々にもこのことを伝えてきます、と言ったシエスタと途中で別れ、ルイズはヴェストリの広場へと一人走った。ギーシュの説得のためである。シエスタの言うところによれば、まだ騒ぎは起こっていないはずだったが、ルイズは妙な胸騒ぎがして、常に無く足を急がせた。
 息せき切らして広場にたどり着くと、すでに黒山の人だかりができていた。
 ――遅かった!
 とルイズは思い、乱れていた呼吸も一瞬止まりかけた。だが、もしかしたらと思い直す。まだ本格的な折檻は始まっていないかもしれないと希望をかけ、ルイズはにじり寄ってくる嫌な想像を、脳の片隅に押し込めた。
 人だかりの輪の中心には自分の使い魔と、いけ好かないキザなクラスメート――ギーシュがいるはずだった。ルイズはとりあえず、使い魔を叱責するつもりでいる。あとのことは考えなかった。ギーシュとは適当に、折り合いをつけさせようと思うだけだった。
 ルイズは小柄な体を活かして、人垣を押しのけて前に出ようとした。皆が場所をとられるのを嫌い抵抗するものと思って、少し強引に分け入ったのだが、意外なほどすんなりと進めた。何故かはわからないが、生徒達は呆然と立ち尽くしているようだった。
 そんな生徒達を、ルイズは不思議に感じたが、前に出ようとするのはやめなかった。皆が静かなのは、まだ『コト』が始まっていないことを、暗に示しているのかもしれないとも思った。
 そして、人垣の前に出て、使い魔を怒鳴りつけようと口を開き、絶句した。吐こうとした息は、どれもまともな音にすらならない。
「……ぁ、……ッ!」
 ぼろ雑巾の方がマシだ。ルイズはその惨状を見て、咄嗟にそう思った。目を背けたくなったが、良かれ悪しかれ夢を見ているときそうなるように、体が動かなくなり、まぶたを閉じることさえできなくなった。
 なんとか、意識はあるようだった。それが逆に辛いだろうと思われた。
全身についたシミや、服の裂け目から見える黒ずんだ汚れは、倒れるときに付いた土だけではないはずだ。
 左腕は肘から折れているらしく、信じられない曲がり方をしている。足も、蹴られるか殴られるかして、異常なほど腫れ上がっていた。右の腕と足が比較的無事に済んでいるのは、そういう姿勢でやられたということだろう。
 特に酷く見えたのは、首から上だった。顔の左側はよほど殴られたのか、変形して、原型をなんとか保っているという具合だった。右目は開いているが、ちゃんと見えているかは疑わしい。
 思い切り怒鳴りつけたかった。こんな場所であんた! 何してんのよ! と叱りつけてやりたかった。そう言える状況であればそうするつもりで、そう言える状況であって欲しかった。だが、現実はことほど左様に非情である。
 ルイズは、自分が叫ぶ寸前だったのに気づいて口を押さえた。そうすると、手から震えが伝わってくるのがわかって、自分の体全体が震えていることに気づいた。そうさせるのは不安であり、恐怖であるかもしれなかった。あるいは、怒りとも悲しみともつかない感情の起伏のようでもある。
 平民など、どうにでもなれと思っていた。少しくらいやられる程度ならば、いい薬になるかもしれないとどこかで思ってもいた。それで、勝手にふらふらとどこかに行くことをやめれば丁度いいと、ルイズは自分でも気づかないほど、微かにそう思っていたのである。
 それに今思い当たったが、もう微塵も、ルイズはそんなことを思う気にはなれなかった。ただ、酷く痛々しい気持ちになって、ルイズは泣きたくなった。かすれた声で呟いたのは、涙腺をどうにかして閉じたかったのかもわからない。
「リキエル……」
 使い魔の、それは変わり果てた姿だった。
「ギーシュ! 平民相手に、ちょっとやりすぎじゃあないか?」
「丸腰生身の平民にゴーレム三体は、確かにな、どう考えてもやりすぎだ!」
「というか卑怯だよなぁ、ここまでやるとさぁー」
 人だかりのあちらこちらから、ギーシュに向かっての野次が飛ぶ。彼らは、リキエルがギーシュに嬲り物にされるのを見物に来たが、その結果が予想以上に凄惨なものになってしまったことに、大なり小なり貴族なり、哀れみに近い罪悪感を持ったらしかった。
 ルイズは、こんな状況になるまで傍観しておいてと思わないではなかったが、『平民を人と思わず』という意識が心の深い場所に、砕き難い巨石のように鎮座しているのも確かだった。そして、それが貴族として当然の意識であることも、公然とした事実である。リキエルの惨たらしい様を見ている今だからこそ、自分はそれを疑えるのだとルイズは理解していた。
 それは、周りで喚いている者達となんら変わらないとルイズは思った。自分も昨晩のリキエルを目にしていなければ、他人事として、まだ教室で愚痴っていたかもわからないのである。周囲の人間を、責めることはできなかった。
 だからその代わりに、ルイズは周りの野次に感謝した。体面を殊更に気にするギーシュである。野次を飛ばされて、このまま続けるとも思えなかった。無責任な野次がそういった形で、この決闘を終わらせる切欠になるかもしれなかった。
 その証拠に、ギーシュは渋い顔をして腕を組み、何事か思案している。
「そうだな。やりすぎたかも知れない……丸腰だものな」
 そう言って腕を解き、ギーシュが杖を構えるのを見て、ルイズはそのままゴーレムを引っ込める気になったかと思ったが、
「よし、ではこうしよう」
 ギーシュが杖を振るい、花弁を落とした。出てきたのはゴーレムではなく、装飾や工夫の一切を省いた、鍔と柄と刃だけの、至ってシンプルな一本の剣である。
 ――へ? ぇ……え?
「剣、武器、平民どもが健気にも磨いた牙。これを使わせてあげようじゃないか」
 ギーシュはそれで万事解決とばかりに得意気な顔になり、創り出した剣を、わざわざレビテーションの魔法で浮かせて、リキエルの下へと寄越した。
 ――ちょっと、それは……!
「違うでしょ!? そんな問題じゃないわよッ!」
「ル、ルイズ!?」
 唐突に人垣の中からリキエルへと駆け寄り、声を張りあげたルイズに驚いて、ギーシュの集中は途切れた。同時にレビテーションも途切れ、剣はリキエルから五歩ほど離れた地面に突き立つ。そのとき、ルイズには一瞬リキエルの目が動いた気がしたが、すぐにギーシュを眼目に据えた。
 リキエルを背にして、ルイズはギーシュの前に立ちふさがった。
「ギーシュ、いい加減にして! 大体ねえ、決闘は禁止じゃない!」
 ルイズの言葉に、ギーシュは面食らったような顔になったが、すぐに、いつもの軽薄な笑みに戻り、人を小ばかにする口ぶりで言った。
「禁止されているのは、貴族同士の決闘のみだよ。それにその平民は――おっと、君の使い魔君は、二人の女性と僕を侮辱した。平民が貴族に無礼を働いたんだ」
「でも! これはやりすぎでしょう!?」
「そうは思わないな。彼は、謝れば許すという僕の寛大な処置に対して、侮辱を以って応えたんだ。その落とし前、つけてくれるというなら別だがね。君がだ、ゼロのルイズ」
 ギーシュは確かに、どこまでも体面を気にするような男だった。しかしそれが、今は逆に、ギーシュがこの件について手を打つことの妨げになっていた。ほとんど意固地になっているのだ。
 ルイズは俯いて、唇を噛んだ。
 手を下にしたくなどない。ギーシュの言う侮辱だの無礼だのは、どうせ薄っぺらな藁で造られた家にも劣る、本当に瑣末な、下らないプライドから出た言葉だろう。謝る筋合いなどはない。ましてこの騒ぎは、自分に直接の関係があるわけでもないのだ。
 さらにいえば、会って一日とないような人間のために謝るなど、それが例え貴族の子弟であったとしても、ルイズの屈辱感を煽り、かきたてることだった。
 それでもこれ以上、目の前で自分の使い魔が傷つくのは、ルイズには見ていられなかったのである。また昨晩のように、ここでリキエルを見捨てることの方が、よほど自分のプライドに傷をつけるとも思った。何より、野次の効果も無く、リキエルが動けない今、自分が謝るより他にどうしようもないではないか。
 拳を握り締め顔を上げ、ルイズは一歩前へ踏み出した。
「……わかった、わよ。こいつが、こいつが何かしたっていうなら……わ、わたしが、ああああ、あ、謝るわよ!」
 思いがけないルイズの宣言に、観衆は言葉を捜しあぐねたように口を閉じ、顔を見合わせ、最終的にルイズを注視した。ギーシュはまた面食らったようになって、呆然とルイズを黙視した。
 そのとき、ヴェストリの広場に存在する全ての人間の目がルイズを見ていた。音はなかった。誰かが声を上げるのは勿論のこと、衣擦れの音ひとつない。風や地を這う蟻さえもが、次の動きに耳をそばだてているようだった。ルイズやギーシュ、他の生徒たちには、そう思えた。
「クゥ……ッ」
 叫んでから、ルイズはまた顔を地に向けて、唇の端を噛んでいた。
まだ踏ん切りはつかなかった。悔しいものは、やはり悔しい。顔中の血管を血が巡っているのが、ルイズには自分でよくわかる。ただ、いつまでもそのままでいられないことも、それ以上によくわかっていた。
 濃霧のように広場を包む静寂のせいか、あっという間に一分間ほども経った。俯いていたルイズは、謝罪の言葉を口にしようと、震える唇を開けた。
「……!」
 と、突然ルイズの左肩を掴むものがいた。今この場で、それができる人間は限られてくる。ルイズは信じられないような気持ちで、肩に置かれた手の甲、のびる腕、その先の人間を振り仰いだ。相手はぎょろりと目を動かして、ルイズと視線を繋いできた。
 間近で見ると、本当に酷い有様だった。
 いくらか軽症だと思っていた右半身も、地面に押し付けられたか、ところどころに切り傷が目立っている。顔も、唇が切れ、目じりの下がパックリと裂け、次から次と小川のように血が流れ出ていた。ルイズの位置からでは、顔の左側面は相手が首を傾けているのもあって影になっており、見ることができないが、遠目に見てもその酷さが目につくものを間近で見ようとは、ルイズは思わなかった。
 思わなかったが、先ほどとは違った意味で目が離せなかった。その、炯炯とした灯を燈す右の瞳が、ルイズの視線を捕らえて離さないのである。
「オレが……言うことじゃあないかもしれないがな、謝るんじゃあない。謝ってはいけないんだルイズ、お前は。こんな程度のヤツにはなァ……!」
 使い魔の、それは壮絶な姿だった。

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