ゼロの奇妙な使い魔 まとめ

一章五節 ~使い魔は血に慄く~

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匿名ユーザー

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 最後の机を運び終えて、リキエルは息をついた。
 時間は、昼休みまで一時間あまりといったところだった。リキエルがルイズに言ったように、そう時間はかからなかったことになる。
 無論、リキエルは手抜きなどはしていない。爆発によるクレーターは如何ともし難かったが、その瓦礫はルイズがいる間に片付け終わっている。掃き掃除も、細かい塵は残っているかもしれないが、もともと綺麗なわけでもない教室なので、ざっと見ただけではわからないだろう。
 新しい窓ガラスは、教室に運び入れたそのままで放置してあった。どうやって窓にはめ込むものか、リキエルにはわからなかったのである。何かしらのノウハウが必要なのかも知れず、あるいはメイジの仕事なのだろうとリキエルは思った。
 ひとまず、これで仕事は終わりだった。御役御免というわけだ。
 しかし、リキエルが教室から出て行く気配はなかった。自分で運び入れた椅子の一つに座り込んで、所在無げに鼻の頭をかいている。その姿は、先ほどのルイズに似ているようで、少し違った。
 ルイズはずぶずぶと沈み込むようで、何かを堪えるようにジッと座っていた。対してリキエルは、根を生やしたように動かないのは同じだが、どこか虚ろで、放心したように座っている。リキエルは煩悶していた。
 ――どうしてオレは……。
 一人でこの作業をする気になったのか。そんなことをわざわざ言ってしまったのか。ルイズが訝しげにしていたように、納得のいく理由が、リキエル自身思いつかないのだ。気まぐれではなかった、とは確信しているが、そうすると余計に説明がつかない。
 労働意欲に目覚めたわけでは勿論なかった。仕事を終えた今、リキエルに残っているものは充足感でも達成感でもなく、心地よい疲労感でもなかった。熱を持ったような肩の凝りの他にはただ、胸の奥に奇妙なもやがかかっただけである。
 そしてこのもやは、考えてみるとしかし、仕事を終えて今初めて湧き出したものではないようだった。
 ふと、「ないわ」と言ったルイズの顔が思い出された。葛藤とも困惑とも焦燥ともつかないものが、そのとき頭を駆け巡ったのをリキエルは覚えている。もやが生じたのはその少し後だった。そして、気づけばルイズを追い出すようなことを口にしていたのである。
 ――追い出すだ……?
 自らの思考にリキエルは一瞬疑問を抱いたが、直ぐにそれは消えた。むしろすんなりと、あるべき場所にあるべきものが落ち着いたようにさえ感じられた。
 そこでハタと気づく。気づくというよりも、それは明確な答えとなっていた。自分は、ルイズを追い出すためにああ言ったのではないか。言葉を重ねれば、ルイズと同じ場所に居たくないと、そう思ったのではなかったか。

 そしてそう思わせたものは、リキエルにとって、やはりある種馴染み深いものだったのである。
 それは恐怖だった。闇夜に息を殺しているような得体の知れない恐怖とは違う、逆に、幾度も落ち込み底の知れた、よく見知った恐怖である。だからこそ、リキエルはそれに気づきたくなかった。無意識に、自分でも気づかないふりをしていたのである。
 そして、これは恐怖であると同時に兆候でもある。その兆候とは、パニックに陥る際の兆候だった。リキエルがルイズを遠ざけたのは、それを過敏に捉えたためだ。この兆候が胸をよぎった理由も、既にリキエルはわかっていた。
 ――これ以上は。
 考えちゃあならない。昨晩ルイズの前でパニックを起こしたときと同様に、リキエルはそう思った。が、既に遅く、気づけばリキエルは大量の脂汗をダラダラと流し始めていた。リキエルの顔が苦悶に歪む。
 ――やばい。やばいやばいまずい! 『このこと』については、『こいつだけは』考えちゃあならないんだ! わかってる、そんなことはとうの昔になァ。 ああくそ! なのに、チクショウ! ああ、わかっているんだ。ここまで来たらもう手遅れってことぐらいオレが一番わかってるんだッ! くそ、くそ! 考えるんじゃあない!
 まぶたは下がり、息は過呼吸気味に荒れる。歯を食いしばって呻いても、流れ出る汗は止まらず、むしろ、呻き声によって搾り出されているかのようだった。
 胃袋に砂利が入っているような心地がする。
 のど仏のあたりに泥を塗りこめられたような感触がある。
 耳の後ろにライフル銃を突きつけられたかのように不安になる。
 自分ひとりでは何もできないのだと絶望する。
 こんな姿を誰かに見られたらと恐怖する。
 ――チクショウ! ちくしょう! 苦しい、息が、くそ! 何も見えないぞ! いつにも増して酷いッ! まぶたが、下がって、何だってんだァ! 考えるな、考え……おおおおお!?
 何も見えない。見えないのに眩暈がする。
 息を吸いたい。息の吐き方がわからない。
 頭痛がする。吐き気もだ。体がうまく動かない。
 ――血統、家、笑われ、今まで、ゼロ、パニックを、諦めが、まぶた、汗が、動かねえ、苦しい、息、呼吸、カワイソーだとか、やばい、血筋、ふきたい、ゼロ、血統、何も、タオル、死ぬ、期末試験、呼吸が、意識、死ぬかも、意識、ディ、意識が、D、意識……。
 リキエルは椅子から転げ落ちた。落ち方が悪く、体のあちこちを床に強かに打ちつけたが、リキエルはその痛みを感じてはいなかった。意識が朦朧とし過ぎたためなのか、感覚が鈍っているようだった。
「――……? ――!」

 足音が聞こえた。呼びかけられているような気がする。なんだか耳に心地よい。
 顔を上げようとする。上がらない。少し上がった。何も見えない。
 体が冷えていくような感覚に襲われた。上唇にかかる自分の鼻息が、変に熱っぽく気持ちが悪い。
 意識が暗がりへ転がる寸前、肩に乗った手の感触を、リキエルは感じた。


 リキエルには母親がいなかった。
 勿論、今こうしてのた打ち回っていたからには産んだ親がいる。だが、リキエルが物心ついたときには、既に母親の姿はなかったのである。何故いなくなったのかはリキエルも知らない。ただ、それが酷く悲しかったことだけは覚えている。
 盥回し先の、親戚達の話を聞きかじったところでは、他所でできた男と逃げた挙句に野垂れ死んだだの、麻薬に手を出して厄介ごとに巻き込まれただの、挙句の果てには、奇病にかかって世にもおぞましい姿で死んだなどと言う者もおり、何れにせよ、わずかばかりも心ある話は聞かされなかった。
 リキエルはそれらの話を信じていない。それは母親を信じたいという気持ちからではなく、親戚達が、控えめに言っても母親を好いていなかったらしいことが――子供が盥回しに合う理由など、金銭の話を抜けばこんなところである――わかっていたからだ。
 リキエルは父親を知らなかった。
 どころか、その親類縁者にすら、リキエルはお目にかかったことがなかった。母方の親戚達がその辺りの話題を嫌っているのは明々白々なので、あまり尋ねる気にもなれず、例え聞いても「知らない」「わからない」という答えが返ってくればよい方だった。
 誰もが、答えたくないというよりも本当に知らないらしいということが――そのくせ、嫌な憶測だけはエラク自信あり気に語っていたこともあって――印象的だった。リキエルは幼心に奇妙に感じたものだ。
 リキエルは暫く、ギクシャクとした関係の親戚の家を渡り歩き、歩かされた。彼ら、あるいは彼女達は、リキエルに暴力を振るいこそしなかったが、愛情を以って接してきた者もまたいなかった。
 空気中に含まれる窒素のような扱いを受ける日々だったが、小学校に上がる頃には、一つの場所に落ち着くことができた。他人とほぼ同義な程に遠い親戚の家だったが、そのことが幸いしたものか、彼らはある程度の好意を以ってリキエルの面倒を見てくれた。
 リキエルは、元気で明るいとはいえないが、それなりに普通の子供として育っていった。
 だが、リキエルの生い立ちはやはり、少なからず彼の頭上に暗い影を落としていたとみえ、リキエル自身も気づかぬうちに、リキエルを少し歪ませていたのである。
 その暗い影は、例えば友人の、両親に買ってもらった誕生日プレゼントが気に入らないとか、タバコなんか吸うんじゃあないと親父がうるさいのだ、とかいった手合いの話を聞いたときに色濃くなる。
 その歪みは、例えば小学校の先生が、将来の夢はなんですか? と聞いてきた時や、熱心が過ぎて終始空回りしていた中学の教師が、やりたいことをやれ! と脈絡もなく語りだした時などに浮き彫りとなった。
 リキエルは、およそ生きる希望や目的というものを、どこかに置き忘れてしまっていた。
 それでも、リキエルはそのせいで絶望するということはなかった。むしろ中学に上がった頃には、年相応といえばそうだが、自分のやりたいことについて考えるようになっていた。そしてその答えが出ないとなると、何をするにせよ良い成績を出しておいて損はないだろう、という考えに至り、勉学に励むようになる。
 しかしあるとき、その努力も水の泡と消えた。端的ながらルイズにも話した、16才の学年末試験での出来事である。
 当時リキエルには何が起こったのか理解できず、原因は依然わからないままだ。起きたことをありのまま話すのであれば、集中し始めたら何も見えなくなった、とこれだけである。初めは周囲の人間も同情的だったが、すぐに『カワイソー』とか『知らんぷりして近づかないでおこう』といった、『我関せず』の態度を露にした。その態度はリキエルを追い詰め、息苦しくさせ、汗だくにした。結局、彼は試験科目のうち、半分を白紙で提出ことになった。
 以来、リキエルは何がしかに強く集中するたび、まぶたが下りてくるようになった。
 当然、ろくな結果は残らない。
 自然、何事にも自信が持てなくなった。
 はじめはまぶたが下りるだけだった症状が、晴れてパニック障害という、亀の餌にもならない名前を無駄に賜うことになるまで、そう時間はかからなかったが、リキエルがその名前を耳にしたのは、学校へ行かなくなってから暫く経ったある日のことだった。
 20歳を迎える頃には、誰かにパニックの発作を見られるのが嫌で、一人暮らしをはじめていた。生きる希望は完全に失っており、人生そのものにまいってしまっていた。
 時折、このままではいけないとアルバイトなどもしてみたが、一月と勤め上げたことはなかった。
 移動に欠かせないものだからと、車両の運転もできるように頑張ってみたが、暫く乗れば事故を起こした。
 失敗ばかりするうち、リキエルはどんなものに対しても、行動を起こす前から自信が持てなくなっていき、大小数多くのトラウマを抱えるようになる。ひどいトラウマに至っては、そのことに関する事柄を故意に忘れようと努めた。
 中でも『自分の肉親』や『血筋』について考えをめぐらすことは、何よりもしてはならないことの一つになっていた。自分の親を知らないというその事実は、十余年を経て肥大し、リキエルの心に重く深く、捕鯨用の銛のように食い込んでいたのである。二、三度、そのことについて考えたことはあるが、重度のパニック発作に苛まれることになった。丁度、今先ほどのようにである。

 リキエルはもう何もする気になれないでいたが、今年に入ってから、ふと、生活環境を変えてみようと思い立った。そして何かに引き付けられるようにフロリダを目指した。それから暫く経ち、三月も半ばになろうという時期になって、リキエルはようやく新天地フロリダでの、最初のアルバイトを手に入れたのである。

◆ ◆ ◆

 学院長室を後にしたロングビルの足運びは、心持ち軽やかだった。
 何枚捌いても変わり映えしない羊皮紙の群れから、いつもより少しだけ早めに逃げられたことが、彼女の足取りをそうさせているようだった。勿論ことあるごとにセクハラをしかけて来たり、冗談交じりに色目を使ってくるジジイから離れられたことも、ロングビルの足を軽くしている。
 ただ、ロングビルの表情は晴れ晴れとしたものとはいえなかった。かといって暗い顔をしているわけでもなく、思案気な表情である。
 ロングビルは、慌しく駆け込んで来たコルベールの様子と、珍しく――というよりも恐らく初めて目の当たりにした、オスマン氏の真剣さをたたえた表情を思い返している。それまでの醜態を取り繕うのに相当な精神力を割いていたとはいえ、それは印象深くロングビルの記憶に残っていたのである。
 ロングビルはこの学院に来てから日が浅いが、その短い期間でわかったことの一つが、オスマン氏は食えない部類の人間だということだ。
 どこからどこまでが本気で、もしくは冗談なのかわからないあの老学院長は、滅多なことではあんな顔はしないだろう。コルベールの持ち込んできた話は、それなりの重要性を持っていたとみて、まず間違いはないはずだった。
 その上で、暗に席を外せと言われたときは、とぐろを巻き始めていた自分の好奇心が、ムクリとその鎌首をもたげるのをロングビルは感じたが、コルベールとオスマン氏が、漏れ聞かれることさえも憚るような話をするのだということもわかっていた。それだけに、興味を引かれたというだけで首を突っ込むことは避けるべきだと、ロングビルは思った。好奇心が殺すのは、何も猫に限らないのである。
 ――それは。
 さすがに言いすぎか。ロングビルは、自分で思ったことが可笑しくなった。
 学院長室での二人の様子は確かに珍しくはあったが、それが陰謀めいた何かに結びつくとは思えなかった。自分の発想が飛躍気味になっているのにロングビルは気づいていたが、いささか飛びすぎた感は否めない。それで、悪い気もしないのが始末に悪かった。
 漫然と流れるだけの日常に兆したちょっとした変化は、ロングビルの足取りだけでなく、少しだけ気持ちも浮つかせているのかもしれない。
「……」
 ロングビルはツイと眼鏡を上げ、少しだけ足を速めた。
 冗談めかしてものごとを考えられるほど、心に余裕が戻ってきたことは喜ばしいが、緩めすぎるのも考えもの、と思ったようだった。軽快な足取りは変わらなかった。


 ほどなくして、ロングビルは教室に到着した。
 オスマン氏の使った方便であれ、仕事は仕事である。むしろ方便や建前とは、表向きその通りに行動するからこそ、その役割を果たし得るのだ。秘書としても、仕事と言われればそのあたりはきっちりとしておかなければならない。
 というのは建前で、ちゃっちゃと片付けてさっさと昼食をとりたい、というのがロングビルの本音である。ロングビルは、大きい割りに軽い扉を開いた。
 そこで、違和に気づく。それは曖昧な違和感というよりも、明確な異変だった。
 ――誰かいる……?
 人の気配がどうのこうのどころの話ではなく、はっきりと、何かしらのうめき声が聞こえてくるのだ。荒い息遣いだった。苦しんでいるようでもある。
 ロングビルは足音を殺し、机の影に隠れながらうめき声の主に近づいていった。
 ただの人間のようだが、用心は必要だった。使用中止の教室でうめいている誰か。恐らく生徒ではない。教師ということはさらに考え難い。教室の修繕をしようなどと、殊勝な心がけをする者がいるとも思えなかった。となれば、これも考えづらいが、外部からの侵入者かもしれなかった。
 万一そうなら、詰めている城の衛兵にも学院の誰にも気づかれずに、ここまで来たということである。目的やうめいている理由はまるでわからないが、その万一を念頭に置いて、怪我をすることはないはずだった。取り越し苦労ならそれでもよい。
「……」
 意を決して、ロングビルは机の横から、うめき声の主を覗き込んだ。
 しかし初めに目が行ったのは、教室の惨状だった。それなりに片付いてはいるようだが、教卓のあった場所はえぐれ、窓はそのほとんどが割れていた。吹っ飛んだとは聞かされていたが、ここまで酷い状況とは、ロングビルも思っていなかったのである。
 それらをざっと見回してから、ようやく本題へと、ロングビルの目が向く。
 ――……いた。でもこれは。
 男が倒れ、もがいていた。やはり苦しんでいる。だが、その様子はロングビルの予想以上に、尋常なものではなかったのである。
 もとの造形を著しく損なわせるほど顔は歪み、双眸がまぶたで固く閉じられている。パニックを起こしているようで、息は乱れに乱れている。立ち上がろうとひざ立ちになっているが、足に力が入っていないのは明らかだった。生まれたての馬のほうが、まだ力強さを感じさせる。
 男の姿は、ほとんど滑稽と紙一重だった。
 ――まずいわね。
 直感的に、ロングビルは思った。男に対する所見である。目立った外傷が見当たらないことから、男の苦しみは、体の内側から来るものだろう。重病に侵されていることも考えられた。
 何にせよ男の状態は、遠目には一刻を争うことかもわからないのである。迷っている時間は、あまりないようだった。
 正味を言えば、ロングビルは面倒ごとは御免だったが、だからといって、男の様子をただ見ているというわけにもいかない。日頃からドライな空気を纏うロングビルだが、目の前で苦しむ人間を捨て置けるほど、情の無い人間というわけでもない。
 人助けをして、悪いことがあるものか。ロングビルは自分に言い聞かせた。言い聞かせなければ動けないことが、自分の融通の利かないところかもしれないと、どこか冷めたままの頭で思ったりもした。
「どうしました……? 大丈夫ですか!」
 警戒心はもう解れている。思うに任せて、ロングビルは見ず知らずの男に駆け寄った。
 その声に反応したものか、錆付いた歯車のように緩慢な動きで、男が顔を上げた。それだけの動作が、男に大きな負担をかけているようだった。
 肩に手を置いた途端、男の体から力が抜けたのがロングビルにはわかった。どうやら意識を失ったらしい。これで逆に、呼吸は落ち着くはずだが、男の顔色は一向によくならない。地肌が土気色の人間はそうそういるものではない。
 男の喉に手を当ててみる。ひくひくと痙攣するだけで、うまく息が吸えていない。危険な状態だった。
「しっかりして下さい、気を確かに」
「グ……う、げぇ、かはっ、あが、まぶたが、クァ」
 しゃがみこんで呼びかけると、ほどなくして男は息を吹き返したが、呼吸が早くも乱れ始め、うわごとを繰り返す。気を抜けば、またすぐに意識を失うだろう。まずは落ち着かせることが先決だった。
 ロングビルは男の背をさすりながら、優しく語り掛ける。
「気を確かに持ってください。大丈夫、単なるパニックよ。すぐに収まるから、安心して」
「ぐ、うう、ハァ――、あが、がが、ハァ――」
「無理に息を吸わず、力を抜いて。そうです。ゆっくりと、浅くてもいいのだから、ゆっくりと吸って、肩の力を抜いて、大丈夫です。大丈夫だから」
「か……はァッが、クウぉ、ハ、クハァ、は、ハァ、ハァー」
 次第に、男の呼吸が一定のリズムを保つようになった。顔も比較的穏やかなものになっていく。こうして見れば、男はまだ若く、自分とそう歳は変わらないだろう、とロングビルは思った。
「タオ、ルを……く、ハァー」
 男は喘ぎながら、辛そうに唇を動かして、聞き取り難い声を発した。
「タオル?」
「貸して、くれないか」
 男は酷く汗をかいていた。ロングビルは白いハンカチを取り出し、それでぬぐってやる。
「ハァー、ハァー、ハァ――……」
 男は片方のまぶただけを上げ、顔色悪く「すいません」と言った。


「私は、この学院で秘書をしているロングビルという者です。……あなた、ここで何をしていたんですか?」
 ロングビルは青年の呼吸が整うのを待ってから、鋭くそう聞いた。
 見たところ青年は平民で、見覚えはなかった。つまりは侵入者で不審者だ。倒れているのを見てつい手を差し伸べてしまったが、それとこれとはまた別である。
 ――まあ、でも。
 これといって警戒が必要な相手でもない。のた打ち回ったときにできたのだろう、体のいたる所にある擦り傷に顔をしかめている様は、害があるようには見えなかった。ましてや丸腰の平民である。
 青年は頭を抑えながら立ち上がった。ロングビルも腰を上げる。青年は少し猫背気味だったが、それでも頭半分ほど、ロングビルよりも背が高かった。ロングビルは、自然見上げ形になる。
「オレは、リキエルっていいます。え~、主人――がここをこんな風にしちまったんで、その片づけをしてたんスよ。だいたいは片付け終わったんだが、その後でなァ……」
 リキエルはそれきり押し黙ってしまった。苦い顔になっているところを見れば、さきほどのような状況に陥った経緯を思い出しているのだろうと、ロングビルは思った。リキエルと名乗った目の前の青年は、そのことについてはあまり触れたくないらしい。
 ロングビルはその話題は避けることにした。今重要なのはそこではなかったし、気になったこともある。
「主人?」
 とはどういうことか。
「いや、まあ、なんて言うんだろうなァ、これは……」
 またも歯切れ悪くなるリキエルに、ロングビルは少し眉をひそめたが、リキエルはそれには気づかない様子で、諦観めいた顔になって、溜息混じりに言った。
「使い魔をやってるんスよ」
「使い魔? ああ、あなたが噂の」
 それで、ロングビルには合点がいった。
 平民を呼び出した生徒の噂は聞いている。その話を聞いたとき、運のない話だとロングビル思ったが、当の本人を目の前にしてみると、なるほどこの男、顔の造形は決して悪くないが、薄幸そうなといえばまさしくそうだ。いま一つ締まらない印象を与えるのは、その幸の薄そうな面構えのためかもしれない。
「それは……大変でしょう」
「本当に、朝っぱらから洗い方も分からない、ややこしい服とか洗濯させられたりよォー。といっても、シエスタってメイドが手伝ってくれたんですが」
「シエスタですか。彼女は気立てのよい、優しい娘ですからね」
 そのおかげで助かったってわけです、と言って、リキエルはもう一度溜息をついた。所作のひとつひとつが、どうにも覇気に欠ける男である。
 とそのとき、溜息に触発されたものか、リキエルの腹が複雑怪奇な音をたてた。ぐう、ともぎゅる、ともつかない、本当に腹の音かも疑わしいような音に、ロングビルは目を丸くした。
「半日以上何も口にしてないもんで」
 リキエルは忌々しげに腹をさすりながら、ぼそりと言った。
 なんとも情けない顔をするリキエルを見ているうち、ロングビルは気が抜けた。さきほどのパニックのこともあいまって、ロングビルの目にはリキエルが妙に頼りなく映る。
 手助けした手前もある。このままさようならというのは気が咎めた。
「一緒に行きませんか?」
「……? 行く?」
 リキエルは疑念をこめて、開いている左目をロングビルに向ける。ロングビルはニコリともせず、しかし柔らかい口調で繰り返した。
「昼食ですわ。よければ一緒にどうかしら? 私もこれからなので」
「はぁ、なるほど。しかし良いんですか? 申し出は嬉しいんだが、なんか用事があったんじゃあないですか? わざわざここに来たってことはよぉ」
「いえ、様子を見て来いと言われただけですから」
 できればということで、錬金での修繕も頼まれていたはずだが、このロングビル、そこらへんのことはきれーさっぱり忘れているらしい。あるいは、端から錬金で直す気などなかったのかもしれない。答えは彼女の眼鏡の奥深くである。
「遠慮は無用ですわ」
「助かるな、それならよォ」
 そう言って首の後ろに手を置くリキエルはやはり頼りなげで、それが無性に可笑しくなり、ロングビルはリキエルに見えないようにして少しだけ笑った。
気持ちが浮ついている、とは思わなかった。

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