ゼロの奇妙な使い魔 まとめ

一章四節 ~使い魔は使い魔を知らない~

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匿名ユーザー

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 ――息が苦しい。
 と、リキエルは思った。
 またぞろパニックに陥ったのかといえばそうではない。顔色がいいとはいえず、冷や汗も少し出ているが、今のリキエルはどちらかといえば平静だった。
 リキエルは瓦礫を拾う手を止め、今開いている右目を、息苦しさの理由へと向けた。
「……」
 教卓のあった場所から離れた、比較的きれいなままの机で、ルイズが悄然と俯いている。
 リキエルのいる場所からではその表情までは窺えなかったが、消沈した面持ちであろうことは、まあ予想がつく。
 ――さっきからずっとあのままだからな。
 教卓を爆破し、教室をひっちゃかめっちゃかにしたルイズはその罰として、魔法の使用を禁止された上での掃除を命じられた。窓拭きや箒がけのほか、窓ガラスを運ぶなどといったことだ。
「主の不始末は使い魔の不始末」
 オレがやることになるんだろうな、とリキエルが思っていたとおり、ルイズは不機嫌にそれだけ言うと、足裏を床に叩きつけるようにして教室を出て行ってしまった。
 リキエルはひねたような顔になりながらも、掃除用具を用意し、適当に瓦礫拾いから始めたのだが、意外なことに、それから程なくしてルイズは戻ってきた。身奇麗になっているところを見ると、着替えをしてきただけらしい。
 しかし、かといって別段リキエルを手伝うでもなく、ルイズは目視できんばかりの濃い陰鬱をかもし出しながら、手近な椅子を引いて座り込み、もうそれきり動かないのだった。
 髪の長きは七難隠す。などといい、実際に美人と呼ばれる女性は七難どころか、例え、腹の中に一物や二物の猛毒を溜め込んでいても、人前でさらすことはないものである。が、同じ美人でもルイズのように年端もいかぬ少女では、いささかその長さが足りないようだった。とりたてて人の心情に敏くもないリキエルにも、ルイズの気持ちが落ち込んでいることがよくわかった。
 時たま不機嫌な空気を織り交ぜながら、陰鬱な雰囲気を撒き散らすルイズから視線を外し、リキエルはまた、飛び散った瓦礫を拾い集める作業に戻った。
 こういった場合、慰めるなりなんなりするべきなのかもしれないが、何を言えばよいかリキエルにはわからない。半端な慰めは、却って神経を逆さに撫でるだけだろう。なにぶんルイズは、そうでなくともデリケェトな年頃である。迂闊に声をかけて逆鱗に触れることを考えると、リキエルにはそれがためらわれた。
 かといって、捨て置くにはやはりこの空気は重い。沈黙が痛い。リキエルの胃袋の内壁の強さは、そこいらの人となんら変わらないのだ。

 リキエルは気を紛らわすためと、状況打開を図るため、ルイズがこうなった理由から考えてみる。授業での『ちょっと失敗』発言の時ように、馬鹿にされて怒りを露にしても、終始不遜な態度は崩さなかったルイズが、ここまで沈み込む理由は何か。
 ――あれか?
 片づけを命じられたときの、魔法禁止で――の件である。魔法の使えないルイズへのこれは、リキエルにはたいそーな皮肉に聞こえた。ルイズもそう受け取ったのかもしれない。
 しかし、それは違うような気もする。教室中から散々に馬鹿にされながらも言い返していたルイズの胆力を考えると、それが皮肉程度で動じるものかは、リキエルには甚だ疑問だった。
 ただ、案外そうやって散々馬鹿にされたことが効いていたのかもしれず、皮肉は止めの一刺しだったのかもしれない。そして、それもまた違うのかもしれなかった。
 詰まるところ、リキエルにはサッパリこんと見当がつかないのである。
 リキエルは早々にさじを投げた。こんなことをするのは、心理学をお修めになったカウンセラー様に万事任せるに限る、というわけだ。それでなければ教師の仕事だ。友達の少なそうなルイズだが、相談事のできる気の置けない教師の一人くらいならいるだろう。
 とかとか等等etc、適当なことを考えながら、あらかた瓦礫を片付けたリキエルは箒を手に取り、掃き掃除を始めた。息苦しさは、少し解消されていた。
「それ、貸しなさい。手伝ってあげるから」
「おおあっ!」
 考え事をしていたのがまずかったか、背後から唐突に声をかけられたリキエルは驚きで頓狂な声を出した。ルイズは、ブスっとした顔でリキエルを睨み付ける。
「何よ。この私が、ご主人さまがラドグリアン湖のように広い心でもってわざわざ手伝いをしようっていうのに、その反応は。文句でもあるの」
「いや、そういうわけじゃあないんだが、なんというか、意外だったんでな。全部オレに押し付けるかと思ってたんだが」
「押し付けるって何よ! あんたが掃除するのは当然なの。むしろ自ら進んでやるべきだわ、あんたはわたしの使い魔なんだから!」
 ルイズの言い様にリキエルは眉を顰めたが、気に留めないことにしようと思った。なんにせよ、手伝うというなら、そうしてもらって損はない。
 ただ、気になることはもう一つあった。
「しかし……なら、どうして手伝いなんかする気に?」
「あんたに任せてたらいつ終わるかわからないもの。なんか鈍くさそうだし。牛みたいな服だから余計にね」
 言いながら、ルイズはリキエルから箒を奪い取るなり背を向けて、細かいゴミを掃いていく。一貫性の無い掃き方で、掃き残しの塵が目立った。
 ――く、く……くぉのッ!
 リキエルは苦虫エキスを三日分飲まされたかのような、苦りきった表情で固まっていた。
 手際が良いとは自分でも思わないが、それほど悪くもないはずだ。朝の洗濯にしても、場所さえ分かっていれば朝食までには終わっていたのだ。多分恐らくそう思う。
 そもそもが、リッチマン所有の別荘の使用人だったわけでもなんでもない人間に、日常生活に必要な技能以上の働きを求める時点で無理があるというものだ。
 ――だってのに、顔洗えだの着替えさせろだの、そんなことまでオレの仕事だって? 自分でやれ自分でェ!  ほったらかしで出て行くな? 朝起こせって? なんなら日の出を拝ませてやってもよかったんだぞッ! ええッ!? 挙句に鈍くさいと言うのか! 小一時間も重苦しい雰囲気ばら撒くだけ撒いて、口を開けばいきなりこの憎まれ口ッ! こんなガキを慰めようだとか無駄なことッ! 少しでも考えてたオレは馬鹿もいいところだったなアァァ――ァ!
 リキエルは思わず、こういったことをブチまけそうになったが、
「それにちょっとしたミスでも、失敗したのはわたしだわ」
 キッパリと、しかし肩を落としながら言うルイズを見て、そんな気も不思議と失せた。
 そう、ガキなのだ。異様にプライドが高くとも多少傲岸の気があっても、ルイズはまだまだ少女なのだ。むしろ喜怒哀楽が目に見える分、年不相応に子供っぽく思える。そんなルイズを怒鳴りつけるのも大人気ないと、リキエルは思ったのである。
 勿論、そんなことを言えばどうなるかわかったものではない、という理性も働いている。
 怒鳴ろうという気はもう霧散していた。それよりも、本人の口から出た失敗という言葉で、リキエルには先ほどの生徒達の叫び声が思い出された。
『魔法成功率ゼロ』『魔法を使えば爆発』『魔法が使えないゼロ』『学院辞めちまえ』
 あの様子では毎日のように、いや、毎日言われ続けだろうか。だとすればなかなか酷い話で、もし自分であれば耐え切れるものかどうか自信がない。
 ――いや……。
 自分をその立場に置いて考えると、また思考が悪い方向へとどんどん流れそうになったので、リキエルは机を拭く雑巾を絞りながら、別のことを考えようと努めることにした。
 ――魔法といえば。
 昨晩の話し合いによれば、自分を呼び出した『サモン・サーヴァント』と、契約を行ったという『コントラクト・サーヴァント』も、やはり魔法であるらしい。先ほどの授業を聞くところによると、系統によらないものだそうで、コモン・マジックとか言っていただろうか。
 なんにせよその二つの魔法、前者はともかくとして、直接自分に作用した『コントラクト・サーヴァント』である。こちらがもし失敗していたらと思うと、ゾッとしない話だった。魔法成功率が本当にゼロならば、コモン・マジックとやらを使っても、ルイズは爆発を起こすのだろう。
 自分が先ほどの小石のように吹き飛ぶ光景を思い描いてみて、リキエルは身震いした。
 これはこれで後ろ向きな考えである。
「失敗。そう、失敗なのよね」
 リキエルが、自分の骨の破片がマリコルヌに突き刺さるところを――これまた卑屈な考えである――イメージしたあたりで、ルイズが手を止め、独り言のように言った。
 その、小さいながらも重々しい声に、リキエルは一瞬強烈な薄ら寒さを感じて顔を上げた。先ほどまでの陰鬱とは一線を画す、思わずぞっとするほどに暗然とした面持ちになった少女がいる。
 リキエルは目を瞬かせて、詰めた息を吐いた。
 ――なんだ? 今の、夢遊病罹患者みたいに虚ろな声色に、遺書でもしたため始めそうなキツイ顔はァ。尋常じゃあなかったぞ。
 見間違いとも思えなかった。既にもとの勝気な表情に戻っているが、一瞬だけ垣間見えた、暗さを突き詰めて、さらに濃縮したものを貼り付けたようなルイズの顔は、何かに憑かれているようでさえあった。
「……失敗が、どう――」
「失敗だって証明されたのよ。今までのは全部失敗。だけど、それがいいのよ。わたしは魔法が使えないわけじゃなかったッ。わたしの努力は無駄になってなかった!」
「あ? なんだ?」
「平民のあんたを召喚したのは失敗だけど、魔法の失敗じゃないってことよ!」
「……は~、なるほど」
 なにをか自己解決したらしく、暗い雰囲気から一転、唐突にハイになったルイズを訝しく思いながら、リキエルは雑巾を絞ってぞんざいに相槌をうった。筋道がいまいち掴めないが、秋の空は変わりやすいのだと思い直した。
 ただ、一抹の不安は、存外に強くリキエルの胸にこびりついた。
 どうにも釈然としないリキエルを文字通り尻目にして、ルイズは箒をばさばさと振り回しながら、今度は何やら怒りの感情をむき出しにしている。
「今まで散々馬鹿にされたわッ! もうッ! 思い出すだに腹立たしいッ!」
 顔が見えないのは先ほどと同じだが、表情が安易に予想できるのも変わらなかった。喜怒哀楽の間をせわしなく行き来するルイズは、客観的に言えば面白かったが、今はその怒りの矛先が自分に突きつけられぬよう、リキエルは内心恐々としながら、今度は相槌も省いて聞き流した。
 ルイズは完全な躁状態に入ったようで、今何か言えば、リキエルは確実に何がしかの被害を被ることになるだろう。雇い主には逆らわないのが堅実な生き方、というのが今のリキエルの考えである。君子危うきに、とはよく言ったものだ。
「生まれてこの方、いっつもいっつもいっつもいっつもいっつもいっつもいっつもいっつもいっつもいっつもさっきも馬鹿にされてェッ! キィ――ッ!」
「……ッ」
 と、緩慢な動きで机を拭いていたリキエルの耳に、またも唐突に、聞き流せない言葉が入った。怒りのあまり本気で「キィ――ッ!」と叫ぶ人間を、リキエルは初めて目の当たりにしたが、そのことについての感慨は何もない。
 今、リキエルの意識は全く別の場所に、それこそルイズの怒りなどまるで意に介せない程度には離れている。
 ――生まれてこの方って言ったのか? 今まで努力はむくわれず、ずっと馬鹿にされ続けてきたとそう言ったのか!? トリステイン魔法学院だったか、ここに入ってからじゃあなかったのか! そいつはッ!
 リキエルは、自分の顔が強張るのを感じた。いやに、変に、奇妙なほどに熱を持った汗が一粒、頬を伝って首に流れ落ちていくのがわかる。
 ルイズは当然のごとくそんなリキエルの様子には気づいていない。昂ぶった気持ちを抑えるためなのか、幾度も幾度も同じ床を掃いているだけである。
「……」
リキエルは無意識に手を止めて、埃を落とした机のひとつを意味もなく凝視していた。
 瞬きほどの間か、あるいは三分ほどかもしれない。ルイズが落ち着いた様子で掃き掃除をしているところを見れば、もっとだろうか。リキエルはそうして固まっていたのだが、気づけばルイズに問いかけていた。
「思ったことはないのか? ……諦めるとかよォ~」
 言って後悔する。この話題こそ流すべきだろうに、自分は全体、今何を言ったのか。それこそ本当に爆破されかねないではないか。
 少なくとも、ルイズが気を悪くすることは必至だった。それが何より、大分に気が咎める。爆発がどうのこうの以前に、いたずらに他人の泣き所を中傷することは、それが例え意図的なものでなくとも、一般論としてリキエルの望むところではなかった。
「ないわ」
 返答は存外に早く、そしてどこか鋭さを秘めていた。怒りといった類の気配はないが、耳朶を打つその声は、何故かリキエルを少し不安定にした。眩暈にも似た感触をこめかみのあたりに覚えながら、リキエルはノロノロと顔を上げる。
 ルイズは手を止めていて、リキエルに視線を向けていた。粗方怒りは発散し終えていたらしく、仏頂面ながら、理性的な声音で後を紡いだ。
「悔しいことならいっぱい、いくらでもあるわよ。でも、そんなときは家のことを考えるの。私の『誇り』でもある、ヴァリエールの『血統』のことをね。平民のあんたに言ってもわからないでしょうけど」
「血統……」
「ヴァリエールの名に恥じない立派なメイジになる。例え苦しくても、その目標、今の私の生きる目的がある限り、諦めようなんて考え、起きっこないわ」
 当たり前のことを言うようにルイズは言った。事実当たり前なのだろう。その顔に、一切の躊躇や負い目はない。自分の言葉に陶酔するような、薄っぺらな気色もない。当然を当然として実践してきた厚みのある、思い切っている人間の瞳をしていた。
 リキエルは何度か、その瞳に出会ったことがある。
 テレビの向こう側で、街頭のインタビューに答える同年代の若者。あまり話さなかったが、一週間ほど一緒に働いたバイト仲間。比較的長続きしたバイト先の喫茶店で、毎日来るのに金欠でコーヒーしか頼まない中年の女性。彼らが、確かにそんな目をしていた。皆が皆、前を向いて生きていた。
「……あとはオレがやる。多分だが、もうすぐ昼食なんだろう?」
 先ほどのように、気づけば口をつついてそんな言葉が出ていた。言いながら、箒を受け取るために手を差し出す。こちらは意識的な動きだった。
「へ? 何よいきなり。まだそんな時間じゃないわよ」
 言われるまま箒を手渡しながら、しかしルイズは訝しげにリキエルをじろじろ見た。脈絡もなしに、しかも面倒な仕事を一手に引き受けるなどと言われれば、奇妙に思い勘繰ってしまうのも、当然といえば当然である。
 暫し沈黙したあと、リキエルは微妙に眉をしかめながら言った。
「窓ガラス運んだりするような力仕事がお前にできるか? それか、男のオレでも苦労しそうな机をその細腕でか? そうは見えないんだがな。それに、せっかく着替えたってのにまた汚れたいのか? どうせ長くはかからないんだ、オレ一人で事足りる」
「…………じゃあ、やっときなさいよ? さぼったりしたら承知しないからね」
 ルイズはまだ浮かない顔をしているが、早口気味にリキエルが言ったことにも頷けたので、念を押しながらも教室を出て行く素振りを見せる。
 階段を上るルイズに、今度はリキエルが背を向け、無言で手を動かす。バサバサと振り回すようにルイズが掃いた床は、むしろ塵が飛び散っていて余計に掃き難くなっていたが、リキエルはそのことにも何も言わない。
「……」
 教室の扉に手をかけたあたりで、ルイズはなんの気なしに振り向いた。そこから見えるリキエルの背は心なしか、単なる遠近の問題以上に小さくなったように見えたが、気にするほどのことでもないと、ルイズは少し早足で教室を出て行った。
 乾いた大きな音を教室に響かせる扉の音にも反応せず、リキエルはひたすらに手を動かし続けた。

◆ ◆ ◆

「いあ~、あ~……あ痛たッ!」
 トリステイン魔法学院、本塔最上階にある学院長室。
 そこから望める雄大な自然を眺望しながら、オスマン氏は鼻毛を抜いていた。時折うめき声を発して、その度に涙目で鼻を揉んだりしている。
「オールド・オスマン。そのように暇がおありなら、この書類にサインをお願いします」
 オスマン氏の秘書、ミス・ロングビルが溜息混じりに言いながら羽ペンを振り、数枚の羊皮紙をオスマン氏に向けて飛ばす。
 オスマン氏は鼻を鳴らし、肩越しに飛んできた紙をヒラヒラさせながら言った。
「どうせ、王室からきたものじゃ。中身もない紙切れじゃよ。破り捨てたところで同じようなもの、堅っ苦しいことは言いっこなしじゃよ、ミス。それと私の秘書を務めるからには、もう少しユーモアを持ちなさい……む!」
「どうかなさいましたか?」
 先ほどまでとは少し違う、くぐもった感のあるうめき声に、こめかみを押さえて瞑目していたロングビルも少し眉根を寄せる。
 何事かと思っていると、オスマン氏が少し興奮したように振り向いた。
「ミス! 珍しいことじゃよ、黒い鼻毛じゃ! もうすっかり白一色になったと思うとったんだが!」
「……」
 ロングビルは、今度は深く溜息をついて眼鏡を外し、レンズを拭いてかけ直した。そして、こめかみを押さえなおす。いっときばかりそうしてから、また小さく溜息をつき、顔を上げた。
「オールド・オスマン。そのように暇がおありなら、この書類にサインをお願いします。書類の束で、溺れたくはないでしょう?」
 今までの不毛な流れをなかったものとするためか、ロングビルは同じことを繰り返す。申し訳程度ながら冗談も織り交ぜ、ついでに、上級の部類の笑顔もくれてやった。
 オスマン氏は怪訝そうな顔をした。
「ミス、何を言っとるのかね? 人は紙では溺れん。しかもそれは王室からのものではないか。茶化さず、もっと真面目に仕事をしていただきたい」
「…………」
「ま、まあまあ落ち着きなさいミス。そんなに青筋を立てず、な? 悪かった悪かった」
 能面のような顔になったロングビルにクルリと背を向けて、オスマン氏は椅子に座って小さくなった。その肩に、いつの間にやらロングビルの机の下に潜んでいたらしい、白いハツカネズミが這い上がっていく。
「おおモートソグニル。気を許せる友達はお前だけじゃ。ナッツでも食うか? ん? 誰かさんは行き遅れとるせいか気が荒くてな。老体の話し相手もしてくれん」
 ロングビルの眉が左右同時にピクリと跳ね、能面がボロボロと崩れ始める。
 オスマン氏は呑気にハツカネズミとのヒソヒソ話に鼻、もとい華を咲かせ続ける。聞こえよがしなのは勿論、ロングビルをからかってやろうという意図あってのことだ。
 オスマン氏の辞書は『反省』『自重』の項目が擦れて読めなくなっているらしかった。ので、何事も度が過ぎれば碌なことにはならないことを、オスマン氏はウッカリ忘れた。
「さて、報告じゃ……なるほど今日は純白か。しかしミス・ロングビルは黒に限る……そうは思わんかねモートソグ――ハッ!」
 やりすぎた、とオスマン氏が思い、振り返ったときには大分遅かった。音もなく背後に立ったロングビルからは、あちらの世界の空気が立ち上っている。
 オスマン氏を見下ろすロングビルの眼鏡がキラリと輝き、その奥の瞳はギュロォリと濁る。一睨みで、カブトムシくらいなら殺せそうだった。
「言わなくてもいいことを言った者は! 見なくてもいいものを見た者は!! この世に存在してはならないのですよッ!」
「いや、それは言いすぎでばふぁっ! 痛い痛い! つむじを的確に狙って拳骨ってきみ! 響く! 頭蓋に響くぞィってちょっと……蹴りはまずいよほんと、ほんとにィ!あだだだだ! ちょっ踵が! ピンがめり込む! わしって年寄りよ? じじいなんだけど!? それをぐォぼばばばっ! 連打に乱打は洒落にならんよミス! ごめん! 後生だから許して! イイィィイ痛たたたた!」
 回し蹴りから続く見事な二枚蹴りをロングビルは繰り出し、椅子からオスマン氏を叩き落す。間発の後に脳天突きを三発ほど食らわせ、そこから流れるような動きで、鋭い連続蹴りへと移行した。
「女の敵! あんたは敵よ! 敵だ、敵だっ! この! このっ! セクハラ上司に物申すッ! 今日という今日はッ!」
 ロングビルの剣幕は、収まる鞘をとうの昔に放っぽってしまったようで勢い衰えず、激しくなっていくきらいさえある。オスマン氏は切実に、自分の後任について考え始めた。
 ロングビルの蹴りが、さらに鋭さを増しはじめたそのとき、オスマン氏にとって幸運なことに、鞘が向こうからやってきた。
「オールド・オスマン! 大変で――大丈夫ですか? な、何があったのですか? 捨てられる半歩手前の雑巾のようになって」
 ノックもせずに学院長室の扉を開けたのは、最近研究がとみにはかどり、抜け毛の本数が六日ぶりに減少するなどでいささか上機嫌な、ミスタ・コルベールである。どういうわけか血相を変えて飛び込んできたコルベールだが、ボロクソになってうち捨てられたオスマン氏を目の当たりにし、ポカンとした表情で立ち尽くした。
「身体を若返らせるという画期的な魔法を、秘薬も使用せずに開発せんとした結果ですわ、ミスタ・コルベール。失敗にもめげず、オールド・オスマンは魔法の新たな境地を拓かんがため、幾度となく自らに魔法をかけ、奮闘なさったのです。メイジの鑑といえますわね」
 そんなコルベールにロングビルが、眼鏡のつるにかかった卸したての絹のように肌理細やかな薄緑色の頭髪を、小指でちょいと払いながらニコリともせずに答えた。いったいどんな方法を使ったものか、何事もなかったかのように、大量の書類をやっつける仕事に戻っている。
 コルベールは、そんな馬鹿な、と思ったが、ロングビルの言葉の端々に見え隠れする、察せ察せ察せ……、という声ならぬ声を肌で聞き取り、おおよその自体を飲み込んだ。
 コルベールはやれやれといった風に首を振り、視線をボロクズ――オールド・オスマンに戻す。
「オールド・オスマン、お話があります。あ~、耳と口が残っているのなら問題ありませんね? 大変なことがわかったのです」
「問題なして……なかなかに外道じゃの、君。えーとなんじゃったか、ミスタ……コンスタンティン?」
 首だけをもぞもぞと動かして、オスマン氏は恨みがましい目でコルベールを見上げる。
「コルベールです! なんだか響きのいい名前で間違えないで下さい! 実質が伴わなくて微妙に理不尽にミジメですぞ。まったく、そんなよことりもこれを見てください」
「んん? 『始祖ブリミルの使い魔たち』……か」
 コルベールの差し出した古びた書物の背表紙を、オスマン氏は読み上げた。鼻の奥を、かびの臭いがツン、とついた。
 ややあってからオスマン氏は目を細め、「ふむ」と頷くと背伸びをするように立ち上がった。マントについた埃を適当に払ってから、ロングビルに顔を向ける。
「ミス・ロングビル、ちょっといいかね?」
「なんでしょう」
「今朝の二年生の授業で、教室がひとつ吹っ飛んだそうじゃ。ちょろっと様子を見てきてくれんか? 酷いようなら人を呼ばねばならんしの。そうじゃ、できるようであれば、あなたの『錬金』で修繕してくれるとありがたいのう。安上がりじゃし? ほっほ」
「わかりましたわ。……その後は、お先に昼食をとっても?」
「昼休みには時間があるが、いいじゃろう。そうしなさい」
 鷹揚に言ってオスマン氏は微笑み、髭を撫ぜる。
 ロングビルも自然な微笑を返し、軽く頭を下げ、細やかな足配りで学院長室を後にした。
 さきの狂態がまるで嘘だった。髪の長き云々の手本も手本である。
 オトナの女性ロングビルを、口の上をデレンと伸ばした顔で見送ったオスマン氏は、ふうっ、と息をつき、コルベールに向き直った。
「うまく空気を読んでくれるのう、惚れそうじゃ。なんつってな……で、コルベール君、そのように古さとカビと胡散さで臭くなった書物などひっぱり出して、どうしたというのかね?」
 飄然とした態度を崩さず、しかし今はどこか超然としているようにも見えるオスマン氏は、ゆるゆるとした口調でコルベールを促した。その声でしばしの間忘れていた興奮をコルベールは思い出し、それを隠しもせずに声を張り上げる。
「はい、そのことです! このページとそれから、これ……をご覧下さい!」
 コルベールは『始祖ブリミルの使い魔たち』の中ほどを開き、そこに挟まっていた一枚の紙片を取り出して、古書と合わせてオスマン氏に手渡した。
「ほほゥ……これはこれは」
 手渡された紙片をカサカサと広げたオスマン氏は、どこか面白がるような、感嘆ともとれる吐息をこぼした。
「昨日の使い魔召喚の儀式で、一人の生徒が平民の青年を召喚しました。その手の甲に刻まれたルーンをスケッチしたものがこれです。このページの、伝説の使い魔『ガンダールヴ』のものと酷似している! いや、寸分と違わないッ!」
「そのようじゃな。……コルベール君」
 口角泡を飛ばすコルベールに顔をしかめながらオスマン氏は頷き、若干の厳しさをはらんだ眼差しを、改めて紙片へと注ぐ。
「昼食は、大変遺憾ながら後回しになりそうじゃな?」
 そう言って、オスマン氏はゆるりと自らの椅子に腰掛け、さきほどのように鼻毛を抜き始めた。どれだけ引き抜いても、もう黒い毛は見つからなかった。

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