ゼロの奇妙な使い魔 まとめ

3 空の戦い 前編

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 3 空の戦い

「お兄ちゃん!待って、置いていかないで!」
 光が射し込む小さな扉に手を伸ばし、懇願する。
 扉の向こうに立つ影は砂色の帽子を深く被って表情を隠すと、どこか寂しそうにしながらも断言した。
「諦めろ、エルザ。お前は、ここにいなくちゃならねえ」
 離れ離れになる瞬間が訪れた。自分は向こう側には行けないし、彼はこちら側に居る事を望んではいない。
 たった一枚の扉が、二人にとっては大海よりも大きく立ち塞がる。それを越える方法は持ち合わせていない。全ては決まったことなのだ。
 ゆっくりと閉められる扉に縋りつき、エルザは悲鳴のように叫び声を上げる。
 憎い。自分のこの体が。この運命が。
 普通の少女として生まれてくれば、何時までも一緒に居られた筈なのに。こんな扉に邪魔されることだって無かったはずなのに。
 冷たく閉じられた扉に爪を突き立て、感情をぶつけるように表面を引き裂く。削りカスが爪の間に入って、指先に小さな痛みを走らせた。
「う、うう……」
 呻くように息を洩らし、その場に崩れ落ちる。
 僅かな油断が、こんな結果を生んでしまった。扉の向こうに姿を消した彼の油断でもあるが、エルザ自身の油断でもある。
 誰に文句を言うことも出来はしないのだ。
 あの温もりが恋しい。あの人の笑顔を見ていたい。あの大きな腕に抱かれて、同じ世界を見ていたい。
 でも、そんな希望を断ち切ってしまう、自分と彼の存在の違いに、エルザは喉が枯れそうなほど大きな声で不満を訴えた。

「ここから出してよおぉぉっ!出せえええぇぇぇぇえ!!」
 船内に繋がる扉から聞こえてくる幼女の叫び声に、ホル・ホースは顔を顰めて帽子を被り直す。
 扉越しですら鼓膜が痛むのだから、直接聞いたらどんな状態になっていたことか。
「許せ、エルザ。いつもの布を忘れてきたお前が悪いんだぜ?」
 朝日を一身に浴びてヒヒと笑うホル・ホースの様子を船の後部で見ていた地下水が呆れたように溜息を吐く。


「まったく。なにやってんだ」
 そんな言葉に、少し寝惚け眼の船員達も同意するように苦笑いを浮かべた。
 前日の逃走劇の後、この“マリー・ガラント”号の甲板で眠りに就いたホル・ホースとエルザだったが、つい先程、目を覚ましたところで普段エルザの体を日光から守っている布を宿に忘れてきたことに気が付いた。
 慌てて船長に適当な布が無いものかと尋ねたら、船員達が使う毛布に予備が幾つかある程度らしい。
 客を乗せることもたまにはあるが、基本的にマリー・ガラント号は貨物船として物品の運搬を目的として運行している。
 突然の出航ということもあって、あまり余裕は無いらしい。
 予備の中から一枚だけでも借りられないかと交渉を行った結果、銀貨一枚と毛布一枚を交換する約束を取り付けた。
 借用ではなく、購入する形だ。だが、問題はここからだった。
 船の運賃と迷惑料として、昨晩払った金。それに、宿の店員を買収するために払った金を引いても、一応、雑費用として残した銀貨以下の貨幣が残っているはずだった。
 だが、小銭用の財布を持っていたはずの地下水はその計算を否定したのだ。
「ないぜ。買収した店員のチップ用に使っちまった」
 この時点で、ホル・ホースたちは完全に文無しであることが確定した。
 毛布を手に入れるどころか、銅貨一枚すらない。
 高額な運賃を払っているのだから毛布の一枚くらい都合を付けてくれてもいい気がするが、ホル・ホースたちが文無しと分かった船長は足元を見て頑なに拒否を示す。
 金の無いやつには興味がないらしい。サービス精神の欠片も無い男だ。
 金目のものなんて持ち歩かない一同に毛布を借りる手段は無く、ならば仕方ないと、嫌がるエルザを無理矢理日の当たらない船室へと閉じ込めることになったのだった。
「お兄ちゃんのバカ!甲斐性無し!貧乏人!」
「おう、なんとでも言いやがれ!どうせ、テメーはそこから出られねえんだからな!負け犬の遠吠えと大して変わらねえよ!」
「むきーっ!!」
 一見して子供の喧嘩だが、本人達は至って真面目である。
 扉越しに行われる奇妙なやり取りをマリー・ガラント号の船員達が生暖かい目で眺めて一睡もしていない脳味噌に安らぎを与えていた。
 エルザの八つ当たりを受けて木造の扉が壊れそうなくらいギシギシと悲鳴を上げていることには、全員目を逸らしている。
「うわーん!あとでおねえちゃんに言いつけてやるんだから!覚悟しろこんにゃろー!」


 バーカバーカ、と言い残してエルザの声が聞こえなくなると、ホル・ホースは愉快そうに笑みを深めていつものように引き攣った笑い声を上げた。
「ヒヒ。大人しく昼寝でもしてろ。いや、朝だから朝寝か?」
 二度寝だろ。と地下水が突っ込む間も無く、船長がホル・ホースの肩を叩く。
 振り返ったホル・ホースの瞳に、青く染まる空に浮かんだ巨大な大陸の姿が映った。
「見えたぜ。アルビオン大陸だ」
 船長のその言葉に、ホル・ホースは口笛を短く吹いた。
 浮遊大陸アルビオン。ハルケギニアの脇を一定の周期をもって移動するその大陸は、川から海に降り注ぐ大量の水によって生まれる雨雲に下半分が隠れ、まるで雲の上に乗っているかのように見える。
 真っ白なその雲を見た誰かが、この大陸の上にあるアルビオン王国を『白の国』と呼んだという。
 それが現在における通称となり、歴史書や幾つもの物語で使われるようになっている。
 隣国トリステインとほぼ同じ面積を備える大陸に、ホル・ホースは感嘆の息を漏らして
ヒヒと笑った。
「いやあ、こういうのを見ると、つくづくファンタジーだと思うぜ。せっかく吸血鬼と係わってたんだから、もう少しそっち関係の本も読んどけばよかったか」
 元の世界では読書の趣味などまったく無かったホル・ホースが、唐突に書物に興味を示すくらい、空に雄大に浮かぶアルビオン大陸の姿は力強く、見る者を圧倒する。
 そんなホル・ホースの様子に船長は満足げに頷き、もう暫くすれば港に着くことを知らせると、それを見計らったかのように鐘楼に登っていた見張りの船員が大声を上げた。
「船長!右舷上方の雲中より、船が接近してきます!」
 ホル・ホースと船長が言われた方向に顔を向ける。
 マリー・ガラント号よりも一回り大きな黒塗りの船が、雲の陰から顔を覗かせて少しずつ接近する姿が見えた。
 舷側に空いた穴からは大砲が二十近い大砲が突き出ている。明らかな武装船だ。
 まさか、自分を追ってきたのか?
 そんな疑問に、ホル・ホースは首を振って否定した。
 船はアルビオン方向から来ている。ということは、少なくともラ・ロシェールの傭兵達が動かしている可能性は低い。
 連中の仲間がアルビオンに居たということも考えられなくは無いが、自分はこの船に乗ってから一直線にアルビオンに向かっているのだ。
 それを追い越す手段がこの世界にあるとは思えない。


 良く考えてみれば、この辺りは国家間を繋ぐ貴重な航路だ。自分が乗っている一隻しか行き来していない、なんてことはないだろう。
 少々武装が多すぎるが、もしかしたら、アルビオンの港からラ・ロシェールに向かうただの商船である可能性もある。
 なんて思ったところで、後部甲板に移動していた船長が悲鳴を上げた。
「空賊か!?逃げろ!取り舵いっぱい!!」
 船が傾き、進行方向を大きく変える。
 ホル・ホースの淡い期待は早くも裏切られたようだ。
「メイジの旦那!もっと速度は上げられませんか!?」
 船員に指示を下していた船長が、後ろで風を作っていた地下水に向き直って尋ねる。だが、地下水は首を横に振った。
「出来なくは無いが、昨日からぶっ続けで魔法使ってるからな。長くは持たないぞ。逃げ切れるかどうかは神のみぞ知るってヤツだ」
 “女神の杵”亭で僅かに休眠をとっただけで、それ以来地下水は働き詰めだ。睡眠時間の少なさから目の下には色濃く隈が浮かび、ただでさえ痩せている体は更に細く見える。
 地下水が無理矢理体を動かしていなければ、間違いなく倒れているだろう。
 船長はそんな地下水の様子を見て、これ以上頼るのは難しいことを理解した。
 下手に逃げて捕まれば、恐らく、反抗的であるという理由で虐殺される恐れもある。
 マリー・ガラント号にも大砲は積んであるが、その数はたった三門。敵が持つ大砲の数に比べると、豆鉄砲に近い。戦うという選択肢は存在しないのだ。
 どうにもならず呻き声を上げる船長を見て、船員達が息を呑む。
「おいおいおいおいおい、マジかよ……」
 顔一面に汗を浮かばせたホル・ホースが、危険指数の高い状況に思わず呟いた。
 ホル・ホースは賞金首だ。空賊なんてやっている連中からしたら、いい獲物になってしまうことは間違いない。生き延びられる可能性は限りなく低いだろう。
 なんとか逃げ切れる可能性に賭けて地下水にジェスチャーで、頑張れ、と指示を出すものの、無理、と言うかのように顔の前で手を振って返されてしまう。
 エルザは船室から出て来れないし、自分のスタンドでは大砲を相手にするのは難しい。
 どうしたものかと悩んでいるうちに、いつの間にか併走していた空賊の船が大砲を一発だけ、船の針路に向けて放って来た。
 脅しのつもりらしい。空賊の船のマストに、停船命令を意味する四色の旗流信号がする
すると登る。


 船長は悔しげに帽子を脱いで自分を見詰める船員達を一望すると、くっ、と呻いて指示を下した。
「裏帆を打て。停船だ」
 風を逆向きに捕らえる帆が広げられ、船が急停止する。勢いを殺されたことで、船員達やホル・ホースが体を揺らす。
 賭けに出て船員を危険に晒すことは出来なかったようだ。それもそうだろう。船の航行速度は明らかに空賊の船のほうが速い。追いつかれるのは必至なのだ。
 船長は小さく、破産だ、と呟いて、その場に崩れ落ちる。
 その姿に受けたショックは、この船の船員達よりもホル・ホースのほうが強かった。
「なんでそこで諦めるんだ!テメエはよおおおおお!!?」
 慌てて駆け出し、後部甲板でブツブツと何かを呟いている船長に唾を吐き掛ける勢いで詰め寄ったホル・ホースは、その胸倉を掴み上げて指示の撤回を訴え出た。
「逃げるんだよおおおぉ!諦めてんじゃねえ!最後まで足掻いて、足掻いて、足掻きまくるのが男だろうが!捕まった後のことなんて気にしてるんじゃねえええええ!!」
 船長の体をこれでもかと激しく揺さぶり、まったく反応が無いと見るや、ホル・ホースは船員達に船を動かすように指示を出す。
 だが、それを聞く人間は一人もいなかった。皆、自分の命が惜しいのだ。
 そして、この場に居る誰よりも自分が可愛い男は、船長をその辺に放り投げると、近くに居た地下水に顔を向けた。
「よし、船を捨てるぜ!このまま落下しても、魔法で飛べば死にはしねえだろ!?」
 船で逃げられないなら、生身で逃亡するまで。発想の転換といえるのかどうかは分からないが、悪くない考えだろう。
 空を飛ぶ魔法が存在しているのだから、空の上でも逃げ場が無いということはない。
 だが、それは魔法を使う人物が万全の状態だった場合の話だ。
「無茶言うな。ここがどんな高さか分かってるのか?それに、下はそろそろ海だぜ?オレの魔力も旦那とエルザを陸地に運べるほど残っちゃいねえし、エルザの魔法は空を飛ぶのには向いてねえ」
 要するに、と言葉を続けて、地下水は両手を祈るように合わせる。握りっぱなしのナイフのせいで、ホル・ホースにはその姿が地下に隠れてサバトなどをしていそうな邪教徒に見えた。
「諦めろってこった。短い付き合いだったな、旦那。楽しかったぜ」


 別れの言葉を吐いた地下水が、本体であるナイフの刀身をカタカタと鳴らして笑い声を上げた。
「ざけんじゃねえええええええええ!!」
 完全に敗北を悟ったような雰囲気にホル・ホースは叫びを上げて右手を掲げた。
 エンペラーのスタンドが右手に握られ、日の光に金属の光沢を返す。いつかどこかで見たようなポーズだが、ホル・ホースの精神状態はまったく逆の状態だ。
「こんなところで死んでたまるかよ!オレは戦うぜ!そして、生き延びてやる!!」
 雄雄しく戦意を見せ付けるホル・ホースはエンペラーを構え、自分を見捨てた地下水を睨みつけながら振り向く。
 大砲とは戦えなくても、人間相手なら問題は無い。先手を打てば勝ち目はあるはずだ。
 だが、そんなホル・ホースの首筋に銀色の光がそっと伸びて、冷たい何かが当てられた。
「おう兄ちゃん。随分勇ましいじゃねえか。……で、誰が戦うって?」
 ぼさぼさの長い黒髪を赤い布で纏めた無精髭で顔を埋めた男が、曲刀をホル・ホースに突きつけ、もう片方の手の小指で耳掃除をしていた。
 元は白いらしいシャツは汗とグリース油で黒く染まり、はだけた部分からは赤銅色の肌が覗いている。左目に巻かれた、いかにもな眼帯が男の粗暴さを表しているようだった。
 耳掃除を終えた男は小指の先に付いたカスを息で吹き飛ばして、もう一度ホル・ホースに尋ねる。
「ちょいと耳垢が溜まっていて聞こえなかったんだが……、誰が誰と戦うって?」
 ぴたぴた、とホル・ホースの頬を曲刀の側面が叩く。
 頬を引き攣らせて蚊の羽音程度の声でヒヒと笑ったホル・ホースは、視線をゆっくりと周囲に向けた。
 鉤の付いたロープが空賊の黒い船から幾つも伸びて、舷縁に引っかかっている。
 それぞれに斧や曲刀を手にした屈強な男達が、ロープを使ってマリー・ガラント号の甲板に飛び移っている姿が見えた。
 どうやら、地下水に詰め寄っている間に乗り込まれていたようだ。
 一人、また一人と、マリーガラント号に乗る空賊たちの数が増えていく。船員達は次々と縛り上げられ、船長もいつの間にか簀巻きで床に転がっていた。
 思わず尊敬してしまいそうなくらい、見事な手際だった。
 迂闊な抵抗は寿命を縮めるだけだと悟ったホル・ホースは、両手の平が相手に見えるように顔の横にそっと上げて、降参のポーズを取る。
 その姿に男は、ふん、と鼻を鳴らして胡散臭いものを見るようにホル・ホースの全身を眺めた。


「金目のものは……持ってるようには見えねえなあ。杖も鎧も身につけてねえってことは、貴族でも傭兵でもねえのか。かと言って、船員でも無さそうだ」
 変わらず曲がった刀をホル・ホースの頬の添えた男は、ホル・ホースの身なりを見て不思議そうに表情を変えた。
 ハルケギニアでは見ない格好に戸惑っているのだろう。これで相手が貴族なら酔狂な趣味だと笑うところなのだが、生憎と貴族らしき様子も無い。
 ホル・ホースの背後に居る大きな羽帽子で顔を隠した民族衣装の青年を見る分には、おそらく東の砂漠付近から来た人間なのだろうと当たりは付けられたが、その正体を知るには情報が少な過ぎた。 
 傍目に見て分かるほど汗をいっぱいに浮かべたホル・ホースと後方の地下水を交互に見た男は、眉根を寄せて鼻を鳴らすと、ある一点を見咎めて曲刀をホル・ホースから離した。
「おい」
 切っ先を地下水に向けて、視線を地下水の右手に固定する。
「武器を置け。でねえと、一発痛いのを食らわせるぜ」
「えっ!?」
 戸惑いの声が地下水の口から漏れた。
 自分の本体を見て抵抗する気があると思われたらしい。
 ナイフを本体とした地下水は、抵抗の意思が無くても自身を手放すことは出来ない。
 鞘なんて持ち歩いてはいないし、肌に直接触れていなければビダーシャルの体を操ることは出来ない。
 ビダーシャルの服装はゆったりとしていて物の固定が難しく、どこかに仕舞うと言うのは至難の業だ。まさか、ナイフを財布を入れるための内ポケットに入れるわけにも行かない。
 だが、その迷いが命取りだった。
 男は短く何かを呟くと、曲刀をそのまま地下水に向けて最後の言葉を放った。
「ウィンド・ブレイク!」
 風を伝わる衝撃が走り、ビダーシャルの体を打ち付ける。
 男はメイジだったらしい。曲刀を杖の代わりに扱っているようだ。
 甲板の縁の手すりに背中を打ちつけたビダーシャルの体から地下水が弾き飛ばされ、辛うじて手すりの端に突き刺さると、衝撃を逃がすように振動音を立てる。
 同時に、大きな羽帽子が宙に舞って空に舞い上がり、雲の海へと消えていった。
「ヤバイ!!」

 声を上げたのは、ホル・ホースか地下水か。
 空賊の男はその言葉に驚くようにして刀をホル・ホースと地下水に交互に向けて警戒を示し、手すりに背中を預けるように座り込んだビダーシャルに目を向けた。
「……っバカな!?」
 羽帽子が失われ、金色の長い髪を掻き分けるように伸びた長い耳が晒されている。それを見た男が目を剥いて大きな声を上げた。
 釣られて、船員達を拘束していた他の空賊たちの目も集中する。
「エルフだ!!」
 その言葉を上げたのは、床に転がっていた船長だった。
 一瞬にしてマリー・ガラント号の甲板は混乱に包まれる。縛られた船員達が我先にと逃げようとして空であることを思い出し、船内に繋がる扉に殺到すると、縛られていることに気付いて扉が開けられないことに顔色を青くさせる。
 空賊たちも、それに倣う様にして自分達の船に戻り始め、数人がビダーシャルに刀を向ける男を守るように杖を手にして集まって来た。
 詠唱が行われ、ビダーシャルの姿を怯えるように見詰めて緊張に体を固める。
 人類の敵対者として広く認知されていながら、その存在の不透明さが人々の心にエルフを絶対的な恐怖の対象として刻み込んでいる。
 空賊たちもそれは例外ではないらしく、ビダーシャルの姿に怯えを隠し切れないでいるようだった。
「く、はっ、はぁ」
 息を荒くして、ビダーシャルがゆっくりと立ち上がる。膝に手をあて、ふらりとその場でたたらを踏むと、腰より少し高い手すりに寄りかかって、切れ長の細い目をホル・ホースに向けた。
 完全に地下水の拘束から逃れているようだ。意思の光が瞳に映り、常に涼しげだった表情に感情の色が浮かんでいる。
 ぞくりと背筋に冷たいものが走り、ホル・ホースは頬を引き攣らせた。
「よくもこれだけ、人の体を好き勝手使ったものだ」
 たどたどしく口を開き、確かめるように手の平を一度だけ握る。
 途端に指先から肩の付け根にまで走る痛みに、ビダーシャルは歯を食い縛った。
 肌も、筋肉も、筋も、骨も。全てが悲鳴を上げている。
 地下水の無茶な肉体の酷使に加えて、休み無く働いたことが響いているのだ。
 頭の天辺から足のつま先まで、奇妙な熱が帯びて、何をしなくてもちくちくと痛む。肌が裂けそうな感覚に恐ろしく重いものに圧し掛かられているかのような重量感。
 限界であることは、すぐに理解できた。
「俺を拾え、エルフの旦那。無茶を聞かせられる俺が使っていても限界だったんだ、旦那じゃあ長くはもたねえだろう?」
 感覚を殆ど無視できる地下水なら、ビダーシャルの体をもう少しだけ使い続けることが出来る。ビダーシャルは意識下にもう一度閉じ込められることになるが、苦痛は地下水というフィルターを得て和らぐはずだ。
 意識が朦朧とし、息を吸うだけで全身を鞭で打ちつけられたかのような痛みが走る。
 耐え難い苦痛だ。未だ意識を保っていられることが不思議なくらい。
 呼吸に混じって血の匂いが鼻につく。喉の奥が締め付けられ、息苦しさを感じた。拷問を受けているかのような痛み。この逃れられるのなら、悪魔に魂を売るのも悪くは無い。
 地下水の甘い誘いに心揺さぶられ、ビダーシャルは答えた。
「だが、断る!」
 そう力強く告げて、ビダーシャルの体が揺らめく。
「ま、待て!」
 後部甲板に集まっていた男達が近づくよりも早く、ビダーシャルは寄りかかっていた手すりを背中から乗り越えて空の上へと身を投げ出した。
 縁に空賊たちが集まり、雲の中へと消えていくビダーシャルの姿を追う。小さくなる影は完全に見えなくなる前に、風に乗るようにしてラ・ロシェールのある方向へと移動していった。
 まだ、空を移動するだけの魔力が残っていたらしい。
 自分一人なら何とかなるという地下水の言葉を思い出して、ホル・ホースはヒヒと笑う。
 長くは飛べないはずだ。魔力がどれだけ残っていても、肉体はそれを拒むだろう。途中で力尽きて海に落ちる可能性のほうが高い。
 だが、それはビダーシャルが選択した結果だ。とやかく言う必要は無い。
 それよりも、いまはもっと重要なことがあった。
 風向きが変わる。
「動くじゃねえぞ、空賊の兄さんよ」
 普段から腰の後ろにぶら下げているナイフを取り出して、ホル・ホースは自分に曲刀を向けていた男の首に刃を這わせた。
 背後から腕を首に回し、ナイフの通り道だけを作って動きを封じる。
 一瞬でそれらを行ったホル・ホースに、やっと状況を掴んだ男が戸惑いに声を上げた。

「き、貴様!?」
 ビダーシャルに気を取られて、まだ拘束されていないホル・ホースから注意を逸らしてしまったことを今更ながらに思い出して、薄くこめかみに冷や汗を浮かべる。
 男と同じようにビダーシャルを追った空賊たちも、仲間が捕らえられたことに気が付いて杖を向けた。
 だが、男の首に腕を回して盾にしたホル・ホースに魔法を使うことが出来ないのか、詠唱は完成する寸前で止まっている。
「放せ!人質一人取った程度で、完全に包囲されたこの状況下をどうにか出来ると思っているのか!?」
 首を取られた男がナイフに目を向けながらホル・ホースに訴えかける。手にはまだ曲刀が握られているが、それを振るう余裕は無い。
 足掻く姿にヒヒと笑ったホル・ホースが、男の耳元で囁くように答えた。
「ああ、思ってるね。テメエ、この空賊連中のリーダーだろ?さっき、連中がテメエを守るように集まってきたからな。人質には最高の人材だぜ」
 エルフを見て動揺したのが災いし、ボロが出たのだ。他の空賊たちは、ホル・ホースの言葉を認めるかのように杖をゆっくりと下げて、悔しそうに表情を歪めていた。
 男もまた、仲間の迂闊な行動に歯噛みして、ゆっくりと深呼吸をする。
 浮かんでいた汗が引き、目が酷く冷静なものに変化した。
「僕に構うな。この男を討て」
 その言葉に、空賊たちが動揺して身を固めた。
 突然変わった言葉遣いと空賊の動きに不自然なものを感じたホル・ホースは、首に回した腕に力を入れ、ナイフを首筋に少しだけ食い込ませる。
 自分を省みない行動は感心するが、どうも様子がおかしい。粗暴な感じが消えて、どこか上品さのある声の質になっている。
「し、しかし!」
「言ったはずだ!こういう結果を迎える可能性は十分にあると!遠慮することは無い。既に覚悟は出来ている」
 人質に取った男だけでなく、空賊たちまで雰囲気が変わっている状況に、ホル・ホースは少し混乱しつつも自分が追い詰められていることに不安の色を濃くしていた。
 もしも、人質に取っている男の言う通りに空賊たちが攻撃を開始し始めたら、さすがのホル・ホースにも打つ手は無い。
 エンペラーの連射速度にも限界はあるし、人質に取っている男が邪魔で狙いも付け難いのだ。


 空賊たちの行動次第では、本当に人生が終わりを迎えてしまう。
 連中に決断するための時間を与えてはならない。そう考えたホル・ホースは、ナイフを手元で軽く遊ばせてから男の手にある曲刀を打ち付けて弾くと、声を張り上げた。
「テメエら、全員船に戻れ!言うことを聞かなければ、こいつを殺すぞ!オレの指示通りに動けば、適当な場所でこいつを解放してやる!死なせたくなかったら早くしやがれ!」
 完全に悪党の台詞だが、自分の命と引き換えなのだから仕方がない。
 なんか嫌な役回りだなあ、と心の中で呟きつつも、ホル・ホースは空賊たちを睨みつけて自分が本気であることを知らせる。
 じっと睨み合いが始まり、沈黙が訪れた。
 ごくり、と唾を飲み込み、お互いの出方を図りながら間合いを変化させる。僅かな隙を見逃すまいとする空賊たちの視線を一身に浴びたホル・ホースは、胃が痛くなる緊張感に手先を震わせ、それがナイフの揺れに繋がって空賊たちにも緊張を強いる。
 そんな中で最初に口を開いたのは、簀巻きで転がっていた船長だった。
「こうして停船していても風石は消耗するんだ!ちんたらやってたら、両方ともあの世行きだぜ!動くなら早くしやがれ!」
 早い段階で抵抗を諦めた船長の言葉とは思えない、勇ましい勢いだ。だが、それは核心を突いた言葉でもある。
 風石は船の燃料だが、同時に重りでもある。無駄な風石を詰まないのは船乗りの常識であるため、こうして無意味な停船を続けるということは、目的地に辿り着くために必要な風石を削っているということにもなるのだ。
 膠着状態が長引けば、船長の言うとおり、両方とも船を浮かすのに必要な風石を確保することが出来ずに墜落して海の藻屑と消えるだろう。
 元より後が無いホル・ホースに比べ、退路が残っているという僅かな安堵感を持っていた空賊のほうが、その言葉から受ける焦りは強いものだったらしい。
 空賊の一人が小声で謝罪の言葉を口にして、移動を始めたのだ。
「ま、待て!船に戻ってはダメだ!」
 人質の男が焦りに声を上げる。
 空賊たちの判断は、男を可能な限り生かす方向に動いたらしい。この状態を長く続けることで、仲間までも危険に晒すことは出来ないとも思ったのかもしれない。
 一人が船に戻ると、また次の一人が移動を始め、やがて全ての空賊がマリー・ガラント号の甲板から姿を消した。
「な、なんということだ……」
 人質の呟きに、ホル・ホースは哀れみの目を向ける。
 本当に人質を救いたいなら、船に戻るべきではない。船と船の間を移動する時間は人質を殺すのに十分な時間だ。それはつまり、完全に人質を孤立させたことになる。
 魔法で狙いを定めるにも容易くは無い距離が出来てしまい、更に、ホル・ホースが約束を守るという確証だって得ていない。
 多少強引にでも人質を取っている男の弱みの一つくらい握らなければならない状況で、空賊たちは敵の言葉を鵜呑みにするという、致命的なミスを犯したのだ。
 無駄に時間を浪費することは出来ないのだから、その場で人質を助ける手段が思いつかなければ、空賊たちのような行動も仕方の無いことかもしれない。
 だが、それは決して良策とはいえないものだ。
 それを理解しているのか、ホル・ホースの腕に捕らえられた男は力なく頭を垂らして両手を握り締めていた。
「あー、なんというか。ご愁傷様ってやつか」
 絶望に表情を青くした男を引き摺りながら、ホル・ホースはなんともいえない表情で慰めの言葉をかけると、手に持っていたナイフを仕舞って、手すりに突き刺さった地下水を引き抜いた。
「体、無くなっちまった」
 逃げ出したビダーシャルを思って、地下水が呟く。
 肉体を操っていなければ、地下水はただの喋るナイフだ。魔法を使うことが出来ないわけでもないが、単体の魔力はラインメイジとあまり変わらないし、ビダーシャルの補助で今まで保っていた魔力は、既に殆どなくなっている。
 正真正銘のただの喋るナイフになってしまったことにへこんでいるらしい。
「せっかくの高性能な体だったのに、もったいねえ。心底もったいねえ」
 ただの未練だったようだ。
「うるせえ。逃げたものは仕方ねえだろうが」
 女々しく呟く地下水にホル・ホースは窘める様に声をかけた。
 この場合の高性能というのは、肉体の性能ではなく、魔力的な意味だろう。通常のメイジの数人分、いや、下手をすれば十人分に匹敵する魔力量は滅多にお目にかかれるものではない。操る肉体に大きく依存する地下水にとっては、ビダーシャルの肉体は掘り出し物だったのだ。


 刀身をカタカタと揺らす地下水が段々邪魔臭く思えてきたホル・ホースは、腕の中で動かなくなった男を見て、おお、と声を漏らした。
「ほい」
 人質の男の手に地下水を握らせ、どうだといわんばかりに胸を反らす。
「な、なにを!?」
 突然武器を握らせるという行動に戸惑った男は、首に回されていた腕から逃れて前方に転がった。
 人質に武器を渡すなんて、一体何を考えているんだ。
 そんな言葉を口にした男は、それが声として発せられていない気が付いて愕然とした。
 自分の体が自分のものではない感覚。手足の自由は勿論、視線すら変えられない。それが握らされたナイフの力によるものだと理解するのに、さして時間はかからなかった。
「おー!いいんじゃないか?エルフの旦那よりも動き易いし、魔力もそこそこだ。十分使い物になるぜ、こいつ」
 人質だった男の口が勝手に動き出し、考えてもいない言葉が次々と飛び出す。
 僕の体に何をした!?
 地下水の意識下に閉じ込められた男が叫び声を上げる。それを聞いた地下水が、本体の刀身をカタカタと鳴らして笑った。
「体を乗っ取ったのさ。俺の本体であるナイフは、触れたヤツの体を奪い取る力があるんだよ。今、お前の体は俺の思い通りってわけだ。はっはっは!」
 そう言って、今度は男の口を使って笑い声を上げる。
 マジックアイテムの中にはそういう力を持ったもの存在すると聞いた事があるが、まさか、このようなところで出会うとは……。
 地下水以外には聞くことの出来ない状況下で一人呟いた男は、全身に広がる絶望感に閉口する。
 一度乗っ取られてしまえば、その支配から逃れる方法は支配されている人間には存在しない。
 外部からの衝撃や、ちょっとしたアクシデント、或いは、支配者自身が肉体を手放さない限り、男は永遠にたった一本のナイフに人生を奪われることになる。
 男にとってそれは、耐え難い苦痛であると同時に、心の内に燃やしていたある種の感情を殺すのに十分な意味を持っていた。
「まあ、俺が使うんだから、命を奪ったりはしねえよ。もっといい体を見つけたら開放してやるから、そのときを気長に待ってくれや」

 返答は聞こえてこないが、まだ精神が形を保っていることを認識した地下水は、意識を正面に立つホル・ホースに向けて肩を竦めた。
「で、旦那。これからどうするんだ?まだあっちの連中は諦めてないみたいだが」
 そう言って視線をマリー・ガラント号と併走する空賊の船に向ける。
 甲板には空賊たちがホル・ホースと地下水の様子をじっと見詰め、いつでも魔法を放てるように杖を構えていた。
 ホル・ホースの腕から男が逃れたためことですぐにでも魔法で攻撃してくるかと思われたが、そこまで短慮でもないらしい。
 慎重に反撃のチャンスを狙う姿は、薄ら寒いものを思わせた。
「まずは縛られた船員を解放して、船を動かさねえと。そっちの船長が言ったみたいな結末は勘弁して欲しいからな。まだ暫くは人質の振りをしてくれ」
「了解だ」
 地下水の首に改めて腕を回し、背後からナイフを突きつける形を取ると、ホル・ホースは甲板に転がる芋虫の大群を見回した。
 数は多い。空賊たちを警戒しながらの作業は面倒臭いことこの上ないだろう。
 せっかく地下水が新しい体を手に入れたのだから、この際ビダーシャルのように船から脱出したい気分に駆られたが、船内でまだ不貞腐れているであろうエルザを置いて行くわけにもいかないと思い直し、ホル・ホースは溜息混じりに行動を開始するのだった。

「出航だ!」
 拘束から開放された船長の合図によって、船員達が各々に本来の役割に戻って行動を再会していた。
 ゆっくりと動き始めるマリー・ガラント号に合わせて、併走していた空賊の船も動き始め、マリー・ガラント号の背後についた。
 急停止をしてもぶつからず、かといって逃げるには短い、微妙な距離を保っている。逃がすつもりは無いらしい。
 マリー・ガラント号の船長や船員達は未だ緊張感に包まれ、時折、空賊の船に視線を向けて身を固めている。
 船尾で人質にナイフを突きつける姿を空賊たちに晒すホル・ホースは、不気味なまでにこちらを静かに観察する空賊たちに目を向けて、引き攣った笑みを浮かべた。
「連中、地の果てまでも追ってきそうじゃねえか?」
 ホル・ホースの考えを代弁した地下水に、たらりと冷や汗を浮かべると、ナイフを握る力を少しだけ抜いて溜息を吐く。

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